話 1
「神代家のご当主、まあそれはさておき、うちの娘二人は本当に自慢の娘でしてね。御宅のご子息お二人にも、決して引けは取りませんよ。どうかご安心ください。四人が結婚すれば、今回のご判断が正しかったと、必ずや実感していただけるはずです」
どこかで聞いたことのある声が、すぐそばで反響した。
佐倉澄音ははっとして目を見開き、深く息を吸い込んだ。
自分は十八階から落ちて、死んだはずでは?
それなのに、なぜ佐倉家の屋敷にいるのだろう?
リビングの窓は隅々まで磨かれ、埃ひとつ見当たらない。天窓から柔らかな日差しが差し込み、室内にはほのかに花の香りが漂っていた。
澄音は思い出した。
これは……神代家の当主が縁談を持ちかけるため、佐倉家を訪れたあの年だった。
そしてその年、彼女は神代家の次男・神代蓮也を選び、そこから闇に沈む人生、やがて死へと至る運命の幕開けを迎えてしまったのだ。
まさか、本当に生き返ったの?
よかった。天がもう一度やり直すチャンスをくれたんだ。だったら、同じ過ちは絶対に繰り返さない。
自分を傷つけた者たちには、必ず血で償わせる!
神代家はA市で数多くの事業を手がける名門一族だ。
その一族と姻戚関係を結べるなど、どれほどの人間が夢見ることだろう。
なのに神代家が選んだのは、佐倉家だった。
両家の先代当主は戦場で命を預け合った仲であり、佐倉恒一郎が神代重宗の命を救った恩義から、かつて子供同士の縁談が約束されていた。
孫たちがちょうど結婚適齢期を迎えた今、この約束を果たすかどうかはともかく、一度正式に話を持ちかける必要があったのだ。
ここ数年、佐倉家の事業は徐々に傾き始めていた。神代家がいまだに約束を守ってくれるとは思ってもおらず、喜びこそすれ、断る理由などどこにもなかった。
澄音の目に陰が差す。前世では、義妹の佐倉詩織が彼女より先に、神代家の長男・神代真彦を選んだ。
真彦は神代家の広大な事業を受け継ぐ正統な跡取りであり、 彼と結婚すれば将来は安泰、華やかな暮らしが待っていると詩織は信じていた。
しかし……真彦にはすでに想い人がいた。佐倉家の娘と結婚したのも、両親に急かされたからに過ぎなかった。
結婚後も真彦は詩織と距離を取り続け、人前では仲睦まじい夫婦を装いながらも、実際にはそれぞれ別の人生を歩むようになった。
幼い頃からわがままに育った詩織に、他の女に負けるなど耐えられるはずがない。
彼の想い人に何度も危害を加え、ついには真彦を死へと追いやった。 そして詩織自身もまた、難産の末に命を落とすという結末を迎えたのだ。
では澄音自身はどうだったか。
ゆっくりと顔を上げると、ちょうど蓮也と視線がぶつかった。
彼は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに春風のような柔らかな笑みを浮かべた。
物腰は穏やかで、その笑顔もどこか儚げだ。いわゆる和風イケメンというものだ。
しかし澄音は、身の縮む思いがした。
その穏やかな仮面の奥に潜む本性を、彼女ほどよく知る者はいない。
前世の記憶が次々と押し寄せ、澄音の顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。
無意識のうちに、蓮也の視線から逃げるように目を逸らした。
「佐倉さんもそのお考えなら、いっそ娘さんたちに自分で決めさせてはいかがでしょうか?」 重宗は穏やかな笑みを浮かべて言った。「今の時代、親が決める結婚は時代遅れとも言われますが、我々のような立場の者はやはり慎重でなければなりません。よからぬ者に引っかからぬようにせねば。 特に娘は。世の中には若い娘を利用しようとする輩が、少なくありませんからな」
佐倉誠司はにこやかに言った。「まったくその通りです」
澄音は俯き、左手で右手の親指の付け根をぎゅっとつねった。鋭い痛みが、意識をはっきりと現実へ引き戻す。
今回の縁談を、佐倉家が断るはずなどない。自分と詩織のどちらが嫌がろうと、選択権など最初からないも同然だった。
「お父様!」詩織が先に口を開いた。「私は蓮也様を選びます」
澄音は呆然とした。まさか?詩織のこの選択は、前世とはまったく違う……どうして?
