話 1
幼い頃から、婚約者の橘尚哉(たちばな なおや)を愛していた。
私たちの結婚は、両家の巨大な帝国を一つにする、完璧な証となるはずだった。
前の人生で、彼は燃え盛る私のアトリエの外で、義理の妹の由梨亜(ゆりあ)と一緒に、私が死ぬのを見ていた。
煙に喉を焼かれ、肌を焦がす熱さに耐えながら、私は彼の名を叫んだ。
「尚哉、お願い!助けて!」
由梨亜は彼の腕にしがみつき、偽りの恐怖に満ちた顔で言った。
「危ないわ!あなたまで怪我をしちゃう!早く行かないと!」
そして、彼はその言葉に従った。
彼は私を最後にもう一度だけ見た。
その瞳には、どんな炎よりも心を抉る、憐れみに満ちた色が浮かんでいた。
そして彼は背を向け、私を燃え盛る炎の中に置き去りにして、走り去った。
死ぬ瞬間まで、私には理解できなかった。
いつも私を守ると約束してくれた男の子が、私が焼き殺されるのをただ見ているなんて。
私の無条件の愛は、彼が私の妹と結ばれるための、代償だったのだ。
再び目を開けたとき、私は自分の寝室に戻っていた。
一時間後には、家族の役員会議に出席することになっている。
今度の私は、まっすぐにテーブルの上座へと歩み寄り、こう言った。
「婚約を、破棄させていただきます」
第1章
柏木(かしわぎ)家の役員会議室の重厚な楢材の扉が、マホガニーのテーブルに置かれたクリスタルグラスを震わせるほどの勢いで開かれた。
そこに立っていたのは、柏木詩織(しおり)。
化粧気のない青白い顔。いつもは温かく優しい瞳が、今は氷の欠片のように冷たく、硬い。
彼女は父が座るテーブルの上座へとまっすぐに歩み寄った。父の顔には困惑の色が浮かんでいる。
「婚約を破棄したいんです」
感情の欠片も感じさせない、平坦な声だった。
柏木グループと橘ホールディングスの合併を目前に控え、ざわついていた室内の空気が、その一言で切り裂かれる。
父、柏木健三(けんぞう)が娘を見つめた。
「詩織、何を言っているんだ?馬鹿なことを言うな。尚哉くんがもうすぐ来るんだぞ」
「馬鹿なことではありません」
彼女はそう言うと、集まった家族の顔を一人一人見渡した。
「私は、橘尚哉とは結婚しません」
「これはお前だけの問題じゃないんだ、詩織」
父の声が荒くなる。
「これは十年がかりで進めてきた合併の話なんだ。この家族の未来がかかっているんだぞ」
あの人生は、私が彼と義妹の不貞を問い詰めた瞬間に終わった。
口論は醜いものになり、混乱の中、私のアトリエで火事が起きた。
最後に覚えているのは、彼が私を炎の中に置き去りにしたときの、身を焦がすような痛み。
そして…黒く、静かな虚無。
今朝、自分のベッドで息を呑んで目覚めるまでは。
太陽は輝き、鳥はさえずり、カレンダーは二年前の日付を示していた。
これは夢じゃない。二度目のチャンスなんだ。
火事を思い出す。
肺を満たす刺激臭の煙、肌を焼く熱。
婚約者であり、子供の頃から愛してきた男、尚哉の名を叫んだことも。
彼はそこにいた。
アトリエのドアの外に立ち、その顔は炎に照らし出されていた。
そして彼の隣には、義理の妹の由梨亜がいた。
「尚哉、お願い!助けて!」
私は嗄れた声で叫んだ。
由梨亜は彼の腕にしがみつき、偽りの恐怖に満ちた顔で言った。
「尚哉さん、危ないわ!あなたまで怪我をしちゃう!早く行かないと!」
そして彼は、その言葉に従った。
彼は私を最後にもう一度だけ見た。その瞳には、どんな炎よりも心を抉る、憐れみに満ちた色が浮かんでいた。
そして彼は背を向け、私を死なせるために走り去った。
その記憶はあまりに鮮明で、胃がひっくり返りそうになる。
それが私の優しさの代償。
それが私の無条件の愛への報い。
「彼は、私を愛していません」
詩織の声は、不気味なほど穏やかだった。
「彼が愛しているのは、由梨亜です」
