話 1
意識が朦朧とする中, 夫が私ではなく, あの女に手を差し伸べるのを見た.
山奥の廃墟で誘拐された私を助けに来てくれたと信じていた夫, 高田竜介. しかし彼は, 私を冷たく突き放し, 共に囚われていた彼の秘書, 桑名小春だけを救い出した. 「お前はもう用済みだ」と言い残して.
私は身ごもっていた. 彼との子供を. その事実を告げても, 彼は「お前のような女が」と嘲笑い, 私を産業スパイだと決めつけ, 見捨てた.
絶望の中, 私は冷たい床の上で息絶え, お腹の子も命を落とした.
私の魂は, 忠実な部下, 小石が真相を追い, 母が悲しみに暮れる姿をただ見つめていた. 一方で竜介は, 私の死の報せを無視し, 小春との甘い時間に溺れている.
なぜ, 十年連れ添った夫は, 私をここまで憎むのか. なぜ, 彼は小春の嘘に気づかないのか.
やがて, 誘拐犯の出現が小春の裏切りを暴き, 死亡診断書という鉄の証拠が竜介の目を覚まさせる. 私の亡骸の前で, 彼は初めて真実を知り, 血の涙を流して崩れ落ちた.
「千栄子…ごめん…」
その懺悔の言葉も, もう私の心には届かない. 復讐の鬼と化した彼が, 自ら破滅へと向かう「火葬場」を, 私はただ, 冷ややかに見届けるだけだ.
第1章
私は意識が朦朧とする中, 夫が私ではなく, あの女に手を差し伸べるのを見た. 山奥の廃墟. 冷たい床に倒れ込み, 身体が鉛のように重い. 手枷の金属が皮膚に食い込み, 擦れた傷が脈打つ. 薄暗い光の中で, 夫, 高田竜介の顔が見えた. 私の夫. 会社の社長. 彼は私を助けに来てくれた――そう, 私は信じていた.
「千栄子, これ以上は無理だ. 諦めろ. 」竜介の声は, いつも私に向けてくれる優しい響きとは全く違っていた. まるで, 遠い他人に話しかけるような, 冷たく乾いた声. 私は目を凝らした. 彼の瞳に映るのは, 私が知っている愛ではなかった.
「り…ゅ…すけ…? 」私は掠れた声で呼びかけた. 口の中が砂のように乾いている.
彼は一歩も動かない. ただ, 私を見下ろす. その視線は, 私がまるで邪魔な石ころであるかのように, 感情のないものだった.
「私が何を言っているのか, 分からないのか? 」彼の声は苛立ちを含んでいた.
分からない. 何もかもが分からない. 私は一体, 何のためにここにいるのだろう. そして, なぜ竜介は私にそんなことを言うのだろう. 心臓が冷たい水に漬けられたように縮こまる.
数時間前, 私は高田グループの副社長として, 夫の病状悪化により混乱する会社を立て直すため, 必死に働いていた. 私にとって, それは彼のためであり, 私たちが築き上げてきた全てを守るための戦いだった. まさか, こんな場所で, こんな形で, 彼の冷酷な顔を見る羽目になるとは.
あの時, オフィスを出た瞬間, 不穏な気配を感じた. 背後から強い衝撃. 意識はそこで途切れた. 次に目覚めた時には, この薄暗い部屋だった.
私は背中から落ちた衝撃で地面に顔を押し付けられる. 髪が乱れ, 顔に土が付いた. 息が詰まる. 喉から「うっ」という呻き声が漏れた.
「千栄子, 大人しくしろ. 」背後から聞こえる低い声. 私は両腕を強く掴まれ, 無理やり立たされた. 手首が悲鳴を上げた. 意識が浮上する. ああ, 私は誘拐されたのだ.
私が必死に呼吸を整えようとしていると, さらに奥の暗闇から, 別の呻き声が聞こえた. そこにいたのは, 桑名小春. 竜介の有能な秘書だ. 彼女も私と同じように縛られ, 口を塞がれていた. 顔は恐怖に歪んでいる.
竜介が, 救いの手を差し伸べるのなら, それは私に向けてだろうと思っていた. 私と竜介は, 深く愛し合っていたはずだから. 私だけが, 信じていた.
しかし, それはあまりにも幼稚な願いだったと, すぐに悟ることになる.
