話 1
妊娠中の私は, かつて私を裏切りデザインを盗んだ元彼・玄と, その婚約者・真夕にパーティー会場で囲まれていた.
「こんな安っぽい偽物を身につけて, 高野社長夫人のふりをするなんて! 」
真夕はそう叫び, 夫が贈ってくれた数億円のネックレス『セイレーンの涙』を私の首から引きちぎった.
玄は私を庇うどころか, 私の頬を思い切り叩いた.
「貧乏人の分際で, 僕たちの顔に泥を塗る気か! さっさと消えろ! 」
口元から血が流れ, 私は床に倒れ込んだ.
周囲からは嘲笑の嵐.
彼らは知らない.
私が彼らの探している「高野社長夫人」本人であり, 世界的デザイナー『M』であることを.
痛みに耐えていると, 会場が凍りつくような静寂に包まれた.
タカノグループ総帥・高野潤人が, 私の息子を抱いて現れたのだ.
息子は私を見つけるなり, 泣き叫んで駆け寄ってきた.
「ママ! 血が出てるよ! 誰がいじめたの! ? 」
その瞬間, 玄と真夕の顔から血の気が引いた.
夫は私の傷ついた手首と首元を見て, 地獄の底から響くような冷徹な声で言い放った.
「私の妻に触れたのは, どいつだ? 」
第1章
私は, かつて恋人に裏切られ, デザインを盗作され, そして捨てられた.
佐田真世 POV:
パリの喧騒を後にし, 日本の空気を吸い込む. 妊娠後期の体には, 長時間のフライトがこたえた. 国際線の到着ロビーは, 再会を喜ぶ人々や, 迎えを待つ人でごった返していた. 私は少し疲れた息を吐き出し, 空港の自動ドアを抜けた. 夫が手配してくれた迎えの車を待つため, 指定された場所へ向かう.
その瞬間, 視界の隅に, 見慣れた文字が書かれたプラカードが映った. 「Sada Mayo」. 私のパスポート名だ. しかし, この場に私の名前が書かれたプラカードを持っている人がいるとは, 少し意外だった. 夫がサプライズで何か手配したのだろうか? いや, 彼ならもっと目立つ方法を選ぶはずだ.
私は首を傾げながら, そのプラカードを持つ人物に視線を向けた. そして, 私の心臓が凍りついた. プラカードを掲げていたのは, 黒田玄だった. 私の元恋人, かつて私を裏切り, 心を踏みにじった男. 彼の顔は, 以前よりもどこかやつれて見えたが, その傲慢な態度は変わっていなかった.
玄の隣には, 内本真夕が立っていた. 彼女の顔は化粧で厚く覆われ, 派手なブランドバッグを腕にかけている. あの, 玄が私を捨てて乗り換えた, 地方百貨店オーナーの令嬢. 二人は親密そうに寄り添い, 時折笑い合っていた. その光景は, 私の胸に冷たい鉛を流し込むようだった.
「あら, 玄. あなた, こんなところで何してるの? 」真夕が, わざとらしく甲高い声で言った. 彼女の視線が私を捉え, その目に侮蔑の色が宿る. 「まさか, 落ちぶれた元カノを迎えに来たわけじゃないわよね? 」
玄は私を一瞥し, 鼻で笑った. 「まさか. こんなところに真世がいるなんて, 夢にも思わなかったよ. どうした? 生活に困って, 金を借りにでも来たのか? 」彼の言葉には, 以前の私を嘲笑うような響きがあった.
周囲の人々が, 私の方にちらちらと視線を向け, 小声で囁き始めた. その嘲笑が, 私の耳に直接届くようだった. 彼らは, ラフなマタニティウェア姿の私を見て, 勝手に私の現状を判断している. 彼らは知らない. 私が誰であるか, そして, なぜ私がここにいるのかを.
その時, 玄のグループの中にいた, かつて私と親しかった女性が, 少し気まずそうに口を開いた. 「でも, 真世ちゃん, 玄さん, 最近あなたのことを探してるって言ってたわよ? 」
玄はすぐにその言葉を遮った. 「何を言ってるんだ, 由美. 僕がこんな女を探すはずがないだろう. それに, 真世, 君はここに何しに来た? 高野グループのパーティーにでも潜り込もうとしているのか? 悪いが, 君のような人間が入れる場所じゃないんだ」彼は私を侮蔑する視線を送った.
私は, 彼の言葉に吐き気を覚えた. この男は, 数年前と何も変わっていない. いや, むしろ悪化している. 彼の目の奥には, 私への軽蔑と, 自分自身への満足が渦巻いていた. 私は, 怒りよりも先に, 深い嫌悪感に襲われた. この男と, これ以上関わりたくない. 私の夫が, もしこの光景を見たら, どう思うだろうか.