テーブルの向こうから、息を呑む音がした。
義理の妹、由梨亜が顔を上げた。大きく無垢な瞳が、みるみる涙で潤んでいく。
「お姉様、どうしてそんなことを言うの?尚哉さんはお姉様を心から愛しているわ。私は…私はただの妹なのに」
「妹だなんて、二度と呼ばないで」
詩織の声が、ついに怒りの色を帯びてひび割れた。
「詩織、もういい加減にしろ!」
柏木健三がテーブルを拳で叩きつけた。
由梨亜は静かにすすり泣き始めた。この家の男たちにはいつも効果的な、繊細で、胸が張り裂けるような泣き声だ。
「尚哉さんは、お姉様の事故以来、ずっと心配していたのよ。一時間おきに電話してきて。お姉様が新しい絵のために欲しがっていた限定品の顔料を見つけるために、徹夜までしてくれたのよ」
詩織は笑い出しそうになった。
顔料。そう、彼は私のためにそれを見つけてくれた。
彼は由梨亜のために、希少なダイヤモンドも見つけていた。
「彼はあなたに顔料をくれたのよね?」
詩織の視線が由梨亜に突き刺さる。
「じゃあ、あなたには何をくれたのかしら?」
由梨亜は戸惑った顔をした。
「私…何のことかわからないわ」
詩織はシンプルな黒いドレスのポケットに手を入れ、小さなベルベットの箱を取り出した。
それをテーブルの上に放る。
磨き上げられた木の上を滑り、父の前で止まった。
父が箱を開ける。
中にはネックレスが入っていた。ティアドロップ型のサファイアがついた、繊細なシルバーチェーン。
「先月、記念日に尚哉がくれたものよ」
詩織は室内にいる全員に説明した。
それから、彼女はスマートフォンを取り出し、箱の隣のテーブルに投げつけた。
画面には写真が表示されている。
尚哉と由梨亜の写真だった。
二人はヨットの上にいて、背後には夕日が沈んでいる。
尚哉は由梨亜を腕に抱き、彼女の首筋にキスをしていた。
由梨亜の首には、ネックレスがかかっている。
ティアドロップ型のサファイアがついた、繊細なシルバーチェーン。
箱の中のものと、瓜二つだった。
「彼は、私のためだけにデザインされた、世界に一つだけのものだと言ったわ」
詩織の声は皮肉に満ちていた。
「嘘だったのよ」
彼女は箱を手に取った。
「これは、デパートで五万円。私が調べたわ。由梨亜が写真でつけているのは?カルティエのものよ。五百万円したそうね」
彼女は安物のネックレスを指から滑り落とした。
カチャリと音を立ててテーブルに落ちる。
それは哀れで、ちっぽけに見えた。
自分がそれをどれほど大切にしていたかを思い出す。
彼の特別な愛の象徴だと思って、毎日身につけていた。
それが安物で、偽物だったという現実は、苦い薬だった。
その時、再びドアが開いた。
橘尚哉が駆け込んできた。髪は少し乱れ、ネクタイは緩んでいる。
ここまでずっと走ってきたかのようだ。
「詩織、ごめん、遅くなった。僕は…」
彼は室内の雰囲気に気づいて言葉を止めた。
スマートフォンの写真、テーブルの上のネックレス、そして詩織の顔つきを見て、すべてを察した。
「詩織、これは君が思っているようなものじゃない」
彼の声は懇願に満ちていた。
「説明させてくれ」
「何を説明するの?」
詩織が尋ねた。
「どちらのネックレスが本物なのか、ということ?」
彼が答える前に、由梨亜が小さく叫んだ。
彼女はふらつき、片手を額に当てた。
「なんだか…めまいが…」
彼女は囁いた。
即座に、尚哉の注意は詩織から由梨亜へと移った。
彼の顔に浮かんだパニックは本物だったが、それはすべて、彼のもう一人の女に向けられたものだった。
「由梨亜!」
彼は彼女のそばに駆け寄り、崩れ落ちる体を支えた。
「大丈夫か?どうしたんだ?」
彼は、詩織にはもう何年も見せていない、必死の優しさで彼女を抱きしめた。
