話 1
夫は「天才作家」として世間から崇められているが, そのすべての原稿を書いているのは, 実は妻である私だ.
パリへの移住を目前に控え, 夫は愛人を「ミューズ」として帯同すると言い放った.
「君は家政婦として生活を支えろ. 彼女は創作を支える. ウィンウィンだろう? 」
私のゴーストライティングによる過労が原因で流産し, 二度と子供を望めない体になったことを, 彼は知っているはずだ.
それなのに, 愛人の嘘の妊娠を盾に私を追い詰め, 私の尊厳を泥足で踏みにじった.
夫にとって私は, 才能を搾取するための「便利な道具」でしかなかったのだ.
私の心の中で, 夫への愛情は完全に冷え切り, 静かな決意へと変わった.
私は秘書に電話をかけ, 淡々と告げた.
「私の航空券だけ, キャンセルしてください」
夫が空港で私の不在に気づいた時, 彼の栄光は終わりを告げる.
これは, 私の人生を取り戻すための, 静かで残酷な復讐の始まりだ.
第1章
「長浜様, 失礼いたします. 坂梨先生のパリ行きのご予定ですが, 本当に, このままキャンセルでよろしいのでしょうか? 」
秘書の戸惑った声が, 受話器越しに響いた.
私の手は, 冷たいテーブルの上で, ゆっくりと, しかし確実に, 受話器を握りしめていた.
窓の外では, 冬の薄暗い空が広がっている.
その空の色が, 私の心の色と重なった.
「ええ, 問題ありません」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
まるで, 他人のことのように聞こえた.
秘書は明らかに混乱している.
それも無理はない.
坂梨遼佑. 私の夫.
彼は, 今や日本の文壇を牽引する人気小説家だ.
その彼の海外移住計画を, 私がたった今, 何の躊躇もなくキャンセルしたのだから.
私は立ち上がり, 窓辺へと歩み寄った.
冷たいガラスに額を押し付ける.
そこに映る自分の顔は, 感情を一切映していなかった.
何年も, この瞬間のために生きてきたような気がする.
この決定は, 私のすべてを, 根底から覆すものだ.
しかし, 後悔はなかった.
ただ, ひたすらに, 静かな決意が胸を満たしていた.
「それから, いくつか変更をお願いしたいのですが」
私は秘書に指示を始めた.
声は淡々としている.
パリ行きはキャンセル.
しかし, 夫は予定通り, 指定された日時に空港へ向かうことになるだろう.
そして, その日.
私は彼らの前から, 忽然と姿を消す.
二度と, 彼らの人生に現れることはない.
秘書は, 私の言葉の端々から, 何か尋常ではないものを感じ取っているようだった.
しかし, 彼女はプロだ.
私の指示に, ただ「かしこまりました」と答えるだけだった.
私の声には, 一切の迷いがなかった.
それは, 何年もかけて, 私の心の中で熟成させてきた決断だからだ.
「分かりました, 長浜様. それでは, そのように手配いたします」
秘書の返事は, 機械的だった.
電話を切る.
受話器を置く音だけが, 静かな部屋に響いた.
これで, 終わった.
私の, すべてが.
部屋のドアが開く音がした.
遼佑だった.
彼は, 苛立ちを隠せない様子で私を見つめた.
その視線が, 私の心臓を氷のように冷やす.
「おい, 真悠枝. いつまで電話してるんだ? こっちはお前が出発の準備をしないから, 何も進まないじゃないか」
彼の声には, 常に私への不満が滲んでいた.
私が, 彼の人生を滞らせる妨げであるかのように.
私は振り返らず, 窓の外の景色を見つめたまま答えた.
「今, 終わったところよ」
「それで, パリへの移住の件はどうなったんだ? 結泉のビザの手配は? 俺の新しい執筆環境の確保は? 」
彼の言葉は, まるで私の存在が, それらの「準備係」でしかないとでも言うかのようだ.
私はゆっくりと振り返った.
彼の目は, 私の顔ではなく, 私の手元にあるはずの書類を探している.
「全て, 手配済みよ」
私は, 嘘をついた.
完璧な嘘を.
彼は安堵の息を漏らした.
そして, 私の前に, 臆面もなく立ち尽くした.
「ああ, そうか. さすがだな, 真悠枝. お前がいれば, 何も心配いらない. ところで, 今回のパリ行きだが, 結泉もアシスタントとして連れて行くことにした」
彼の言葉は, 私の心をナイフでえぐるように突き刺さった.
しかし, 私の表情は, 微動だにしなかった.
私は, ただ彼を見つめていた.
