話 2
松原理春 POV:
体の力が抜け, 私はその場にへたり込んだ. 冷たい大理石の床が, 私の頬に凍えるような感触を与えた. オフィスの窓から差し込む夕焼けの光が, 血の色のように赤く, 私の心を焼き尽くすようだった.
遠くから, 楽しそうな笑い声が聞こえる. それは, 先ほどの真和と心菜, そして彼の部下たちの声だろう. その笑い声が, 私には地獄の業火のように聞こえた. 彼らは, 私の人生を弄び, 嘲笑っているのだ.
かつて, 真和の隣にいることが, 私の唯一の幸せだった. 彼の笑顔, 彼の声, 彼の手の温もり. それら全てが, 私の世界を彩っていた. しかし, 今, それらは全て毒に変わった. 甘い幻影が, 残酷な現実へと変貌したのだ.
私は, ずっと彼が私を愛していると信じていた. 彼の言葉, 彼の行動, 全てが私への愛情だと疑わなかった. しかし, それは全て, 彼が仕組んだ壮大な欺瞞だった. 私は, 彼の手のひらで踊らされていたのだ.
疲れ果てた体を引きずるようにして, 私は自宅へと戻った. 重いドアを開けると, そこには何の光もなかった. 私の心の中も, 同様に真っ暗だった. 体中に鉛を流し込まれたかのような重さが, 私を押し潰しそうになる.
悲しみと怒り, そして巨大な不公平感が, 私の胸の中で渦巻いていた. 私は, なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか, 理解できなかった.
その時, 携帯電話が再び震えた. 通知画面には, 心菜のSNS更新が表示されている. 私は, 反射的に画面をタップした.
そこには, 豪華なレストランで真和と心菜がシャンパンを片手に笑い合う写真が投稿されていた. 「兄さんと秘密のディナー♡」というキャプションと共に, 二人の顔は幸せに輝いていた.
私は, 写真に写る真和の笑顔に凍り付いた. 彼は, 私といる時には見せたことのない, 心から安らいだような表情をしていた. その隣には, 彼に寄り添う心菜の姿. 私の胸に, 嫉妬と裏切りの痛みが突き刺さる.
「理春は, 今頃, 陸のレシピのことで喜んでいるだろうね. 本当に単純な女だ」
心菜のコメント欄には, そう書き込まれていた. 私は, その言葉に激しい怒りを覚えた. 彼女は, 私を愚弄し, 私の純粋な気持ちを嘲笑っているのだ.
「真和さんには, 僕しかいない. 理春なんて, どうでもいいんだから」
別のコメントには, そう書かれていた. 私は, その言葉が真和の心の声であるかのように感じた. 私の心は, 完全に凍り付いた.
私の最後の希望は, 打ち砕かれた. 私は, もはや何も感じない. ただ, 空虚な感覚だけが残った.
私は, この場所から逃げ出したいと強く願った. 全てを捨てて, 誰も知らない場所へ. すぐに, 私は海外渡航のビザ申請について調べ始めた. 数週間あれば, 手配できるだろう.
そして, 脳裏に, もう一つの選択肢がよぎった. 私は震える手で, 「妊娠中絶手術」というキーワードを検索した. 画面に表示される情報が, 私の視界をぼやけさせる.
電話をかけ, 私は淡々と病院に予約を入れた. 妊娠初期で, まだ手術は可能だという. 私の口から, 承諾の言葉が漏れた. 私は, 誰にも知られることなく, この命を終わらせることを決意した.
私は, そっと自分の腹に手を当てた. まだ小さな命. しかし, この命は, 真和と心菜の偽りの愛の中で生まれた. 私は, この命を, 清らかな場所で育んであげたかった. しかし, 私には, その資格も力もなかった.
「ごめんね…この子まで, あの人たちに奪われるなんて…」
私は, 涙声で呟いた. 私の選択は, この子を守るための, 唯一の方法だった.
翌日, 私は病院へ向かった. 簡単な検査の後, 医師は私の顔を見て, 難しい表情をした.
「松原さん, 大変申し訳ありませんが, あなたの体は今, 非常に危険な状態です. 子宮の状態が不安定で, このままでは…」
医師の言葉は, 私の耳にほとんど届かなかった. 私の体は, 拒絶しているのだ. この子を失いたくないと, 私の体は叫んでいるのだ. 私は, どうすればいいのか分からなかった. 巨大な内面の葛藤が, 私を押し潰そうとする.
私は, 病院を後にした. 足元がおぼつかず, まるで夢の中を歩いているようだった. 周囲の喧騒が, 私には遠い幻のように聞こえる.
街頭の大型ビジョンには, 真和の顔が映し出されていた. 彼は, 清廉潔白な政治家として, 国民に笑顔を振りまいている. その横には, 心菜の姿. 二人は, まるで完璧な家族のように, 仲睦まじく寄り添っていた.
「真和先生と, 心菜さん, 本当に素敵なカップルですね! 」
ワイドショーのキャスターが, 興奮気味に叫んだ. 私は, その言葉に吐き気を催した. 彼らは, 私を裏切り, 私の人生を破壊した人間たちだ.
私は, 胃から込み上げてくるものを必死で抑えた. 吐き気が, 私の体を支配している.
私は, 自分という存在が, 真和の世界にも, 心菜の世界にも, どこにも存在しないことを悟った. 私は, ただの邪魔者なのだ. 私の人生は, もう終わったのだ.