婚約者であるはずの女、結婚するはずだった女、そして焼き殺されるのを放置した女には、一瞥もくれなかった。
二人を見つめるうち、詩織の心に残っていた愛の最後の残り火が、冷たく硬い灰に変わった。
これだ。これが、皆の目の前にある、証拠だ。
私の決断は、正しいだけじゃない。
生き残るために、必要なことだった。
「ほら」
詩織の声は、決定的な響きを帯びていた。
「ご覧の通り。彼はもう選んだのよ」
彼女は父を見た。その顔には衝撃と、徐々に広がる恐怖が混じり合っていた。
「婚約を破棄します」
彼女は繰り返した。
「橘家が合併のために柏木家の花嫁を必要とするなら、由梨亜をどうぞ。彼女なら、喜んで私の代わりを務めるでしょうから」
柏木健三は、娘の固い決意に満ちた顔と、尚哉が由梨亜を甲斐甲斐しく介抱する光景とを見比べた。
彼は途方に暮れていた。
「詩織…早まるな」
彼はどもりながら言った。
「みんな、少し…落ち着く必要がある」
「一週間、時間をあげましょう」
義母、つまり由梨亜の母親が、滑らかに提案した。
「冷却期間よ。詩織は今、感情的になっているだけ。すぐに正気に戻るわ」
一週間。
生きながら焼かれたことを忘れるのに、一週間。
安物の模造品に取って代わられたことを受け入れるのに、一週間。
いいだろう。
一週間あれば、十分すぎる。
話 2
「冷却期間」は、その名とは程遠いものだった。
それは、包囲戦だった。
詩織は自室に閉じこもったが、尚哉は執拗だった。
彼は何時間もドアの外に陣取り、低い声で懇願し続けた。
「詩織、お願いだ。話をしてくれ」
彼は贈り物を送り続けた。
詩織が一番好きな花、百合の花束。
もう食べる気にもなれない高級チョコレートの箱。
彼女が愛読していた詩集の初版本。
どの贈り物も、慎重に選ばれた思い出であり、彼女の決意を鈍らせるために設計された武器だった。
三日目、彼はドアの下からメモを滑り込ませた。
『君が怒っているのはわかっている。怒る権利は君にある。でも由梨亜は…彼女は脆いんだ。幼い頃に母親を亡くして、君のお父さんはいつも忙しかった。僕が面倒を見てあげなきゃって、ただそう思っただけなんだ。妹みたいなものだよ。それだけだ。誓って』
詩織はそのメモを読み、胃の中に冷たい嫌悪感の塊ができた。
脆い由梨亜。
詩織のアトリEが燃えるのを見て微笑んでいた、あの少女。
『十歳の時を覚えているかい?』
別のメモにはこう書かれていた。
『君が裏庭の大きな樫の木から落ちて腕を骨折した時、僕が家までずっと君を運んだ。あの時、僕は君に言ったよね。いつだって君を守るって』
ええ、覚えている。
それは美しい思い出で、彼女が大切にしてきたものだった。
彼の小さく、しかし決意に満ちた腕が自分を包み込む感覚。
何があっても君を傷つけさせないと約束してくれた時の、泥と涙で汚れた彼の顔。
その記憶は本物だった。
その約束をした少年も、本物だった。
でも、彼はもういない。
彼は、自分が死ぬのを見ているだけだった男に取って代わられた。
自分の命よりも、不倫相手を選んだ男に。
過去は美しく、毒された井戸だ。
今それを飲めば、再び死ぬだけだ。
彼女は、彼が知らないことを知っていた。
前の人生で、火事からわずか数週間後、由梨亜は妊娠を発表した。
子供の父親は、尚哉だった。
あの「脆い」義妹は、尚哉がまだ詩織と婚約している間に、彼の跡継ぎを身ごもっていたのだ。
そのことを考えると、彼女は拳を握りしめた。
その時間軸は、彼女の脳に焼き付いている。
由梨亜は、今、妊娠している。
「詩織、愛している」
ドア越しに、感情のこもった彼の声が聞こえた。
「誓って言う、僕にはずっと君だけだった。これからもずっと君だけだ。これからの人生をかけて、君に償うよ」
彼の言葉は、空虚な響きだった。
彼女はついにドアを勢いよく開けた。
