話 1
「おめでとうございます。ご懐妊です」
白川明澄の思考は、どこか宙を漂っていた。
午後、医師にそう告げられた瞬間の言葉が、まだ頭の中をぐるぐると回っている。
ふいに――藤原誠司の指がぐいと肌を締め上げた。低く押し殺した声が、耳元で響く。「何を考えてた?」
返事をする間もなく、彼は明澄の首筋に手を回すと、深く唇を重ねた。
それから、無言のまま浴室へと姿を消す。
ベッドに残された明澄は、まるで糸を断たれた操り人形のように無力に横たわっていた。汗に濡れた髪が頬に張りつき、瞳には微かな水気が揺らいでいる。全身から力が抜け、激しい雨に打たれた蝶のように、かすかに震えるだけだった。
しばらくして、明澄は体を起こし、ベッドサイドの引き出しを開けた。
午後、胃の不調で病院に行った際に血液検査を受け――医師に「妊娠してからもうすぐ五週目です」と告げられたのだ。
その瞬間、頭が真っ白になった。毎回、ちゃんと避けていたはずなのに。
記憶をたぐり寄せるように、必死で思い返す――たしか先月、一度だけ……酒会の帰り、誠司が自宅まで送ってくれた夜。玄関の前で、ふいに尋ねられた。「今って、安全日か?」
まさか「安全日」なんて、こんなにもあてにならないなんて……
浴室のほうから、しとしととシャワーの音が聞こえてくる。その中にいるのは、彼女が密かに結婚してもう二年になる夫――そして、会社での直属の上司でもある、藤原グループの社長・藤原誠司だった。
そもそもの始まりは、一度の酒の席での出来事。入社して間もない頃、酔いに任せて、彼と一夜を共にしてしまった。
その後、誠司の祖父が突然倒れた。彼は「結婚した姿を祖父に見せたい」と言って、偽装結婚を提案してきた。
二人は婚前契約を結び、社内では秘密の夫婦関係を演じることになった。契約はいつでも破棄できる条件で。
明澄は、まさかこんな大きな幸運が自分に舞い込むなんて――夢にも思わなかった。
八年越しの片想いの相手と結婚できるなんて、信じられないほどの奇跡。彼女は迷うことなく、その申し出を受け入れた。
結婚後、誠司は多忙を極め、月の半分以上は姿を見せなかった。
しかし二年もの間、彼の身近に他の女性の気配すらなかった。浮き足立つような噂も、一片さえ立ち上がらなかった。
少し冷たいところはあるけれど、それを除けば藤原誠司はまさに理想の夫だった。
明澄は、手のひらに握りしめた妊娠検査の報告書を見つめながら――甘くて、不安な気持ちで胸がいっぱいになっていた。
彼に伝えようと決めた!
それからもう一つ、どうしても伝えたいことがあった。実は、二年前が初めての出会いなんかじゃない。彼女は十年も前から、ずっと彼を想い続けていたのだ――
バスルームの水音が、次第に静まっていく。
ちょうどその時、誠司のスマホが鳴った。彼は腰にバスタオルを巻いただけの格好でベランダに出て、電話を取った。
明澄が時計を見ると、もう日付はとうに変わっていた。
なぜだか胸騒ぎがした。こんな夜更けに、一体誰からの電話なのだろう?
通話を終えた誠司が戻ってくる。まるで気にも留めない様子で、腰のバスタオルを外した。
彼の身体は驚くほど整っていた。引き締まった腹筋はまるで彫刻のように美しく、全身の筋肉には無駄がない。長い脚と引き上がったヒップ、そのすべてが、あまりにも官能的だった。
何度肌を重ねた仲だとはいえ、明澄の頬は真っ赤に染まり、胸の鼓動は抑えきれなかった。
誠司はベッド脇まで来ると、シャツとスラックスを手に取り、さっと身に着けた。長い指先でネクタイを締めるその所作も、隙がない。
整った顔立ちは陰影まで美しく、どこか気品をまとっていて――目を奪われるほど、完璧だった。
「もう休めよ」 彼はそう言った。
出かけるつもり……?