彼の瞳の奥に, 何の悪意も, 罪悪感も見て取れないことに, 心底, 吐き気がした.
「結泉も, だと? 」
私の声は, かすかに震えた.
それを彼は気付かない.
彼は, 私がただ確認しているだけだと思ったのだろう.
「ああ. 決めたんだ. 結泉は俺のミューズだからな. 彼女がいないとインスピレーションが湧かない. だが, お前がいないと, 生活が回らない. お前は実務家として, 俺の生活を支えてくれればいい. 結泉は俺の創作活動を支える. ウィンウィンだろう? 」
彼は, 自己満足げな笑みを浮かべた.
彼の言葉の中に, 「愛」という言葉は, 一片も見当たらない.
私への感謝も, 労いも.
「それに, 結泉はまだ若いし, 海外は初めてだからな. お前が現地での生活のセットアップと, 彼女の世話をしてやってくれ. 俺は創作に専念したいから」
彼の要求は, 際限がなかった.
私の心臓が, まるで氷漬けになったかのように冷たくなった.
目の前の男は, 私の夫ではない.
ただの, 自分勝手な搾取者だ.
結泉の世話.
その言葉が, 私の脳裏に焼き付いた.
数ヶ月前, 私は流産したばかりだった.
長い不妊治療の末, ようやく授かった命だった.
しかし, その命は, 私のもとを去ってしまった.
不妊の原因は, 彼の不摂生だと医者は言っていた.
彼には言わなかった.
言えば, きっと, 私のせいだと騒ぎ立てただろうから.
流産を乗り越えようと必死だった私に, 彼は何の気遣いも示さなかった.
それどころか, 結泉が「妊娠したかもしれない」と騒ぎ立てたとき, 彼はこう言ったのだ.
「なあ真悠枝, もし結泉の子がお前の子と同じ時期に生まれたら, 俺は一体どうすればいいんだ? あの子は繊細だから, ショックを与えたくない」
その言葉が, 私を完全に絶望の淵に突き落とした.
私の中で, 何かが, 音を立てて砕け散った.
「結泉が妊娠? 」
私は, その時の衝撃を思い出し, 無意識に口に出していた.
遼佑の顔色が変わる.
「いや, 違う! それは... ただの勘違いだったんだ. もう心配ない」
彼は動揺した.
しかし, その動揺は, 私への配慮からではなかった.
ただ, 自分が墓穴を掘ったことへの焦りだ.
「勘違い... ね」
私は, 虚ろな目で彼を見た.
彼は, 私の表情から何かを読み取ろうとしているようだったが, すぐに諦めた.
そして, 再び, 傲慢な態度に戻る.
「とにかく, そういうことだから, よろしく頼むぞ. お前は俺の妻なんだから, 俺の成功を支えるのは当然の務めだろう? 」
彼の言葉は, 私の心を深々と抉った.
私の中で, 何かが, 完全に死んだ音がした.
もう, 何も感じない.
「わかったわ」
私は, 小さく頷いた.
その瞬間, 遼佑の顔に安堵の色が浮かんだ.
彼は, 私が「自分の言いなりになる妻」であることに満足している.
私が, 彼の傲慢な要求を, 今までと同じように受け入れたのだと信じ込んでいる.
「さすが真悠枝だ. お前は本当に, 俺を理解している」
彼は, 私の肩をぽんと叩いた.
その手のひらから伝わる熱が, 私には, 嫌悪感でしかなかった.
私の心は, 冷たい氷に覆われている.
もう, 何を言われても, 何をされても, 傷つかない.
なぜなら, 私の中に, 彼への感情は, もう何も残っていないからだ.
「ところで, 結泉だが, 彼女はまだ実力不足だからな. お前のように, 俺の原稿をゴーストライティングすることはできない. だから, お前は引き続き, 俺の作品のプロット作成から執筆まで, 実質的に全てをこなしてくれ」
彼は, まるで当たり前のようにそう言った.
私の才能は, 彼のもの.
私の努力は, 彼の功績.
何一つ, 私のものとして認められたことはない.
私が彼と出会ったのは, 大学の文学サークルだった.
彼は才能ある若手作家として期待されていたが, 執筆にムラがあり, 締め切りには常に遅れていた.
私が彼の作品を整え, 時には物語の核となるアイデアを与え, 彼の代わりに執筆することさえあった.
そうして, 彼の作品は次々とヒットし, 彼は「天才作家」として祭り上げられた.
私は, 彼の陰で, 黙々と彼の成功を支え続けた.
それが, 私の愛だと信じていたから.
彼の携帯電話が鳴った.
彼は画面を一瞥し, 顔をほころばせた.
