話 1
私がこの物語の世界にやって来たのは、ただ一つ。北燕侯・顧景之を暗殺するという任務を遂行するためだった。
「泠、愛している」
空一面に咲き誇る花火が、まるで私を祝福しているかのようだった。眼下では、顧景之が片膝をついて私を見上げている。その真摯な眼差しに、私は袖に隠した刃を握る力を、思わず緩めてしまった。
「妻として、私に嫁いでくれないか。生涯、ただ君だけを愛すると誓う」
「はい」
脳内でシステムが警告をけたたましく鳴らし続けていたが、私は構わず、その手を取った。
だが、現実は私の頬を容赦なく打ちのめした。
「蘇泠、侯爵夫人でありながら三年も子をなさぬとは。潔くその座を退き、賢明な者に譲るべきだ」
「……はい」
かつて彼からの求婚を受け入れた時と同じように、私は力なく頷いた。
その夜、燃え盛る炎が私の住む屋敷を焼き尽くし、私をこの苦海から解き放ってくれた。
再び目を開けると、私はあの日――彼が私に求婚した、あの日に戻っていた。
だが今度は、彼が泣きながら懇願していた。「泠、行かないでくれ」
私は震える手で桶を持ち上げ、井戸へと縄を投げ入れると、力いっぱい引き上げた。
侍女も下男もいない暮らし。全てを自分の手でこなさなければならない生活には、とうに慣れてしまった。
ろくな食事もとれない日々が続き、私の手は枯れ木のように痩せ細っている。
感情のこもらぬ手つきで、水の入った桶を地面にどすりと置いた。
水を汲むという単純な作業も、毎日繰り返さなければ、飲む水も体を清める水もないのだ。
「宿主、後悔していますか?」
システムの無機質な声が、脳内に響く。
私は力なく笑みを浮かべるだけで、何も答えなかった。
後悔しているか? もちろん、後悔している。 だが、この世に後悔をなかったことにする薬など、どこにも売ってはいない。
「蘇泠!蘇家はもはや没落した。今のそなたなど、ただの野良犬ではないか!」
北燕侯・顧景之は、彼の愛人を伴って私の前に現れ、そう言い放った。
かつて、盛大な輿入れで正式な妻として迎えられたはずの私は、今や一人の愛人に踏みつけられている。
彼と祝言をあげてから、わずか数年。父も母も、父方と母方の一族も、皆ことごとく没落してしまった。
もはやこの盛京城で、私のことなど覚えている者もいないだろう。
かつての輝きも、この窮屈な暮らしの中で削ぎ落とされ、牙を抜かれてしまった。
「侯爵夫人として三年も子をなさなかったのだ。当然、その座を譲るべきだ」
彼は隣に立つ女の腹を優しく撫でながら言った。私に対する苛立ちとは対照的なその光景は、目を焼くほど痛々しかった。
「……はい」
粗末な麻の衣をまとい、私は水桶のそばに立ち尽くす。
もはや抗う気力もなかった。とうの昔に、自分の運命を受け入れていたのかもしれない。
この三年間、初めのうちは優しかった彼も、時が経つにつれて苛立ちを隠さなくなり、屋敷に帰らない夜が増えていった。彼の冷淡な態度は使用人たちにも伝わり、私は日に日に軽んじられるようになった。
盛京城ではとうの昔から噂が流れていた。北燕侯が外で愛人を囲っている、と。
私もずっと知っていた。だが、まさかその女を私の目の前に連れてきて、出て行けと迫るとは思わなかった。
最初に私を求めてきたのは、彼のほうだったのに。
灯篭祭りの夜、夜空を彩る花火と、大勢の民衆が見守る中で交わした誓いを、どうしてこうも簡単に忘れられるのだろう。
いや、もしかしたら――あの約束を心に刻んでいたのは、私だけだったのかもしれない。
その夜、私は屋敷にいた侍女と下男に暇を出し、燭台の火を手に取ると、屋敷中に火を放った。
燃え盛る炎の中で、使用人たちの叫び声が遠くに聞こえる。薄れゆく意識の中、最後に見たのは、慌てて駆けつけ、愕然と立ち尽くす顧景之の姿だった。
ようやく、解放されたのだ。
この世界での私の任務は、どうやら失敗に終わったようだ。
話 2
私は任務遂行者として、様々な小世界を渡り歩き、そこに巣食う最大の悪役を排除して平和を守ってきた。
そして、この世界での任務対象が、北燕侯・顧景之である。
数多の世界を渡り歩いてきたが、私の心を動かし、この地に留まりたいと思わせたのは顧景之、ただ一人だった。
だが、なんという滑稽さか。私の真心は、無残にも踏みにじられたのだ。
ゆっくりと痛みが薄れていく中、私は完全に息絶えた。
最後に脳内に響いたのは、システムの無機質な声だけだった。
「やり直しの機会を与える。今度こそ、過ちを繰り返すな」
その言葉の意味を理解する間もなく、耳元で誰かが私を呼ぶ声が聞こえ始める。「お嬢様、お嬢様……」 やかましい声に、頭がずきりと痛んだ。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天蓋が視界に入る。
ここは、私がまだ嫁ぐ前に使っていた閨房ではないか。 まさか、戻ってきたというのか。
システムが、私を過去に?