明澄の胸に、かすかな失望が広がった。手に握りしめた妊娠検査の報告書を、思わずそっと後ろに隠す。それでも、迷った末に声をかけた。「もう、こんな時間だよ」
ネクタイを締めていた誠司の手がふと止まり、彼女のふっくらとした耳たぶを指先でつまんでから、唇の端をわずかに上げて言った。「今夜は、眠る気がないのか?」
明澄の頬が一瞬で真っ赤になり、心臓が暴れだす。何か言いかけたその瞬間――彼はすっと彼女から離れた。「いい子にしてろ。まだ用事がある。待たなくていい」
そう言い残し、誠司はそのまま玄関へ向かって歩き出した。
「……宴」
明澄は思わず追いかけ、背中に呼びかけた。
誠司が振り返る。シャープな顎のラインが月明かりに映え、その視線はまっすぐ彼女を射抜いてくる。
「どうした?」
その声には、外気の冷たさがほんのり混じっていた。言葉の温度が、少しだけ下がったように感じられた。
明澄の胸の奥が、なぜだかぎゅっと詰まるように苦しくなった。けれど、静かな声で尋ねる。
「明日……一緒におばあちゃんに会いに行ける?」
祖母の体調は思わしくない。できれば、誠司にも顔を見せて安心させてあげたかった。
「明日になってから考える」 誠司は、約束もしなければ、否定もせず、そのまま出て行った。
明澄はシャワーを浴びたあとも、なかなか眠れずにベッドの中で何度も寝返りを打った。
どうしても眠れず、仕方なく起きて、温かいミルクを一杯作った。
ふとスマートフォンの画面を見ると、芸能ニュースの通知が届いていた。
こういうニュースには興味がない。閉じようとしたそのとき――ふと、見慣れた名前が視界に飛び込んできた。
#EVの人気デザイナー・小林雪乃が帰国 謎の恋人と空港でツーショット#
記事には、小林雪乃がバケットハットを被り、謎の男性と共に空港に現れたとある。写真の中の男性は顔がはっきり映っていないものの、スタイルの良さは一目でわかる。
明澄はその写真を指先で拡大した。次の瞬間――頭の中に、鈍い衝撃音が響いた。
あのシルエットは――藤原誠司だった。
ということは……今日の午後、急に会議をキャンセルしたのは、小林雪乃を迎えに行くためだったのか?
その瞬間、明澄の胸に、重たい石がぎゅっと押し込まれたような苦しさが広がった。息苦しくて、思わず胸を押さえてしまう。
震える指先のまま、どうしたのか、自分でもわからないうちに――誠司の名前をタップして、電話をかけてしまっていた。
明澄は動揺しながら電話を切ろうとした。だが、そのとき相手の声が届いた。
「もしもし――」
女の声は、とても優しかった。
明澄は一瞬、動きを止めた。次の瞬間、彼女は勢いよく携帯を放り投げた。
そして、胃がかき乱されるような強烈な吐き気に襲われ、堪えきれず洗面所へ駆け込んだ。嘔吐は止まらなかった。
……
夜が明けて。
明澄は、いつも通り会社に向かった。
誠司と電撃結婚した当初、彼は彼女に家庭に入ることを望んでいた。しかし、明澄は自立を望んだ。
誠司はしぶしぶそれを受け入れたが、他所で働くことは認めず、自分の傍に置いて小さな補佐をさせていた。実際のところ、彼女の仕事はお茶を淹れたり雑務をこなしたりする程度だった。
重要な案件は、すべて特別補佐の洲崎牧人に任せていた。
会社の中で、明澄の正体を知っているのは洲崎ただ一人だった。
藤原グループの社長室では、これまで男性アシスタントしか採用されたことがなかった。そんな中、ここ2年間唯一の女性として残っているのが明澄だった。そのため社内では密かに囁かれていた――明澄と藤原社長の関係は、単なる上司と部下以上のものなのかもしれない、と。
だが、時が経つにつれて誰もが気づき始めた。藤原社長は、明澄に対して特別な態度をとることがまるでなかったのだ。それがかえって社内の彼女への目を冷たくさせた。
色仕掛けで取り入ったところで、長く続くはずがない――そんな軽蔑の眼差しが向けられていた。
そのとき、同僚が一枚の書類を手渡しながら、「これ、社長室に届けてくれない?」と頼んできた。
昨夜、宴は帰宅しなかった。そして彼が帰らなかったあの夜、明澄もまた一睡もできずにいた。
電話の向こうにいたあの女は――誰? まさか、彼と一晩一緒に過ごしていたの?そんな疑念が頭の中を渦巻く。
