話 2
健司は彼女を見つめ、その魅力的な笑顔が揺らいだ。「離婚?亜矢、どうしちゃったんだ?」
それから、彼の表情が変わった。どこか…安堵している?いや、計算している顔だ。
「実はな、ハニー。俺も似たような話をしようと思ってたんだ」
彼は腰を下ろし、共謀者のように身を乗り出した。
「詩織さんが今、大変なんだ。彼女のブランドの立ち上げで…ネットで酷い中傷を受けててな。本当に悪質なんだ。彼女が家庭を壊したとか、俺が家族をないがしろにしてるとか」
亜矢は聞いているうちに、胃の中に冷たい塊ができていくのを感じた。あまりにも馬鹿げている。
「それで」健司は続けた。「俺が考えたのは…一時的に別居しないか?ってことだ。さっさと、静かに離婚する。書類上だけでいい」
彼は早口でまくし立てた。「そうすれば詩織さんへの風当たりも弱まる。俺が独り身だってことを示せば、中傷もなくなるはずだ。彼女のブランドが軌道に乗ったら、また、ほら、元に戻ればいい。これは見せかけのためなんだ、亜矢。詩織さんのキャリアを守るために」
亜矢は彼を見た。あの恐怖に終わった前の人生では、泣いて、懇願したかもしれない。
今、彼女は冷たく硬い決意を感じていた。彼は、彼自身の自己中心性でラッピングされた出口を、彼女に差し出している。
「わかったわ、健司さん」彼女は言った。
彼は驚いて瞬きをした。「わかった?それだけで?」
「ええ。でも、法的に有効な離婚協議書が欲しい。財産の公正な分割。この家の私の持ち分と、あなたの建築事務所の持ち分も。私が資金援助したの、覚えてるでしょ?」
彼の驚きは、疑念に変わった。「なんでそんな風なんだ?そんなに…意地悪く?お前ならわかってくれると思ったのに。一時的なものなんだぞ」
「意地悪じゃないわ、健司さん。賢明なだけ。たとえ『見せかけ』でも離婚するなら、きちんとやるべきよ」
彼女の冷静さが、彼を不安にさせた。これは彼の知っている亜矢ではなかった。
健司は、詩織を「トラブル」から救い出すことに躍起になっていた。
「わかった、わかったよ。ちゃんとした協議書だろ。俺の弁護士にすぐ作らせる。明日にはサインできる」
彼は謝罪めいたことまで口にした。「こんなことになってすまない、亜矢。でも、これが最善なんだ。わかるだろ。詩織さんにはこれが必要なんだ」
彼は自分の嘘を心から信じている。これが自分が払う高貴な犠牲だと。
亜矢は彼を見ていた。かつて愛した男は、今や空虚な決まり文句を口にする見知らぬ他人だった。
「健司さん」亜矢は、最後のテストのつもりで、穏やかな声で言った。「これが家族に、蓮に、何をもたらすかわかってる?」
彼女は彼の顔に、真の懸念のかけら、結婚した頃の男の面影を探した。
そこには何もなかった。ただ、焦りがあるだけ。
彼への愛は死んだのだと、彼女は痛感した。あの別の時間軸で蓮と共に死に、そして今も死んだままなのだ。
健司はうんざりしたように手を振った。「大げさに言うなよ、亜矢。偽装離婚だ。蓮に詳細を話す必要すらない。俺たちは家族のままだ。この騒ぎが収まったら元に戻る。ただの紙切れ一枚のことじゃないか」
彼の無神経さには息を呑む。彼は自分が引き起こしている感情的な破壊を、全く見ていなかった。
「偽装離婚」と「復縁」の繰り返しは、彼が自分自身を納得させるためのマントラのようだった。
翌日、彼らは彼の弁護士事務所にいた。
亜矢は協議書を注意深く読んだ。驚くほど公正な内容だった。おそらく健司が、彼女に騒がれることなく、これを迅速に済ませたかったからだろう。
彼女はペンを手に取った。手は震えていなかった。
彼女は自分の名前を署名した。決定的な一歩。
健司は、ほとんど勝利を確信したかのように、小さく安堵のため息をついた。「よし。これで決まりだな」
彼は安堵を隠しきれなかった。
「蓮のことは?」彼らが外に出ると、亜矢は尋ねた。「今日の午後、ロボット教室の体験クラスがあるでしょ。あなた、連れて行くって約束したわよね」
