話 1
男女の情事は、時に人を天にも昇らせ、時に地獄へ突き落とす。
「いい子だ、もう一度…」
桐原千景は汗まみれでベッドに横たわったばかりだったが、柔らかな身体はすぐさま望月颯斗に抱き上げられた。
彼の動きは激しく、容赦がない。それでも肝心なとき、千景はそっと首を持ち上げ、懇願するように囁いた。
「颯斗……もう、避妊しないでくれない? ……赤ちゃんが欲しいの」
一瞬、望月颯斗は動きを止めた。
だがすぐに、冷たく静かな声が千景の耳に響いた。「子どもには多くの責任が伴う。今はそのつもりはない」
千景は唇をきゅっと噛み、目元がたちまち赤く染まった。「でも…私たち、もうすぐ結婚するのよ?おじいちゃんも、孫が見たいって言ってるし……それでも、ダメなの?」
その声は、願いというより祈りだった。
彼と結婚したい。彼と一緒に、幸せな家庭を築きたい。そして、赤ちゃんが欲しい——その想いで、胸がいっぱいだった。
けれど、望月颯斗の冷たく強張った顔を見つめるうちに、彼女はついに折れてしまった。「…わかった。赤ちゃんのことは、また今度にしよう」
ようやく、彼の表情が少しだけ和らいだ。
だが、彼が続きを口にしようとしたその瞬間——着信音が、部屋に響いた。
電話がつながるやいなや、甘く柔らかな声が耳に届いた。「颯斗、こんな夜遅くにごめんなさい。邪魔だったら、本当に申し訳ないんだけど……」
「さっきリビングで転んじゃって、足がすごく痛くて……もし今忙しかったら、自分で何とかするから……」
早瀬杏璃の言葉が終わるより先に、颯斗が即座に応じた。「そこで待ってて。すぐ行くよ」
「……ありがとう、颯斗。千景さんと一緒にいたんじゃない? 邪魔してないといいけど。誤解されちゃわないかな……」
「タクシー呼ぼうか、自分で……」
「気にするな。何も問題ないよ」 望月颯斗の声は、春の風のように優しくて、心をくすぐった。
――ふふっ。
桐原千景は、込み上げてきた笑いをぐっとこらえた。
バスルームには、水音とふたりの吐息だけが漂っている。全身びしょ濡れのまま、ふたりの距離は危ういほど近かった。まるで、弓を引ききった状態――いまにも何かが起こりそうな、そんな空気だった。
これが、「邪魔してない」っていう意味?
なるほど。特別に愛されるって、こんなにもわがままでいられることなのね。特権であり、例外であり、どんなルールからも外れた存在。
だけど――望月颯斗が愛しているのは、私じゃなかった。他の女の子……
なんて皮肉なこと。
そして次の瞬間、千景の身体は、大きなバスタオルにそっと包まれた。
大判のバスタオルが桐原千景の体を包み、艶やかな曲線をすっかり隠していた。
「ベッドまで運ぶよ。先に、休んで」望月颯斗の声は、いつになく優しかった。
けれどその言葉は、冷水を浴びせられたように、千景の心を一瞬で凍らせた。
――彼、早瀬杏璃のもとへ行くつもりなの?
千景は手をぎゅっと握りしめ、全身がこわばるのを感じた。
しばらく黙ったまま、そっと足を踏み出す。小さな歩幅でゆっくり彼に近づいていきながら、どうかしてる…そう思いながらも、
彼女は両腕を伸ばし、そのまま望月颯斗を、ぎゅっと抱きしめた。
千景の声は、かすかに震えていた。「ねえ……今日はそばにいてくれない?行かないで」
望月颯斗は、少し驚いたように彼女を見た。
けれどその驚きも束の間、彼はすぐに落ち着きを取り戻し、そっと彼女の髪を撫でた。
「ダメだ。怪我してるんだ。冗談で済む話じゃない」
「でも、私……今はあなたに、どうしてもそばにいてほしいの。行かないで」 千景の目は赤く潤み、唇を噛んでうっすら血がにじんでいた。
「やめなさい、千景。君はいつも、聞き分けのいい子だったじゃないか」
けれど、今日の彼女はもう“いい子”なんて呼ばれたくなかった。ただ、彼を引き留めたかった。
「颯斗…」名残惜しそうに、彼の顔を見つめる。
「ね、いい子だから。手を放して」
千景はゆっくりと首を振った。
「もう一度言う、手を離して!」
望月颯斗の目元がすっと冷えた。唇をきゅっと結んだまま、彼の大きな手が彼女の指を一本ずつ、強引にほどいていく。
その力があまりに強くて、指先がじんと痛んだ。
もう、すがる気力なんて残っていなかった。千景は寂しげに笑い、力なく手を離した。
「すぐ戻るよ」 去り際、颯斗はそう言った。
すぐ戻る?