答えはもう、ほとんど見えていた。それでも、彼女は認めたくなかった。認めたら、崩れてしまいそうで……
人は結局、痛い思いをしないと目が覚めないのかもしれない。
今の彼女の心は、嵐のあとの海のように静かだった。明澄は思った――もう、どうなってもいい。ただ、ひとつの答えが欲しい。それが、十年の片想いに終止符を打つための最後の一歩になるのだから。
彼女は落ち着いた様子でエレベーターのボタンを押し、上階へ向かった。降りる直前には髪を軽く整え、自分の状態が万全であることを確かめた。
藤原社長室の前にたどり着いたそのとき、少し開いたマホガニーの扉の隙間から聞こえてきた男の声に、思わず立ち止まる。
「お前、本当に明澄さんのこと、好きなのか?」
話していたのは誠司の幼なじみ、河合延真だった。
「何が言いたいんだ」誠司の声は冷たく澄んでいた。
河合は小さく舌打ちした。「俺は明澄さん、いい子だと思うけどな。お前の好みじゃないのか?」
「なら、お前に紹介してやるよ?」男は軽く投げるように返した。
「やめとくよ」
部屋の中から聞こえてきた河合の嘲るような笑い声が、ひどく耳に刺さった。
彼らは彼女のことを、まるで何かのモノでも扱うかのように語っていた……
明澄の呼吸が一瞬詰まる。資料を握る手に力が入り、ひんやりとした汗が掌ににじむ。
ほどなくして、再び河合延真の声が聞こえた。
「雪乃さんのあの報道のスキャンダル相手って……お前だろ!」
「ああ」
「へえ、お前もずいぶん必死だな。彼女を喜ばせるためなら、何でも差し出すってわけか」
河合は感慨深げにそう言い、さらにからかうように続けた。「昨夜は雪乃さんとずっと一緒だったんだろ?久々の再会でまるで新婚みたいだったんじゃないか?もしかして……ヘヘ、ってさ」
その瞬間、明澄の頭上に雷鳴が轟いたようだった。
顔から血の気が引き、身体の芯まで凍りつくような冷たさが全身を包み込む。
一夜――!
久々の再会でまるで新婚みたい!
一文字一文字が刃となって、明澄の胸に深く突き刺さった。
頭の中では無数の声が渦巻き、叫び合い、視界がぐらりと揺れる。目の前の景色がぼやけていき、音も、遠く、霞んで聞こえなくなっていく。
この場から逃げ出したい――そう思った瞬間、カチャ、と音を立てて扉が開いた。
「明澄さん?」
話 2
ドアを開けたのは河合延真だった。まるですぐにでも去りたそうな様子だった。
白川明澄は指先に力を込め、表情を整えながら軽く会釈した。「河合社長、お疲れ様です」
そう言って、彼をすり抜けるようにして室内へ入り、書類を差し出す。
豪奢なデスクの向こうには、高級なスーツを身に纏った男が座っていた。その姿はどこまでも端整で、まるで雑誌の表紙から抜け出したようだった。
だが――明澄の目は見逃さなかった。彼のスーツは、昨夜のものではない。
視線を落としながら、静かに口を開く。「社長、こちらがマーケティングレポートです。ご署名をお願いします」
藤原誠司は表情一つ変えずに署名し、書類を彼女に返した。
明澄はそれを受け取ると、踵を返して部屋を出ようとする。扉のそばには、未だ顔に戸惑いを浮かべたままの河合が立ち尽くしていた。
明澄の背中がエレベーターの奥へと消えるまで、河合はその場に立ち尽くしていた。そしてようやく、ぼそりと呟く。「くそっ……まさか明澄さんが何か聞いてたんじゃないだろうな?」
誠司の涼しげな鳳の目には、何の揺らぎもない。河合の言葉も、彼の関心を引くことはなかった。
明澄は昔から従順で、嫉妬や詮索など無縁だった。
だからこそ――彼女がこのまま大人しくしていれば、何一つ不自由な思いはさせないつもりだった。
――エレベーター内。
明澄は天井を仰ぎ、涙が落ちないよう必死にこらえていた。それでも――頬の端から静かに流れた一滴が、耳元に吸い込まれるように消えていった。
二年――それだけの歳月があれば、きっと彼にも伝わると思っていた。自分の愛も、尽くしてきたすべても、きっと……
でも――全部、ただの思い込みだった。
どれだけ頑張っても、過去の恋が戻ってきた瞬間に、すべてが無力になるなんて――
エレベーターの扉が開く。明澄はすでに、何事もなかったかのように顔を整えていた。けれど、その頬は驚くほど蒼白だった。
意識が遠のきそうになるのを必死に堪えながら、給湯室へと足を運ぶ。熱いお茶を一杯、飲めば少しは目が覚めるかもしれない――
