話 1
盛夏。東都市区役所の区役所前は賑わいを見せていた。
伊藤麻衣は人混みの中央に立ち、滑らかな額にうっすらと汗を浮かべていた。
その小さな顔は色白で美しく、長いまつ毛に整った目鼻立ちで、思わず目を奪われるほどの美貌だった。 涼しげで浮世離れした雰囲気を纏っており、周囲の熱気とはまるで別次元にいるかのようだ。
彼女は山を下りてきた時のまま、洗いざらしのシャツと色落ちしたジーンズ姿だった。
深い山奥で20年間暮らし、まさか下山して最初にすることが結婚になるとは思ってもみなかった。
麻衣の脳裏に亡き師匠の最期の言葉が蘇る。彼女は時計もスマホも持っていないため、空を見上げて時間を推測するしかなかった。
そろそろ15時頃だろうか。麻衣は顔色を変えずに、ほんの少し眉をひそめた。
もう15時だというのに、結婚相手はまだ現れない。
そう考えていると、突然クラクションの音が聞こえ、目の前の曲がった木のそばに黒のマイバッハがゆっくりと停まった。
まず助手席のドアが開き、スーツ姿の男が素早く降りてくると、左後方に回り込んで丁寧にドアを開けた。
さすがの麻衣も、後部座席から降りてきた男を見て思わず眉を上げた。
鋭い目鼻立ちに、シャープなフェイスライン。長身で、肩幅が広く引き締まった腰回り。 スタイルも顔面も、間違いなくトップクラスだった。
薄い唇から、冷たい声が紡がれる。「伊藤麻衣か?」
麻衣は頷き、彼を見据えて答えた。「はい」
「行くぞ」
男はそう言い捨てると、大股でロビーの方へ歩き出した。後ろの麻衣には一切構う様子がない。
麻衣は一瞬呆気に取られ、思わず声を上げた。「ちょっと待ってください!」
男は振り返り、端正な眉をひそめて無言の警告を放った。「伊藤さん。俺の時間は10分しかない。過ぎたら付き合わない」
麻衣は眉をひきつらせた。結婚するだけなのに、なんでこんなに生き急いでいるんだ?
亡き師匠から、昔の恩を返すために必ず高橋家に嫁ぐよう言い含められていなければ、こんな変人は見捨ててとっくに帰っているところだ。
麻衣の返事を待たず、男はそのままロビーに入っていった。
麻衣は毎日、山で何十キロもある石を括り付けて修行していた。だから、相手が長身で足が長く歩くのが速くても、後ろから余裕で追いつくことができた。
その後は一連の事務手続きが続いた。婚姻届への記入と署名捺印、証人欄への記名、必要書類の提出。
10分後。
麻衣と高橋宗一郎は、前後して区役所から出てきた。
マイバッハに乗り込む直前、宗一郎は身を翻して彼女にカードを差し出した。「このカードはパスワードなしだ。好きに使え。新居は壑園16番地、暗証番号は8888だ」
そう言い残すと、振り返りもせずに車に乗り込み、麻衣を残して排気ガスと共に去っていった。
麻衣は手の中のカードを見つめた。山での生活が長すぎた彼女は、たまに下山しても托鉢か野菜や果物を買うくらいで、基本は現金払い。カードを使う機会などめったになかった。
彼女はカードを無造作にリュックに放り込み、反対方向へ歩き出した。
***
伊藤家。
家族が顔を揃え、ダイニングテーブルにはバースデーケーキが置かれている。全員が中央の少女を囲み、ハッピーバースデーを歌っていた。
伊藤琴音が微笑みながら言った。「遥香、早く願い事を!」
伊藤遥香は両手で包み込むように手を合わせ、とても幸せそうに笑った。
伊藤誠司は愛おしそうに遥香の頭を撫で、優しく尋ねた。「遥香、今年はどんなお願いをしたんだ?」
遥香は瞬きをして、拗ねたように言った。「お父さん、口に出したら叶わなくなっちゃうよ!」
今日は本来、外で生き別れていた伊藤家の本当のお嬢様を迎えに行く日だった。だが、伊藤家の誰一人として、そんな深い山奥まで車を走らせようとする者はおらず、取り違えられたとはいえ20年間手塩にかけて育てられた遥香の誕生日を祝うために、全員が家に残っていたのである。
伊藤翔太が、ある高級ブランドの包装が施されたプレゼントを差し出した。「これ、前からずっと欲しがってたバッグだろ。M国で特注で作らせたんだ」
遥香は驚きと喜びに満ちた顔で、すぐに翔太に抱きつき甘えた声を出した。「お兄ちゃんが一番優しいって分かってた!」