話 3
松原理春 POV:
疲れ果てた体を引きずるように, 私は自宅へ戻った. マンションの廊下は, 重々しい沈黙に包まれている. ドアを開けると, リビングに明かりが灯っていた.
「理春, おかえり」
ソファに座っていた真和が, 私に気づいて立ち上がった. 彼は, いつものように優しい笑顔を浮かべ, 私に近づいてくる. 私の心臓は, 警鐘のように激しく鳴り響いた.
「遅かったね. 心配したんだよ」
真和は, 私の疲れた顔を見て, 心配そうに眉を寄せた. 彼は, 私の手に触れようと手を伸ばした. しかし, 私は, 反射的に彼の接触を避けた. 彼の温かい手は, 私には燃えるような毒のように感じられた.
「…どうしてここにいるの? 」
私の声は, 自分が思っていたよりもずっと冷たかった. 私は, 彼に直接問い詰めることにした. もう, 彼の嘘に付き合うのはうんざりだった.
「どうしたんだい, 理春? 僕の家に, 僕がいて, 何かおかしいことでもあるのかい? 」
真和は, 困惑したように私を見つめた. 彼は, まだ私を騙し続けようとしている. その事実に, 私の胃から込み上げてくる吐き気を抑えられなかった.
「心菜は? どこへやったの? 」
私が問い詰めると, 真和の表情が一瞬だけ凍り付いた. 彼は, すぐにいつもの優しい笑顔を取り戻したが, その一瞬の動揺を, 私は見逃さなかった.
「心菜かい? ああ, 彼女は急な出張で, しばらくは僕たちの新しい家で過ごすことになったんだ. 君も知っているだろう, あの新しい別荘のことだ」
彼の言葉に, 私は激しい怒りを覚えた. 私と彼の新しい家. それは, 私たちが一緒に選び, 夢を語り合った場所だ. その場所に, 心菜を住まわせる? 私の聖域が, 汚された.
「ここは, 私たち二人の家だったでしょう? どうして, 心菜がここに住むのよ! 」
私の声は, 感情に任せて震えていた. かつて, この家で, 私たちは未来を語り合った. 壁の色, 家具の配置, 全てを一緒に選んだ. あの頃の幸せな記憶が, 今となっては, 私を深く深く傷つける毒となった.
私の聖域が, 侵された. もう, この家に, 私の居場所はなかった. 真和は, 私の聖域を, 私の心を, まるで取るに足らないもののように扱ったのだ.
「理春, どうしたんだい? 心菜が羨ましいのかい? 」
真和は, 不機嫌そうに眉をひそめた. 彼の言葉に, 私は侮辱されたと感じた. 彼が, 私を嫉妬深い女だと決めつけていることに, 心が冷え切った.
「私が, 心菜を羨ましいですって? ふざけないで! 」
私は, 怒りに任せて叫んだ. しかし, 私の声は, すぐに力なく消えていった. 彼の心に, 私の言葉は届かない. その事実が, 私を深く絶望させた.
私の心は, 完全に冷え切ってしまった. 彼とこれ以上, 何を話しても無駄だ. 私は, 争う気力さえ失っていた. 私の感情は, 彼にとって何の意味も持たないのだ.
夜が深まり, 真和は私に近づいてきた. 彼は, 私の体に手を伸ばし, 優しく抱きしめようとした. しかし, 私は, 彼の接触を避けるように体をずらした. 彼の抱擁は, 私には偽りの檻のように感じられた.
その時, 真和の携帯電話が鳴り響いた. 画面には, 心菜の名前が表示されていた. 彼は, 一瞬だけ私を見て, それから電話に出るために部屋を飛び出していった. 彼は, 心菜のもとへ向かうのだ. 私の心は, 深い絶望に沈んだ.
真和は, 私を抱きしめたまま, 私の唇にキスをした. そのキスは, 私には冷たく, そして偽りに満ちていた. 彼の唇が離れると, 私は, その場所に灼熱の痛みを覚えた.
私は, 闇の中で一人目覚めた. 真和は, 私の隣にはいなかった. 彼は, 心菜のもとへ行ったのだ. 孤独が, 私の全身を蝕んでいく.
彼のキスが, 今も私の唇に焼き付いている. それは, 私を深く傷つける毒のキスだった. 私は, 彼にとって, ただの道具でしかない. その事実が, 私の心を深く深くえぐった.
私は, ベッドから起き上がった. もう, この家にはいられない. 私は, 荷物をまとめ始めた. 私の持ち物だけを, 慎重にバッグに詰めていく. 彼との思い出の品は, 全てこの家に置いていく.
私は, 夜が明けるのを待った. 時間は, 私にとって永遠のように感じられた. 真和は, 一晩中帰ってこなかった. 彼の行動が, 私の決意をさらに固めた.
夜が明け, 私は, 書斎へと向かった. 真和の書斎は, いつも施錠されていた. 私は, 彼の机の引き出しを開けた. そこには, 小さな金庫が隠されていた. 私は, 震える手で金庫のダイヤルを回した.
彼の結婚記念日. その数字を打ち込むと, 金庫は音を立てて開いた. 開いた金庫の中には, 私を深く傷つける, 真実の証拠が隠されていた. 皮肉なことに, 私たち二人の幸せの象徴である結婚記念日が, 私を深く傷つける真実の扉を開いたのだ. 私は, 心臓が握り潰されるような痛みに襲われた.