そんな思いで扉を開けると、中から聞こえてきたのは、数人の社員たちの世間話だった。
「ねえ、ニュース見た?小林雪乃、帰国したんだって」
「誰のこと?」
「え、知らないの? 小林グループの令嬢よ。それに本人も一流のデザイナー。何より、彼女って――うちの社長が唯一、交際を認めた女性なんだって。初恋って噂もあるよ!」
「えっ、でもさ、社長と白川さんって、そういう関係じゃないの?」
「白川さん? せいぜい“寝友”止まりでしょ。社長が一度でも公にしたことある?なのに、あの人ったら自分が本命かのような顔しててさ。マジで笑える……あれじゃ、ただの痛い女よ」
明澄は唇の端を引き上げ、皮肉げに笑った。――誰よりも現実をわかっていなかったのは、自分自身だった。みんなのほうが、ずっと冷静に見ていた。
ただ一人、自分だけが愚かにも夢を見続けていたのだ。
「おや?“社長夫人”の夢、ようやく覚めたの?」
背後から、嘲るような声が聞こえてくる。振り向かずともわかる、その声の主は宗明日香――誠司の従妹だ。普段から何かと敵対的で、ことあるごとに明澄に突っかかってくる。
先ほどの社員たちの噂話も、きっと彼女の耳に届いていたに違いない。
職場で揉めごとは避けたい。そう思って、明澄は足早にその場を立ち去ろうとする。だが――宗明日香は一歩前に出て、彼女の行く手をふさぐ。
宗明日香は手に持った淹れたてのコーヒーを掲げながら、意地の悪い笑みを浮かべた。「ねえ、今は雪乃お姉さんが戻ってきたんだからさ……あんたみたいな安っぽい女、誠司兄さんがまた抱くと思ってんの?」
明澄が黙って反応を見せないのをいいことに、明日香はさらに口を尖らせて続ける。
「だったらさ、こっちで紹介してあげよっか?金払いのいいオジサンたち。あんた、腕前は悪くないって評判みたいだし、誰に抱かれても一緒でしょ?」
明澄は手をぎゅっと握りしめた。指先が震えるほどに。けれど顔を上げたとき、その声は冷ややかで、静かに突き放すようだった。「――ここは会社です。色を売る場所じゃありません。商売の話をしたいなら、他をあたってください」
「な、何ですって……!」
間接的に彼女を売春婦扱いするつもりか。
宗明日香の顔色がさっと変わった。
そして突然、熱いコーヒーを明澄に向かって勢いよくぶちまけた。
まさかそこまで狂っているとは思わず、明澄は慌てて腕をかばったが、熱々のコーヒーがそのまま腕にかかり、 雪のように白い肌が一瞬で真っ赤に染まった。
「っ……!」痛みに眉をひそめながら、彼女は怒鳴った。「何考えてるの!」
ちょうど休憩時間だったため、周りには見物している社員が何人もいた。その視線を感じてか、宗明日香はますます得意げな顔になる。
「なに毎日調子に乗ってんのよ。誰も知らないとでも思ってる?あんたなんて、親もいないただの野良猫じゃない……」
――パァン!
宗明日香の言葉の続きを、鋭く響いた平手打ちの音が遮った。
まさか、いつもは言い返すこともせず耐えてばかりの明澄が、自分に手を上げるなんて――宗明日香は完全に意表を突かれ、しばらく呆然としていた。
やっとのことで顔をしかめながら叫ぶ。「な、何よ……よくも私を叩いたわね!」
明澄は冷ややかな目で彼女を見据え、はっきりと言った。「礼儀ってものを、教えてあげてるのよ」
両親を幼い頃に亡くした――それは事実だ。けれど、それを理由に誰かに踏みにじられることなど、決して許さない。
宗明日香の顔は怒りで真っ青になっていた。藤原誠司の従妹として、周囲からは常にちやほやされるのが当たり前だった彼女にとって、こんな真正面からの痛烈な反撃は初めてのことだった。
「このクソ女!」
激情に駆られ、彼女は狂ったように明澄へ突進し、高く振り上げた手で頬を打とうとする。
だが今回は、明澄が先に動いた。素早く手を伸ばし、宗明日香の手首をがっちりと掴む。まったく身動きできないように。
宗明日香は小柄で、明澄ほど背も高くない。じたばたと暴れるその姿は、まるで八本の足をばたつかせるタコのようで、どこか滑稽にさえ見えた。
怒りが頂点に達した宗明日香は、口汚く叫んだ。「自分を何様だと思ってるのよ?所詮あんたなんか、誠司お兄さんの夜のお相手でしかないくせに!あんたなんて、売春婦以下よ!」
