話 1
拳で床を叩く音が、乾いた部屋に響く。その拳の持ち主が戦慄いているのを、樋后宗明は遠い景色のような面持ちで眺めていた。
「このようなことが、赦されて良いものか」
呻くように一人ごちる相手に、宗明は細い息を吐き出した。
「赦されるも何も、そうなってしまったからには、致し方あるまい」
「ですがッ! 口惜しゅうござりまする」
歯が折れてしまいそうなほど食いしばっている相手に、苦い顔を向ける。神坂領主となって在位二年目を迎えようとしていた折、現領主の性癖は荒廃しておる故、弟である成明を領主とせよ、と国主、味多義明よりの通達が届いたのだ。
「ここで拒めば、兄弟の要らざる争いを行わねばならん。領主の地位など、私は惜しくはない。それよりも、醜いお家騒動が起こることのほうが、好まぬ」
「――宗明様」
通達の後、ほとんどの者が弟の成明に鞍替えをした。当人ではなく、家に仕えている者たちであればそれも当然であり、致し方のないことだと認識している宗明と違い、目の前に居る男――羽方隆敏はそれを赦せぬらしい。急な通達と、他の者たちの所業。それに対する憤りをぶつける場所がなく、隆敏は床に拳を打ちつけ、歯を食いしばっている。
「それに、私は隆敏がそうやってくれているだけで、十分だ」
心底、そう思っていた。
「宗明様」
頷いて見せ、朗らかに頬を上げる。
「通達には、この俺が酒色におぼれ、女色に浸っているとある。成明は豪奢な隠居屋敷を用意すると申しておるし、お主と二人で、その通りに動くのも悪くはあるまい」
話 2
「はっ、いや、それは」
「なんだ。女も酒も、嫌いではないだろう」
返答しかねるように目をさまよわせる隆敏を眺めながら、自らの発言に「それも良い案だ」と宗明は胸中で頷いた。
「よし、では領内に通達をせよ」
「何を、で御座いますか」
「見目麗しき娘なら、身分を問わずに買い上げる、と。隠居屋敷に仕える者を雇わねば。下男など、信用の置ける者も集めねばならんな。この屋敷で働いている者はそっくり、成明に引き継がれるのだから」
はっとした隆敏が、平頭する。
「承知、致しました」
頷き、目を窓の外に向ける。ぽかりと浮かんだ月は、欠け始めていた。
――佳枝。
自分の妻であり、国主の末娘であり、成明に想いを寄せる娘の名を、姿を、宗明は月に浮かべた。
***
通達があってからほどなくして、宗明の隠居屋敷は完成した。監視下に置くためということか、領主屋敷より馬で半日、という立地に移動した宗明は隆敏と共に移り住んだ。華美ではなく、かといって質素でもないそこには、見目麗しき娘を中心とした下女がそろい、下男もそれに見合うようなものが揃えられていた。
「なるほど。これなら色に溺れたとの噂も、立ちそうなものだな」
立ち働く者たちの姿を眺めながら、裏庭の山水に床几を置き、茶を飲む宗明の安穏とした口調に隆敏が目を細める。
話 3
「どうだ、隆敏。好みの女が居るなら、手をつけてもかまわぬぞ」
「はっ。……え、あ、いや」
「どうした。居るのか」
「そ、そのような事は――」
ふふ、と口角を上げる宗明と、酒をくらったような顔の隆敏の側に、おとないを告げる声が届いた。
「兄思いの弟が、隠居祝いに来てくれたようだな」
「何かの罠やもしれません」
「はは。心配性だな隆敏は。人払いをして、奥の間へ通してくれ」
迎える部屋に足を向けた宗明に、隆敏は心配そうな顔で頭を下げた。
***
従者を別の部屋に待たせ、成明は一人、宗明と隆敏の待つ部屋へ入ってきた。襖を閉めたとたんに肩の力を抜いた成明は、肩に手を置きほぐすような仕草をしながら胡坐をかいた。
「まったく、何故このようなことになったのか」
「もともと、領主にはおまえのほうが向いていると思っていた。私はかまわんよ」
「堅苦しいのは、苦手なんだって」
二人の様子に、隆敏が苦い顔をする。
「すまんな、隆敏。こんなことになって」
「いえ」