話 2
坂巻久美 POV:
英志は五月と蓮を連れて, ホテルの奥へと消えていった. 私はロビーの中央で, まるで透明人間になったかのように立ち尽くしていた. 華やかな空間なのに, 私の周りだけが凍りついているようだった. 周囲の視線が, 私に突き刺さる. 彼らは, 私と英志の関係, そして五月の存在に, 何か特別な意味を見出しているようだった.
パーティーは予定通り始まった. 私は顔に貼り付けた笑顔で, 招待客たちと挨拶を交わす. 彼らは口々に「素晴らしいパーティーですね, 久美さん」「英志さんも喜んでいるでしょう」と褒め称えた. その言葉が, 私の心臓をさらに深くえぐる. 英志は, 一体どこで何をしているのだろう? 彼がこのパーティーの主役なのに, 姿が見えない.
時間が経つにつれて, 私の期待は絶望へと変わっていった. 英志が戻ってくる気配はない. 私は何度もスマートフォンを握りしめ, 彼からの連絡を待った. しかし, 通知は一つも届かない. 会場の時計の針が進むたびに, 私の心は冷たく, 重くなっていった.
午後9時を過ぎた頃, 私は再び五月のSNSをチェックした. そこには, さらに残酷な写真が投稿されていた. 英志が, 五月の部屋で, 蓮を膝に乗せて絵本を読んでいた. 五月は, 英志の肩に頭を預け, 幸せそうに微笑んでいる. キャプションには「蓮が英志さんと遊びたがって, 少しだけお邪魔しちゃいました. 英志さん, 本当に優しい…」と書かれていた.
写真の背景には, 私が着替えるために使っていた部屋の壁紙が映り込んでいた. 私の部屋だ. 私のための部屋で, 英志と五月が, まるで家族のように過ごしている. 私の心臓は, 文字通り引き裂かれるような痛みを感じた. パーティーは, 私のためのものなどではなかった. 英志の優しさは, 私に向けられたものではなかったのだ.
私は, その場に崩れ落ちそうになった. しかし, 私は坂巻久美だ. 「分別がある」と常に言われ続けてきた, 坂巻家の長女だ. 人前で感情を露わにするなど, 考えられなかった. 私は震える手でスマートフォンを握りしめ, 会場の隅にある人気のないバルコニーへと向かった.
冷たい夜風が, 私の頬を撫でる. 私の体は, まるで氷のように冷え切っていた. 私の心も, 同じくらい冷たかった. 私は, 自分がどれほど愚かだったかを思い知った. 英志は, 私の「分別」に甘え, 私を軽んじていたのだ. 彼にとって, 私は便利で, 都合の良い存在でしかなかった.
私はポケットから, 英志がプロポーズの時にくれた婚約指輪を取り出した. きらきらと輝くダイヤモンドが, 私の目に痛い. この指輪は, 私たちの愛の証だったはずだ. しかし, 今となっては, それはただの空虚な, 欺瞞の象徴でしかなかった.
私は震える指で, その指輪を握りしめた. 私の掌から, 指輪の冷たさが伝わってくる. 私はバルコニーの手すりから, 夜空を見上げた. 星空は, あまりにも遠く, 私の心と同じくらい暗かった. 私は, その指輪を, 遠くの街の光に向かって, 思い切り投げつけた.
指輪は, 夜の闇へと吸い込まれていった. 私の心から, 何かが千切れるような音がした気がした. それは, 私と英志の間にあった, 最後の絆だったのかもしれない. 指輪が消えた瞬間, 私の目から, 熱い涙が溢れ出した. 止まることなく, 頬を伝い, 冷たい夜風に吹かれて乾いていく.
私はその場で, 膝から崩れ落ちた. もう, これ以上, 我慢することはできなかった. 私の愛は, 私の信頼は, 完全に踏みにじられてしまった. 私は, 英志と家族への期待を, 完全に断ち切ることを決意した.
私の心は, 冷たく, 空っぽだった.
私はもう, 彼らを愛することはできない.
私はスマートフォンを取り出し, 英志へのメッセージ画面を開いた. 指が震え, 画面を打つのに時間がかかった.