尚哉がそこに立っていた。
そのハンサムな顔には、疲労と希望が刻まれている。
彼は一本の、完璧な白い薔薇を手にしていた。
純潔の象徴。その皮肉に息が詰まる。
彼女は薔薇を受け取らなかった。
代わりに、彼の襟元に目をやった。
「彼女と一緒にいたのね」
彼女は平坦な声で言った。
彼は戸惑った顔をした。
「え?いや、ずっとここにいたよ」
「彼女の匂いがする」
詩織は一歩近づきながら言った。
その必要もなかった。由梨亜のジャスミンの香水が、むせ返るように彼から香っていた。
「それに、襟に口紅がついているわ。彼女の色。『ローズペタルピンク』」
尚哉の手が首元に飛んだ。
彼は淡いピンクの染みをこすり、罪悪感とパニックで顔を赤らめた。
「これは…彼女が動揺していたから、なだめていただけだ…」
詩織はただ彼を見つめていた。
その沈黙は、どんな非難よりも雄弁だった。
その後数日間、贈り物はさらに豪華になった。
ダイヤモンドのブレスレット。新車。パリ行きのチケット。
詩織はそれらすべてに手をつけず、部屋の外の廊下に放置した。
彼の必死で不器用な買収工作の、記念碑のように。
ついに、彼女は彼を部屋に入れた。
彼は安堵したように見え、希望に満ちた笑みが唇に浮かんだ。
彼女はベッドの端に腰掛け、膝の上で手を組んだ。
「残りの人生をかけて償うと言ったわね」
「ああ」
彼は熱心に言い、彼女に一歩近づいた。
「何でもするよ、詩織。何でも」
「何でも?」
彼女は繰り返した。その声は柔らかいが、鋼のような強さを秘めていた。
「誓うよ」
彼女は彼の目をまっすぐに見つめた。
「いいわ。婚約を続けることを考えてあげる。一つだけ、条件がある」
彼は安堵で力が抜けそうになった。
「言ってくれ。何でも君のものだ」
「由梨亜を追い出してほしいの」
彼女は言った。
彼の笑みが消えた。
「何だって?」
「彼女を追い出して」
詩織の声は硬くなった。
「別の国へ。彼女に消えてほしいの。二度と彼女の顔を見たくないし、名前も聞きたくない。彼女との連絡を一切断って。電話番号もブロックして。あなたの人生から、完全に消し去って」
尚哉は彼女を見つめ、その表情は苦悩に変わった。
「詩織、そんなことはできない。彼女は…彼女には誰もいないんだ。とても繊細なんだ。どこへ行けっていうんだ?」
詩織は立ち上がった。
「そう。あなたの『何でも』には、限界があるのね」
彼女はドアに向かって歩いた。
「なら、もう話すことはないわ」
「待って!」
彼はパニックに駆られて彼女の腕を掴んだ。
「わかった!わかったよ、そうする」
彼は彼女の瞳を覗き込んだ。その目は大きく、真剣だった。
「彼女を遠くへやる。約束する。詩織、命にかけて誓うよ。彼女を追い出す。君のために」
彼は彼女を腕に引き寄せたが、彼女は硬く、冷たいままだった。
彼女は彼を信じていなかった。一瞬たりとも。
だが、必要な約束は手に入れた。
話 3
尚哉は、ほとんど哀れに思えるほど必死の熱意で、彼女の条件に同意した。
「やるよ、詩織。彼女が海外で勉強できるように手配する。新しい人生、新しいスタートだ。月末までにはいなくなる」
彼は真剣な声で約束した。
それから一週間、彼は完璧で、悔い改めた婚約者を演じた。
ベッドに朝食を運び、海岸沿いを静かにドライブし、彼女がスケッチをする間、アトリエで静かに座っていた。決して急かさず、何も要求しなかった。
外の世界からは、和解したように見えた。
父は安堵し、義母は尚哉の献身を褒めそやした。
「ほらね?」
彼女は得意げな笑みを浮かべて詩織に言った。
「彼はあなたを愛しているのよ。すべて、ただの馬鹿げた誤解だったの」
詩織はそんなことはないと知っていた。
彼女は彼を観察した。心は胸の中で冷たく、静かな石のようだった。
彼の目が数分おきにスマートフォンにちらつくのを見た。