耳を塞ぎたくなるほど下劣な言葉だった。その場にいた社員たちは次第に集まり、ざわつき始める。
――「いい加減にしろ」
重く低い男声が背後から響いた。階上のオフィスを出てきたばかりの藤原誠司が目にしたのは、休憩スペースで繰り広げられる喧騒の一幕だった。
その瞬間、休憩室はまるで音が吸い取られたように静まり返った。
「誠司お兄さん……?」宗明日香は思わず声をひそめた。彼女の従兄である藤原誠司は、普段から厳しい人で、母親からも「彼の前では品行方正に」と再三言われていた。
だが――自分が平手を受けた側だと思い出すと、宗明日香は再び強気になり、頬を赤く腫らしたまま、泣きそうな声で訴えた。「誠司お兄さん、見てよ…… 白川明澄、完全に頭おかしくなってるわよ!」
窓の外では陽光が眩しく降り注ぎ、それが男の整った顔立ちに影を落としていた。
その姿を見た瞬間、明澄の鼻先がつんと痛んだ。心の奥底から湧き上がる理不尽な苦しみ。理性を抑えつけていたものが緩むのを感じた。――それに、火傷した手の甲の痛みも、じんと鈍く広がっている。
彼女と視線が交わると、誠司の眉間に深い皺が寄った。「白川補佐、会社の規則はもう忘れたのか?」
その言葉は冷たく、壁のように突き放すもので。明澄の胸はきつく締めつけられた。彼の冷酷さが、まるで酸素を奪う壁のように、彼女の呼吸を止めていく――
四周は静まり返っていた。
明澄は孤独に、しかし凛として立っていた。細い身体はまるで、霧の中に浮かぶ山水画の若竹のようだった。
誠司からは、入社初日にこう告げられていた。「ここは感情をぶつける場所じゃない。君の繰り返す無礼を、俺は見過ごさない」
その言葉を、明澄はよく覚えているし、彼の立場も理解している。
しかし今この瞬間、彼女はどうしても聞きたかった。さっきの言葉を彼も聞いていたのか、それとも――
彼も認めているのか、自分がただの夜の存在でしかないことを。
誠司が現れた途端、野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように消えていった。けれど、中には数人、好奇心に負けて遠巻きに様子を伺っている者もいた。
誠司のその冷たいまなざしに、明澄の背筋は凍えたように震えた。
彼女は手のひらをきゅっと握りしめ、こみ上げる悔しさを必死に抑えながら、静かに宗明日香に頭を下げた。
「ごめんなさい。藤原グループの一員として、手を出したのは間違いでした」
それを見て、宗明日香は勝ち誇ったように顎を上げる。「ふん、謝ったからって済むと思ってんの――」
その言葉が終わる前に、明澄の声がぴしゃりと割って入った。「さっきの平手は、藤原グループの社員としてじゃない。白川明澄個人のものよ。だから――謝る気はない」
そう言い残し、彼女はもう男の方を振り返ることなく、その場をすり抜けて歩き去った。
「この……女狐が!」
宗明日香の顔は怒りで引きつっていた。
これまで思いのままに振る舞ってきた彼女にとって、こんな屈辱を味わわされたのは初めてだった。しかも相手は、見下していたあの女。
今、この女を千切りにしたところで、自分のプライドは到底取り戻せそうにない。
憤怒のあまり、宗明日香は声を荒げた。「誠司お兄さん、あの女の言ってること聞いた!? 私の顔をこんなにしといて、あの態度はないでしょ!すぐ呼び戻してよ!百発ビンタじゃ済まないんだから!」
誠司は何も言わず、ただ明澄の痩せた背中をじっと見つめていた。その瞼には、淡い陰が差していた。
「もうやめろ」誠司の声は冷たく、凍りつくようだった。
宗明日香は、これまで数々の汚いやり口で物事をねじ伏せてきた。さっき誠司が明澄をかばわなかったのを見て、彼女は冷たい笑みを浮かべた。やはり、誠司はあの女に何の情も抱いていないらしい。
歯を噛みしめ、目に憎悪を滲ませながら呟く。「次は絶対、あの女の顔をズタズタにさせてやる!」
「明日香!」
誠司の声が鋭く響いた。細められたその瞳には、明確な怒気が宿っていた。
宗明日香は一瞬で全身が凍りついたようになり、手足の先まで冷たくなるのを感じた。
彼の整った顔立ちには、どす黒い陰が差していた。「一度しか言わない。くだらない考えは今すぐ捨てろ。二度と、彼女に手を出すな」
その威圧感は、宗明日香の呼吸すら奪うほどだった。胸の奥で膨らみかけていた邪な企みは、その言葉で瞬時に喉の奥へ押し戻された。
