2

斉藤晴子 POV:

夜中に, 激しい悪夢にうなされて目を覚ました. 夢の中では, 私の両親が血走った目で私を指差していた. 「お前は富原光輝に騙されている! 愚かな娘だ! もう斉藤家には二度と顔を見せるな! 」母の呪いの言葉が, 私の耳朶を叩く.

その隣では, 光輝が優しい笑顔で私を抱きしめている. 「晴子, 俺は君だけを愛している. どんなことがあっても, 君を裏切ることはない. 」彼の甘い声が, 私の心に深く染み渡る. だが, 次の瞬間, 彼の腕がずるりと滑り落ち, 私は奈落の底へと突き落とされた.

五年前, 私は彼の言葉を信じた. 裕福な家庭と, 大手法律事務所の跡取り息子である大泉誠との婚約を破棄してまで, 光輝を選んだ. 両親の猛反対を押し切り, 父は心臓を患い, 母は私に「後悔するがいい」と罵った. それでも私は, 光輝の夢を信じ, 彼の隣で彼のNPOを支えることに, 自分の人生の全てを捧げると決めた.

私は全てを捨てて, 彼との愛のためにこの街に来た. 彼が私を心から愛してくれるなら, それだけでよかった. 両親の呪いの言葉も, 世間の冷たい視線も, 全て乗り越えられると信じた.

五年間の結婚生活 (だと思っていたもの) は, 周りから見れば完璧だった. 光輝の友人たちは, 彼が私を溺愛していると冗談交じりに言っていた. 「光輝は晴子の言うことしか聞かない. まるで手のひらで転がされているみたいだ. 」

彼も, 常に私を大切にしてくれた. 私が何気なく「星が好き」と言った時, 彼は驚くべきプレゼントを用意してくれた. 私だけの星だと言って, 宇宙の星に私の名前を付けてくれたのだ. 専用の望遠鏡まで用意してくれて, 毎晩, 二人でその星を眺めた. あの輝きは, 私の愛の証だと信じていた.

私は, いつかきっと両輝親も私の選択を認めてくれると, そう信じ続けた. 私の幸福な結婚生活が, 彼らへの最高の証明になるはずだと. しかし, 区役所のあの書類は, 私の全ての努力と希望を, たった二文字で否定した. 私の五年間は, 全く無意味だったのだ.

夢は再び, 悪夢へと変わる. 平田光が, 私の目の前に立っていた. 「あなたは偽物よ. 富原光輝の妻は私よ. 」彼女の冷たい声が, 私の耳元で響く. 私は必死に首を振った. 「違う! 私が富原晴子よ! 」

だが, 彼女は嘲笑うだけだ. そして, 光輝が彼女の後ろから現れた. 彼の目は, 私を見下ろしている. 冷たく, 無関心な瞳. 私は彼に手を伸ばした. 「光輝さん! 私はあなたの妻でしょう! ? 」

彼は何も言わず, 平田光の手を取り, 私に背を向けて去っていく. 私は絶叫した.

「晴子, どうした? また悪い夢でも見たのか? 」

光輝の声で目が覚めた. 彼は私の隣に横たわり, 心配そうに私の顔を覗き込んでいる. 夢と現実が交錯し, 一瞬, 彼が誰なのか分からなくなった.

「私…私は誰なんですか? 」私の口から, 絞り出すような声が出た.

彼は私の髪を優しく撫でた. 一瞬, 彼の動きが止まったように感じたが, すぐにいつもの優しい表情に戻る. 「何を言っているんだ. 君は俺の妻, 富原晴子だろう? 何をそんなに怯えているんだ? 」

彼の言葉は, 嘘だ. 昨日, 区役所で, 私は「斉藤晴子」だと言われた. そして, 彼の妻は「平田光」だと言われた. 彼の言葉の一つ一つが, 私の心を切り裂く.

私は, もう一度, あの書類のことを切り出そうとした. だが, その瞬間, 彼の携帯が鳴り響いた. 画面には「ひかり」という文字. 平田光だった.

彼は私を軽く叩き, 作り笑いを浮かべた. 「ほら, 仕事だ. また後でな. 書類のことは心配するな, 必ず解決する. 」そう言って, 彼は急いで部屋を出て行った. 電話の向こうの彼女に, 彼は焦ったように「ああ, すぐに行く」と答えている.

