話 1
斎藤麻耶子 POV:
結婚記念日の夜, 腹部を焼くような激痛と大量の出血で目が覚めた.
薄れゆく意識の中で, 心臓外科医である夫・航輝に助けを求めようと電話をかけた.
しかし, 受話器の向こうから聞こえてきたのは, 彼の幼馴染である由佳璃の声だった.
「航輝は今, 手が離せないの. 私がパニック発作を起こしちゃって」
そう言って電話は一方的に切られた.
私は独り救急車を呼び, 緊急手術を受けたが, お腹の子供と子宮の両方を失ってしまった.
翌朝, ようやく連絡がついた航輝は, 私の言葉に耳を貸そうともしなかった.
「由佳璃は本当に苦しんでいるんだ. 君まで大袈裟に騒いで, 僕を困らせないでくれ」
私が生死の境を彷徨っていた時, 彼は仮病を使った女を優先したのだ.
絶望の中で, 私の八年間の愛は完全に冷め切った.
私は退院と同時に離婚届を送りつけ, 家を解体し, 彼の前から姿を消した.
数ヶ月後, 真実を知り, 全てを失った航輝が泣きながら私の前に現れた.
「麻耶子, やり直そう. 僕には君しかいないんだ」
しかし, 私の隣にはもう, 私を命がけで守ってくれる別の男性が立っていた.
第1章
お腹が, 焼けるように熱い.
子宮がねじ切れるような激痛に, 私は真っ暗な寝室で飛び起きた.
全身から冷や汗が噴き出す.
隣のベッドは冷たいシーツが広がるばかりで, 航輝の姿はなかった.
また, 徹夜か.
優秀な心臓外科医の彼が, 私との結婚記念日を忘れるはずがないと, 自分に言い聞かせる.
激痛はますます激しくなり, まるで刃物で内臓を掻き回されているようだった.
息が詰まる.
震える手でスマートフォンの画面を開き, 航輝の番号をタップした.
心臓が喉まで飛び出してきそうだった.
電話はすぐに繋がった.
しかし, 聞こえてきたのは, 知らない女の声だった.
「あら, 麻耶子さん? こんな時間にどうしたの? 」
由佳璃の声は, 私の苦痛を嘲笑うように, 楽しげに響いた.
私は痛みに喘ぎながら, か細い声で訴えた.
「こうき…航輝, を…呼んで…お願い…」
由佳璃は, ため息混じりに言った.
「航輝は今, 手が離せないの. 私がパニック発作を起こしちゃって. あなた, こんな時までワガママ言わないでよ」
そう言うと, 由佳璃は一方的に電話を切った.
再度, 航輝に電話をかけた.
しかし, 今度は電源が切られているというアナウンスが流れるだけだった.
私の世界が, 音を立てて崩れていく.
激痛と絶望が, 私の体を硬直させた.
お腹から, 温かいものが流れ出す感覚があった.
私は震える手で救急車を呼んだ.
意識が朦朧とする中, 私は這って玄関に向かった.
鍵を開けなければ.
救急隊員が, 入れなかったら.
朦朧とした意識の中で, 遠くからサイレンの音が聞こえた.
それは, 私を助けに来た音ではなかった.
私を, 置き去りにする音だった.
病院に運び込まれ, 私は緊急手術を受けた.
医師は, 私の意識が薄れる中で「重度の常位胎盤早期剥離」と告げた.
「お子さんは…」と言いかけたところで, 私は意識を失った.
手術は深夜まで及んだ.
その間, 航輝からの連絡は一切なかった.
彼は, 私の緊急事態を知る由もなかった.
翌朝, 私は薄暗い病室で目を覚ました.
主治医が沈痛な面持ちで語った.
「流産です. 大量出血で, 子宮摘出の可能性もありました」
私は, 自分の下腹部にそっと触れた.
そこには, 何もなかった.
空虚な空間だけが広がっていた.
「私の赤ちゃん…」
かすれた声が, 虚しく響いた.
私の目から, 涙が溢れ落ちた.
航輝は, まだ連絡してこなかった.
彼の冷淡さに, 私は深く傷ついた.
しかし, 私は彼に真実を伝えなければならないと思った.
私は震える指で, 再び航輝の番号をタップした.
今度は一回で繋がった.
彼の声は, 疲れているようだった.
「麻耶子? 何かあったのか? 」
彼は, 私が倒れたことを知らないようだった.
私は, 涙声で言った.
「航輝…私…」
しかし, 彼の言葉が私の言葉を遮った.
「由佳璃がね, またパニック発作を起こして. 昨夜からずっと付きっきりなんだ. 君も少しは大人になって, 僕を困らせないでくれないか? 」
彼の声には, 私への苛立ちが滲んでいた.
私は絶望した.