すぐそばにいた継母・佐倉美代子が、鋭い目で詩織を睨みつけ、小声で言った。「もう一度よく考えなさい!」
真彦は将来、神代家の事業をすべて継ぐ立場にある。一方で蓮也は研究一筋で、世間には疎い、いわゆる本の虫だ。彼についていったところで、何が得られるというのか。
「私は蓮也様を選びます」詩織は立ち上がり、蓮也に向かってにっこりと微笑んだ。
蓮也も柔らかく微笑み返したが、その視線が澄音をかすめた瞬間、一瞬だけ止まり、すぐに逸らされた。
誠司はわずかに眉を寄せ、明らかに詩織の選択に納得していない様子だったが、日頃から甘やかしているせいか、何も言わなかった。
「澄音、お前は?」と問いかけてきた。
澄音は深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げると、真彦を指差した。
真彦は冷ややかな表情のまま、ちらりと彼女を見ただけで、すぐに視線を外した。
指を下ろした瞬間、隣から――蓮也の――興味深げな視線が、一瞬だけ自分に向けられているのを感じた。
反射的に、背筋がひやりとした。
澄音はごくりと唾を飲み込んだ。
その後どんな話が交わされたのか、ほとんど耳に入ってこなかった。ただぼんやりと時間を過ごしていた。
本当に生き返ったのか、それとも夢を見ているのか、確信が持てなかったからだ。
だが、親指の付け根をつねれば確かな痛みがあり、それでようやく現実だと実感できた。
話がひとしきり終わると、場所をダイニングに移して食事を済ませ、神代家の人々は帰っていった。
蓮也は流し目を送りながら、柔らかな声でそれぞれに別れを告げた。
一方で真彦は佐倉家の姉妹に一度も目を向けることなく、そのまま背を向けて去っていった。
蓮也の視線から解放され、澄音はようやくほっと大きな息をついた。
立ち上がり、そのまま自室へ戻ろうとした。
書斎の前を通りかかったとき、中から話し声が聞こえ、思わず足を止めた。
「あなた、正気なの? どうして蓮也を選ぶの?真彦がいる限り、蓮也が神代家を継ぐことなんて絶対にないのよ」 継母の美代子が詩織を叱りつける声だった。
まさにその通りだ。
澄音と詩織は異母姉妹である。
澄音の母が亡くなって一年も経たないうちに、父は継母を家に迎え入れた。
そして一緒にやって来たのが詩織だった。
つまり、澄音の母がまだ生きていた頃から、父はすでに二股をかけており、美代子との間に詩織をもうけていたのだ。
長い間、澄音は自分の家でありながら、居場所のない思いで暮らしてきた。
「お母様!何もわかってないわ!」詩織の声が響いた。「真彦にはとっくに好きな人がいるのよ。今回佐倉家との縁談を受けたのだって、ご両親に急かされたからに過ぎないの! あんな人、私がどれだけ頑張っても振り向いてくれるはずがない」
「それでも蓮也を選ぶなんて、神代家の次期当主夫人の座を澄音にくれてやるようなものじゃない!」
「ふん、あの子に務まるわけないでしょ? 真彦の心の中では、誰だって好きな人には敵わないのよ。 澄音が嫁いだところで、あの地味でつまらない性格じゃ、真彦に振り向いてもらえるはずがないわ。 でも蓮也は違う。気が利いて、優しくて、一途なのよ。 それに、神代家の跡継ぎが最終的に誰になるかなんて、まだわからないじゃない」
澄音は俯いたまま、自室のドアを開けて中へ入った。
ドアに背を預けながら、ゆっくりと手を上げ、白く傷ひとつない手首を見つめた。
前世なら、ここには痛々しい傷跡があったというのに。
詩織は蓮也を誠実で一途な人だと思っているようだが、それは大きな思い違いだ。
本当の蓮也は、手段を選ばない冷酷な男で、人の心を巧みに操る。
前世で彼が権力の座に上り詰めたのも、澄音を踏みにじって築いたものだった。
そしてこの人生では、何があっても、二度と同じ轍は踏まない!