翔太はとろけるような甘い表情を浮かべた。「俺はお前の兄貴だからな。お前に優しくしないで誰に優しくするんだ」
遥香は腕を解くと、眉間に少し寂しげな色を浮かべて言った。「でも、これからは私だけのお兄ちゃんじゃなくなっちゃうね」
翔太は顔色を変え、その端正な顔に冷たい怒りを滲ませた。
一方、その頃。
邸宅の外では、麻衣が入り口の執事と交渉していた。「私はこの家の娘です。中に声をかけて、扉を開けてもらえませんか」
執事は彼女を忌々しそうに見下し、まるで汚い物でも見るかのように大きく後ろへ退いて距離を取った。そして、面倒くさそうに吐き捨てた。「旦那様も奥様も若様も、中でお嬢様の誕生日を祝っているところだ。用があるならまた明日来なさい。そんな縁起の悪い恰好で、お嬢様の機嫌を損ねてはたまらない!」
執事の後半の言葉は声が小さかったが、麻衣の耳にははっきりと届いていた。
彼女の瞳の色が冷たくなり、執事を鋭く睨みつけた。
執事はさらに文句を言ってやろうとしたが、その眼光に思わず怯み、暴言が喉の奥に引っかかった。
麻衣は彼を無視して周囲を見渡し、2歩前に進むと、手を伸ばして警報器のボタンを押した。
邸宅内に一瞬にしてサイレンが鳴り響き、わずかな時間で家の中にいた全員が庭に飛び出してきた。
修平が怒鳴り声を上げた。「何事だ!」
執事が慌てて事情を説明すると、庭にいる者たちの視線がようやく門の外に立つ麻衣へと向けられた。
琴音は唇を震わせ、前に出ようとしたが、その腕を遥香に掴まれた。
修平と翔太は硬い表情で立ち尽くし、彼らの間に立つ少女の目には、はっきりとした牽制と軽蔑の色が浮かんでいた。
麻衣はその様子を静かに見つめた。この家族の誰一人として自分を歓迎していないことは、火を見るよりも明らかだった。
だが彼女はそんなことを気にも留めず、無頓着に自分の荷物を持ち上げて中へ入り、一人一人に挨拶して回った。
修平は「あぁ」とだけ返し、背を向けて家の中に戻っていった。
他の家族もそれに続いて中へ入っていく。
麻衣が家に入ると、まずテーブルの上のケーキと壁の飾り付けが目に入った。彼女の口元に思わず冷笑が浮かぶ。
20年前、幼かった翔太がネームプレートを掛け間違えたせいで、遥香が伊藤家に引き取られ、自分は養父母に捨てられ、雪と氷の世界に置き去りにされた。
偶然下山した師匠に拾われていなければ、彼女は間違いなくあの冬に凍死していただろう。
伊藤家は1ヶ月も前には彼女を見つけ出し、真相を知っていたはずなのに、ずっと迎えに来ようとはしなかった。
高橋家の大旦那様から電話があり、伊藤家との縁談を持ちかけられ、さらに麻衣を嫁によこすよう指名されて、ようやく伊藤家は折れ、今日彼女を迎えに来る約束をしたのだ。
彼女は山で午前中ずっと待っていたが、結局伊藤家の人間は誰も来なかった。
なるほど、彼らの愛する娘の誕生日を祝っていたというわけだ。
麻衣は目を伏せた。きっと伊藤家の両親は、今日が自分たちの実の娘の誕生日でもあることなど、とうの昔に忘れているのだろう。
「今日は用事が長引いて、迎えに行けなかった」
この見知らぬ娘に対して、父親の修平はこれといった親愛の情を抱いていなかった。彼は上座に座ると、単刀直入に切り出した。「お前を呼び戻したのは、高橋家との婚約について話すためだ」
高橋家の名前が出た途端、それまで黙りこくっていた家族たちが一斉に口を開いた。
琴音は最初こそ建前でいくつか気遣うような言葉をかけたが、麻衣が何も答えないのを見るとすぐに愛想を尽かした。そこからは宗一郎を褒めちぎり、さらに遥香を持ち上げ、暗に麻衣は宗一郎には釣り合わず、遥香にしかふさわしくないと匂わせてきた。
一通り話し終えると、琴音は遠回しでありながらも有無を言わさぬ口調で告げた。「妹はずっと宗一郎くんのことが好きなの。この縁談は彼女に譲ってあげなさい」
修平が続けた。「お前にとって不公平なのは分かっている。だが伊藤家としても補償はするつもりだ。お前はまともな教育を受けていないと聞いた。ちゃんとした学校を探してやろう」
翔太は鼻で笑った。「山から下りてきたばかりの無学な田舎もんが、遥香と張り合おうなんて身の程知らずもいいとこだ。宗一郎がお前なんかに目もくれるかよ」