「悪い, 結泉からだ. ちょっと出てくる」
彼は, そう言い残して部屋を出て行った.
彼の足音は, まるで私の存在を, 完全に無視しているかのように遠ざかっていった.
広い部屋に, 私一人.
静寂が, 私の心を包み込む.
私は, ゆっくりとソファに腰を下ろした.
膝の上で, 私の指が震えていた.
その震えは, 怒りでも悲しみでもなかった.
ただ, 空虚な震えだった.
私の人生は, この男のために, すべてを捧げてきた.
私の才能も, 時間も, そして, 子供を授かるための身体さえも.
彼が人気作家としてメディアに露出するたび, 彼の隣にはいつも, 私がいた.
彼のマネジメントも, スケジュール管理も, すべて私がこなしてきた.
彼の生活は, 私の献身によって成り立っていた.
しかし, 彼は, 私の存在を「当たり前」だと思っていた.
いや, それどころか, 私の才能を「彼のもの」だと信じ込んでいた.
私は, 彼のゴーストライターであるだけでなく, 彼のすべてだった.
彼の文章は, 私の言葉で彩られ, 彼の物語は, 私のアイデアで紡がれていた.
だが, 彼は, その真実を知ろうとしない.
知っていたとしても, 認めることはないだろう.
なぜなら, 彼の自己愛は, 彼の才能と成功が, すべて彼自身のものだと信じ込ませるからだ.
その彼が, 目の前で, 別の女との関係を, まるで当然のように私に突きつけた.
私の流産の直後, 結泉の偽りの妊娠を盾に, 私を追い詰めた.
「芸術家にはミューズ (結泉) と実務家 (真悠枝) の両方が必要」
彼の言葉が, 私の耳に, 再び, 冷たく響く.
彼は, 私を, 感情のない「実務家」としてしか見ていなかったのだ.
私という人間を, 完全に否定する言葉だった.
私が知ったのは, 数ヶ月前のことだ.
彼の携帯電話に届いた, 見慣れないメッセージ.
「今日もお疲れ様, 愛してるよ, 遼佑」
差出人は, 福本結泉.
彼女は, 彼の「担当編集者」だと名乗っていたが, 実際は, 何の役にも立たない, ただの若い女だった.
私は, そのメッセージを見た瞬間, 心臓が凍り付くのを感じた.
震える手で, 彼の携帯電話を手に取った.
そこには, 私には見せたことのない, 結泉との親密なやり取りが, いくつも残されていた.
私の知らない, 彼の一面.
私の知らない, 彼の言葉.
彼は, 私が見ているとも知らず, 平然と私を欺き続けていた.
あのメッセージの数日後, 私は彼を問い詰めた.
私の声は, 震えていた.
心臓が, 痛くて, 苦しくて, 呼吸ができなかった.
「これは, どういうこと? 」
私は, 彼の目の前に, 携帯電話を突きつけた.
彼の顔から, 血の気が引いた.
しかし, 彼はすぐに, その動揺を隠した.
そして, 私を蔑むような目で睨みつけた.
「見たのか. 人の携帯を勝手に覗き見るなんて, 最低だな, 真悠枝」
彼は, 逆ギレした.
私は, 怒りよりも, 悲しみで胸が張り裂けそうだった.
「最低なのは, あなたでしょう? これは, どういう意味なの? 」
私の声が, 震えていた.
涙が, 溢れて止まらなかった.
しかし, 彼は, 私の涙を気にも留めなかった.
「ああ, そうさ. 俺は結泉と付き合っている. それがどうした? 」
彼は, 開き直った.
その言葉が, 私の心臓を, もう一度, 深く抉った.
私は, その場で, 崩れ落ちそうになった.
「いつから? 」
私の声は, かすれていた.
震える唇で, 私は, その言葉を絞り出した.
彼は, 冷たい目で私を見下ろした.
「いつから, だと? そんなこと, お前に言う必要はないだろう」
彼はそう言った.
しかし, 私の目を見て, 彼は少しだけ躊躇した.
そして, 嘲るような笑みを浮かべた.
「そうだな... お前が俺のゴーストライティングを始めた頃から, かな. 俺の作品が売れ始めた頃からだ. お前は, 俺の成功を支えてくれる実務家だが, 結泉は俺のミューズなんだ. お前には, ミューズとしての魅力がない」
彼の言葉は, 私を完全に打ち砕いた.
私の献身を, 私の愛を, 私の存在そのものを, 彼は, 完全に否定したのだ.
私は, 彼のために, すべてを捧げてきた.
しかし, 彼は, 私を, ただの道具としてしか見ていなかった.
そして, その道具さえも, 古くなれば, 新しいものと入れ替えようとしている.