彼の背中を見送りながら, 私の心は鉛のように重くなった. 彼は, 私を欺き続けている.

その時, 私の携帯が鳴った. 長年ボランティアとして活動してきた, 児童養護施設の施設長からだった.

「斉藤さん, 実は富原さんが支援している松田蒼くんのことなんですが…」施設長の声は, 少し戸惑っているようだった. 「最近, 蒼くんを引き取りたいというご夫婦が現れたんです. 富原さんからも, その…少し話は聞いているのですが…」

私の頭の中で, 光輝と弁護士の会話がフラッシュバックする. 「蒼は, あくまでNPOが支援している障害を持つ少年だ. 平田が海外赴任中, 私が預かる形になっているが, 戸籍上は私の養子という建前を崩してはならない. 」

私はすぐに施設へ向かった. 一刻も早く, 真相を知る必要があった. 施設のエントランスに着くと, 奥から光輝の声が聞こえてきた. 私が声をかけようとした, その時だった.

「光輝さん! 」

奥から現れたのは, あの平田光だった. 彼女は, 光輝に抱きつくように駆け寄り, 肩に顔をうずめて泣き出した. 「お願い, 蒼を渡さないで! あの子は, あの子だけは…! 」

光輝は, 驚いた表情を浮かべたが, すぐに冷静な顔に戻り, 平田光を優しく抱きしめた. 私の目の前で繰り広げられる光景が, 私の心を再び粉々に打ち砕いた.

3

斉藤晴子 POV:

私の目の前で, 平田光は光輝の腕の中で泣きじゃくっていた. 海外にいるはずの彼女が, なぜここにいるのか. 混乱と絶望の中で, 私の思考は停止した.

「蒼は, あの子は誰にも渡したくないの! 他の夫婦にパパとママと呼ばせるなんて, 私には耐えられない! 」平田光は, 光輝の胸にしがみつきながら, そう訴えた.

光輝は彼女の背中を優しく撫でた. 「分かっている. 分かっているよ, ひかり. だから大丈夫だ. 蒼は俺たちの子供だ. 俺が必ず, 戸籍に登録する. 富原家の人間として, 俺が守る. 」

彼の言葉一つ一つが, 私の心臓をえぐり取っていく. 富原家の人間. 俺たちの子供. 私が7年間, 愛し, 尽くしてきた光輝が, 私ではない女と, 私ではない家族の物語を紡いでいた.

彼女は泣き止み, 顔を上げた. その目は, まだ濡れているが, 確かな勝利の光を宿している. 「そうよ. 私たちが蒼の本当の親だもの. それに, 私と光輝さんは, ちゃんと法律上も夫婦よね? 」

光輝は眉をひそめた. 「ひかり, 今はそういう話は…」

「事実でしょう? 」平田光は, 得意げに私のほうを一瞥した. その視線は, 私を嘲笑っている.

光輝はため息をついた. 「ああ, そうだ. だが, それは俺の事業のために, 一時的に君との籍を入れただけだ. 君が海外にいる間のことだ. 晴子を巻き込みたくなかった. 」彼は, 私に聞こえるように, わざと大きな声で言った. 私のための言い訳. 私のための嘘.

「とにかく, 晴子の心をこれ以上傷つけるような真似はするな. 彼女は俺の, 大切な…」光輝はそこで言葉を切った. 大切な, 何だというのだろうか. 便利な道具? 愚かな女?

平田光は不満そうに口をとがらせたが, すぐに笑顔に戻った. 「分かってるわ. でも, 斉藤晴子さんには, ちゃんと光輝さんのサポート役でいてもらわないとね. 蒼のためにも. 」彼女の言葉は, 私への明確な宣戦布告だった.

光輝は平田光の頭を軽く叩き, 言葉を和らげた. 「まあ, そういうことだ. それに, うちの母さんも, そろそろひかりに会いたがっていた. 家族の繋がりは大切だからな. 」

光輝の母…その言葉が, 私の全身を凍り付かせた. 光輝の母は, 私のことを決して認めなかった. 私が斉藤家の財産を持たずに嫁いできたことを, 事あるごとに嘲笑った. 結婚以来, 一度も私を温かく迎えたことはない. それが, 平田光には家族の繋がりを求めているというのか.