遥香は得意げな目をしながら、口先では恥ずかしそうに言った。「お兄ちゃん、そんな風に言わないで。宗一郎お兄ちゃんはそんな風に人を見下すような人じゃないわ。 それに、お姉ちゃんはただ学校に行ってないだけだもん。これからは私が教えてあげる!」
「全部、言い終わりましたか?」
麻衣は視線を上げ、何気ない様子で爆弾を投下した。
「私、もう高橋宗一郎と籍を入れましたけど」
話 2
伊藤修平は自分の耳を疑い何度も確認した後、怒りを爆発させ、机を強く叩いた。「高橋若様と籍を入れただと?結婚という大事を、お前の勝手なふざけた真似で決めていいと思っているのか!」
伊藤遥香は口を開けたまま、「籍を入れた」という言葉を聞いてボロボロと涙を流し始めた。それを見た中村琴音と伊藤翔太は、左右から彼女をなだめた。
伊藤麻衣はぐるりと視線を巡らせ、背筋を伸ばし、全く動じることなく言った。「高橋太郎さんが3日前に自ら山へ来て師匠に縁談を持ちかけたのよ。文句があるなら高橋家に言えばいいじゃない。私に言ってどうするの」
琴音は自分の胸に飛び込んできた愛する遥香が悲しそうに泣くのを見て、麻衣への不満を募らせ、冷ややかな視線を向けた。「遥香の好きな人をわざと奪おうとしたんでしょ!」
翔太はイライラして言った。「母さん、こんな田舎もんに何言ってんだよ。 遥香が俺たちに何年も可愛がられてきたのが気に入らなくて、嫉妬してわざと遥香の邪魔をしてるだけだろ!」
遥香はしゃくりあげながら言った。「お父さん、お母さん、そんな……そんなこと言わないで。お姉ちゃんも宗一郎お兄ちゃんのことが好きなら、私……私、譲ってもいいから……うぅ……」
琴音は胸を痛め、手を伸ばして彼女の涙を拭った。「遥香、何馬鹿なこと言ってるの。 この縁談は元々あなたのものなのよ。安心して、お母さんが絶対に取り返してあげるから」
彼女は顔を向け、その瞳の優しさは一瞬で冷たさと嫌悪に変わった。「私たちを恨んでいるのは分かるわ。でも、だからといって妹の縁談を奪っていい理由にはならない。麻衣、あなたも私の娘よ。お母さんがそのうち別のいい縁談を見つけてあげるから、高橋宗一郎のことは遥香に返しなさい!」
麻衣は尋ねた。「どうやって返すの?」
修平はきっぱりと言い放った。「離婚だ!明日すぐに離婚してこい!高橋大旦那様のところへは俺が話しに行く。お前は高橋若様と区役所に行って離婚手続きをするだけでいい」
麻衣は頷き、ゆっくりと言った。「遥香がそこまで宗一郎のことを好きなら、私は……」
彼女がわざと間を置くと、伊藤家の面々はほっと息をつき、麻衣がとうとう折れたのだと思った。
遥香は期待の眼差しで彼女を見つめた。
麻衣は口角を上げて笑った。「なおさら離婚できないわね」
修平は怒り狂い、周囲を見渡した。「なんだその態度は!鞭を持ってこい!」
執事がすぐに籐の鞭を差し出した。
遥香はわざとらしく前に出て止めようとしたが、口から出たのは火に油を注ぐ言葉だった。「お父さん、お姉ちゃんはわざとお父さんに逆らっているわけじゃないと思う。山の中で何年も誰にも教えられずに育ったから、どうしても少し野蛮になっちゃうのよ。 それに何年も一緒にいなかったんだから、よそよそしくなるのも当然だわ」
この言葉は間違いなく修平の心に刺さった。そうだ、山から来た見ず知らずの娘が、自分のそばで20年も手塩にかけて育てた娘より可愛いわけがない!
遥香は賢く物分かりが良く、親孝行だ。それに引き換えこの麻衣は、帰ってきて早々親に逆らう。ここでガツンと言って聞かせなければ、この先どうなるか分かったものではない。
修平は怒り心頭で籐の鞭を振り上げ、脅しつけた。「こいつには躾が必要だ!この20年間誰も教えてくれなかったんなら、父親である俺がルールというものをしっかり教えてやる!二度と親を舐めた口がきけないようにしてやる!」
そう言いながら、彼は鞭を振り下ろそうとした。
麻衣は流し目で、遥香の瞳の奥にある隠しきれない優越感と嘲笑をはっきりと捉えた。彼女は口元を歪めた。さっきから我慢していたが、本当に自分がただのサンドバッグだとでも思っているのだろうか?