彼の言葉は, 私の心を, 完全に, 死なせた.
私は, もう, 何も感じなかった.
ただ, 静かに, 目の前の男を見ていた.
彼の顔には, 何の罪悪感も, 後悔もなかった.
彼の価値観では, これが「芸術家の特権」なのだとでも言いたげな傲慢さだった.
彼の言葉が, 耳の奥で繰り返される.
「お前には, ミューズとしての魅力がない」
私は, ゆっくりと目を閉じた.
私の心は, 完全に, 冷え切っていた.
もう, この男に, 何の感情も抱かない.
ただ, 一つの決意が, 私の心の中で, ゆっくりと, しかし確実に, 形作られていった.
それは, 彼への, 最大の復讐だった.
そして, 私自身の, 再生への道でもあった.
話 2
遼佑の言葉一つ一つが, 私の心を深く切り裂いた.
しかし, 私はもう, 何も反論しなかった.
反論する気力も, 意味もない.
彼の言葉は, 私の中に残っていた最後の希望を, 完全に打ち砕いた.
私の目から, 感情が抜け落ちていくのを感じた.
彼が言う「ミューズとしての魅力がない」という言葉.
私は, 彼が作家として成功するために, どれだけの犠牲を払ってきたか, 彼は何も知らない.
彼の作品を世に出すため, 私は自分の睡眠時間を削り, 食事もろくに取らず, 彼の原稿を書き続けた.
彼のアイデアを具現化し, 彼の言葉を磨き, 彼の物語に命を吹き込んだ.
彼の代わりに取材に行き, 時には徹夜で資料を読み込んだ.
彼の創作活動を支えるため, 私は自分の人生を, 彼のものとして捧げてきたのだ.
その結果, 私の体は, ボロボロになっていた.
不妊治療を始めたのは, 彼のためだった.
彼の作品が売れ, 名声を得て, ようやく安定した生活が送れるようになったら, 子供を授かろうと約束していたからだ.
だが, 彼の不摂生と, 夜遅くまで続く私のゴーストライティングが, 私の体を蝕んでいた.
医者からは, ストレスと過労による重度のホルモンバランスの乱れを指摘された.
そして, 決定的な診断が下された.
私の体は, もう, 子供を産むことができない.
流産は, その過酷な現実を, 私に突きつけるものだった.
私は, 彼にその事実を告げることができなかった.
彼が, 私を責めることが, 怖かったからではない.
ただ, 彼に, これ以上, 失望したくなかったからだ.
「お前は, なぜ働かないんだ? 俺の稼ぎにぶら下がって, 毎日何をしているんだ? 」
彼は, ある日, 私にそう言い放った.
私は, 彼のために働いてきたのに.
彼の成功の礎となってきたのに.
彼の目には, 私の存在は, ただの「無職の妻」としか映っていなかった.
その言葉が, 私の心に, 深い傷を残した.
私は, 彼の言葉に耳を傾けることなく, 静かに立ち上がった.
そして, 自分の部屋へと向かった.
開け放たれたクローゼットの中には, 私の服が, ほとんど残っていなかった.
私が, 少しずつ, しかし確実に, 自分の私物を整理していることなど, 彼は知る由もない.
彼との思い出の品々を, 私はもう, すべて処分した.
彼が買ってくれた高価なアクセサリーも, 彼と初めて旅行に行った時の写真も, すべて.
私の心から, 彼に関するすべてを, 消し去るように.
夜になると, 決まって不眠に襲われた.
彼の隣で眠るたび, 彼の呼吸が, 私の耳元で, 私を嘲笑っているように聞こえた.
私は, 彼の隣で, 何度も, 何度も, 涙を流した.
しかし, その涙は, もう, 彼への愛情からくるものではなかった.
ただ, 自分の人生を, こんな男に捧げてしまったことへの, 深い後悔と絶望からくるものだった.
彼との口論は, 日常茶飯事となっていた.
彼の私への態度は, 日ごとに横柄になり, 私の言葉に耳を傾けることもしなくなった.
私は, 彼との会話を避けるようになった.
彼が話しかけてきても, ただ, 必要最低限の返事を返すだけだった.
私の心は, 彼から完全に離れてしまった.
そんなある日, 彼は突然, 海外移住の話を切り出した.
「パリに拠点を移して, 執筆活動をしたい」
私は, その言葉に, 一瞬だけ, 希望を見た.
この生活から, 逃れられるかもしれない.
結泉という存在から, 解放されるかもしれない.
私は, 淡い期待を抱いた.
もしかしたら, この海外移住が, 私たち夫婦の関係を修復するきっかけになるかもしれない, と.