「英志, 私たちの婚約は終わりよ. 」
送信ボタンを押す直前, 私の脳裏に, 英志の顔が浮かんだ. 彼は, このメッセージを見て, 何を思うだろう? 驚くだろうか? 悲しむだろうか?
いや, 多分, 彼は五月と蓮くんのことで頭がいっぱいだろう.
私のメッセージなど, 彼の心には届かない.
私は最後の力を振り絞って, 送信ボタンをタップした.
スマホの画面には「送信済み」の文字.
私の指は, もう震えていなかった. 私の心も, もはや痛みを感じなくなっていた.
ただ, 空虚感が, 私を包み込んでいた.
私は, この夜を境に, 生まれ変わる.
私の人生は, もう二度と, 彼らのために捧げられることはない.
話 3
坂巻久美 POV:
送信ボタンを押した瞬間, 私の体から全ての力が抜けた. その場に座り込み, 冷たい石畳に頬をつけた. 涙はもう枯れ果てていた. 私の心は, 何もない, 真っ白な空間になっていた. 英志からの返信は来なかった. いや, 来るはずがない. 彼は今, 五月と蓮くんの世話で忙しいのだ.
しばらくして, 私は立ち上がった. 会場に戻る気力はなかった. 私はホテルの部屋に戻り, 静かに荷物をまとめ始めた. 私の私物, 英志からの贈り物, そして私が彼のために買った服. 全てをトランクに詰め込んだ. この部屋には, 私の痕跡を一切残したくなかった.
部屋の中は, 私の心と同じように冷え切っていた. 英志との思い出が, まるで幻のように, 私の脳裏を駆け巡る. 彼と初めて出会った日のこと. 私が坂巻家の長女として, 常に「分別がある」ことを求められ, 心を押し殺してきた日々. そんな私を, 彼は理解してくれると信じていた.
私が坂巻家に引き取られたのは, 六歳の時だった. 老舗和菓子屋「さかまき」の長女として, 私は常に完璧であることを求められてきた. 両親は私が「分別がある子」であると周囲に示し, 私自身もその期待に応えようと必死だった. しかし, その「分別」は, 私の感情を抑圧するための鎖でもあった.
五月が坂巻家にやってきたのは, 私が10歳の時だった. 両親は, 突然現れた義妹を「可哀そうな子」として迎え入れた. 五月は, 常に病弱で, か弱く, 周囲の同情を引くことに長けていた.
「久美, 五月は体が弱いから, あなたが守ってあげなさい. 」
「久美, 五月はまだ幼いから, あなたが我慢しなさい. 」
「久美, 五月は私たちがいないところで何かと大変だから, あなたが面倒を見てあげて. 」
その言葉は, まるで呪文のように, 私の心に深く刻み込まれていった.
私は五月の世話を焼き, 彼女のワガママを受け入れた. しかし, 五月は私のものを巧妙に奪っていった. 私の好きなもの, 私の褒められたもの, 私の期待されたもの. 全てが, 五月のものになっていった. 私が少しでも反論しようとすると, 五月はすぐに涙を流し, 両親は私を責めた.
「久美, どうして五月を泣かせるんだ! 」
「久美, あなたは分別がある子でしょう! 」
そのたびに, 私は自分の感情を押し殺し, 沈黙を選んだ.
私の心は, 徐々に凍りついていった.
英志と出会ったのは, 私が22歳の時だった. 彼の大手商社でのエリートとしての地位, そして優しく紳士的な振る舞いは, 私にとって希望の光だった. 彼は私が抱える心の闇を理解してくれると信じていた.
「久美さんは, いつも周りのことを考えていますね. 本当に優しい人だ. 」
英志の言葉は, 私の凍りついた心に, 温かい光を灯してくれた.
彼は, 私の家庭での苦悩を理解しているかのように, 私を慰めてくれた.
「久美さんのご家族は, 五月さんのことを心配しているんですね. でも, 久美さんも頑張っている. 僕が, 久美さんの支えになります. 」
その言葉に, 私はどれほど救われたか. 私は英志に, 私の心の全てを打ち明けた. 英志は, 私の話に真剣に耳を傾け, 私を抱きしめてくれた.