彼女は遥香を自分の前に引き寄せた。修平の振り下ろした鞭は速く容赦のないもので、パァンという鋭い音が響き、遥香の顔に生々しい鞭の跡が刻まれた。その可愛らしい小さな顔は、瞬く間に赤く腫れ上がった。
「キャアーッ!」遥香は悲鳴を上げ、リビングにいる全員の顔色が同時に変わった。
話 3
「遥香!」伊藤修平はまさか鞭が遥香に当たるとは思っておらず、鞭を放り投げて慌てて彼女を抱き留め、顔の傷を見て心を痛め、目を血走らせて伊藤麻衣を睨みつけた。
「伊藤麻衣!妹に向かってなんて冷酷な真似をするんだ、盾にするなんて!」
麻衣は目を伏せて冷ややかに彼を見下ろした。「鞭を振るったのはそっちだろ、私には関係ない」
「お前を叩こうとしたんだ、お前がそんなに性悪じゃなきゃ遥香が怪我するわけないだろう!」
修平は怒りのあまり口走り、その言葉はナイフのように麻衣の心に突き刺さった。
麻衣は口角を引き上げた。「産んだだけで育ててもないのに、私に説教する資格があるわけ?」
修平は狂わんばかりに怒り狂った。「とんでもないことを言いやがる!外にひざまずいてろ、俺の許しが出るまでこの家の敷居を跨ぐことは許さん!」
麻衣は言い争うのも面倒になり、執事の方を向いて尋ねた。「私の部屋はどこ?」
1日歩き通しで全身が疲れているのに、跪けだなんて? 修平にそんなことを命じる資格はない。
執事は状況が飲み込めず、無意識に上の階を指差した。
麻衣は頷いた。「ありがとう」
彼女が荷物を持って2階へ向かい、まるで家族を眼中に置いていない様子を見て、修平は怒りで全身を震わせた。「伊藤麻衣!俺の言葉が聞こえなかったのか? そこで止まれ!」
麻衣は振り返りもせずに手を振った。「跪きたいなら勝手にして、私は暇じゃないから」
そう言う間に彼女の姿は階段の角に消え、後にはめちゃくちゃな惨状と怒り心頭の伊藤家の面々が残された。
修平は胸を押さえて吐き捨てた。「恩知らずめ、呼び戻すんじゃなかった、本当に気分が悪い!」
遥香は泣きじゃくりながら言った。「お父さん、あの人、宗一郎お兄ちゃんと入籍しちゃったのに、私はどうすればいいの?」
修平は今イライラしており、それを聞いて堪忍袋の緒が切れたように言った。「入籍したんだからどうしようもないだろ、どっちにしろ伊藤家の娘が高橋家と縁続きになるんだから、この取引で損はしない」
遥香はぎゅっと拳を握り締め、不満げな顔をした。「そうよね、麻衣がお父さんと血の繋がった娘なんだから、私は何よ、ただの養女じゃない……」
遥香が自分を卑下するのを聞いていられず、伊藤翔太は眉をひそめて遮った。「遥香、何をバカなことを言ってるんだ、俺にとって妹はお前1人だけだ、麻衣なんか妹でもなんでもない」
伊藤琴音も同調して慰めた。「そうよ遥香、そんなことを言うとお母さん傷ついちゃうわ、長年お母さんがどれだけあなたを可愛がって愛してきたか、分かってるでしょ?」
遥香は口を尖らせた。「ごめんなさい、お母さん、お姉ちゃんが帰ってきたら私を愛してくれなくなるんじゃないかって怖かったの」
「そんなことあるわけないでしょ? あなたこそが伊藤家の宝よ、これだけは永遠に変わらないわ」
2階。
麻衣は壁に斜めにもたれ、伏し目がちにその家族を見下ろし、口角を少し上げてから客室に入った。
***
高橋家。
高橋宗一郎が玄関に足を踏み入れた途端、高橋太郎の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「入籍したか?」
宗一郎は冷たく笑った。「俺を見張らせていたくせに、入籍したかどうかも知らないんですか?」
太郎は口元を引き締め、孫が面と向かって突っかかってくるのにはすっかり慣れているようだった。「結婚したというのに、どうして1人で帰ってきた? お前の嫁はどこだ?」
宗一郎はスーツを使用人に渡して答えた。「あなたが用意した新居にいますよ」
「壑園か?」太郎は抜け目ない人物であり、少し考えただけで理由を悟り、修羅場をくぐり抜けてきたその顔を途端に険しくして怒鳴った。「出て行け!」
