話 1
離婚協議書を手に法律事務所を出たとき、空からは細かい雨がしとしとと降っていた。
車に乗り込もうとしたその瞬間、夫の池田光洋から電話がかかってきた。
望月雨音は一瞬黙り込んでから、通話ボタンを押した。
電話の向こうで、光洋は冷ややかな口調で言った。『家にいないのか?』
雨音は呆気にとられた。妙な口調だ、まるで自分のことを心配しているみたいに聞こえる。
彼女は伏し目がちに、小さな声で答えた。『もうすぐ帰るわ。あなたは……』
光洋が言葉を遮った。『帰りに腫れ止めの軟膏を買ってこい』
雨音は眉をひそめた。離婚して手放すと決めたはずなのに、どうしても心配する気持ちが込み上げてくる。
『ケガしたの?ひどいの? 心臓は痛くない? すぐ帰って手当するから』
だが次の瞬間、受話器から聞こえてきた声に、彼女の心は冷え切った。
『光洋、やっぱりまだ痛い……もう、ひどいんだから!』
その声は甘ったるく、蜜が滴り落ちそうなほどだった。
光洋の想い人、桜井沙耶だ。
続いて、光洋のそっけない声が聞こえてくる。『さっき加減しなくて、沙耶を傷つけちまった。お前じゃ手当できないから、さっさと薬を買って戻ればいい。 ああ、そうだ。アフターピルもな』
彼女が口を開く間もなく、電話は一方的に切られた。
夜風が冷たい。雨音はツーツーという電子音を聞きながら、指先の感覚がなくなるほどの寒さを感じていた。
妻である自分に、夫の愛人のためのアフターピルを買いに行かせるなんて。
結婚して3年、光洋は一度として雨音に触れようとはしなかった。彼にとっての雨音は、ただ自分の言いなりになる都合のいい“下僕”にすぎない。プライドをかなぐり捨てて自分を愛している女――そう思っているからこそ、こちらの感情など配慮する必要もないのだろう。
でも、彼がご機嫌ならそれでいい。
彼が平穏でいてくれさえすれば、その胸の中で鼓動を刻む、アレックの心臓もまた、健やかでいられるのだから。
雨音は黙って塗り薬とアフターピルを買い、帰路についた。リビングのドアを開けると、そこには光洋の膝の上に抱きかかえられた桜井沙耶の姿があった。キャミソールのネグリジェはだらしなく着崩れ、首筋や胸元には無数のキスマークが散っている。
光洋は丁寧に皮を剥いたブドウを沙耶の口元に運びながら、まるで子供をあやすような甘い声を出した。「まだ怒ってるのか? 次からはそう荒っぽくしないから、いいか? 明日はどこか出かけよう。一日中ずっとそばにいるから。……ん?」
沙耶はいじらしげに彼の胸に体を預け、素直にうなずいてみせる。甘ったるい猫なで声が響く。「嘘ついたら許さないから」
あちらが本来の夫婦であるかのように、二人の間には甘やかな空気が流れていた。この瞬間、本当の妻である雨音のほうが、完全に部外者だった。
薬の入った紙袋を提げたまま、雨音は無言で立ち尽くす。ふと顔を上げた沙耶と視線がぶつかると、彼女の瞳が一瞬だけ暗く濁った。
だが次の瞬間、彼女は怯えたような表情を貼り付ける。
「雨音お姉さん……帰っていらしたんですか?」
沙耶は慌てて光洋の膝から降りようとする素振りを見せ、ひどく恐縮した様子で震えてみせる。「ごめんなさい、私……」
しかし、光洋は長い腕を伸ばして沙耶を強引に抱き戻した。 「気にするな。俺に抱かれるのは嫌か?」
彼は雨音に目もくれず、冷たく言い放つ。「物はテーブルに置いて、さっさと二階へ上がれ。俺と沙耶の邪魔をするな」
――なるほど。“池田夫人”であるはずの自分が自宅にいることさえ、彼らにとっては邪魔らしい。
沙耶の瞳に一瞬勝ち誇るような色が浮かぶのを雨音は見逃さなかった。彼女は自嘲気味に笑うと、淡々と告げる。「ええ、ごゆっくり。でも、移植手術をした心臓に激しい運動はあまり良くないわよ」
光洋は苛立ちを露わにし、冷ややかな視線を向けた。「俺のことに口出しするな」
雨音にとって、そんな拒絶はどうでもよかった。
彼女が愛しているのは、最初から最後まで、彼の胸の中で脈打つ、その心臓の持ち主だけなのだから。
この心臓を守るためだけに、3年間、雨音は光洋のあらゆる要求に応えてきた。