「わ、わかったわ……」震える声でそう答えるのが精一杯だった。
誠司は冷ややかに彼女を一瞥すると、踵を返して去ろうとする。その背に向かって、洲崎牧人にひと言だけ命じた。「部外者は、今後一切立ち入り禁止だ」
宗明日香はまだ気づかず、にこやかにおべっかを言った。「さすが誠司お兄さん、こういう大きな会社ならルール厳しくて当然よね!」
だが次の瞬間、洲崎牧人が一歩前に出て、手で出口を示す。「宗様、どうぞ」
ようやくその意味に気づき、宗明日香の顔色が変わる。自分が“部外者”扱いされたことに、我慢できず誠司の背を追おうとしたが――すでに洲崎が呼んだ警備員に両腕を捕まれ、無理やり入口へと連れて行かれた。
泣き叫ぼうが、暴れようが、容赦はなかった。
……
明澄はオフィスに戻ると、黙って着替えを済ませた。
あの男の冷えきった表情を思い出すたび、胸の奥に静かな虚しさが広がっていく。
そして、定時が訪れた。
ビルの出口で、洲崎牧人が彼女の前に立ちはだかった。
「白川補佐、社長からの急なご指示で、僕がお送りします」
だが明澄は、すぐに首を横に振った。「結構です」
かつては気づけなかった。けれど今なら、はっきり分かる――自分が彼にとって、どれほどの存在だったのか。
いや、何者でもなかったのだと。
誠司が、彼女と一緒に祖母のお見舞いに来るはずがない。
明澄が病院に着いた時、介護士の中村喜美子が丁度祖母の食事の準備をしていた。明澄はその食事を受け取り、自ら祖母に一口ずつ食べさせてあげた。
祖母はこれまでずっと田舎の深山町で暮らしていたが、先月の健康診断で膵炎が発覚した。明澄は祖母の反対を押し切り、田舎から都会の病院へ連れ出し、治療を受けさせることにした。
隠れた結婚のことは、祖母には話していない。
本当は今日、誠司を連れてきて、サプライズのように祖母に紹介するつもりだった。でも、もうその必要もない気がした。
祖母が眠りにつくのを見届けてから、明澄は病室を出て、入口のそばで車を待っていた。
そのとき――病院の正面玄関に、遠くから黒い高級車が一台、静かに停まった。
明澄の目がぱっと輝く。あの車は――藤原誠司のだ。
まさか、彼が自分に会いに来たの?
その瞬間、胸に積もっていた寂しさも苛立ちも、すべて吹き飛んだ。
誠司が会いに来てくれたということは――少しは、まだ自分のことを想ってくれているのかもしれない。
そんな期待が胸に芽生えた瞬間、車のドアが開き、男が長い脚を伸ばしてゆっくりと降りてきた。
明澄は嬉しさを隠しきれず、思わず駆け寄った。
しかし次の瞬間、足が止まり、彼女はその場に凍りついた。
誠司は車を回り込むと、そっと身を屈め、まるで宝物を扱うように若い女性を抱き上げたのだった。
その端正な横顔には、明らかな緊張と深い憂いが浮かんでいる。
一瞬にして、明澄の顔から血の気が引いた。胸の奥で、何かが――音もなく崩れ落ちるのを感じた。
話 3
男のすらりとした姿が遠くから歩み寄ってきたかと思えば、大股で彼女の前を通り過ぎた。ほんの一瞬の躊躇すらなく。
見えていなかったのか、それとも……見て見ぬふりをしたのか。
けれど白川明澄には見えた。彼の腕の中にいたあの若い女性――ニュースで見覚えのある顔そのものだった。
――小林雪乃、その人だった。
明澄は重たい足取りで病院をあとにした。
魂が抜け出した後の抜け殻のようだった。何も感じられない。思考さえ凍りついてしまう。
タクシーの中で、運転手が行き先を尋ねてきた。
簡単なはずのその問いに、明澄はしばらく答えられなかった。
清樾荘には戻りたくなかった。きっとあの家は、もうすぐ自分の居場所ではなくなるのだろう……
少し間を置いてから、彼女はぽつりと告げた。「……すみません、清水ヶ浜までお願いします」
清水ヶ浜のマンションは、彼女が結婚後に自分で購入した物件だった。
あの頃、いずれ祖母を引き取って一緒に暮らすつもりで、ローンを組んで69平米の部屋を買った。決して広くはないが、二人で住むには十分だった。
そのとき藤原誠司は理解できないと首を傾げ、「もっと大きな家をプレゼントするよ」と言ってきたが、彼女はそれをきっぱり断った。
――今思えば、それが彼女の人生で唯一、正しかった選択だったのかもしれない。