竜介は私の隣を通り過ぎた. 彼の視線は, 私を完全に無視して, 小春に向けられていた. 冷たい風が, 私の頬を撫でる.
「小春, 大丈夫か! 」竜介の声に, 焦りと深い愛情が滲む. 彼は小春に駆け寄ると, その顔を覗き込んだ. 小春は怯えたように目を伏せ, 首を横に振った. 彼の瞳の中に, 私が決して見たことのない, 切実な光が宿っていた.
「頼む…小春を解放してくれ! 彼女に何かあったら…」彼の言葉は震えていた. 私はその声を聞いて, まるで心臓を直接掴まれたように感じた.
その時, 背後から無造作に突き飛ばされた. 私はバランスを崩し, 再度床に膝をつく. 鋭い痛みが走った. 下腹部から, 何かが伝う感覚.
「痛い…お腹が…」私は掠れた声で訴えた. 全身から冷や汗が吹き出る. 体調が悪い. それだけではない. 私は…
「どうした, 千栄子? 」竜介は, 私の方を見もしないで尋ねた. その声には, 何の感情も込められていない. 彼は小春の拘束を解こうと, 必死になっている.
「お腹が…凄く痛いの. お願い, 助けて…」私の声は震えていた. 恐怖と, 身体の痛みで, 視界が歪む.
「黙れ. 大人しくしていれば, 命までは取らない. 小春を解放するなら, お前は無事に帰れるはずだ. 」竜介は, 私の方を見もせずに言った. その声は, 凍てつくほど冷たかった. 彼の口から出る言葉は, 私にとって刃物だった.
私はただ, その場で膝を抱え込み, 静かに涙を流すしかなかった.
突然, 男の一人が乱暴に小春を引っ張った. 小春はバランスを崩し, 頭を壁に打ち付けた. 「きゃっ! 」彼女の口から小さな悲鳴が漏れた.
竜介が, 小春の額から滲む血を見て, ハッと息を呑んだ. 彼の顔色は真っ青になった.
「小春! おい, 何てことをするんだ! 」彼は怒りに震える声で叫び, 男に掴みかかろうとした. その様子は, まるで理性を失った獣のようだった.
私は, 必死に感情を押し殺した. 私の身体も, 私の内側も, 激しい痛みに襲われている. 私は, 妊娠していた. まだ, 誰にも告げていなかったけれど. この子を, 私たちの子どもを, 彼に伝えるつもりだったのに.
私は, もはや体裁も何もかもかなぐり捨て, 竜介の方に這い寄った.
「竜介…お願い…私を助けて. 私たちの子が…」私は彼の足元に縋り付いた. 彼の瞳に, 一瞬の動揺が走ったように見えた.
だが, その動揺はすぐに消え去った.
「馬鹿なことを言うな! お前がそんなこと, ありえないだろう! 」彼は私の言葉を遮り, 冷たく言い放った. 「お前のような女が, 私の子供を宿すなど…小春と比べたら, お前は…」
彼の目は, まるで私を憎むように鋭かった. その視線は, 私を氷漬けにするかのようだった.
「千栄子, お前はもう用済みだ. お前が私を裏切り, 会社の秘密を売り渡したのだと, 彼らに証拠を突きつけられた. お前が産業スパイだという証拠が. だから, お前はこれ以上, 私のそばにいる資格はない. 」彼はゆっくりと私から離れていく. その言葉が, 私の全身を切り裂いた.
「違う…違うわ, 竜介! 私は…」私は必死に反論しようとした. しかし, 私の言葉は, 彼の耳には届かない.
「黙れ! 」彼は苛立ち, 私の顎を掴んだ. 骨が軋むほどの力で, 私の顔を無理やり持ち上げる.
「お前がそうやって, いつも私を困らせる. その嘘つきの口を開くな. 」彼の指は, 私の頬に強く食い込んだ.
私は, その暴行に耐えるしかなかった. 彼の瞳に映る私には, もはや彼の妻としての面影はなかった.
竜介は, 小春を抱きかかえ, 入口へと向かい始めた. 彼は小春を優しく抱きしめ, その耳元で何か囁いていた. 小春は, 彼の腕の中で, 安堵したように目を閉じた. 彼らの間には, 私が入る隙間など, どこにもなかった.