そんなの、三歳の子に言い聞かせるくらいのセリフだ。早瀬杏璃に呼ばれて、彼が戻ってきたことなんて一度もなかったじゃない。
千景に子どもを望まなかったのも……結局は、彼女のため。早瀬杏璃のためだったのだろう。
なにしろ彼女は、彼が心の奥深くに仕舞い込んだ、どうしても手に入れられなかった女だった。誰もが忘れられない「初恋」のような存在。だからこそ、大切に、大切に、まるで神聖な宝物のように崇め奉られていた。
シャワーを浴びたあと、桐原千景はそっと布団に身を潜らせた。
けれどその夜は、なぜかいつも以上に布団が冷たく感じられて、どう寝返りを打ってもぬくもりが戻ることはなかった。
朝6時。
電話に出ると、相手は望月颯斗の母・望月蘭だった。「結婚式の日取りが決まったの。三ヶ月後、とても縁起のいい日よ」
おそらく誰かに占ってもらったのだろう。結婚にはもってこいの吉日らしい。
「今日はね、それを早めに伝えておこうと思って。ご両親にも、準備を始めてもらってちょうだいね」
「うちは望月家って言っても、無駄金をばらまくような家じゃないのよ。桐原家も、娘を金で売るような真似はやめてちょうだい。 それと、嫁入り道具はきちんと揃えてね。あんまりみすぼらしいと、うちの顔に泥を塗ることになるんだから。」
桐原千景は、ひとつひとつ丁寧に頷いて応えた。「わかりました、お義母様。父にちゃんと伝えます。ご安心ください、私は結納金なんて一円もいただきません」
だが、その言葉ですら望月蘭の気に入ることはなかった。
むしろ、さらに冷たく嘲るような声が返ってきた。「さすが、安っぽい女ね」
千景は、それ以上なにも言わなかった。
心の中ではわかっていた。たとえ結納金を受け取ったところで、それは情も義理もない父と、意地の悪い継母の懐に消えるだけなのだから。
「本当に、君のどこが気に入ったっていうのかしら。貧乏くさいし、育ちも知れてるし。」
「うちの子がどうしても君と結婚するって言い張らなかったら、お婆さまが賛成しなかったら、私は絶対に認めなかったわよ。」
電話を切る直前まで、望月蘭は不満をぶちまけていた。
千景は、ふっと苦笑するしかなかった。
……そう、ほんとうにそうだ。
彼女と望月颯斗の婚約は、まるで現実味のない夢のようだった。
でも――彼と結婚し、彼の妻になること。それは桐原千景にとって、生涯でたった一つの願いだった。
十五歳のあの年——
継母は「名門の奥様たちの集まりに連れていく」と言って、着いた先は望月家だった。
桐原千景は、継母の罠にはまり、足を滑らせてプールに落ちた。
――もう、助からない。そう思ったその瞬間。
一人の少年が、水しぶきを上げて飛び込んできた。
彼は彼女をしっかりと抱きしめ、凍える水の底から、そして死の縁から救い出した。
目を覚ましたとき、彼女が見たのは、背を向けて去っていく少年の姿だけだった。
けれど、彼の手首に巻かれていたあの黒い腕時計だけは、なぜか胸の奥に焼きついて離れなかった。
後になって、まったく同じ腕時計を見つけたことで、彼女は彼のことを思い出したのだ。
そう――望月颯斗が、あの日、彼女を救ってくれた。
たった一度の命の恩人。それだけで、彼女は心のすべてを彼に預けてしまった。
あの日を境に、彼と結ばれることが、彼女のただ一つの夢になった。
手を取り合い、共に歩み、いつか老いるその日まで――。
階下から足音が聞こえ、桐原千景の思考はふっと途切れた。
次の瞬間、寝室の扉が静かに開く。
現れた望月颯斗は、目元に疲れの色を浮かべ、スーツは皺だらけだった。
やっぱり――今夜も早瀬杏璃に付き添っていたのだ。
「すぐ戻る」って、言ってたのに。
千景は視線を逸らし、彼を見ないように努めた。
けれど颯斗は、何の前触れもなく彼女をぐいと引き寄せ、まだ冷えた唇でそっとキスを落とす。そして、低く掠れた声で、限りなく柔らかく囁いた。「…怒ってる?」
千景は身を引き、口を閉ざしたまま何も言わなかった。