私は, 光輝の母の冷たい視線と, ねちっこい嫌味を思い出した. 彼女はいつも, 私を「高嶺の花ではいられない, ただの女」と見下していた. 光輝の母は, 最初から平田光を受け入れていたのだ. 私は, 最初から彼の家族にとって, 何の価値もなかったのだと, ようやく理解した.

私の足は, まるで鉛のように重かった. 光輝と平田光は, 私を置いて二階へ上がっていく. 彼らの後ろを, 私は震える足で追いかける.

二階の廊下で, 光輝は人気がないことを確認すると, 平田光の腰を引き寄せた. 彼の顔には, 普段私に見せることのないような, 下卑た笑みが浮かんでいた.

「まったく, こんな場所でまで泣き言を言うなよ. せっかく会えたんだ. もっと俺を喜ばせてくれ. 」光輝の声は, 私に聞こえないように抑えられているが, その内容ははっきりと耳に届いた.

平田光は甘えた声を出す. 「もう, 光輝さんったら. でも, 早く籍を整理してほしいわ. だって, 私こそがあなたの本当の妻なんだから. 」

光輝は低い声で笑った. 「ああ, 分かっている. だから, 今は焦るな. もう少しだ. 晴子を完全に手懐けてから, 全てを俺のものにする. 」

その言葉を聞いた瞬間, 私の全身の血液が逆流した. 彼は, 私を「手懐ける」と言った. 私は, 彼にとって, 飼い慣らされたペットでしかなかったのだ.

彼らは部屋の中へと消えていった. 部屋のドアが閉まる音の直後, 中から, 平田光の嬌声と, 光輝の荒い息遣いが聞こえてくる. 私は, その場で膝から崩れ落ちた. 吐き気が込み上げてくる.

「ねえ, 光輝さん…あいつ, 本当に『締まり』が悪いの? 」平田光の, 意地の悪い声が聞こえた.

「フン. あんな女, 真面目ぶってばかりで, 全然面白くねえんだよ. お前の方が, よっぽど俺を満足させてくれる. 」光輝の声が, 私の耳元で響く.

私の指の爪が, 手のひらに食い込んだ. 猛烈な痛みが走るが, それすらも彼らの声にかき消されてしまう. 私の心は, 完全に壊れてしまった. 彼が, こんなにも下劣で, 獣じみた男だったなんて.

私は, もうこれ以上は耐えられなかった. 震える体でゆっくりと立ち上がり, 彼らの部屋から遠ざかる. 階下へと続く階段を降りる途中で, 施設長が心配そうな顔で私に声をかけた.

「斉藤さん, 松田蒼くんのことですが…どうされますか? やはり, お引き取りになりますか? 」

私は言葉を発することができなかった. ただ, 首を横に振る. 「いえ…結構です. 」

施設長は私の顔をじっと見た. 私が蒼の資料を求めた時, 彼女は少し驚いた顔をした. 資料を開くと, 蒼の誕生日が目に飛び込んできた. それは, 私が光輝にプロポーズされた, まさにその時期と重なっていた.

私は, 震える手で資料を閉じた. 光輝が私に結婚を申し込んだ時, 平田光は既に彼の子を宿していたのだ. 私は, 彼の嘘と欺瞞の上で, 七年間も踊らされていた.

怒りと悔恨で, 全身が震える. 私は施設長に資料を返し, 冷たい声で告げた. 「この件は, もう私には関係ありません. 養子縁組の手続きを進めてください. 」

施設長は, 私のただならぬ雰囲気を察したのか, 何も言わずにただ頷いた.

その時, 突然, 部屋のドアが勢いよく開いた. 光輝が, 血相を変えて飛び込んできた.

「晴子! 一体何を勝手なことをしているんだ! 蒼を引き取らないとは, どういうことだ! 」光輝は, 震える声で私を叱責した.

私は冷たい目で彼を見つめ返した. 「勝手? あなたが勝手に決めたことでしょう? 私の夫が, 私の知らない間に, 別の女との間に子供を作り, その子供を私に押し付けようとした…その方がよっぽど勝手なのでは? 」

光輝は言葉を失った. その背後から, 平田光が姿を現し, 私に笑顔で挨拶をした. 「あら, 斉藤晴子さん. 蒼くんのこと, 決めてくださったのね. ありがとう. 」

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七年間の偽り婚と復讐の誓い

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