私は, 彼が小春を乗せた車が闇の中に消えていくのを, ただ呆然と見つめた. 私の身体は, 何者かに乱暴に引っ張られ, 別の車に押し込まれた.
「やめて…! 」私は叫んだ. 激しい衝撃が, 私のお腹を襲う.
「うるせぇ! お前みたいな女, 生きてる価値もねぇんだよ! 」男の汚い罵声が, 私の耳朶を打った.
私は, 最後に竜介が去っていく車のテールランプを見た. その光が, 徐々に小さくなっていく.
私の心は, その瞬間に完全に死んだ. 息をするのも苦しい. 何もかもが, 終わったのだ. 私は, ゆっくりと目を閉じた. 意識が, 深い闇へと沈んでいく.
十年という月日を, 私は彼に捧げてきた. 私の全てを. それなのに, 彼は私をこんなにも簡単に切り捨てた. 私の心は, 血を流しながら, この残酷な真実を受け入れた. 彼の愛は, 小春だけのためにあったのだ. 私には, 最初から何の価値もなかったのだ.
私は, 薄れゆく意識の中で, 彼が去って行った方向をもう一度見つめた. 私の唇には, 乾いた苦笑が浮かんでいた.
話 2
助けは来なかった. 私は暗く冷たい洞窟の奥で, ただ一人, 死を待っていた. 竜介が小春を連れて去ってから, どれくらいの時間が経ったのか分からない. 彼の声も, 彼の車の音も, もう聞こえない. ただ, 冷たい風が吹き荒れる音だけが響いている.
私は, もはや竜介の心の中に, 私という存在はなかったのだと, 深く理解した. 彼は, 私を助けに来るはずがない. 私はただ, 彼の邪魔な存在だった.
薄れゆく意識の中で, 私は自分の死を悟った. 身体はもう限界だった. 胎動も, もう感じられない.
その頃, 山の中を駆け回る一人の男がいた. 小石慎也. 高田グループの真面目な社員. 彼は, 私の状況を訝しんでいた. 私の失踪. そして, 竜介の不自然な態度. 彼は, 何か悪い予感がして, 私を捜しに来たのだ.
しかし, 私が死を迎えるのは, 彼が私を見つけるよりも早かった. 私は, 冷たい岩肌に背中を預け, 静かに息を引き取った.
私の魂は, 身体から抜け出ると, まるで透明な羽衣のように軽くなった. 私は, まるで夢を見ているかのように, 小石の動きを傍観した. 彼が必死に私の名前を叫んでいるのが聞こえる.
小石は, 焦りながら竜介に電話をかけた.
「社長! 松原副社長のGPSが途絶えました! まさか, 本当にあの場所に…」小石の声は, 明らかに動揺していた.
「何を騒いでいるんだ, 小石. 千栄子は, 少し休暇を取っただけだ. お前は彼女の言葉を信じすぎている. どうせ, また芝居だろう. 」竜介の声は, 電話越しでも冷たかった. 彼の声には, 私への不信と, わずかな苛立ちが混じっていた.
「芝居…? 社長, 何を言っているんですか! 松原副社長がどれだけ必死に会社のために働いてきたか, ご存知ないんですか! 」小石は怒りを露わにした. 「彼女は, 本当に危険な目に遭っているんです! 」
「くだらない! お前は千栄子に騙されているだけだ. 彼女は, 元々信用できない人間だ. お前も, あまり彼女と関わらない方がいい. お前まで, 会社に泥を塗る羽目になるぞ. 」竜介は, 小石の言葉を一蹴した.
「社長…一緒に捜しに行きましょう. もし, もしものことがあったら…」小石は懇願するように言った. 彼の声は, 悲痛な響きを帯びていた.
「もういい! お前は, 彼女のことで私を煩わせるな! どうせ, また私の気を引こうとしているだけだろう. そんな女のことなど, どうでもいい! 」竜介の声は, 怒りに震えていた. 彼は, 電話の向こうで, 私の存在を心底嫌悪しているようだった.
「社長…! 」小石は, まだ何か言おうとしたが, 竜介は一方的に電話を切った.
私の魂は, その言葉を聞いて, 身体が震えるような衝撃を受けた. まるで心臓が, もう一度引き裂かれるような痛みだった. 私と竜介が共に過ごした十年という月日. その全てが, 無意味だったのだ. 私の命の終わりは, 彼にとって何の価値も持たなかった.