マンションの前に着いても、すぐには中に入らず、公園のベンチに腰を下ろし、冷たい風に身をさらした。少しでも、このぼんやりとした心が、風に吹き飛ばされてくれればと願っていた。
これまでの時を振り返れば、甘さもあったし、苦さもあった。
二年――
七百日以上を共に過ごしてきた。
心というものは、たとえ石のように冷たくても、時間をかけて抱きしめれば、いつか温まるものだと信じていた。
けれど今は、耳元に無数の嘲笑が渦巻いているようだった。――「全てはお前の愚かな片思いに過ぎなかった」と。
夜も更けて、ようやく明澄はマンションの階へと上がった。
エレベーターを出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、部屋の前に立つ藤原誠司の姿だった。
シャツの袖を無造作にまくり、襟元のボタンを二つ外したその姿は、すらりと伸びた首筋と、端正な鎖骨の一部をあらわにしていた。そこにただ立っているだけで、清らかで爽やかで、そして、あまりにも――魅力的だった。
明澄は、数秒間その場に立ち尽くした。
――彼、藤原誠司は……病院で小林雪乃のそばにいたはずでは?
どうしてここに?
二人の視線が重なった。誠司は、片手に外套を引っかけながら、もう一方の手をポケットに突っ込み、やや細めた目で彼女を見つめていた。
「……電話、なんで出ない?」
その声には冷ややかな響きがあり、眠っていないせいか、どこか苛立ちすら滲んでいた。
明澄は慌ててスマートフォンを取り出す。画面を見ると、いつの間にか消音モードになっていたようだった。
そこには、誠司からの不在着信が五件――並んでいた。
二年間で、こんなことは初めてだった。
誠司が、彼女を探して、これほど何度も電話をかけてきたのは――
もしこれが以前のことだったら、明澄はきっと飛び上がって喜んでいたに違いない。宝くじに当たるよりも、何倍も嬉しかったはずだ。
けれど今は違う。彼女はスマートフォンをバッグに放り戻すと、壁にもたれかかり、かすれた声でつぶやいた。「……聞こえなかったの」
誠司は腕を上げ、伏し目がちに腕時計を見やった。その口調には、うっすらと苛立ちが滲んでいた。「……二時間、探した」
彼は小林雪乃を病院に送り届けたあと、帰宅したが、家はもぬけの殻だった。幾度かけても電話は通じず、ついには洲崎牧人に頼んで、彼女が会社を出てからの監視カメラの映像まで確認させた。
まさか、何の一言もなく清水ヶ浜に戻っていたとは――
「今後、出かけるときは一言知らせろ!さあ、帰るぞ」 誠司は、彼女に背を向けると、そのまま振り返りもせずにエレベーターの方へ歩き出した。
……つまり、行き先は清樾荘だということだ。
彼のしなやかで堂々とした背中を見つめながら、明澄の胸に、ほんのわずかな未練と欲がよぎった。
――これからも、私たちは“夫婦”でいられるのだろうか。
けれど……
誠司が途中で振り返り、彼女が動かずに立ち尽くしているのを見て、苛立ち混じりに眉をひそめた。「……抱きに来てほしいのか?」
頭上のセンサーライトが彼の顔を照らし出し、完璧に整ったその容姿に、一片の隙もなかった。
……なのに。明澄は深く息を吸い込み、まっすぐ彼を見つめた。「誠司……私たち、離婚しましょう」
「……今の、どういう意味だ」
誠司の声は冷えきっていて、その端正な顔立ちが一瞬、翳りを帯びた。
「実家に戻る。どうせすぐに私たちの関係もなくなるんだから」
明澄は無理やり笑みを浮かべようとした。けれど胸の奥では、どうしようもない痛みが渦巻いていた。誰かが心臓をぎゅっと掴んで、乱暴に引き裂いているみたいに。
「……関係?」
誠司は口の端を引き上げて、ひどく冷たい笑みを浮かべた。「明澄、お前の目には、俺たちが“どんな関係”に見えてた?」
その問いに、明澄は息を飲み、言葉を失った。
そうだ。最初から誠司は、一貫して姿勢を崩していなかった。――契約結婚。情は交わさない。ただの取り決め。世間から見れば、二人はただの仕事上の関係者。いや、それ以下かもしれない。
彼は今もなお、北城市で最も注目される“独身貴族”。数えきれないほどの名家の令嬢たちが、彼の隣を狙って競い合っている。
……今、彼がああして“関係”を口にしたのは、もしかして――私が、彼にしがみつくつもりだとでも思ってるの?