光洋は、雨音が池田家の財産や権力を目当てに嫁いできたと思い込み、彼女の献身を当然の権利として享受してきたのだ。
だが、沙耶が突然帰国したことで、 その均衡は崩れ去った。
光洋はもう、一刻も早く沙耶と結ばれたくて仕方がないらしい。
それなら、望み通りにしてあげよう。
話 2
望月雨音は書類袋から離婚協議書を取り出し、署名欄のページを直接開いて提示した。「サインしてほしい書類があるの」
『離婚しましょう』と言おうとしたが、思い直す。池田光洋という男は極度のメンツ至上主義だ。そうすんなりとサインするとは思えない。
口まで出かかった言葉を飲み込み、雨音は言い換えた。「あなたが前に買った別荘の管理会社から届いたみたい」
光洋は眉をひそめ、ようやく彼女の方を向いたが、その口調は不機嫌そのものだった。 「そんな些細なことで、いちいち俺の手を煩わせるな。 お前が自分でサインできないのか?」
しかし雨音は頑として書類とペンを差し出し、伏し目がちに従順を装って言った。「名義があなただから、私がサインするのはまずいでしょ。それに、私があなたの妻だってことは誰にも知られたくないって、あなたが言ったんじゃない」
光洋は彼女の言葉に少し驚き、無意識に眉間の皺を深くした。
今日の雨音の反応は、あまりにも静かで、聞き分けが良すぎる。
以前も彼の前では殊勝で従順な態度を取っていたが、少なくとも悲しげな表情は見せていたものだ。
だが今は、不気味なほど大人しい。
何かおかしいと感じ、顔をしかめて口を開こうとしたその時、雨音は彼の反応を見て取って、わざと思いやるように言った。「アフターピルは早めに飲んだほうがいいわ。それに副作用で気分が悪くなることもあるから、飲ませた後はちゃんと様子を見てあげてね」
その言葉を聞くと、光洋の眉間の皺は徐々に消え、喉の奥で微かな嘲笑を漏らした。
――なんだ、桜井沙耶が妊娠して“池田の妻”という自分の地位が揺らぐのを心配しているのか?
それなら、この聞き分けの良さも納得だ。
彼は視線を戻すと、いつものように内容を確認もせず、ペンを受け取って走り書きで署名した。
雨音は書類を回収し、光洋が沙耶をお姫様抱っこして二階へ上がっていくのを見送った。リビングで長い間立ち尽くした後、ようやく二階の客間へと向かった。
隣の主寝室からは、いつまでも甘い吐息が漏れ聞こえてくるようだった。一晩中、雨音は安眠できなかった。
あの馴染み深い悪夢が、また彼女にまとわりつく。一面の白い雪原が血で赤く染まり、愛する男が救急車に乗せられていくのをただ見送るしかなかった。カシミアのコートは血でぐっしょりと濡れている。
彼が最後に残した言葉は――『雨音、泣かないで。ちゃんと生きて……』
『アレック!アレック!』
雨音は半狂乱で駆け寄り彼を抱きしめようとしたが、その姿は目の前で薄れ、遠く彼方へ消えていく。
全身が冷え切っていく感覚の中、ふいに耳元で聞き慣れた声が響いた。
「望月雨音、起きろ!」
必死に目を開けると、見慣れた顔が視界に飛び込んでくる。
男は太い眉をきつく寄せ、屈み込んで彼女をじっと観察していた。その瞳の奥には、複雑な感情が渦巻いている。
雨音は口を開いた。「アレック……」
「朝から何の寝言だ?」
冷ややかな声が、彼女の瞳に残っていた呆然とした色を打ち砕く。続いて投げかけられたのは、嫌悪に満ちた憶測だった。
「悪夢でも見たか?」
雨音は完全に意識を取り戻し、目の前にいるのが光洋であって、夢の中のあの人ではないことに気づいた。
彼女が黙り込んでいると、光洋はさらに眉をひそめて手を伸ばし、彼女に触れようとした。だが雨音は何気ないふりでそれを避けた。「ごめんなさい、うるさくしちゃった?」
以前と同じ従順な口調だが、そこにはなぜか他人のような距離感が漂っていた。
光洋は無意識に拳を握りしめた。何かがおかしいという感覚が拭えない。
雨音が礼儀正しく「何か用?」と尋ねるまで、その違和感は続いた。