彼の身体からは、明らかに女物の香水が香っていた。それ以上に、シャツにくっきりと残された唇の跡が、目を刺すほど鮮やかだった。
――早瀬杏璃の痕跡。まるで針のように、じくじくと胸を刺し続ける。
……痛い。
「ねぇ、あなた……まだ早瀬杏璃のこと、好きなの?」
ふと、千景は彼の顔を見上げた。その声は壊れそうなほど柔らかくて、それでも、確かに彼に向けられていた。
颯斗は手を伸ばし、千景をそっと抱き寄せた。
そのまま、低く艶のある声が耳元に落ちる。「君、いつも何考えてるんだ?」
「早瀬杏璃には、少し特別な感情があったのは認める。でも、それはあくまでクラスメートとしての情にすぎない。他には何もない」
千景は何も言わず、ただ彼を見つめながら尋ねた。「じゃあ…私は?」
「颯斗…私を、愛してるの?」
話 2
「颯斗…私のこと、愛してるの?」
あの夜の記憶は、今でも彼女の胸に鮮明に残っている。二人の関係が始まったきっかけ──それは、決して優しいものではなかった。
当時、早瀬杏璃は別の男を追って、国外へと去った。
絶望の淵にいた望月颯斗は、酒に溺れ、理性のタガを外した。
そして、あの夜──彼は彼女を強く押し倒し、泣き叫ぶ声も、震える身体も気にかけず、ただ狂ったように、繰り返し彼女を…
翌朝、静まり返ったベッドの中で、彼はぽつりと呟いた。「…理不尽に思ったなら、俺の女になればいい。嫌じゃなければ」
彼女はただ、小さくうなずいた。
それが、ふたりの始まりだった。
そこにあったのは、ただの責任。愛ではなかった。
……けれど、今は?
彼の心に、少しでも愛情や好意が宿っているのだろうか。
望月颯斗は、桐原千景の繊細な眉と瞳をじっと見つめて言った。「千景、もうすぐ俺たちは結婚する。これからは君が俺の妻だ。君を大事にして、守っていく…」
その瞬間、彼の唇にひやりとした感触が触れた。
千景の指が、そっと彼の言葉を止めていた。
「颯斗…もう言わなくていい。全部、知ってるから」
「一晩中動いてたんでしょ。着替えてから会社に行きなさい。服は、私が持ってくるから」
そう言い終えて、彼女は静かに背を向けた。
ただ、その一瞬。背を向けたとたん、こらえていた涙が頬をつたって落ちた。
たくさんのことを言ってくれた。優しい言葉も、甘いささやきも、心があたたかくなるような言葉も――
でも、どうしても言ってほしかった、そのたった一言だけは、最後まで聞けなかった。
もし本当に愛してくれているなら、一言でいい。ただ「愛してる」と、それだけでよかった。
言葉が多いほど、それは愛していない証拠。
だから、これ以上聞くことなんて、とてもじゃないけど、できなかった。怖くて、もう、聞けなかった。
クローゼットに入ったそのとき、桐原千景はスーツを一着手に取ろうとした。だが、次の瞬間――馴染みのあるぬくもりに、ふわりと包まれた。
望月颯斗の顎が、そっと彼女の頭に乗せられ、片方の手で彼女の手を優しく包み込む。
「寒くもないのに……どうして、こんなに手が冷たいんだ?」
千景の瞳には、まだ涙の名残が光っていた。
胸の奥が詰まっていて、返す言葉が見つからない。
戸惑う間に、彼の手が彼女の身体を向き直らせる。
見上げたその瞳――潤んで揺れる瞳は、まるで迷子の小鹿のようだった。
その瞳には、どこか無邪気さと哀れさが入り混じっていた。望月颯斗の胸の奥が微かに震え、もう抑えきれず、彼は桐原千景の顔を両手で包み、そのまま強く唇を重ねた。
激しいキスだった。彼女を骨の髄まで取り込んで、自分の一部にしてしまいたい――そんな衝動すら感じさせるほどに。
千景はつま先立ちになり、仰け反るようにして受け止めるしかなかった。
頬は真っ赤に染まり、呼吸も乱れに乱れていた。
けれど、その胸の奥には、淡く甘いものが広がっていた。
何年一緒にいても、彼が理性をかなぐり捨てて衝動に駆られるのは、こうして抱きしめてくれるときだけだった。
そのときだけは――彼に、愛されていると実感できた。
「颯斗…」
千景は、息もできないほどに深くキスされ、思わず甘い声を漏らした。