そんな疑念が胸をよぎり、明澄は唇を噛みしめた。喉の奥にせり上がってくる苦みを、どうにか押し込めるようにしてから、きっぱりと言った。「……ごめんなさい、藤原社長。私の勘違いでした。どうぞ、お引き取りください。清水ヶ浜には、もう来ないでください」
言い終えた瞬間、我慢していた涙がにじんだ。こらえきれずに、目の端がじわりと赤く染まっていく。
――だって、簡単に割り切れるはずがない。相手は、十年も愛し続けてきた人なのだ。
それでも――たとえ心臓が千切れるほど痛んでも、彼女はその手を離すしかなかった。
これ以上、自分自身を“哀れな笑いもの”にしたくなかった。
廊下のセンサーライトが、ぱちぱちと不安定に点滅していた。
その淡い光の中で、誠司は目を細め、唇をきつく閉ざしたまま微動だにしない。全身から、鋭く刺さるような、危うい空気を放っていた。
多少のわがままなら目をつぶってきた。けれど、今回ばかりは——明らかに一線を越えていた。
今にも噴き出しそうだった怒りは、彼女の瞳にうっすらと滲む光を見た瞬間、ほとんどが消えた。誠司は声を潜めて言った。「もし、宗明日香のことが原因なら——」
「関係ないわ。藤原社長、お引き取りください」
彼らの間には、宗明日香どころではない深い溝があった。
明澄は疲れていた。返す言葉もなく、彼を避けるようにしてドアノブを握り、中へ入ろうとする。
そんな彼女の態度に、誠司は苛立ちを隠せなかった。何を言っても跳ね返される、この壁のような無関心。
彼はネクタイを乱暴に引き緩め、一歩踏み出すと、彼女の手首を強く掴んだ。逃がさぬよう、しっかりと——
「……もう、いい加減にしろよ」
次の瞬間、彼の眉がさらに深く寄る。そして迷いなく、彼女の肩を抱き寄せると、そのままくるりと体の向きを変え——強く、胸の中に閉じ込めた。
抱きしめた身体は、まるで焼けた炭を抱えているように熱かった。
「……熱、あるのか?」
明澄は意識が朦朧としていた。火照った頬、霞む視界、そのまま誠司の胸にもたれかかる。足も、もう力が入らない。
空気が、妙な熱を帯びてゆく。
彼が身を屈めて顔を覗き込んでくる仕草は——今にもキスしそうな距離感だった。
明澄の思考はわずかに遅れて動き出す。このままじゃ、まずい——そう気づいた時には、条件反射のように彼の胸を押して、後ろへ下がろうとした。
けれど、動く前に、腰を強く引き寄せられる。彼の腕に絡め取られ、また抱き戻されてしまった。誠司の顔には冷たい影。沈んだ声が低く響く。「……何から逃げてる」
頭上の照明がわずかに揺れた。次の瞬間、明澄の身体はふわりと宙に浮く。気づけば、誠司の腕の中で横抱きにされていた。
彼は一切の躊躇もなく、そのままエレベーターへと歩き出す。
熱に浮かされた頭で、明澄は小さく声を漏らした。「……何するの」
誠司は眉間にうっすらと皺を寄せた。「病院だ」
「だめ!」
叫ぶようなその声で、一気に意識が冴えわたる。
——点滴なんかされたら、お腹のこの小さな命が、守れなくなる!
——たとえ、この子が望まれない存在だとしても。それでも、お腹の中にいる限り、自分はこの子の母親だ。だからこそ、守らなければならない。命を、どんな形であれ——
明澄は必死に誠司の腕の中でもがいた。けれど、彼の力はあまりに強く、両腕でしっかりと抱きしめられていて、逃れる隙などどこにもない。
「……病気なら、医者に診てもらうべきだ」 その声は冷たくも揺るがず、決して反論を許さない響きだった。
誠司は彼女の抵抗を意にも介さず、そのままエレベーターへ向かって歩き出す。心臓が、喉元まで跳ね上がる。だめ、こんなことになったら——!明澄は咄嗟に彼の腕にすがりついた。涙交じりの声が、息を詰めるようにして漏れた。
「……病院だけは……だめなの!」