話 2
「両家の親の顔を立てることを考えなければ、誰があいつに付き合う気になるものか」
「もういいって、怒るなよ。今夜はちゃんとお祝いするんだから、あいつのせいで白けたらもったいないだろ」
駆は隣にいる、華やかで美しい百合をちらりと見た。
そして、花のうっとうしい顔なんて、心の中から追い払おうとした。
どうせ明日になれば、花はまた何事もなかったみたいに——
寮の下で彼を待って、一緒に授業に行こうと付きまとうに決まってる。
そんな茶番、彼はもう何年も見飽きていた。
川辺に着いた頃には、雨は土砂降りになっていた。
私は傘をさして雨の中に立ち、数日前に見た夢を思い返していた。
夢の中の私は、駆が水野 百合に告白したことに取り乱し、泣き叫んで別れを迫り、その夜、この川に飛び込んだ。
でも、結果はどうだった?
私は命を落としかけた。
駆は病院に五分いただけで、冷たく去っていった。
私を引き取って育ててくれた藤崎家は、私が死のうとしたことを恥と思い、さらに駆の態度を見て、私にもう利用価値がないと判断した。
そして私を退学させ、飲んだくれて賭け事に溺れ、悪事ばかり働いていた実の両親の元へ送り返した。
最後には、私の人生は奈落の底へと転げ落ち、異国の地で惨めに命を落とした。
私が死んだあと、バラバラになった遺骨を収めてくれたのは、ずっと距離を置いて、恐れてさえいたあの人だった。
その頃、駆は新婚生活を楽しみ、順風満帆で、最初から最後まで現れなかった。
ここ数日、夢の中で見たことが、次々と現実になっている。
もしあの夢がなかったら、今ごろ私は狂ったように駆に電話をかけ、そして死を覚悟でこの川に飛び込もうとしていただろう。
この夢に、私は心から感謝している。まるで生まれ変わったような気持ちだった。
自分に定められた悲惨な運命を、少しずつでも変えられる気がした。
三度目にその番号へ電話をかけたとき、ようやく相手が応答した。
私は携帯をぎゅっと握りしめ、耳元にそっと当てる。
「陸(りく)」という名前が舌の先で何度も渦巻き、ようやくゆっくりと口からこぼれた。
激しい雨が世界の喧騒をすべて遮り、その中でただひとつ、少しけだるげな、低く響く声が聞こえた。「花?」
「陸、すごい雨だね」
「今、川辺にいて……帰れなくなっちゃった。迎えに来てくれる?」
電話の向こうは数秒ほど沈黙した。私は緊張で傘の柄をぎゅっと握りしめ、手のひらは汗でべたついていた。
夢の中で、芹沢 陸(せりざわ りく)が私の遺体を収めてくれたとき、たしか彼は涙を流していた。
その涙は一滴一滴、私の腐りかけた肉体と白骨に落ちて——
私は夢の中ですら、その熱さをはっきり感じていた。
その後、彼は私の遺灰を小さな瓶に入れて、ずっと身につけていた。
そして、一生を孤独に過ごした。
思い出すだけで涙がこみ上げてきて、私は嗚咽を漏らした。
「どうして泣いているんだ」
突然、陸の声が聞こえてきた。相変わらずの淡々とした調子で、どこか少しイラついているようにも思えた。
「行かないなんて、一言も言ってない」
「じゃあ、いつ来てくれるの?」
「待ってろ。二十分で着く」
「うん、待ってるね、陸」
それきり彼は何も言わず、電話が切れた。
十五分後。私は傘を、近くで雨宿りしていた親子に渡した。
だから、陸がやって来たときには、私はもう全身ずぶ濡れだった。
彼は車を降り、唇をきゅっと引き結びながらこちらに歩いてくる。その表情はまるで霜や雪をまとったみたいに冷たくて、容赦がなかった。
私は濡れた前髪をかきあげて、顔を上げ、笑顔を向けた。「陸、時間ぴったりだったね」
「花、お前はバカだな」
冷たい表情のまま、陸は私の腕をつかんで、ぐいっと車の中へ押し込んだ。
そして、ふわりとした毛布をひとつ投げてよこす。
「ちゃんと拭け。車を汚すなよ」
バックミラー越しに私を一瞥すると、彼は迷いなくハンドルを切り、車を発進させた。
話 3
「うん」私はおとなしく毛布にくるまり、頷いた。
けれど、ついまた視線が運転に集中している彼へと向かう。