健司は慌てた様子だった。「ああ、そうだ。ええと、詩織さんのことで急用ができてな。彼女の姪が、どうやら最近こっちに引っ越してきて、ロボットにすごく興味があるらしいんだ。詩織さんが、蓮の体験クラスの枠をその姪に譲ってくれないかって。彼女の姉さんへの大きな頼みなんだ、シングルマザーで、わかるだろ」
亜矢はぴたりと足を止めた。「蓮の枠を譲ったの?詩織さんの姪に?」
「体験クラスだけだろ、亜矢。また別の時に行けばいい。詩織さんの家族は大変なんだ」
衝撃。怒り。深い失望。彼はすでに、自分の息子よりも詩織の親戚を優先していた。
亜矢は完全な感情の乖離を感じた。
この男、彼女の夫は、見知らぬ他人だ。彼の行動は欠陥があるだけでなく、卑劣だった。
もはや「彼ら」は存在しない。彼女と蓮だけだ。
そして彼女は蓮を守る。
家庭裁判所への道のりは、苦々しさと皮肉に満ちていた。
彼らは裁判官の前に立ち、必要な返答を呟いた。
それはあまりに迅速で、非人間的だった。希望と笑いに満ちていた結婚式の日とは、あまりにも違っていた。
健司は、早く終わりたくてたまらないというように、そわそわと体を揺らしていた。
裁判官が離婚を宣告した瞬間、健司のスマホが震えた。
彼はそれを見て、満面の笑みを浮かべた。
「行かなきゃ」彼はすでに背を向けながら言った。「詩織さんが、発表パーティーの会場選びを手伝ってほしいって。最高だよ、亜矢。完璧なタイミングだ」
彼は振り返りもしなかった。
亜矢はそこに一人で立っていた。離婚届を手に。
苦い笑みが彼女の唇に浮かんだ。完璧なタイミング。彼にとっては。
彼女は二人の初期の頃を思い出した。情熱、共有した夢。
いつから、すべてがこんなに狂ってしまったのだろう?
それは微かに始まった。彼の仕事への没頭、と彼女は思っていた。
それから詩織が彼の人生に再び現れた。大学時代の古い知人で、彼女の父親が健司に最初の大きな仕事を与えたのだ。
健司は恩義を感じていた。詩織はそれを悪用した。
「友情」は深まっていった。深夜の帰宅、ひそひそとした電話。
亜矢は盲目で、信じきっていた。
もう、だめだ。後戻りはできない。この二度目のチャンスは贈り物であり、無駄にはしない。
亜矢はブランド買取店に向かった。
彼女は健司がくれたダイヤモンドの婚約指輪を外した。それはかつて二人の愛を象徴していた。
今では、足枷のように感じられる。
「これ、いくらになりますか?」彼女は店員に尋ねた。
店員が値段を告げた。彼女は値切ることなくそれを受け取った。
皮肉なことだ。彼が永遠を誓うために使った指輪が、今や彼からの逃亡資金になっている。
家に戻ると――協議によれば、売却して収益を分割するまでは、今は「彼女の」家だ――彼女は荷造りを始めた。
自分の服だけでなく、蓮のものも。
健司の有害な影響から、詩織の侵食する存在から、彼らを遠ざける必要があった。
新しいスタート。どこか静かな場所で。
「ママ?」蓮が、下唇を震わせながら彼女の部屋に入ってきた。
彼はタブレットを掲げた。お気に入りのロボットゲームの画面だ。
「教室の人からメールが来た。僕の夏期講習の枠…なくなっちゃったって。パパが、莉奈ちゃんっていう子にあげたって。詩織さんの姪だって」
彼の目に涙が溢れた。「でも、僕、すごく行きたかったのに」
苛立ち。懸念。これは、この新しい時間軸においてさえ、健司の裏切りの始まりに過ぎなかった。
話 3
亜矢の手からスマホが滑り落ち、フローリングの床に音を立てて転がった。
その音は、彼女の平静が砕け散る音と重なった。
「彼が、何ですって?」
蓮のロボット教室。彼女は何ヶ月もかけて調べ、申し込みをし、蓮を盛り上げてきた。
彼は合格した時、ロボットを作る夢を見て、大喜びだった。
それはただの教室ではなかった。彼の情熱そのものだった。
彼女は健司の偽装離婚に同意し、書類に署名した。すべては詩織を「守る」ためだと。
そしてこれが、彼の返礼なのか?息子の、かけがえのないものを奪い取ることで?