しかし, 彼の次の言葉が, 私のその淡い期待を, 完全に打ち砕いた.
「もちろん, 結泉も連れて行く」
彼は, そうこともなげに言った.
私の心は, 完全に, 打ち砕かれた.
もう, 何も, 残されていない.
彼の言葉は, 私の心を, 粉々に砕いたのだ.
私は, 彼の言葉に, 何も反応できなかった.
ただ, 静かに, 目を閉じた.
私の心は, 深い絶望の淵に沈んでいく.
彼の, この言葉は, 私にとって, 死刑宣告にも等しかった.
私は, この男と, この女と, これから先も, ずっと一緒に生きていかなければならないのか.
その考えが, 私を窒息させそうになった.
遼佑と結泉は, 私の目の前で, 互いに見つめ合い, 笑い合っていた.
その光景が, 私の目に焼き付く.
彼らの間には, 私など, 存在しないかのように.
私は, 彼らから視線を外した.
そして, 冷たい壁に貼り付けられた大きなホワイトボードを, じっと見つめた.
そこに書かれた数字.
出発まで, あと7日.
私は, その数字の横に, 新しい数字を書き加えた.
それは, 私の, 復讐へのカウントダウンだった.
その夜, 私は, 弁護士と連絡を取った.
離婚のこと, 財産分与のこと.
彼との12年間の結婚生活.
私の献身と, 彼の裏切り.
すべてを, 冷静に, 淡々と話した.
「すべて, 承知いたしました. 長浜様の意思を尊重し, 最善を尽くします」
弁護士の声は, 落ち着いていた.
私は, その言葉に, わずかな安堵を覚えた.
私の心は, もう, 痛まない.
ただ, 彼の裏切りに対する, 冷たい怒りが, 私の胸の中で燃え盛っていた.
翌日, 遼佑が私の電話を覗き込んだ.
「誰と電話していたんだ? 離婚, なんて言葉が聞こえたが」
彼は, 疑いの眼差しで私を見つめた.
私は, 冷静に答えた.
「あぁ, 私の友人のことよ. 夫が浮気をして, 離婚を考えているって. 愚痴を聞いていただけ」
彼は, 私の言葉に, 安堵のため息を漏らした.
そして, 私を安心させるように, 私の肩に手を置いた.
「バカな奴だな. 俺たちは, そんなことにはならないさ. 俺は, お前を愛している」
彼の言葉は, 私の心を, さらに冷たくするだけだった.
彼は, 私が流産の直後に, 結泉の妊娠騒動で私を追い詰めたことなど, もう忘れているのだろうか.
それとも, 最初から, 何も感じていなかったのだろうか.
「そうね」
私は, ただ, それだけを答えた.
彼の目は, 私の顔ではなく, 私の背後に置かれた新作の原稿に釘付けになっていた.
「ところで真悠枝, お前に言っていなかったが, 結泉のために, 新しいマンションを買ってやったんだ. 彼女は, 俺のミューズだからな. 最高の環境で, 彼女には創作に集中してもらいたい」
彼は, 得意げにそう言った.
私の心臓が, 冷たい氷に覆われたかのように, 重く沈んだ.
結泉のために, マンション.
私には, 何の相談もなく.
「マンション? 」
私の声が, かすかに震えた.
彼は, 私の動揺を, ただの驚きだと思ったのだろう.
「ああ. もちろん, お前には, この家があるだろう? 結泉には, 彼女だけの空間が必要なんだ. お前には, わからないだろうが, 芸術家には, そういうものが必要なんだよ」
彼は, 私を小馬鹿にするような目で見た.
彼の言葉は, 私の喉を締め付けた.
私は, この男のために, すべてを捧げてきたのに.
彼の成功のために, 自分の人生を犠牲にしてきたのに.
彼は, 私を, 何の価値もない存在としてしか見ていなかった.
「あなたに, 良心というものはないの? 」
私は, 震える声で, 彼に問いかけた.
彼は, 私の言葉に, 一瞬だけ, 顔色を変えた.
しかし, すぐに, 傲慢な笑みを浮かべた.
「良心だと? そんなもの, 芸術家には邪魔なだけだ. お前は, 俺の才能を理解できないのか? 」
彼は, 私を侮蔑するような目で見た.
彼の言葉は, 私の心を, 完全に打ち砕いた.
もう, この男に, 何を言っても無駄だ.
私は, ただ, 静かに, 目を閉じた.
その時, ドアが開く音がした.
結泉だった.
彼女は, 満面の笑みを浮かべて, 部屋に入ってきた.
そして, 私の存在を, 完全に無視するように, 遼佑の腕に抱きついた.