今度こそ、この手で必ず顧景之を殺してやる。
「泠、やっと目が覚めたのね!」
母が嵐のように部屋へ飛び込んできた。
私は丞相府の嫡女として、幼い頃から蝶よ花よと育てられた。対する母は、生粋の女将軍だ。
父のような優男が、一体どうやって母を射止めたのか、今でも不思議でならない。
「今日は灯籠祭りよ。まさか北燕侯から逃げるために、仮病を使っているんじゃないでしょうね」
私は母を見つめ、ひとつ瞬きをした。
灯籠祭り……。 それは、前世の悲劇が始まった、まさに運命の転換点。 システムは私をこの時に戻したのか。
母がそう勘ぐるのも無理はない。本来の私は、そういう奔放な娘だったのだから。
顧景之に三年間虐げられるうちに、その牙をすっかり抜かれてしまったに過ぎない。
「そんなわけないじゃない。もちろん行くわ!」
私は勢いよく寝台から起き上がると、鏡台の前に座った。銅鏡に映る自分の顔を見て、しばし呆然とする。
瑞々しい肌に、鮮やかな紅色の唇。
視線を落とせば、そこにはまだ白く細い指先があった。私は苦々しい笑みを浮かべる。
誰が想像できただろう。前世、父と母が相次いで亡くなった後、後ろ盾を失った私が、後宮で日々虐げられることになるとは。侯爵夫人という身分は名ばかりで、その暮らしは侍女以下だった。
ましてや、世界を渡り歩く任務遂行者であるこの私が、そこまで落ちぶれるとは。
(システム?)
目が覚めてから、以前のあのやかましいシステムの音が聞こえない。不思議に思い、心の中で呼びかけてみた。
しかし、何度問いかけても応答はない。
おそらく休眠状態にでも入ったのだろう。
「この衣装も素敵だし、こっちもいいわね……」
我に返ると、母が独り言ちながら衣装を選んでいた。しかし、どぎつい赤や紫、あるいは深緑と、目に痛いものばかりだ。
私は慌てて駆け寄り、唯一まともに見えた一着を指差した。「あれがいいわ」
淡い黄色の衣装は、私の肌の色によく映える。
そして何より重要なのは、顧景之がこの色を嫌っていたことだ。
前世、あれほど長く夜を共にしたというのに、その理由を知ることはついになかった。
だが今の私にとっては、彼が嫌悪するものすべてが好ましい。
母が何か言う前に、私はさっさと衣装を手に取り、隣の部屋で着替え始めた。小言を聞かずに済むように。
皮肉なものだ。前世では、その小言さえ聞きたくても聞けなくなってしまったというのに。
今度こそ、決して情けなどかけない。
豪華絢爛な馬車に揺られながら、道端の物売りの声に耳を傾ける。私は袖に隠した短剣を握りしめ、心の奥底に渦巻く憎しみを押し殺した。少なくとも、他人に悟られてはならない。
「泠」
聞き慣れた声がして、馬車がゆっくりと停止した。
細く長い指が御簾を上げると、比類なき美貌が私の目の前に現れる。
決して忘れられぬ顔。前世の私は、この顔に惑わされ、一歩また一歩と破滅へと堕ちていったのだ。
私は静かに目を伏せ、眼差しに宿る憎悪を隠すと、彼の手のひらに自分の手を重ね、馬車から軽やかに降り立った。
「今夜は君のために、特別なものを用意したんだ」
北燕侯は私の異変に気づいていないのか、相変わらず優しい声で囁く。
だが、この羊の皮を被った狼こそが、私の両親の一族を乗っ取り、私を裏切った張本人なのだ。
前世、後宮に閉じ込められていた私は、ずっと理解できなかった。結婚前、顧景之との仲はあれほど睦まじかったのに、なぜ彼はあんなにも変わってしまったのか。
来る日も来る日も私を虐げ、かつての面影は微塵もなかった。
死ぬ間際になって、ようやく悟ったのだ。最初から、彼の狙いは私の後ろ盾――一族が持つ権力だったのだと。
「ええ、とても楽しみだわ」