私の魂は, なぜか小石の後を追った. 彼は, まだ私を捜し続けている.
竜介は, 小春の病室に戻っていた. 彼は, 小春のベッドサイドに座り, その手を優しく握っている.
「大丈夫か, 小春. もう, 怖い思いはさせないからな. 」竜介の声は, ひどく甘く, 優しい. 私が一度も聞いたことのない声だった.
小春は, 怯えたように竜介の腕にしがみついた. 「竜介さん…千栄子さんのこと, 大丈夫でしょうか…私, 彼女が心配で…」小春は, 涙ぐみながら, 私への「気遣い」の言葉を口にした.
「心配するな. 千栄子なら, どうせまた何か企んでいるだけだろう. お前は, 何も気にしなくていい. 」竜介は, 小春の髪を優しく撫でた. 「お前は, ただ私と一緒にいればいい. お前に何かあったら…私は生きていけないから. 」
彼の深い愛情のこもった言葉は, 私の魂を深く抉り取った. 私が生きていた時に, 彼が私に言ってくれた言葉は, 全て嘘だったのか.
私の魂は, 痛みと絶望で震えた.
小石は, 諦めずに山中を捜索し続けていた. 彼の足は, もうボロボロだった. それでも, 彼は立ち止まらない.
ようやく, 彼は私を監禁していた洞窟を見つけた. 彼は, 恐る恐る洞窟の中に入っていく. 湿った土の匂い. 暗闇.
そして, 彼は私を見つけた. 冷たい岩肌にもたれかかるように, 横たわる私の遺体. 私の顔は, 恐怖と苦痛に歪んだままだった. 薄く開いた唇からは, 血が滲んでいる. まるで, 魂が抜け落ちたかのように, 虚ろな目.
私の魂は, 自分の遺体を, まるで他人のものを見るかのように眺めていた.
小石は, 私の遺体を見て, 激しく動揺した. 彼は, その場で膝をつき, 嗚咽を漏らした. 「松原副社長…うそだ…」彼の声は, 悲痛な叫びとなった.
私の魂は, 最早何も感じなかった. 痛みも, 悲しみも, 絶望も. ただ, 空っぽだった.
死後の世界で, 竜介の甘い声と, 小石の悲痛な泣き声が, 交互に私の耳に響く. そして, 竜介のあの, 失望に満ちた目が, 私の魂に焼き付いていた.
話 3
竜介のあの失望に満ちた目は, 私の魂に深く刻み込まれていた. 私がどんなに説明しようとしても, 彼は私の言葉を信じなかった. あの時, 竜介が私を産業スパイだと一方的に決めつけた背景には, 以前から彼が私を疑う出来事があったのだ. それは, 私が会社の機密情報に触れた際, 誤ってファイルを公開設定にしてしまったという, ほんの些細なミスだった. その時, 竜介は私に何も言わず, ただ冷たい視線を向けただけだった. 誤解を避けるため, 彼はその情報を扱った第三者を海外に送った. 私は, その彼を傷つけてしまったことを深く後悔した.
それ以来, 竜介は私に露骨な嫌悪感を抱くようになった. 彼の視線は, いつも私を避け, 私に触れることさえ拒んだ. 私は, その嫌悪感を理解していた. 彼の信頼を裏切ったのだから, 当然だと思っていた.
私は, ただ黙って彼の嫌悪を受け入れた. 彼が私を許してくれる日が来ることを, ただひたすらに願っていた. 私の愛は, いつか彼の心を溶かすと信じていた. 私にとって, 彼が全てだったから.
しかし, その願いは叶わなかった.
私は, 自分の身体の変化に気づいた. 妊娠していたのだ. その知らせは, 私にとって一筋の光だった. この子が, 私たち夫婦の関係を修復してくれるかもしれない. そう, 私は淡い期待を抱いた.
だが, 私はすぐにその期待を打ち消した. 今の竜介に, このことを告げたら, 彼はどんな顔をするだろう. きっと, また私を責めるだろう. 私は, 彼の冷たさに耐えられなかった. もう少し, もう少しだけ待とう. 彼が, 私を許してくれる日が来たら, その時に告げよう.