「遼佑さん, お待たせしました. 私, 今から, 遼佑さんのために, とっておきの料理を作ってあげますね! 」
彼女は, わざとらしく, 私に聞こえるようにそう言った.
その声に, 私の心臓が, 再び, 冷たく凍り付く.
彼女は, 私を, 完全に, 見下している.
私の心を, 嘲笑っている.
「あら, 真悠枝さんもいらしたのね. あなたも, 何か召し上がる? 」
彼女は, 私を挑発するような目で見た.
その目には, 明確な敵意と, 優越感が滲み出ていた.
私は, 彼女の言葉に, 何も答えなかった.
ただ, 静かに, 彼女を見つめた.
結泉は, 料理が得意だと自慢していたが, 実際は, 何の料理も作れない女だった.
彼女が作る料理は, いつも, インスタント食品ばかり.
私が, 彼の健康を考えて, 毎日, 手作りの料理を作っていたことなど, 彼女は知らない.
いや, 知っていたとしても, 彼女は, それを嘲笑うだろう.
私は, 彼女が遼佑のために作った料理を, 一口も口にしなかった.
彼女は, それを見て, わざとらしく悲しそうな顔をした.
「あら, 真悠枝さん, 私の料理, お口に合わないかしら? 遼佑さんは, いつも美味しいって言ってくれるのに」
彼女は, 遼佑に甘えるように, その腕に顔を埋めた.
「真悠枝, 結泉の料理を馬鹿にするな. 彼女は俺のミューズだ. お前は, もっと彼女を敬うべきだ」
遼佑は, 私を睨みつけた.
彼の言葉は, 私の心を, さらに深く傷つけた.
私は, ただ, 静かに, 首を振った.
「私が, 料理に口を出したとでも? 」
私の声は, 冷静だった.
しかし, 私の心は, 怒りで燃え盛っていた.
「そうよ, あなた, いつもそうじゃない! 私が遼佑さんのために何かすると, いつも邪魔をする」
結泉は, 涙を浮かべながら, 私を責めた.
その涙は, 演技だ.
私は, 彼女の心を, 完全に読み取っていた.
「そういえば, 結泉, お前, この前, 俺のパスワードを当てたんだよな? やっぱり, お前は俺のミューズだ. 俺のすべてを理解している」
遼佑は, 結泉に甘い声でそう言った.
その言葉が, 私の心臓を, もう一度, 深く抉った. パスワード.
それは, 私だけが知っているはずのものだった.
彼が, 私と結婚する前に, 私にだけ教えてくれた, 彼にとって, 最も大切な数字.
それを, 結泉が知っている.
「ええ, だって, 遼佑さんのことなら, 何でもわかるんですもの! 」
結泉は, 得意げに, 私を嘲笑うように言った.
その言葉が, 私の心を, 完全に, 打ち砕いた.
私の心は, もう, 何も感じなかった.
ただ, 一つの決意が, 私の心の中で, ゆっくりと, しかし確実に, 形作られていった.
それは, 彼への, そして, 彼女への, 最大の復讐だった.
私の人生を, このまま, 終わらせるわけにはいかない.
私は, 私の人生を, 取り戻す.
そのために, 私は, 彼らに, 最大の「不在」という復讐を, 与えるのだ.
出発まで, あと6日.
話 3
結泉は, まだ何か言いたげに口を開いた.
その目の奥には, 私への明確な勝利の感情が宿っている.
私は, 彼女の言葉を, 静かに待った.
私の心は, もう, 何の感情も抱いていない.
ただ, 彼女の言葉が, 私の復讐計画の, どこに繋がるのかを, 冷静に分析していた.
「ねえ, 真悠枝さん. あなたが遼佑さんの奥さんだってことは, 私も知ってるわ. でもね, 遼佑さんは, もう私なしじゃ生きられないのよ. だから, いくらあなたが頑張ったって, 遼佑さんは, 私から離れない. あなたは, これからも, 遼佑さんの影で, 私の影で, 生きていくしかないのよ」
彼女は, 私の心を深く切り裂くような言葉を, 臆面もなく口にした.
その言葉の端々には, 私への嘲笑と, 明確な優越感が滲み出ていた.
私は, 静かに, 食器を置いた.
金属と陶器がぶつかる, 小さな音.
その音が, 静かな部屋に, 奇妙なほど大きく響いた.
結泉は, 私の反応に, わずかに怯んだようだった.
彼女の目は, 私の表情を探るように, 動いている.
しかし, 私の顔には, 何の感情も浮かんでいない.
私は, ただ, 冷たい笑みを浮かべた.