話 2
翌朝早く。
慣習どおり、澄音と詩織は手土産を持って神代家を訪れた。
食事の席は終始穏やかな雰囲気に包まれ、 何事もなく終わった。
神代家の女主人・神代百合子が、穏やかな笑みを浮かべて言った。「二人とも、本当にいい子ね。私たちに気を遣わなくていいのよ。せっかく顔を合わせたんだから、若い者同士で遊んでおいで」
その場の者たちも同意するように頷き、澄音も席を立った。
ほどなくして、食堂には人の気配がなくなった。
「澄音」 低く落ち着いた声が響いた。真彦がいつの間にかすぐ近くに立ち、無表情のまま言った。「ついてこい」
そう告げると、返事も待たずに背を向けて歩き出した。
澄音は仕方なく、小走りで後を追った。
そのまま書斎へと足を踏み入れる。
真彦は何気なくドアを閉めた。
パタン、と軽い音が響く。
そのかすかな音が、澄音の敏感な神経を刺激した。一瞬で意識は前世へと引き戻される。
あの時も、蓮也は彼女が言うことを聞かない、思い通りにならないと感じるたびに、部屋へ引きずり込み、仮面を剥ぎ取ってはベルトを外し、容赦なく打ちつけたのだ!
ベルトが身体に叩きつけられ、焼けつくような痛みが走る。
澄音は思わず震え、一歩後ろへ下がった。
それに気づいた真彦は、少し間を置いてから距離を取った。「安心しろ。君に危害を加えるつもりはない。ただ、人に聞かれたくない話もある」
澄音ははっと我に返り、片手をぎゅっと握りしめた。「わかっています」
ただ、蓮也に刻み込まれた恐怖から、まだ抜け出せていないだけだった。
気持ちを整え、澄音は目の前の真彦を静かに見つめた。
前世で彼と顔を合わせたのは、わずかに二度。
一度は佐倉家と神代家の婚約が決まった時。もう一度は、交通事故で顔に消えない傷を負い、車椅子の身となっていた時だ。
しかも、その時も遠くから一目見ただけだった。
前世で落ちぶれた彼と比べれば、今の真彦はまるで別人だった。冷酷と評されるに足る威圧感をまとっている。
身長は190センチ近く、髪はオールバック。濃い色のシャツにスラックスという無駄のない装いで、まくり上げた袖の下からは、引き締まった前腕が覗いていた。
「何かご用ですか?」澄音は目線を落としながら言った。
心の奥でふと考える――もしこの体格の男に暴力を振るわれたら、自分はどれだけ耐えられるのだろうかと。
真彦は書斎の机へ歩み寄り、引き出しから一枚の契約書を取り出すと、彼女の前へ無造作に置いた。「先に言っておくが、結婚には同意した。だが、俺たちの間に感情はない」
彼に想い人がいることを、澄音はすでに知っていた。
「君も、やむを得ない事情で了承したのだろう」
真彦は契約書をさらに前へ押し出した。「だから、婚姻関係が続く間はこれを守れ。 人前では仲の良い夫婦を演じる。 私生活では互いに触れないし干渉もしない。 それぞれの生活を尊重する、それだけだ」
澄音は顔を上げ、思わず聞き返した。「本当ですか?」
その反応はあまりにも正直すぎた。
真彦は片眉を上げた。「随分と嬉しそうだな」
「いえ」 澄音は唇を噛み、急いで契約書を手に取って内容を確認した。
内容は公平で、結婚後の基本的な取り決めが記されているだけだった。