望月颯斗は我に返ると、惜しむように彼女を放す。
「…会社に行かなくて済むなら、今すぐ君を食べちゃいたいくらいだ」 その低く掠れた声には、抗いがたい色気が宿っていた。
顔を真っ赤にした千景は、彼の胸をそっと押す。「だって、昨日の夜……もう……」
最後までは言えなかった。恥ずかしすぎて、言葉にならない。
だけど、颯斗はお構いなしに彼女を抱きしめ、堂々と言い放った。「だから何だよ。 ――君は俺の妻だ。いくら抱いても、足りないくらいだ」
千景が口を開こうとした瞬間、ふと手元にひんやりとした感触が走った。
視線を落とすと、手首にはいつの間にか美しいブレスレットが。
ルビーがきらめきを放ち、雪のように白い肌に映えて、彼女の美しさをいっそう引き立てている。
「これ、私に?」顔を上げた千景は、少し驚いた表情で彼を見つめた。
「うん。気に入った?」
「あなたが選んだの?」
颯斗は静かにうなずいた。
「うれしい……すごく気に入った。ありがとう」
千景は優しく微笑み、そっと背伸びして、彼の頬に軽く口づけた。
だが、颯斗はまだ満足していなかった。わずかに眉をひそめると、自分の唇を指さす。
千景はすぐに彼の意図を悟った。
けれど、自分から動くのは苦手で、一瞬、気後れしてしまう。
「キスしてくれないなら、行っちゃおうか?」
冗談めかしてそう言い、彼女の手をそっと離した。
その瞬間、千景の胸がざわめいた。思わず、顔を近づけて――唇を重ねる。
だが、彼はまるで待ち構えていたかのように彼女の頭を抱き寄せ、情熱的に口づけた。
やがて、彼の服をぎゅっと握りしめた千景が「お願い…もうやめて…」と小さく呟いた時、ようやく彼はその唇を離した。
「ここ数日は無理せず家でゆっくり休んで。時間があったら、おじいちゃんやおばあちゃんの顔を見に行ってあげて。体調が完全に戻ってから、会社に来ればいいよ」 望月颯斗は、雪のように白い肌の千景の顔をじっと見つめ、優しく声をかけた。
静かにうなずいた。
彼女は美術系の大学を卒業後、ずっと望月グループで働いてきた。
今はデザイン部のマネージャーを務めている。
ただし、会社の同僚たちは、まだ二人の関係を知らない。
彼女は常に仕事に真剣で、全力を尽くしてきた。だが、ここ数日、無理な夜更かしが続いたせいで、めまいや頭痛、さらには吐き気まで現れるようになっていた。そんな状態でもなければ、彼女が仕事を休むことはなかっただろう。
でも、結婚すれば彼女の仕事の負担はきっと減るだろう。
そして、そのぶんの精力を家庭と望月颯斗に向けることになる。
「そういえば颯斗、結婚式の日取り、お母さんが占い師に見てもらって、もう決めてくれたのよ」
「うん、母さんから電話があったよ」
「それで……」桐原千景は少し戸惑いながら言った。「そろそろ私たちの結婚のこと、会社の人たちにもちゃんと伝えたほうがいいかなって」
「同じ部門の人には、私が結婚するってことだけはバレてる。でも、誰とってのはまだ知られてないんだ。最近は『誰⁉誰⁉』ってみんな騒いでて、挙句の果てには招待状くれって言われてるくらい」
そういいながら千景の目に、ほんのりと期待の光が宿った。
けれど、颯斗の顔はずっと強張ったままだった。
「千景、ごめん」突然、彼が口を開いた。
「え…?」
ネクタイを締めながら顔を上げると、彼の視線が真っ直ぐに自分を見据えていた。「千景、結婚のことだけど、しばらくは公表しないつもりなんだ。 おじいちゃんたちや母さんにも話をつけてある。式も、ごく限られた身内と友人だけを招く、プライベートな小規模のものにする予定だ」
彼の言葉が胸に落ちると同時に、千景の手は動きを止めた。
じゃあ、もうみんな知ってたってこと……?私が一番最後だったのね――そういうこと?
もし問いかけていなければ——きっと最後の最後まで、気づけなかった。
非公開?
それって…秘密結婚するつもりなの?
結婚なんて一生に関わることを、どうして誰にも言いたくなかったの?