無表情なときの陸は、いつも冷たくて近寄りがたく見える。
学校では彼を好きな子がたくさんいたけど、誰も告白なんてできなかった。
彼は駆と同じ寮のルームメイトだった。
私はよく駆を訪ねてその寮へ行っていたけれど、行くたびに陸は私をうっとうしそうに見ていた。
そして今も、迎えに来てくれたのに、態度はやっぱり冷たいまま。
さっき車に押し込まれたときは、手加減なんて一切なくて——手首にはまだ赤い跡が残っているし、ひりひりと痛んでいた。
どう見ても、彼がずっと密かに私のことを想っていた、なんて信じられない。
私はそっとまつげを伏せた。
夢の中で見たことは、今のところ、すべて現実になっている。
でも——私が動き出したことで、少しずつ変わりはじめたこともある。
じゃあ、陸の気持ちも……変わってしまったのだろうか。
それとも、最初から私のことなんて、何とも思ってなかったのか。もしそうなら、私の行動は彼に迷惑をかけているだけじゃないか……。
「寮に戻るか?」
突然、陸が横目で私を見て、問いかけてきた。
私の心臓がどきりと跳ねた。気づけば、口をついて出た言葉は——
「うん、あなたの寮に戻る」
陸はハンドルを握ったまま、鼻で笑うように嗤った。「駆は今夜、戻ってこないぞ」
「知ってる」
私は毛布の端を握って、ぎゅっ、ぎゅっと指先に力を込めていく。
「別に、彼に会いたいわけじゃない」
次の瞬間、車が急ブレーキをかけて、路肩に停まった。
陸がこちらに振り返る。その瞳の奥にある冷たい霜のような色が、胸の奥をずしんと打った。
「花、俺をお前らの茶番に巻き込むな」
「ちがう、そんなつもりじゃ……」
彼は私をじっと見つめたまま、スマホを手に取った。
「タクシー呼んでやる。自分で帰れ」
「……陸」
私は唇をきつく噛みしめて、思わず彼のスマホを奪い取った。
「花」
彼は私を見つめたが、その目には怒りや嫌悪はなかった。
ただ、深く澄んだその瞳には、無数の感情が渦巻いていた。
私は突然、言葉にならない悲しさが溢れてきた。
「……陸、帰りたくない。寮に戻ったら、みんな笑うの」
「家にも帰れないの」
「ねえ……あなたの寮で、一晩だけ過ごさせてもらえない?」
私は彼のスマホを背中に隠しながら、声をだんだん小さくしていった。
「もちろん、もし本当に……私のことが嫌で、顔も見たくないって言うなら……いい。諦める」
その言葉が静かに落ちると同時に、涙がぽろり、と目から零れ落ちた。
ひと粒ずつ、静かに、音もなく。
陸は何も言わなかった。
だけど、彼は黙ってエンジンをかけ、車を再び走らせた。
向かったのは学校。そして車は、彼の寮の建物の前で止まった。
私は黙って陸について寮の中へ入った。
彼はクローゼットからきれいなスウェットを一着取り出して、私に差し出した。「風呂、あっち」
陸は背が高いから、渡されたスウェットは私にはぶかぶかで、膝まで届くその丈は、まるでワンピースみたいだった。
シャワーを浴びたあと、そのままスウェットを着て、素足のまま部屋に出る。
陸は私をちらりと一瞥したが、すぐに目をそらした。
私は駆のベッドの横を通り過ぎて、陸のベッドの端にそっと腰を下ろす。
濡れた髪の先から水滴が落ちて、シーツにしみをつくった。
私の体にふんわりと残る香りは、陸が使っているシャンプーとボディソープのものだった。
狭いこの空間に、彼と同じ匂いがほんのりと漂いはじめる。
それは、言葉にできないけれど、どこか曖昧で、静かに芽生えるなにかだった。
陸はタバコの箱を手に取り、軽く咳払いをして言った。「ちょっとタバコ吸ってくる」
そして、バルコニーへと出ていった。
私は少しだけ興味をそそられて、陸のベッドを見回す。
淡いグレーのシーツと布団は、きちんと整えられていて清潔そのもの。
机の上にはパソコンと数冊の本が置かれ、無駄のない整った印象だった。
なんとなく、彼の机の置物にも目を向けようとした、そのとき——
突然、携帯が鳴った。
画面に表示されていた名前は、仁科 駆だった。