「航輝, 私…病院にいるのよ…」
私は震える声で告げた.
「赤ちゃんが…」
しかし, 彼の言葉は, 私の心を深く抉った.
「またそんなこと言って. 君はいつも大袈裟なんだ. 由佳璃は本当に苦しんでいるんだから, 君まで大騒ぎしないでくれ」
彼の声は冷たく, 私を突き放した.
その時, 電話の向こうから, 由佳璃の声が聞こえた.
「航輝, どこ行くの? 私, 一人じゃ怖いの…」
由佳璃の声は, 甘く, か細かった.
私は, すべてを悟った.
航輝は, 私に「ごめん, また後でかけ直す」と一方的に言い放ち, 電話を切った.
私の手から, スマートフォンが滑り落ちた.
私の心は, 完全に砕け散った.
航輝にとって, 私は何だったのだろう.
彼の言葉が, 私の心臓を握り潰した.
私は, 彼の愛に溺れていた時期の自分を思い出した.
あれは, 航輝の声だったか?
私の知る航輝ではなかった.
私は, 彼が私を愛していると信じていた.
全て, 私の思い過ごしだったのか.
私は, 乾いた笑い声を上げた.
その声は, 病室の冷たい空気に吸い込まれていく.
私の人生は, この笑い声と共に, 終わるのだ.
私は, もう, 泣かなかった.
泣くことすら, 忘れてしまったように, ただ, 呆然と天井を見つめていた.
私の目の奥から, 温かいものが, もう, 何も, 出てこなかった.
話 2
斎藤麻耶子 POV:
航輝には, 二人の「特別な」女性がいた.
私はそれを知っていた.
知っていながらも, 航輝を愛することだけを考えて生きてきた.
航輝は幼い頃, 両親が多忙だったため, 由佳璃のお母さんに世話になっていた.
由佳璃は, 航輝にとって妹のような存在だった.
私は, 航輝が由佳璃を大切に思う気持ちを理解しようと努めていた.
由佳璃は, シングルマザーの母親に育てられた.
彼女は航輝の幼馴染で, 二人は周りから「お似合いのカップル」と見られていた.
航輝は, 由佳璃のそばにいることが, 自分の「使命」だと感じているようだった.
由佳璃と彼女の母親が海外へ移住したのは, 航輝が大学に入学した後のことだった.
八年という長い月日が流れ, その間に私と航輝は出会い, 恋に落ち, 結婚した.
私は, 航輝の過去を, そっと胸にしまっていた.
三ヶ月前, 由佳璃の母親が病に倒れ, 由佳璃は急遽帰国した.
その日を境に, 航輝は家に帰らなくなった.
彼は私に「病院にいる」とだけ告げ, それ以上の説明はなかった.
私は航輝の過去を知っていたから, 何も言わなかった.
彼が由佳璃親子を放っておけない気持ちも理解できた.
私が航輝を信じていれば, 私たちの愛情は揺るがないと, そう思っていた.
むしろ, 私は自ら由佳璃の母親のために, 病院や専門医を探し回った.
航輝が由佳璃親子に付きっきりでいる間, 私は一人で家事や仕事をこなしていた.
それは, 航輝を支える私の「愛」の形だった.
由佳璃の母親の病室を訪れた時, 由佳璃は何度も私を見て涙を流した.
由佳璃の涙は, 私を「部外者」だと感じさせた.
私は, その場にいるのが辛かった.
私は, 自分がここにいるべきではないと悟った.
航輝は, 私に「もう病院には来ないでくれ」と告げた.
私は, 自分が何をしてしまったのか分からなかった.
私は, ただ黙って, 状況が好転するのを待っていた.
それしか, 私にできることはなかった.
航輝が, 私の元に戻ってくるのを待っていた.
しかし, 私の身に降りかかった緊急手術と, 航輝の冷酷な態度は, 私を深く傷つけた.
私は, 航輝への期待を, 少しずつ手放し始めていた.
彼への「愛」が, 少しずつ, 冷めていくのを感じた.
私は, 流産の診断書を写真に撮り, 航輝に送った.
それを見た航輝は, 病院の廊下で立ち止まった.
彼の隣には, 由佳璃がいた.
由佳璃は航輝のスマートフォンを覗き込み, 表情を曇らせた.
そして, 涙を流しながら, 航輝に謝罪した.
「航輝…ごめんなさい…私がパニック発作を起こしたから, 麻耶子さんを傷つけてしまったのね…」
航輝は, 由佳璃の言葉を聞きながら, 私への罪悪感に苛まれていた.
由佳璃の涙は, 航輝の心を揺さぶった.
彼は, 私が由佳璃の母親の治療に協力したことを思い出した.
航輝は, 由佳璃の演技を見抜いていた.