異議はなかった。ペンを手に取り署名しようとしたが、その瞬間、手が止まった。
「どうした?」真彦は眉を寄せた。「何か気になる点でもあるのか?」
澄音は顔を上げて彼を見た。「真彦さん、結婚後も私が研究を続けることは、構いませんか?」
真彦はわずかに口元を緩めた。「ああ、言っただろう。表向きさえ整えれば、私生活は各自自由で構わない」
その時、携帯の着信音が鳴り響いた。
真彦が電話に出ると、その口調は一変して柔らかくなった。「心配するな、すぐに人をそちらへ向かわせる。 こちらはもう終わった、すぐに行く。ああ、わかった」
電話越しの彼は、澄音と向き合っている時とはまるで別人だった。
受話器の向こうにいる相手を、深く大切にしているのがひしひしと伝わってくる。
澄音はむしろ安堵し、迷いなく署名を書き終えた。
真彦は通話を終え、署名された契約書を確認すると、小さく頷いた。「助かる」
契約書は二部用意されており、澄音はそのうち一部を受け取った。
用件を済ませると、真彦は契約書をしまい、ドアを開けて澄音を外へと促した。
書斎を出たが、蓮也と詩織の姿は見えなかった。
真彦が言った。「妹さんは蓮也とどこかへ出たようだ。 帰りはどうする?車を用意させようか?」
適度な距離感と礼儀を守り、あくまで取り決めに基づいた配慮。澄音に踏み込むことなく、明確な線引きが感じられた。
澄音の心は次第に落ち着いていった。
前世で蓮也に支配され続けた彼女にとって、互いの領域を侵さないこの関係こそが理想だった。
これなら、佐倉家から距離を置き、安心して研究に没頭できる。
そして将来、真彦と離婚する時も、円満に自由を手に入れられるはずだ。
「いえ、大丈夫です」 澄音は線引きを守り、きっぱりと言った。「自分でタクシーを呼んで帰ります。ありがとうございます」
真彦は軽く頷くと、そのまま立ち去った。
澄音は執事の送迎の申し出も断り、一人で外へ向かった。
庭を歩いていると、植え込みの向こうから声が聞こえてきた。
「詩織、安心してくれ。俺は兄とは違う。兄は誰と結婚しても形だけだ。俺は君と、ちゃんと向き合うつもりだ」
蓮也の声だった。
澄音は思わず足を止め、息を潜めた。
彼女は心の底から蓮也を恐れている。
足がすくみ、その場から動けなくなった。
揺れる木の葉の隙間から、蓮也が優しい眼差しで詩織の首にネックレスをかけている様子がはっきりと見えた。
「つけてあげるよ」
詩織は頬をほんのり赤く染める。「はい」
背を向けているため、蓮也の瞳に潜む陰湿な計算と冷酷さには気づいてなかった。
詩織は今、父の誠司から溺愛されており、将来的に佐倉家を継ぐ可能性は高い。
そうなれば、佐倉家は蓮也の跡継ぎ争いにおいて力になる。
一方で澄音は、 研究室にこもるばかりの、取るに足らない存在に過ぎない。
詩織は首元のネックレスに触れながら、甘やかな笑みを浮かべていた。
前世、希望に胸を膨らませて真彦に嫁いだ。いつか報われると信じていた。 なのに手にしたのは、たった一枚の契約書。
一歩間違えれば、すべてが狂っていく。
難産の末に命を落とすことになった。
だから今回は、最も優しい蓮也を選んだのだ。
結婚式の日には、必ず澄音を見返してやる!