彼は我に返ると胸の奥の不快感を押し殺し、冷たく、そして当然のような口調で言った。 「沙耶がしばらく池田グループで経験を積みたいと言っている。青山村の再開発プロジェクトを彼女に譲ってくれ。ついでに仕事の流れも教えてやってほしい。彼女の卒業制作だと思ってな」
話 3
望月雨音はシーツを強く握りしめた。指先が急に冷たくなるのを感じる。
大学での専攻は外科だった。指導教官からは、将来世界的なトップ外科医になれると太鼓判を押されていたほどだ。
だがここ数年、彼女は池田光洋の会社で副部長として働く道を選んだ。専門分野を究めることはせず、ただ彼のために全てを整えることに心血を注いできたのだ。
全ては、いま彼の胸の中で脈打つその心臓を守るためだけに。
青山村の開発プロジェクトには、長い時間をかけて尽力してきた。
企画から竣工目前まで1年余り。最初の企画も、その後の全行程も、すべて彼女が徹夜に徹夜を重ねて練り上げたものだ。
村民に罵倒され、暴力を振るわれたこともある。高熱で点滴を受けながら、不眠不休で企画書を作成したこともあった。すべては当時、社長としての地位が危うかった光洋に、実績を作らせてあげるためだった。
青山村のプロジェクトは、彼に捧げるための大切な成果だった。それなのに、光洋は感謝のかけらも見せず、あっさりと他人に譲り渡してしまったのだ。
ずっと黙り込んでいる雨音を見て、光洋は冷ややかに笑った。「なんだ、我慢強いのが取り柄じゃなかったのか? 結婚式の当日ですら俺が現れなくても耐えられたんだ。たかが小さなプロジェクト一つ、譲れないとは言わせないぞ」
雨音は光洋の視線を真っ向から受け止めた。「譲るわ。もちろんよ。 その代わり、一つだけ条件を聞いて」
その言葉に、光洋は唇を引き結んだ。
――法外な要求でも突きつける気か?それとも無理難題を言うつもりか?
「何が欲しい? 金か、家か、株か不動産か。俺のできる範囲なら何でもいい」 光洋は警告を含んだ口調で付け足した。「だが、それ以外のことは考えるなよ」
雨音は黙って伏し目がちになり、ふと込み上げてくるおかしさを感じた。
光洋はずっとケチな男だった。結婚して数年、世間体のためにたまに宝石を贈ってくる以外、何もくれたことはない。
それが今、桜井沙耶のためなら、これほど多くのものを投げ出して選ばせてくれるとは。
以前なら悲しんでいただろう。でも今は現実を悟ったのか、あるいは感覚が麻痺してしまったのか、予想していたほどの痛みはない。
彼女はわずかに口角を上げると、彼の首元に視線を落とした。
「あなたが3年間身につけていた、その玉の守りが欲しいの。いいかしら?」
あのペンダントは、もともとアレックのものだ。
ここを去る以上、当然あれも持って行く。
その言葉を聞いて、光洋は一瞬呆気にとられたあと、ゆっくりと眉をひそめた。
その玉の守りは高価なものではない。3年前に彼が手術を終えた際、祖母である池田のお婆様がつけさせたものだ。品質も平凡な羊脂玉で、細工も粗く、シンプルに名字が刻まれているだけだ。
彼は顎をしゃくって彼女を見つめ、魔が差したように尋ねた。「なぜ、これが欲しい?」
雨音は指先を隠すように握り込み、何でもない風を装った。「ただ……あなたが長く身につけていたものだから。思い出に持っておきたくて」
光洋はわずかに眉を寄せたが、それ以上深くは考えなかった。
雨音はもともと、命がけと言えるほど彼を愛していた。彼が気まぐれに与えた物でさえ、宝物のように大切にしまっていた女だ。
肌身離さず身につけていた玉を欲しがるのも、無理はない。
「会社でプロジェクトの引き継ぎを済ませて、沙耶が完全に主導権を握れたら、この玉はやろう」光洋はネクタイを整えた。
彼女が素直に従ったことに満足したのか、珍しくこんなことを聞いてきた。「もうすぐ結婚3周年の記念日だろう? 何か欲しいものはあるか?」
雨音は口元だけで笑った。「お構いなく。その時になったら考えてみるわ」
光洋は彼女の態度にどこか違和感を覚えたが、それが何かまでは分からなかった。
以前の雨音なら、こうした些細なイベントにも敏感だったはずだ。プレゼントを贈ると言えば、いつも驚き喜んでいたのに、今のこの反応は一体どうしたことだ?