私は, 口を開きかけたが, 真夕がそれを遮った. 「真世さん, 私たち, タカノグループの社長夫妻をお迎えに来ているのよ. あなたも, 何か手伝う気があるなら, 私のブランドで雑用係の仕事くらいなら紹介してあげてもいいわよ? 」彼女は, まるで恵んでやるかのように言った.
真夕の視線が, 私の膨らんだお腹と, 肌触りの良いシンプルなマタニティウェアに止まる. 「その服, どこかの安物? みすぼらしい格好で, こんな場所に来るなんて. いくら昔の知り合いだからって, 場をわきまえないと」
かつて, 私は玄のために, どんなに貧しくても, 流行の服を身につけ, 彼に釣り合うように必死で着飾っていた. あの頃の私は, 彼の言葉一つで一喜一憂し, 彼に認められることだけが全てだった. でも, 今の私は違う.
「私は今, 妊娠中なの. 夫が, 着心地の良いものを選ぶように言ってくれたから, この服にしただけよ」私は静かに答えた.
玄は, 私の言葉を聞いて, 嘲笑するように言った. 「妊娠? ほう, あの時, 僕の子を中絶したくせに, 今度は誰の子だ? 僕に捨てられた腹いせに, 適当な男と結婚でもしたのか? ずいぶん落ちぶれたものだ」彼の目には, 私の言葉を嫉妬と捉えた得意げな色が浮かんでいた.
玄は, 真夕と顔を見合わせてニヤリと笑った. 「まあ, せいぜい頑張れよ. 君には, 僕や真夕のような世界は, もう縁がない」彼はそう言い放ち, 再び真夕の方に体を向けた.
私は, これ以上ここにいる意味がないと感じた. 彼らの醜悪な言葉と視線に, 私の大切な子供が晒されることに耐えられなかった. 私は, 彼らに見向きもせず, 来た道を戻ろうと一歩踏み出した.
「待って, 真世! 」玄が, 私の腕を掴もうとした. 彼の指が, 私のシンプルなワンピースの袖に触れる.
「触らないで」私は冷たく言い放ち, その手を振り払った. 私の心は, 完全に彼らから離れていた. 私は, この茶番劇をこれ以上続けるつもりはなかった. だが, 彼らはまだ, 私を解放する気がないようだった.
話 2
佐田真世 POV:
「どうしたの, 真世さん. そんなに焦って. 私たちが提案してあげてる仕事, 断るつもり? 」真夕が, 再び甲高い声で私を追い詰めるように言った. 彼女の取り巻きらしき女性たちも, 私を嘲笑するような視線を投げかけてくる.
「そんなみすぼらしい格好で, タカノグループのパーティーに行けるわけないでしょ? ねえ, 真世さん, お子さんが生まれたら, 私が使ってたお下がりでもあげるわよ. 育児なんて大変でしょ? まあ, あなたみたいな人には, ベビーシッターを雇う余裕もないでしょうけど」真夕は, 施しを与えるように言った.
玄は, 私から目を離さず, ゆっくりと口を開いた. 「昔の傷に浸っている暇はないんだよ, 真世. 君の高慢なプライドなんて, 何の役にも立たない. 僕に捨てられたことは, 君にとって大したことじゃない, とでも? 」彼の言葉は, まるで私の過去の痛みを否定するかのように響いた.
私の胸に, 鈍い痛みが走った. あの時, 彼に裏切られ, デザインを盗作され, 全てを失った絶望的な日々が脳裏をよぎる. 彼は, 私に「家柄が釣り合わない」と言い放ち, 私の夢を奪い, 私を闇の底に突き落とした. その痛みが, 今, この男の言葉によって再び抉り出されるようだった.
彼の言葉は, かつて私を愛し, 守ると誓った男の言葉とは, あまりにもかけ離れていた. 彼はもう, 私が知っていた玄ではなかった. 私の心の中の, 彼への最後の未練のようなものが, 完全に粉々に砕け散った. 私は, もう彼らに何も期待しない. 何も語りたくない.
私は, 彼らの顔を交互に見た後, 静かに, そして少しだけ挑戦的に言った. 「あなたたちは, 本当に私を迎えに来たの? 」
その場に, 一瞬の沈黙が訪れた. そして, すぐに嘲笑の嵐が巻き起こった.