「そろそろ行こうか、送ろう」 蓮也は視線を戻し、甘い笑みを浮かべた。
「はい」 詩織は自ら彼の手を取り、寄り添った。
二人はそのまま別の方向へ歩き去った。
物陰に隠れていた澄音は膝が笑い、近くの石に手をついて必死に体を支えた。
しばらくして呼吸を整えると、ようやく門の方へ歩き出した。
ちょうどその時、蓮也が詩織のために車のドアを開けて乗せるところだった。
車の窓越しに、詩織は勝ち誇ったような目で、抜け殻のような澄音を一瞥し、口元をわずかに上げた。
今頃、もう真彦からあの契約書を受け取っているはずだ。
今世で、澄音が幸せになれることはない――詩織はそう思っていた。
車はそのまま走り去った。
澄音はただほっとしていた。今世ではもう、蓮也とは何の関わりも持たずに済むのだと。
話 3
気づけば、結婚式はもう目の前だった。
婚約してからというもの、詩織と蓮也は人目もはばからず愛情を見せつけ、何度もデートを重ねて――バレンタインも、当然のように一緒に過ごしていた。
それに対して澄音は、書斎で真彦と話し合って以来、互いに連絡を取ることもなく、ひたすら自分の研究に打ち込んでいた。
神代家と佐倉家の話し合いの結果、二組の結婚式は合同で執り行われることに決まった。
結婚式の前日、澄音のもとへ真彦が手配したウェディングドレスと装飾品が届けられた。
彼の言葉通り、人前ではきちんと体裁を整え、澄音にふさわしい格式を保ってくれていた。
「佐倉様、こちらのドレスはフランスのオートクチュールでございまして、神代社長が三ヶ月前から特注でお仕立てになったものです」 届けに来たのは真彦の秘書、小林佐介だった。「アクセサリーも大変貴重なブルーダイヤモンドで、社長自らイタリアへ赴き、百年の歴史を誇る職人にお作りいただいた品だそうです」
ウェディングドレスもネックレスも、目を奪われるほどの輝きを放っていた。
しかし澄音の心は揺れず、穏やかに微笑んで言った。「ありがとうございます」
佐介の説明には多少の誇張もあるのだろうが、真彦の態度は誠実だった。約束を守る限り、彼女を粗末に扱うつもりはない――そんな意思の表れなのだろう。
佐介を見送った澄音が振り返ると、リビングに詩織が立っていた。
「さすがね」 詩織の目に一瞬、悔しさがよぎる。「神代家の次期当主と結婚するって、やっぱり格が違うわね」
澄音は前世での彼女の所業を知っているだけに、これ以上関わりたくなかった。ただ静かに言葉を返す。「あなたと蓮也さんはとても仲がいいんだから、彼があなたを軽く扱うはずがないでしょう。ドレスもアクセサリーも、きっと心を込めて選んでくれたはずよ」
前世では、蓮也はずっと仮面をかぶり続け、結婚から三ヶ月経ってようやく本性を見せた。
結婚式で彼女のために用意されたドレスや装飾品は、今世で真彦が用意したものには及ばないものの、決して見劣りするようなものではない。
だが、その何気ない一言が詩織の神経を逆撫でしたことを、澄音は知らなかった。
蓮也の言い分では、合同式であっても真彦が神代家の後継者である以上、格式の面で彼を上回る演出は避けるべきだということだった。
詩織のために用意されたドレスとアクセサリーも決して粗末ではないが、澄音のものと並べれば、その差は一目瞭然だった。
「ずいぶん得意げね」 詩織は冷ややかに笑い、その目の奥に暗い光を宿す。「そんな顔でいられるのも今だけよ!」
前世では真彦の顔を傷つけ、再起不能にまで追い込んだのだ。今世だって同じようにしてやる!