理由なんて、もう考えるまでもなかった。
——早瀬杏璃。
彼は、まだ彼女を忘れられずにいる。
桐原千景は、懸命に瞬きをした。目の奥がじんと熱くなって、胸の奥を何かにきつく引かれるようで、息が苦しくなった。
もし今日の結婚式が、自分とじゃなく、早瀬杏璃とのものだったとしたら――
彼は、きっと狂ったように世間に大々的に発表していただろう。
自分の花嫁が早瀬杏璃だということを、世界中に知らしめたくて仕方がなかったはずだ。
「…もし、私がどうしても公にしたいって言ったら?誰にでも知ってほしいって思ったら?」
桐原千景は瞳を潤ませ、真っ直ぐに彼を見つめながら、不意に強い口調で問いかけた。
望月颯斗は驚いたように瞬きをした。いつもは従順で控えめな千景が、こんなふうに自分の意思をぶつけてくるなんて――
少しだけ間を置いて、彼はそっと、彼女の手を取った。
「千景、頼む。もう少しだけ時間をくれ。 必ず、しかるべき時が来たら…君のことをみんなに話す。約束する」
「じゃあ、その“時”は、今じゃないってことね?」千景は、もう何も期待できずに囁いた。
颯斗は目を伏せて、静かに言った。「…すまない」
震える指先で感情を押し込めながら、千景はゆっくりと唇を開く。
「わかったわ。でも……私にも、ひとつだけ条件があるの」
話 3
望月颯斗は小さくうなずいた。「君の話を聞かせて」
「…二年。 二年後になっても、まだ私たちの関係を世間に公表する気がないなら……その時は、きれいに別れたい。お願い、私に自由をちょうだい」 胸が張り裂けそうになるのを堪えて、桐原千景は一語一語、噛みしめるように言葉を紡いだ。
「……わかった、約束するよ」
だけどなぜだろう、その言葉が彼の心を落ち着かせるどころか、妙な不安をかき立ててくる。
「…ありがとう」
桐原千景は手のひらを強く握り締めた。爪が食い込む痛みが、胸の奥にまでじわじわと染み込んでいくようだった。
二年。それが、彼女が自分に与えた最後の猶予だった。
十五のときから、今年で八年。彼を想い続けてきた。
あと二年経てば、ちょうど十年になる。
十年――それはあまりにも長い年月だ。氷でさえ溶け、石でさえぬくもりを宿す。
もしそのときになっても、颯斗が彼女を愛してくれなかったなら……
彼女は身を引いて、彼を自由にしてあげたいと思っている。
――でも、本当は。そんな日なんて、永遠に来なければいいのに。ずっと彼の妻でいたい。望月夫人として、彼のそばにいられたら、それだけで幸せなのに。
…
望月颯斗が出勤したばかりの頃、桐原千景のもとに、望月伸子――颯斗のおばあさんから電話がかかってきた。
「千景、今日はお休みなんでしょう?早く帰ってらっしゃい。あなたの好きなご飯を用意させたのよ。今さっき空輸されたばかりで、とっても新鮮なの!」
「はい、すぐ帰ります」
身支度を整えた千景は、急いで望月家へと向かった。
邸宅に着いて車を降りたそのとき、不意に頭がふらついた。
すかさずそばにいた運転手が彼女を支える。「奥さま、お気をつけて。お身体の具合が優れませんか?」
千景はゆっくりと深呼吸をし、意識を整える。「ちょっと急に立ち上がったせいかもしれないわ。昔から少し低血糖気味なの。たぶん大丈夫よ」
最近、どうにも身体の調子が優れない。
思えば、少し前に夜更かしが続いて体を酷使しすぎたのだろう。
結婚を控えた今、しばらくは無理せず養生するべきかもしれない。
リビングに入ると、桐原千景の目にまず映ったのは望月蘭の姿だった。
「お母様」 彼女は丁寧に挨拶する。
だが望月蘭は彼女を快く思っておらず、当然ながら笑顔ひとつ見せない。
一目見るなり、冷ややかな口調で言い放つ。「おばあさまが昼食にって呼んでたのよ。今、何時だと思ってるのよ?」
「ちっとも時間を気にしないなんて!」
桐原千景はうつむいたまま、返す言葉が見つからなかった。
そのとき、不意に手のひらがあたたかくなった。
望月伸子が杖を突きながら、もう一方の手で千景の手をそっと包み込み、望月蘭をやさしく見つめながら言った。「千景はもともと素直な子ですから、きっと何か事情があったのでしょう。気にすることはありませんよ」
「それに、お昼ご飯まではまだ時間がありますし、遅刻にもなりませんわ」
その言葉を聞いた瞬間、千景の目元がじわりと熱くなった。
彼女が生まれたとき、母親はすでに亡くなっていた。手術台の上で命を落としたのだ。
だから、千景は一度も母親のぬくもりを知らずに育った。
あの冷たい父親のことなんて、もうどうでもいい。
桐原千景にとって、本当のぬくもりは、祖父母だけがくれたものだった。