「馬鹿なこと言わないでよ! 」真夕が, 大声で笑いながら, 手に持っていたプラカードを指差した. 「私たちは, 高野社長夫人をお迎えしているのよ! 高野グループの総帥夫人よ! あなたみたいな貧乏人が, 高野社長夫人なわけないでしょ! 」
彼女は, 高野潤人の名前を口にするたびに, その顔に興奮の色を浮かべた. 「高野社長夫人は, 世界的なジュエリーデザイナー『M』として知られているのよ. タカノグループの総帥, 高野潤人様のご令夫人よ! 彼女は, 社交界でも常に注目を集める存在で, 身につけるものは全て超一流品ばかり. あなたみたいな, みすぼらしい格好の人が, なれるはずないでしょ! 」
真夕の言葉を聞きながら, 私の口元に, 自然と幸福な笑みが浮かんだ. そう, 彼女の言う通りだ. 私は, 高野潤人の妻であり, 「M」という覆面デザイナーとして活動している. 彼女たちが探し求めている人物は, まさにこの私なのだ.
「ええ, 知っているわ」私は, 心の中でそう呟いた.
真夕は, 私の笑みを見て, さらに得意げになった. 「高野社長夫人は, 本当に素晴らしい方よ. いつもエレガントで, 身につけるジュエリーは, どれも目を見張るような逸品ばかり. 特に, 彼女が愛用しているという, 伝説のジュエリー『セイレーンの涙』は, 私も一度でいいから見てみたいわ」
その時, 真夕の目が, 私の手首に光るブレスレットに留まった. それは, 私が普段身につけている, シンプルなデザインだが, 最高級のダイヤモンドが散りばめられた, 夫が特注してくれたものだった.
真夕の顔から, 一瞬にして笑顔が消え去った. 彼女の瞳が大きく見開かれ, その中に, 驚愕と, そして嫉妬の色が浮かび上がった. 「それ…そのブレスレット…」
その瞬間, 周囲のざわめきがぴたりと止まった. まるで時間が止まったかのように, 全ての視線が私の手首に集まる. そのブレスレットは, 確かに「セイレーンの涙」ではなかったが, その輝きは, 周囲の誰もが見ても一目でその価値を理解できるものだった.
玄の顔から血の気が引いた. 彼は, 私の手首を乱暴に掴んだ. 「おい, 真世! お前, どこでそんな偽物を手に入れたんだ! ? こんな安っぽいガラス玉を身につけて, 高野社長夫人の名誉を傷つける気か! 」彼の指が, ブレスレットに食い込む.
私は, 玄の粗暴な行動に眉をひそめた. 夫が私にと贈ってくれた, 大切なブレスレットだ. 私は, 彼の指を振り払い, 優しくブレスレットを撫でた. 私の口角が, ゆっくりと上がっていく.
玄は, 私のその笑みを見て, 目を見張った. 彼の瞳孔が収縮し, まるで何か恐ろしいものを見たかのように, 顔が歪んだ.
「お前っ…! 」玄は, 怒りに震える声で叫び, 私の手首に再び手を伸ばした. 今度は, 私のブレスレットを力ずくで引きちぎろうとする.
バリッ! という音と共に, ブレスレットの留め金が外れ, ダイヤモンドが散らばった. 突然の衝撃に, 私は体勢を崩し, 前のめりに倒れそうになった. 私の手首に, 鋭い痛みが走った.
話 3
佐田真世 POV:
「何よ, この安物! 」真夕が, 地面に落ちたブレスレットを拾い上げ, 嘲笑するように言った. 「やっぱり偽物じゃない! こんなものを身につけて, 高野社長夫人のふりをするなんて, 厚かましいにも程があるわ! 」
周囲の人々から, 再び嘲笑の声が上がった. 「やっぱり貧乏人じゃないか」「高野社長夫人の名前を騙ろうとするなんて, なんて大胆な」
私は, 彼らの言葉を耳にしながら, 心の中で夫の潤人の顔を思い浮かべた. 彼がどれほどその名誉を重んじているか, 彼の地位がどれほど揺るぎないものかを. そして, 彼らが今, その彼の妻を侮辱し, 傷つけているという事実を.
真夕は, ブレスレットを私に突きつけながら, 高慢な声で言った. 「ねえ, この偽物, 私が買い取ってあげてもいいわよ. いくら? 千円くらい? 」彼女は, 私を完全に嘲笑していた.
私は, 傷ついた手首を抑えながら, ブレスレットを取り戻そうと手を伸ばした. しかし, 真夕はそれを避け, ブレスレットを高々と掲げた. 「高野潤人様が, こんな安物を私に贈るわけがないでしょう! 」
その瞬間, 玄が私の頬を思い切り叩いた. パァン! という乾いた音が, ロビーに響き渡った. 私の視界が揺れ, 口の中に鉄の味が広がった.
「馬鹿なことを言うな! 」玄が, 怒りに顔を真っ赤にして叫んだ. 「高野社長の名を軽々しく口にするな! お前のせいで, 僕たちの全てが台無しになるだろうが! 」
私の口元から, 血が滲み出た. 熱い痛みが, 頬を支配する. 玄の取り巻きたちも, 私を睨みつけ, 敵意のこもった視線を送ってきた. 彼らは, 玄がタカノグループとの契約を取り付けようとしていることを知っている. 彼らにとって, 私が高野社長の名を口にすることは, 彼らの利益を脅かす行為だった.