「そうかしら」
私の声は, 驚くほど冷たかった.
結泉の顔色が変わる.
彼女の自信が, 一瞬にして揺らいだ.
「情婦は情婦らしく, 分をわきまえるべきよ. そうでなければ, 痛い目を見ることになるわ」
私の言葉が, 彼女の顔色をさらに青ざめさせた.
彼女は, 私を睨みつけた.
その目には, 怯えと, 怒りが混じっていた.
次の瞬間, 私の手が, 結泉の頬を叩いた.
乾いた, 硬質な音が, 部屋中に響き渡る.
結泉は, 悲鳴を上げ, その場に倒れ込んだ.
テーブルの上の温かいスープが, 彼女の顔に飛び散る.
彼女は, 熱さと痛みで, さらに大きな悲鳴を上げた.
「きゃあああああ! 熱い! 痛い! 遼佑さん! 」
その悲鳴が, 部屋の外にいた遼佑の耳に届いたのだろう.
彼は, 慌てた様子で部屋に飛び込んできた.
「結泉! どうしたんだ! 」
彼の目に映るのは, 倒れ込み, スープで顔を濡らした結泉の姿だけだった.
私の存在など, 彼の視界には入っていないかのように.
「遼佑さん! 真悠枝さんが! 真悠枝さんが私を叩いて, 熱いスープをかけたんです! 」
結泉は, 涙と鼻水を流しながら, 遼佑にしがみついた.
その演技は, 完璧だった.
私は, その光景を, 冷めた目で見つめていた.
もう, 何も感じない.
私の心は, 完全に, 凍り付いている.
「真悠枝! 一体何を考えているんだ! 結泉に何をした! 」
遼佑は, 私を怒鳴りつけた.
彼の声には, 私への明確な憎悪が滲み出ていた.
私は, ただ彼を見つめた.
私の夫は, もう, 私の夫ではない.
彼は, 結泉の「遼佑さん」に成り下がっていた.
「何を, って... あなた, 何があったか, ちゃんと見たの? 」
私の声は, 震えていた.
しかし, その震えは, 悲しみからではなかった.
ただ, 彼への, 深い絶望からくるものだった.
「見る必要もない! 結泉がこんなに怯えているのに, お前がやったことくらい, わかるだろう! 」
彼は, 私を睨みつけた.
その目には, 私への明確な殺意が宿っているかのように見えた.
私は, かつて, 彼が私を守るために, どれだけ必死になってくれたかを, 思い出そうとした.
しかし, もう, 何も思い出せない.
彼の顔は, 私にとって, ただの憎むべき男の顔でしかなかった.
「謝りなさい, 真悠枝. 今すぐ, 結泉に謝るんだ」
彼の言葉が, 私の耳に, 冷たく響いた.
謝罪.
私が, この女に.
私の心は, 怒りで燃え盛った.
「謝る? 私が, 一体, 何のために」
私の声は, 冷たかった.
「お前がやったことは, 許されることじゃない! 結泉は, こんなことをされる筋合いはない! 」
彼は, 私をさらに怒鳴りつけた.
彼の言葉は, 私を, さらに深い絶望の淵に突き落とした.
もう, この男に, 何の期待も抱けない.
「わかったわ. 謝るわ. ごめんなさい, 結泉さん」
私は, そう言った.
その言葉は, 私の心を, さらに深く傷つけた.
しかし, 私は, ここで引くわけにはいかない.
私の復讐計画は, まだ始まったばかりなのだから.
「ただし, 条件がある」
私は, 冷たい目つきで結泉を見つめた.
結泉は, 怯えたように, 遼佑の背中に隠れた.
「条件だと? お前に, そんなことを言う権利があると思っているのか? 」
遼佑は, 私を怒鳴りつけた.
彼の声には, 私への明確な軽蔑が滲み出ていた.
「ええ. あるわ. もし, 結泉をパリに連れて行くのなら, 私は, この家を出ていく. あなたとは, 離婚するわ. そして, あなたの過去の不正, ゴーストライティングの事実を, 世間に公表する」
私の言葉が, 遼佑の顔色を, 一瞬にして青ざめさせた.
結泉も, 驚いたように, 遼佑の顔を見上げた.
私の言葉は, 彼らにとって, 最大の脅威だった.
「何だと... ! お前, 一体, 何を言っているんだ! 」
遼佑は, 怒りで震えていた.
彼の目には, 私への明確な殺意が宿っている.
「私が言っているのは, 事実よ. もし, 私がこの家を出ていけば, あなたの作品は, もう二度と, 世に出ることはない. あなたのゴーストライターは, 私しかいないのだから」
私は, 冷たく言い放った.