蓮也が自分を愛してさえいれば、彼を跡継ぎの座へ押し上げることもできる。
澄音は軽く頷くだけで、それ以上は何も言わず、そのまま彼女の横を通り過ぎた。
翌朝四時、神代家から派遣されたヘアメイクチームが到着し、二人は別々の部屋で準備を始めた。
澄音は前夜、研究資料に目を通していたせいで、ほとんど眠れていなかった。
それでもなお、頭の中ではある情報を繰り返し思い巡らせていた。
「あれ?」ヘアメイク担当者がふいに首を傾げた。「この口紅、なんだか変ですね。 傷んでいるのかしら?」
「いえ、そんなことは」アシスタントはどこか歯切れ悪く答える。「もともとこういう仕様みたいです。時間もないですし、別の口紅で仕上げましょう」
ヘアメイク担当者も深く考えず、別の口紅を手に取り、澄音に塗ろうと近づいた。
「少し待ってください」澄音は手を伸ばしてそれを止めた。 「その口紅、見せていただけますか?」
横目でアシスタントをちらりと見ると、その表情に一瞬の動揺が走った。
ヘアメイク担当者は特に気にした様子もなく、そのまま澄音に渡した。「少し変わった口紅ですね。でも、このブランドはこういう仕様なのかもしれません。まだ替えもございますので」
横からアシスタントが口を挟む。「そうですね、こちらは予備として置いておいて、後でお直しにも使えますし」
澄音は目を伏せたままキャップを開け、じっくりと観察し、そっと香りを確かめた。そしてわずかに口元を緩めた。
中にはピーナッツの粉末が混ぜられている。そして澄音はピーナッツアレルギーなのだ。
こんな手口を思いつく人物は、詩織以外にいない。
なにしろ前世では、同じような陰湿なやり方を、もっと数多く使っていたのだから。
澄音は微笑みながら口紅を返し、ヘアメイク担当者を手招きした。
担当者が近づくと、彼女は小声で何かを耳打ちした。
アシスタントには聞こえず、ただ不安そうに様子をうかがうしかなかった。
ヘアメイク担当者の目つきが変わり、静かに頷いた。「承知いたしました」
準備が整うと、ブライズメイドが部屋に入ってきた。
澄音のブライズメイドは夏川鈴蘭ただ一人。幼い頃からの親友だ。
部屋に入るなり、鈴蘭は澄音にウィンクを送り、耳元で囁いた。「頼まれてた件、ちゃんと手配しておいたわよ。 でも、どうして優月があんなことを言うって分かったの? 本当に式に来ると思う?」
藤原優月とは、真彦が心に抱き続ける忘れられない存在だ。前世では、詩織は真彦の心を手に入れようと、優月に執拗な嫌がらせを繰り返していた。
挙句の果てに外部の人間と結託して真彦を罠に嵌め、 彼は顔に大きな傷を負い、両脚の自由を失って車椅子の身となった。
命を懸けて守った優月は、三ヶ月ほど介護した後、もう利用価値がないと見るや、あっさり彼のもとを去ったのだった。
「分からないわ。ただの保険よ」 澄音は静かに微笑んだ。
前世の結婚式で優月が現れ、詩織に恥をかかせたことがあったからだ。
鈴蘭は頷く。「それもそうね。あなたと真彦さんは契約結婚だし、二人の仲を邪魔するつもりはないんでしょうけど、優月がそう考えるとは限らないものね。用心しておくに越したことはないわ」
この件について、澄音は彼女に何も隠していなかった。
前世では、鈴蘭は蓮也の手から彼女を救うために命を落としている。
だからこそ今世では、必ず鈴蘭を守ると決めていた。
やがて新郎たちが迎えに来て、煩雑な式次第は省かれ、一行はそのまま式場へ向かった。
四人はチャペルの扉の前に並ぶ。
先頭に澄音と真彦、その後ろに詩織と蓮也が続く。
内側から扉が開かれた。
割れんばかりの拍手が響き渡る。
真彦が紳士的に腕を差し出し、澄音はその腕に手を添える。二人はバージンロードを歩き始めた。
誰の目にも、美しく釣り合いの取れた理想のカップルに映った。
そのすぐ後ろを詩織が続く。
入場直前、彼女は口紅を塗り直して問題がないことを確かめると、親しげに蓮也の腕に絡みつき、バージンロードを進んだ。
しかし、祭壇の前に立ち、スポットライトを浴びたその瞬間だった。
会場が一瞬で静まり返った。
詩織は胸騒ぎを覚え、異変に気づく。まず唇が、続いて頬が、じわじわと熱を帯びていった。
慌てて蓮也へ顔を向けた。 「蓮也さん、私の顔……何かおかしい?」
「少しアレルギーが出ているようだ」 蓮也は眉を寄せた。「大したことはない。すぐに薬を持ってこさせる」
詩織は言葉を失った。
アレルギー!?
そんなはずがない!
計画通りなら、アレルギーを起こすのは澄音のはずだったのに。
彼女の目に、どす黒い光が宿る。
澄音だわ。あいつが何か細工したに違いない。
あの女、いつからこんなに抜け目なくなったの!?