「僕たちが, どれだけお前を助けてやったと思っているんだ! 」玄の隣にいた男が言った. 「お前のせいで, 玄さんの会社が傾いたらどうするんだ! 」
私は, 口元の血を拭い, 玄を冷たい目で見つめた. かつて, この男を愛した自分が信じられなかった.
玄の目に, 一瞬の動揺が走った. 彼は, 私の目から, 以前の弱々しい私とは違う, 強い意志を感じ取ったようだった.
だが, 真夕は玄の動揺を見逃さなかった. 彼女は, 玄の腕を掴み, 耳元で何か囁いた後, 再び私に顔を向けた. 「この女, 昔から玄さんをストーカーしていたのよ. 玄さんを裏切って, 他の男と関係を持ったくせに, 今になって玄さんを陥れようとしているのよ! 」
その言葉を聞いて, 私は過去の記憶がフラッシュバックした. 私が玄のデザイン盗作を告発しようとした時, 彼女は私を誣告罪で訴えると脅し, 私が悪いように仕立て上げたことを.
「お前のような, 才能のない女が, 僕の人生を邪魔するな! 」玄は, 私の頬を叩いた手で, ポケットから小切手を取り出し, 私に突きつけた. 「これだ. これで, 僕と真夕の元から消えろ. そして, この金を元手に, どこかでひっそりと暮らすんだな」彼は, 私に施しを与えるかのように, 小切手を差し出した.
私は, その傲慢な態度に, 深い嫌悪感を覚えた. まるで, 私の存在が彼らの汚点であるかのように. 私は, 小切手をはねのけ, 地面に落ちたブレスレットのパーツを拾い上げた. 私は, この場から立ち去ろうと, 踵を返した.
「待て! なぜ受け取らない! 」玄が, 私の腕を掴んだ. 彼の指が, 私の傷ついた手首を強く握りしめる.
「離して! 」私は, 彼の手を振り払おうとした. これ以上, この男と関わりたくない. 私の夫が, 私の大切な家族が, もうすぐここに来るのだ. 彼らに, こんな醜い姿を見せたくなかった.
「なぜ, 僕の恩情を拒むんだ! お前は, 僕に捨てられた哀れな女だということを忘れたのか! 」玄の言葉が, 私の耳に刺さる.
私は, 玄の顔を真っ直ぐに見つめ, 冷たい声で言った. 「お前は, もう終わった人間だ」
玄が何か言い返そうとしたその時, ロビーの空気が, 一瞬にして凝固した. 全てのざわめきが止み, 人々が, まるで何かに吸い寄せられるかのように, 一斉にロビーの入り口に視線を向けた.
玄は, 私の腕を掴んだまま, その視線の先に目をやった. 彼の顔に, 一瞬の恐怖が走った. 彼は慌てて, 私を立たせようとするが, 私の体は, 彼の力に抗おうとしなかった.
「真世, 頼むから, 僕のことは知らないふりをしてくれ. 真夕とは, もう離婚したんだ. 君さえいれば…」玄は, 小声で, 私に懇願するように言った. 彼の顔には, 焦りと, そしてまだ私を利用しようとする魂胆が滲み出ていた.
私は, 彼の言葉に吐き気を覚えた. この男は, 本当に救いようがない. 私は, 彼の顔から目を背け, ロビーの入り口に視線を向けた.
そこには, 私の愛する夫, 高野潤人が立っていた. 彼の腕には, 私と彼の愛の結晶, 息子が抱きかかえられている. 息子の顔は, 潤人に瓜二つで, その整った顔立ちには, 年齢離れした賢さが宿っていた. 二人は, まるで絵画から抜け出してきたかのように, 完璧な親子だった.
潤人は, 私を見つけると, ゆっくりと, そして力強く私の方へと歩み始めた. 息子は, 潤人の腕の中で, 私に気づくと, パッと顔を輝かせ, 潤人の腕から飛び降りようと身をよじった.
「ママ! 」息子の声が, ロビーに響き渡った.
玄は, 息子の声を聞いて, 私の顔を見た. 彼の目に, 驚愕と, そして深い嫉妬の色が浮かび上がった. 「まさか…こ, この子が…」
「真世, 心配するな. 君は, 僕の子を産めばいい. 僕は, 君を一生守る…」玄は, まだ諦めきれないかのように, 私に囁いた.
私は, 玄の言葉を無視し, 潤人と息子に視線を向けた. 彼らが, 私の元へと歩み寄ってくる. 私の心は, 彼らの存在によって, 温かい光に包まれた.