そんな矢先, 私は偶然, 竜介と小春が二人きりでいる現場を目撃してしまった. 路地裏の片隅で, 竜介は小春の肩を抱いていた. 小春の膝には, 擦り傷ができていた. まるで, 誰かに突き飛ばされたかのように.
その瞬間, 私は全てを悟った. 竜介の私への冷淡さの本当の理由. 彼は, 小春を愛していたのだ. だから, 私を傷つけることに何も躊躇しなかった.
竜介は, 小春の膝の擦り傷を, まるで宝物に触れるかのように優しく撫でた. その目には, 深い愛情が宿っていた. 私が, これまで一度も見たことのないような, 甘く, 切ない眼差し.
私は, 彼が小春に対してこれほどの情熱を抱いていることに, ただただ絶望した. 彼の愛情は, 私には向けられることはなかった. 私は, 彼にとって, 何の意味も持たない存在だったのだ.
私は, 魂が抜けたように, ただ歩いて家に帰った. 食事は喉を通らなかった. 身体が, どんどん痩せ細っていく.
その日の深夜, 竜介は泥酔して帰ってきた. 彼の体からは, 小春の香水の匂いが漂っていた.
「竜介, お帰りなさい…」私は震える声で迎えた. 彼は, 私を無視して, リビングのソファに倒れ込んだ.
「うるせぇ…」彼は, 私を一瞥もせずに言った. 「お前は, いつもそうやって私を煩わせる. 」
私は, 彼の言葉に何も反論できなかった. 彼が私を嫌悪しているのは, 明白だった.
竜介は, ジャケットを脱ぎ捨てた. そのポケットから, 一枚の写真が滑り落ちた. それは, 竜介と小春が, まるで恋人のように寄り添って写っている写真だった. 小春の笑顔は, 私に向けられるそれとは比べ物にならないほど, 輝いていた.
私の頭の中で, 何かがプツンと切れた音がした. 私は, その写真を拾い上げると, 引き裂いた. 一枚, また一枚. 破れた紙片が, 床に舞い散る.
「これは…何なの…! 」私は, 半狂乱になって叫んだ. 私の声は, 震えていた.
竜介は, 冷めた目で私を見つめていた. 彼の目には, 何の感情も宿っていない.
「なんだ, 今頃気づいたのか. 」彼の声は, まるで憐れむかのようだった. 「お前は, いつも鈍い女だったな. 小春は, お前と違って, 私を理解してくれる. 私を癒してくれる. お前は…お前は私を傷つけるだけだ. 」
「私を傷つけるのは, あなたでしょう…! 」私は叫んだ. 「あなたは, 私を裏切った! 私たちの結婚を, 裏切ったのよ! 」
「結婚? ああ, あの間違いか. 」竜介は, 嘲笑うかのように言った. 「お前との結婚など, 最初から私の選択ではなかった. 私は, 小春を愛している. ずっと, ずっと昔から. 」
彼の言葉は, 私の胸を深く突き刺した. 私は, その場で膝から崩れ落ちた.
竜介は, 破れた写真を拾い上げると, それをポケットにしまい, 家を出て行った.
私は, ただ一人, リビングの床に座り込み, 天井を見上げていた. 彼の言葉が, 耳の中で反響する. 「お前との結婚など, 最初から私の選択ではなかった. 」
私は, あの日, 竜介が小春を優しい眼差しで見つめていた光景を思い出した. 彼のあの眼差しは, 私に向けられることはなかった. 彼は, 小春を, 心から愛していたのだ.
私は, 身体が震えるほどの痛みを感じた. お腹の子どもが, その痛みに反応するように, 微かに動いた気がした.
「ごめんね…ごめんね…」私は, そっとお腹を撫でた. 「こんな母親で, ごめんね…」
竜介が去った後, 家の中は, 不気味なほど静かだった. 彼の冷たい言葉が, 私の脳裏から離れない. 「お前は, 元々信用できない人間だ. 」「お前みたいな女が, 私の子供を宿すなど. 」
私の魂は, あの時の記憶を鮮明に思い出していた. あの絶望が, 私の死の序章だったのだ.
私の魂は, 竜介が小春を慰めている姿を, 遠くから見つめていた. 小石の悲痛な叫びだけが, 私に唯一の慰めを与えてくれた.