彼が持ってくる贈り物――由梨亜が好きな青色のシルクスカーフ、由梨亜がいつも話題にしていた作家の小説。
彼は詩織を喜ばせようとして、ライバルを喜ばせるものを選んでいた。
なんて愚かな男だろう。
その茶番は、火曜日の午後に終わった。
詩織がアトリエで筆を洗っていると、ドアが激しく開かれた。
尚哉がそこに立っていた。その顔は雷雲のような怒りに満ちている。
彼は荒い息をし、胸を大きく上下させていた。
「何をした?」
彼は唸りながら、彼女に向かって歩み寄った。
詩織は落ち着いて筆をテレピン油の瓶に入れた。
「何のことか、さっぱりわからないわ」
「嘘をつくな!」
彼は広々とした空間に響き渡る声で怒鳴った。
「由梨亜だ!彼女に何を言ったんだ?」
彼は彼女の肩を掴み、その指が肌に食い込んだ。
「彼女は病院にいるんだ、詩織!自殺しようとしたんだ!薬を一本飲んだんだぞ!」
その言葉が二人の間に漂った。
由梨亜が自殺を図った。
いつもの、使い古された、人を操るための手口。
詩織は何も感じなかった。
衝撃も、同情も。
ただ、深く、疲れた虚無感だけがあった。
「彼女は死にかけているんだ、詩織」
尚哉の声はひび割れ、怒りは生々しく、打ちのめされたような響きに変わった。
「そして、それはお前のせいだ。お前とその悪意に満ちた、残酷な要求のせいだ。お前が彼女を追い詰めたんだ」
詩織は彼を見上げた。かつて愛した男の顔が、別の女への悲しみで歪んでいる。
「そうかしら?」
彼の瞳は、こらえきれない涙で、憎しみに燃えていた。
「どうしてそんなに冷酷でいられるんだ?彼女はお前の妹だろう!心がないのか?お前は人間なのか?」
彼は、自分を焼き殺そうとした張本人でありながら、彼女を無情だと非難していた。
その偽善には息を呑む。
「それで、どうするつもり?」
詩織は、どこか他人事のような、冷めた囁き声で尋ねた。
「私を罰するの?」
「罰する?」
彼は、耳障りで醜い音を立てて笑った。
「そんなものじゃ足りない。お前は償うんだ。彼女のところへ行き、跪いて、許しを請うんだ」
彼はまだ終わらなかった。
彼の握る力は強まり、顔が彼女の数センチ先にあった。
「そして、お前は一生、毎日、許しを請い続けるんだ。お前は彼女の召使いになる。彼女が頼むことは何でもする。それが、彼女の痛みに対する代償だ」
鋭く、予期せぬ痛みが詩織の胸を貫いた。
それは幻の痛み、かつて感じた愛の亡霊だった。
なぜ?すべてを知った後で、なぜ彼の言葉はまだ私を傷つける力を持っているの?
私は死んだ。生まれ変わった。この痛みは、焼き尽くされているはずなのに。
めまいがして、視界の端がぼやけていく。
自分を弁護する言葉が見つからない。
何の意味がある?どうせ彼は信じない。
「あなたは、彼女をそこまで信じているの?」
彼女はなんとか囁いた。その言葉は灰のような味がした。
「彼女が言うことすべてを信じるの?」
「ああ」
彼は一瞬の躊躇もなく、絶対的な確信に満ちた声で言った。
「由梨亜は純粋だ。無垢だ。彼女は決して嘘をつかない。お前とは違う」
彼はその時、我に返ったようだった。
一瞬、何か――おそらくは自身の残酷さへの気づき――が彼の目に閃いた。
彼は少しだけ握る力を緩めた。
「詩織、僕は…」
だが、もう遅かった。
苦く、壊れた笑いが詩織の胸から込み上げてきた。
それは震えから始まり、やがて涙に濡れた、本格的な高笑いへと変わっていった。
その音は荒々しく、常軌を逸していた。
それは、心が二度目、そして最後に壊れる音だった。
部屋が回り始めた。
壁にかかった絵画の色が、意味のない渦となってぼやけていく。
最後に彼女が見たのは、怒りが突然の、そして徐々に広がるパニックに変わった尚哉の顔だった。
そして、世界は暗転した。