その理不尽さが、燃えるように痛かった。
なぜ彼はこんなことをし続けるのだろう?彼女が従順だから、何でも許されるとでも思っているのか?
蓮が泣き始めた。ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。「僕、本当にロボット作りたかったんだ、ママ」
亜矢は膝をつき、彼を抱きしめた。「わかってるわ、 حبيبي。わかってる」
彼女の心は、彼のために痛んだ。
健司に電話をかけた。留守番電話に直結する。何度も、何度も。
彼は彼女を無視している。意図的に。
数時間後、詩織のインスタグラムが更新された。
満面の笑みを浮かべた彼女と、姪であろう莉奈という少女の写真。
彼らはロボット教室のオリエンテーションにいた。
詩織のキャプション:「優秀な姪の莉奈が、ロボット教室のオリエンテーションを無事クリア!未来の発明家がここに!これを実現してくれた心優しい友人たちに感謝。#家族第一 #リケジョ」
コメントが殺到していた。「詩織さん、最高の叔母さん!」「なんて素敵なの!」
屈辱が亜矢を襲った。怒り。不正義。
蓮が家で泣いている間に、詩織は彼の奪われた機会を公然と祝っていた。
亜矢は鍵を掴んだ。「行きましょう、蓮。あの教室に行くわ」
決意が彼女の顔を硬くした。
彼らは教室が開かれている公民館へ車を走らせた。
駐車場には健司の車があった。
入り口近くで、彼が詩織と莉奈と笑い合っているのを見つけた。
「健司さん!」亜矢の声は鋭かった。
彼は振り返り、彼女と蓮の姿を見て笑顔を消した。
「亜矢?何しに来たんだ?みっともない真似はやめろ」彼の口調は苛立っていた。
蓮は、亜矢の存在に勇気づけられ、一歩前に出た。
「そこは僕の席だよ、パパ!僕が先に入ったんだ!」
彼の小さな声は震えていたが、反抗の色を帯びていた。
健司はしゃがみ込み、最も人を操ろうとする時に使う、甘ったるい声を出した。
「蓮、いい子だからな。莉奈ちゃんのお母さんは、本当に大変なんだ。シングルマザーでさ。それに莉奈ちゃんは、どうしてもここに来たかったんだ。お前は寛大な子だろ?莉奈ちゃんにこのチャンスを譲ってあげられないか?良いお兄ちゃんになってやれよ」
不公平だ。あまりにも不公平。彼は蓮に、見知らぬ他人のために自分の夢を犠牲にしろと言っている。
「いやだ!」蓮は、足をどんと踏み鳴らした。「僕の教室だもん!」
彼がこれほど反抗するのは珍しい。これは彼にとって、それほど大切なことなのだ。
健司の顔が硬くなった。優しい仮面が剥がれ落ちる。
「高橋蓮、もういい加減にしろ!わがままを言うな。お前の母親は、お前の頭にくだらないことを吹き込む代わりに、もっと行儀を教えるべきだな」
彼は亜矢を睨みつけた。「これはお前のせいだ」
蓮はわっと泣き出した。大きく、胸が張り裂けるような嗚咽。
亜矢は彼を強く引き寄せ、庇った。
胸の中で、物理的な圧力を感じるほどの激しい怒りがこみ上げた。
しかし、彼女は前の人生を思い出した。何も解決しなかった、爆発的な怒りを。
彼女は深呼吸をし、それを押し殺した。
「健司さん」彼女の声は驚くほど落ち着いていた。「お願い。蓮に席を返してあげて。彼にとって、とても大切なことなの。私…あなたに何かを懇願するのは、これが初めてよ」
健司は目をそらした。一瞬、何か――罪悪感?――が彼の目にちらついた。