しかし, 彼は由佳璃を責めることはできなかった.
彼は, 私が「嘘をついている」のだと思った.
航輝は, 由佳璃を抱きしめた.
「由佳璃は悪くない. 麻耶子が, 勝手に妄想しているだけだ」
彼の言葉は, 由佳璃を安心させた.
由佳璃は, 航輝の胸の中で, 私への憎悪を募らせた.
彼女の目は, 勝利を確信しているかのように輝いていた.
航輝は, 私に冷酷なメッセージを送った.
「麻耶子, 君の病気は嘘だ. 君は僕を困らせるために, そんな芝居をしているのだろう? 君のことは, 僕がちゃんと面倒を見る. だから, もう二度と, 由佳璃を傷つけるようなことはするな」
彼の言葉は, 私の心を深く抉った.
由佳璃は航輝のメッセージを確認し, 満足そうに頷いた.
由佳璃は航輝の腕の中にいた.
彼女の目には, 冷たい光が宿っていた.
話 3
斎藤麻耶子 POV:
航輝からのメッセージは, 私にとって最後の失望だった.
私は, もう, 彼に何も期待していなかった.
私は, 彼に短いメッセージを返した. 「分かった」
そのたった二文字に, 私の心の全てが込められていた.
私の心は, 完全に麻痺していた.
私は, 航輝との結婚生活を終わらせることを決意した.
三日後, 私は退院した.
航輝からの連絡は, 一切なかった.
私も, 彼に連絡することはなかった.
私は, 病院の廊下で, 看護師から術後の注意点を聞いていた.
「無理はしないでくださいね. まだ体が完全に回復していませんから」
私は, 看護師の言葉に, 力なく微笑んだ.
「大丈夫です. ありがとうございます」
私の声は, ひどく掠れていた.
私の笑顔は, 少し寂しそうに見えたはずだ.
私は, 一人で病院のロビーを歩いた.
その時, 私の名前を呼ぶ声が聞こえた.
「麻耶子! 」
振り返ると, 親友のゆり子がいた.
彼女は, 妊娠八ヶ月のお腹を抱えていた.
ゆり子は, 私の顔を見て, ハッとした.
「麻耶子, どうしたの? 顔色がひどいわ」
彼女の心配そうな顔が, 私の心を温かくした.
私は, 平静を装いながら, ゆり子に告げた.
「私, 妊娠してたの」
ゆり子の顔が, 喜びで輝いた.
「え, 本当? おめでとう! 」
しかし, 私の言葉は, ゆり子の喜びを打ち砕いた.
「でも, 流産しちゃった. 緊急手術を受けて, 今日退院したの」
ゆり子の顔から, 血の気が引いた.
ゆり子は, 私の手を握りしめた.
彼女の目は, 怒りと悲しみで揺れていた.
「航輝は? どうしてここにいないのよ! 」
私は, 平静を装いながら, 答えた.
「航輝は, 由佳璃のお母さんの看病で忙しいの. だから, 私のことなんて, 構っていられないのよ」
私の言葉は, ゆり子の怒りをさらに煽った.
ゆり子は, 航輝の無責任さに呆れていた.
「信じられない…航輝は, 本当に最低だわ! 」
ゆり子の言葉は, 私の心を代弁していた.
私は, ゆり子の言葉を遮った.
「もういいの. 私は, 航輝のことなんて, どうでもいい」
私は, 無理に笑顔を作った.
ゆり子は, 私の顔色を見て, それ以上何も言わなかった.
ゆり子は, 私を家まで送ると言ってくれた.
私は, 彼女の優しさに甘えることにした.
私たちは, 病院のエレベーターに向かった.
エレベーターのドアが開いた瞬間, そこに航輝と由佳璃が立っていた.
航輝は, 由佳璃を庇うように, 私の前に立ちはだかった.
彼の顔には, 苛立ちと怒りが浮かんでいた.
「麻耶子, どうしてここにいるんだ? また僕をつけ回すつもりか? 」
航輝の言葉は, 私を深く傷つけた.
由佳璃は, 航輝の背後に隠れるようにして, 私を睨んでいた.
由佳璃は, 突然, その場に跪いた.
そして, 大粒の涙を流しながら, 航輝に抱きついた.
「航輝…私のお母さん, もう長くはないって…私, どうしたらいいの…」
由佳璃の芝居がかった行動に, 周りの人々が目を向けた.
航輝は, 由佳璃を抱きしめながら, 私を睨んだ.
「麻耶子, 君は由佳璃を追い詰めるつもりか? 君のせいで, 由佳璃がまたパニック発作を起こしたらどうするんだ! 」
彼の言葉は, 私の心を深く抉った.
航輝は, 私を非難し続けた.
「君のそういうところが, 本当に嫌なんだ」