「?」
宗一郎は眉間を寄せた。「あなたの言う通りに彼女と結婚したんだ、これ以上どうしろって言うんですか?」
太郎は不機嫌そうに吐き捨てた。「ひ孫の顔が見たいんだよ!」
宗一郎はためらうことなく拒絶した。「無理ですね」
見ず知らずの女と入籍するのが宗一郎にとっての限界であり、さらに子供を作るなど、到底あり得ない話だった。
太郎は杖を床に突いて威厳を示した。「今すぐ壑園に引っ越せ、そして暇を見つけて高橋家に顔を出しに来い、それから時間を作って結婚式を挙げるんだ、あの子は小さい頃から苦労してきたんだから、儀式は1つも欠かしてはならん」
宗一郎は冷ややかな声で言った。「おじいさん、いい加減にしてください」
太郎は全く慌てる様子もなく、脅しを続けた。「壑園に引っ越さなくてもいいが、それなら一生あの時の真相を知ることはできないと思え!」
男の漆黒の瞳には冷たさが漂い、顔色からは何も読み取れなかった。
しかし太郎は孫が怒っていることに気づき、空咳を1つして声のトーンを落とした。
「昨日も鈴木の爺さんが電話でひ孫を自慢してきおってな、わしはもう先が長くないんだ、ひ孫の顔を見たいと思って何が悪い? あんな若い娘さんが、お前みたいなオッサンを嫌がらないだけでもありがたいと思え!」
宗一郎:「……」
彼は舌先を奥歯に押し当て、一言一句区切るように言った。「今回が最後です」
太郎は孫の脅しなど気にしなかった、どうせ一緒にいれば情が移るなどという話は豪族では珍しくもないし、伊藤家のあの娘を見たが、純真で優しく思いやりのある子で、腹の底が読めず冷酷で無口で人情味のない自分の孫にはお似合いだと思っていた。
宗一郎が承諾したのを見て、太郎は彼が考えを変えるのを恐れるかのように、傍らの使用人を急かした。「若様の荷物をまとめて壑園に運べ」
宗一郎はもう相手にするのも面倒になり、脱いだばかりのジャケットを再び羽織り、冷たい顔で出て行った。
傍らにいた執事は宗一郎の冷酷な後ろ姿を見つめ、心配そうな眼差しで尋ねた。「大旦那様、若様は今回本当に大人しく言うことを聞くでしょうか?」
太郎は自信満々に答えた。「わしが弱みを握っているんだ、逆らえるわけがなかろう!」
鈴木執事は高橋家に30年以上仕え、ずっと太郎のそばで世話をしてきた。
彼は茶を1杯淹れて差し出しながら言った。「あんな田舎娘をそこまで信用なさるのですか? 伊藤家の夫婦は山から来たあの娘を全く気に入っておらず、未だにあの偽物の令嬢を宝のように扱っていると聞きました。 あんな風に愛されておらず、しかも貧しい山奥で育った、見識も教養もない子では、若様がもったいない」
太郎は湯呑みを受け取り、鼻で笑って言った。「伊藤家の連中に見る目がないだけだ」
「……」
太郎は何かを思い出したように、再び口を開いた。「わしのスマホを持て、麻衣に電話する」
鈴木執事は太郎が誰かにここまで気にかけるのを初めて見た、どうやらあの田舎娘には確かに何かあるらしい。
指に振動が伝わった時、麻衣はちょうど顔を洗い終えてベッドで胡座をかき、瞑想しているところだった。
これは彼女が小さい頃から続けている習慣だった。
麻衣の「スマホ」は彼女自身が組み立てたもので、人差し指の指輪に隠されていた。
通信機能の他に、必要とあらば分解して小型の高性能コンピューターに組み替えることもできる。
彼女は指がしびれるほどの振動に眉をひそめたが、着信番号を見て表情を和らげた。『高橋おじい様』
太郎は弾んだ声で応じた。『おお!麻衣や、宗一郎はさっき壑園に向かったぞ、今夜はお前たちの初夜だからな……』
麻衣は太郎が話し終えるのを根気よく待ち、それから答えた。『私、壑園にはいませんよ』
これには太郎も呆気にとられた。『壑園にいない? じゃあどこにいるんだ?』
麻衣は淡々と告げた。『伊藤家に帰りました』
太郎は申し訳なさそうに言った。『やれやれ、この物忘れのひどさといったら、本当に年をとると駄目だな。 今日は麻衣が山を降りてきた初日なんだから、当然家族で水入らずの食事をするはずだもんな!』