それは現れたのと同じ速さで消えた。
「もう遅い、席は埋まってる」彼は呟き、それから考え直したように言った。「ほら、蓮が欲しがってた新しいスターウォリアーのレゴセットを買ってやるよ。そっちの方がもっとかっこいいだろ?」
彼は理解していない。決して理解することはないだろう。
砕かれた夢の代わりに、物質的なおもちゃを。
亜矢は深く、絶望的な気持ちになった。
彼は常に詩織を優先する。常に。彼女の家族、彼女の気まぐれ、彼女の要求を。
亜矢と蓮は、常に二の次なのだ。
「心底がっかりした」という言葉では、到底言い表せない。
亜矢は健司を押し退け、教室の責任者に話をしに行こうとした。もしかしたら間違いかもしれない、キャンセル待ちがあるかもしれない。
「すみません」彼女は受付のテーブルに近づこうとした。
健司が彼女の腕を掴んだ。その握力は驚くほど強い。
彼の建築事務所の若い社員が二人、彼と一緒に来ていたようで、気まずそうにしながらも従順に彼の両脇を固めた。
「亜矢、騒ぎを起こすな」健司は低い声で言った。「自分と蓮を恥さらしにする気か」
「離して、健司さん!」亜矢は叫び、引き離そうとした。「蓮があの席にふさわしいのよ!」
彼女はよろめき、倒れそうになった。彼女の声は、聞き届けられることのない苦悩でひび割れていた。
教室の責任者が心配そうにこちらを見たが、健司はうんざりしたように手を振った。
健司は、顎を引いて彼女を見ていた。
彼はおそらく、詩織の父親のこと、自分が負っている「恩」のことを考えているのだろう。
蓮の幸せを「犠牲」にすることは、彼の歪んだ心の中では、その恩を返す一環なのだ。
自分の息子を犠牲にしてでも、詩織を守る。
若い建築士たちは、優しく、しかし断固として、亜矢と泣きじゃくる蓮を出口の方へといざなった。
亜矢は、打ちのめされながらも、帰り際に受付のテーブルに立ち寄った。
「息子の、高橋蓮ですが、合格していたはずなんですが…」
受付の、人の良さそうな女性は、同情的な視線を向けた。「申し訳ありません、奥様。今朝、ご主人の高橋様からお電話がございまして。蓮君は参加できなくなったので、ご同僚の姪御さんに席を譲りたいと。現在、すべての席が埋まっております」
丁寧で、最終的で、覆すことのできない言葉だった。
亜矢が傷心の蓮を連れて去ろうとすると、詩織が勝ち誇ったような笑みを浮かべて近づいてきた。
「亜矢さん、理解してくれて本当にありがとう。蓮君が莉奈にこれを譲ってくれるなんて、本当に優しい子ね。莉奈にとって、かけがえのないものになるわ」
彼女の声は、偽りの感謝に満ちていた。彼女は亜矢を嘲笑っていた。
健司が詩織の隣に歩み寄り、彼女の肩に腕を回した。
「ほらな、亜矢?詩織さんは感謝してる。お前も彼女を見習うべきだ。もっと協調的になれ」
彼の言葉は、さらなる裏切りであり、ナイフをさらにねじ込むようなものだった。
亜矢は胸に鋭い痛みを感じ、息が詰まった。
不正義、あからさまな操作、それは息苦しいほどだった。
彼女はただ、蓮をそこから連れ出したかった。
健司はまだ終わらなかった。「お前はいつも物事を難しくする、亜矢。昔からずっとそうだ。お前がもう少し理解があれば、こんなことにはならなかったんだ」
いつもの非難。いつもの責任転嫁。
彼の目には、いつも彼女が悪いと映っていた。