「僕が, 久美さんを幸せにする. もう, 誰も久美さんを傷つけさせない. 」
彼の言葉は, 私にとって, 甘い蜜のようだった.
私は彼を, 私の唯一の救いだと信じていた.
しかし, 今, その希望は粉々に砕け散った. 英志は, 五月のか弱さに付け込まれ, 私を裏切った. 彼は, 私を操るために「分別」という言葉を使った. 彼は, 坂巻家の両親と同じだったのだ.
トランクを閉め, 私は部屋を出た. ホテルの廊下は静かで, 私の足音だけが響く. エレベーターでロビーに降りると, そこには英志と五月, そして蓮くんがいた. 彼らは, チェックアウトの手続きをしていた.
「あ, 久美お姉ちゃん! 」五月が私を見つけるなり, わざとらしい笑顔で言った. 「どこに行ってたの? もう帰っちゃうの? 」
その声は, まるで私が無責任な行動をしているかのように響いた.
英志は私を見るなり, 少し驚いた顔をした. 「久美, もう帰るのか? まだパーティーは続いているだろう? 」
彼の声には, 私への心配など微塵も感じられなかった.
「英志, 私たち, 話すことがあるわ. 」
私の声は, 私自身が驚くほど冷静だった.
英志は眉をひそめた. 「こんなところで? また何か, 五月ちゃんのことで文句でもあるのかい? 」
彼の言葉は, 私の心を深くえぐった. 彼は, 私が五月を責めているとでも思っているのか?
「英志さん, 私, やっぱり, 久美お姉ちゃんと仲良くしたいです... 」五月は英志の腕にすがり, 涙ぐんだ. 「でも, いつも, 私を責めるんです... 」
その瞬間, 私の頭の中で, 何かがプツンと切れる音がした.
もう, これ以上, 我慢する必要はない.
私の心は, 完全に自由になったのだ.
「いいえ, 五月さん. 」私は冷たい声で言った. 「私は, あなたを責めてなどいないわ. ただ, 言いたいことがあるだけ. 」
英志は五月を抱き寄せ, 私を睨みつけた. 「久美, やめろ! 五月ちゃんは, ただ子供の世話で疲れているだけだ! 」
彼の言葉は, 私の心に, もはや何の痛みも与えなかった.
「英志, あなたは, 私のことを全く理解していなかったのね. 」私は静かに言った. 「私たちの婚約は, もう終わりよ. 」
英志の顔から, 血の気が引いた. 彼は一瞬, 言葉を失った.
五月は, その様子を見て, わずかに口角を上げたように見えた.
「久美, 何を言っているんだ! 冗談だろう? 」英志の声は震えていた.
「冗談なんかじゃないわ. 」私は冷たく答えた. 「私は, あなたを愛していた. あなたの会社の成功を願い, あなたのために尽くしてきた. でも, あなたは, 私の気持ちを踏みにじり, 私を軽んじた. もう, これ以上, あなたと一緒にいることはできない. 」
私の言葉は, まるで氷の刃のように, 英志の心に突き刺さったようだった.
「そんなことはない! 久美, 俺は君を愛している! 」英志は私の腕を掴もうとした.
私は彼の手を振り払った. 「あなたは, 私を愛しているんじゃない. 私の『分別』を愛しているだけよ. 私の便利さを, 私の都合の良さを, 愛しているだけ. 」
私の言葉は, 英志の顔を凍りつかせた. 彼は, 私の言葉の真意を理解したようだった.
その瞬間, 五月が泣き崩れた.
「英志さん, 私, どうしたらいいの... お姉ちゃんが, こんなに怒ってる... 」
英志は, すぐに五月を抱きしめた.
「大丈夫だ, 五月ちゃん. 君は悪くない. 」
その姿を見て, 私の心は完全に冷え切った.
「英志. あなたは, これからも, 五月さんを守ってあげて. 」私は静かに言った. 「私は, もう, あなたたちの世界には, 関わらない. 」
私はトランクのハンドルを握りしめ, 英志と五月に背を向けた.
英志は, 私の後ろ姿に何かを叫ぼうとしたが, 五月のすすり泣く声に阻まれた.
私の足は, 迷うことなく, ホテルの回転ドアへと向かった.
私はもう, 彼らのことを振り返りはしない.