私の言葉は, 彼の心を深く突き刺した.
彼の顔は, 怒りと, 恐怖で歪んでいた.
「遼佑さん! そんなこと, させちゃダメよ! この女は, 私たちが幸せになるのが許せないのよ! 」
結泉は, 涙を流しながら, 遼佑に訴えかけた.
その言葉は, 私をさらに苛立たせた.
遼佑は, 私を睨みつけた.
彼の目は, 私を, どうにかして黙らせようとしている.
彼の心の中で, 葛藤が生まれている.
彼の成功か, 結泉か.
「真悠枝... お前, 俺を脅迫するつもりか? 」
彼の声は, 震えていた.
彼の目には, 私への明確な憎悪が滲み出ていた.
「脅迫? いいえ. これは, ただの事実よ. 私が, あなたの作品を書き, あなたが, その功績を独り占めしてきた. その事実を, 世間に公表するか, しないか. それは, あなたの選択次第だわ」
私は, 冷たく言い放った.
私の言葉は, 彼の心を深く突き刺した.
彼の顔は, 怒りと, 恐怖で歪んでいた.
遼佑は, しばらくの間, 私を睨みつけていた.
そして, ゆっくりと, しかし確実に, その顔から, 血の気が引いていく.
彼は, 私の言葉が, 真実であることを知っている.
彼の成功は, 私のゴーストライティングによって成り立っていたのだから.
「わかった... わかったよ. 結泉はパリには連れて行かない. だから, お前は, このことを, 誰にも言うな」
彼は, そう言った.
その言葉は, 彼の, 敗北宣言だった.
私は, 冷たい笑みを浮かべた.
私の復讐計画は, 始まったばかりだ.
遼佑は, 結泉を抱きかかえ, 部屋を出て行った.
結泉は, 私を睨みつけながら, 彼の腕の中で, 涙を流していた.
その涙は, 悔しさからくるものだろう.
私は, 彼らの後ろ姿を, 冷めた目で見つめていた.
もう, 何も感じない.
彼らが部屋を出て行くと, 私は, 静かに, 遼佑の携帯電話を手に取った.
彼が, 慌てて部屋を出て行ったときに, テーブルの上に置き忘れていったものだ.
私は, 彼のパスワードを入力した.
結泉が, 彼に教えてもらったパスワード.
それは, 私の誕生日だった.
私の心が, 再び, 冷たく凍り付く.
彼は, 私との思い出を, こんな女にも, 軽々しく教えていたのだ.
私は, 彼の携帯電話の中を, 一つ一つ, 確認していった.
結泉とのやり取り, そして, 見慣れない銀行の送金履歴.
毎月, 高額の送金が, 結泉の口座に振り込まれていた.
それは, 私には決して見せなかった, 彼の裏金だった.
彼は, 私を欺き, 私を裏切り, その裏金で, 結泉を囲っていたのだ.
私の知る彼ではない.
いや, これが, 彼の本当の姿だったのだ.
遼佑と結泉の声が, 部屋の外から聞こえてくる.
「遼佑さん, 本当に, このままこの女の言いなりになるんですか? あの女, 調子に乗ってますよ! 」
結泉の声が, 怒りで震えていた.
「仕方がないだろう! あの女の言うことは, 本当なんだ. もし, あの女が俺のゴーストライティングのことを公表したら, 俺は, もう二度と, 作家として活動できなくなる」
遼佑の声は, 焦りと, 恐怖で震えていた.
「でも, 私, またあの女に, ひどいことをされたんです! 顔を叩かれて, スープをかけられて! 」
結泉は, 泣きながら訴えた.
「わかった, わかったから, もう泣くな. 病院に行こう. お前を傷つけたこと, 必ずあの女に償わせるから」
遼佑は, 結泉をなだめるように, 優しく言った.
そして, 二人の足音が, 遠ざかっていった.
私は, 彼らの声を聞きながら, 冷たい笑みを浮かべた.
私の復讐計画は, 始まったばかりなのだから.
私は, 窓の外の景色を見下ろした.
遼佑と結泉が, 彼の高級車に乗り込む姿が見えた.
彼の腕の中には, 結泉が, まるで子供のように甘えている.
その光景が, 私の目に焼き付く.
私は, ゆっくりと, 遼佑の携帯電話をテーブルに戻した.
そして, 再び, ホワイトボードの前に立った.
そこに書かれた数字.
出発まで, あと5日.
私は, その数字を, ゆっくりと, しかし確実に, 書き換えた.
私の心は, もう, 何の感情も抱いていない.
ただ, 冷たい復讐の炎が, 私の胸の中で, 静かに燃え盛っていた.