話 1
「高橋さん、妊娠していますよ」
高橋美咲は信じられないというように目を見開いて医者を見つめた。「そんな、ありえません!?」
誰かと肌を重ねたことなんてない。三年付き合っている彼氏とも、せいぜい手を繋いだだけなのに、妊娠するなんて、ありえない。
「先生、何かの間違いじゃないですか?」
医者は検査結果の紙を差し出した。「検査結果が間違っていることはありません。すでに妊娠一ヶ月です。来週の水曜日にまた来てください」
美咲は検査結果を手にフラフラと階段を降りたが、まるで現実のこととは思えなかった。
スマホの着信音が鳴って、ようやく我に返った。
『高橋美咲、拓海の誕生日パーティーがもうすぐ始まるのに、まだ来ないの?』
彼氏の名前を聞いて、あることを思い出した。
一ヶ月あまり前、渡辺拓海と一緒にパーティーに参加した。終わるのが遅く、お酒も結構飲んでいたため、その日はホテルに泊まったのだ。
部屋まで送ってくれたのは拓海だったが、酔っていてその日の記憶はほとんどない。
もしかしてあの時、一線を越えたのだろうか?
その可能性に思い至り、美咲は一刻も早く彼に問いただしたくなった。
一等地のど真ん中に位置する楽坂のクラブ。美咲が個室のドアを開けた時、中はちょうど盛り上がっていた。
彼女は足を止めた。
拓海と一人の女の子が人だかりの中心にべったりと寄り添っていた。どう見ても、ただならぬ距離感で。
女の子は拓海の腕に抱きつき、顔には少しクリームがついていて、温かみのある照明の下でとても色っぽく見えた。
美咲は少し眉をひそめた。
女の子の名前は中村結衣。拓海の幼馴染で、四年前、夢と愛を追いかけて海外に飛び立った女だ。
個室の空気が盛り上がっている中、誰かがふと口を開いた。
「拓海、結衣が帰ってきたけど、高橋美咲はどうすんの?」
「はっ!高橋美咲なんてお呼びじゃないだろ。 あいつが勝手に擦り寄ってこなかったら、拓海が相手にするわけないじゃん」
その言葉に、全員の視線が拓海に集まった。
容姿端麗な彼は、気怠げにソファに寄りかかり、細く力強い指でグラスを持っていた。
彼は無頓着に言った。「ただの友達だよ。本気じゃない」
その言葉を聞いて、美咲は氷水に突き落とされたような気分になった。
全力で尽くしてきたのに、傍から見ればただの「尻尾振り」だった。
優しい声で付き合おうと言ってくれたあの人は、彼女をただの友達としか見ていなかった。
美咲の胸が激しく痛んだ。
よろめいて後ずさりした拍子に、うっかりドアにぶつかり、小さな音を立ててしまった。
途端に、個室中の視線が一斉にこちらを向いた。
誰かを確認して、拓海の視線がピタリと止まった。
美咲は顔面蒼白でドアの前に立っていた。
そのまま拓海と視線がぶつかる。
彼の深く暗い瞳は、彼女が現れても大して動揺していなかった。
彼女は拳を握り締め、震える声で確かめるように尋ねた。「今言ってたこと、本当なの?」
拓海はショックを受けている彼女を見て、鼻で笑った。「違うとでも?」
周りの連中は顔を見合わせ、野次馬根性丸出しで嘲笑した。
「毎日拓海にくっついてるだけで、彼女になれたとでも思ってたの?」
「身の程を知れよ。俺らみたいな家柄には釣り合いってもんがあるんだから……」
「でも高橋さんも落ち込むなよ。その顔なら、いくらでも遊んでくれる奴はいるって」
遠慮のない笑い声でボロボロにされ、美咲は怒りで全身が震えていた。
拓海の口元の気怠げな笑みを見た瞬間、目頭が熱くなった。
歯を食いしばり、手のひらに爪を食い込ませ、その痛みでなんとか冷静さを保った。
美咲は拓海をきつく睨みつけ、三年の思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
美咲は一拍置き、テーブルのグラスを掴むと、彼の頭に直接ぶちまけた。
鮮やかな赤い酒が拓海の髪から滴り落ちる。端正な顔から瞬時に笑顔が消え、怒りがあらわになると、周囲の連中も一瞬で押し黙った。
「きゃあ!」結衣が悲鳴を上げた。「高橋美咲、狂ったの?」
美咲がグラスを床に叩きつけると、個室にいた全員がビクッと震え上がった。
「渡辺拓海、今この瞬間から、私たちは赤の他人よ。二度と関わらないで」
今の光景には流石に不意を突かれたが、切るべき縁は切らなければならない。
そう言い残し、美咲は迷わず背を向けて立ち去った。
バタン!
ドアが叩きつけられる凄まじい音の後、個室は静まり返った。
拓海は信じられないといった様子でドアを睨みつけていた。
ーー高橋美咲の奴……よくもそんな真似を?
拓海の険しい顔を見て、誰かが恐る恐る口を開いた。
「女の嫉妬ってマジでヤバいな……」
「どうせ数日もしないうちに、高橋美咲の方から泣きついて謝ってくるって。あいつがいつも拓海にベタ惚れなのは、この辺じゃ有名な話だろ?」
「そうそう。拓海、あいつがすがりついてきても、絶対に許すなよ」
周りの言葉を聞いて、拓海の陰鬱だった顔色が少し和らいだ。
(そうだ、高橋美咲は俺のことが大好きなんだから、さっきのはただの八つ当たりに決まっている。)
結衣が痛ましそうな顔をした。「拓海くん、服が真っ赤になっちゃったね。着替えてこようか?」
拓海は彼女の手を押し除け、得体の知れない焦燥感を無理やり押さえ込んだ。「大丈夫だ」
美咲の怒りが収まれば、向こうから連絡してくるはずだ。
***
ドアの外で、美咲は壁にもたれかかっていた。
全身全霊を捧げた恋が、まさかこんな馬鹿げた終わり方を迎えるなんて思いもしなかった。
どれくらい経っただろうか。
下腹部に鈍い痛みを感じて、ハッと思い出した。
さっきは急な出来事すぎて、拓海にあの夜のことを聞くのを忘れていた。
美咲は本能的に痛むお腹をさすり、複雑な心境で床を見つめた。
(この子は、タイミングが悪すぎた……)
美咲は震える足でクラブを出て、頭の中をぐちゃぐちゃにしながら家に帰った。
庭を抜け、玄関のドアを開ける。
豪華なシャンデリアが床をキラキラと照らす中、中からは楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「お母さん、このサプリ、友達に頼んで海外から買ってきたの。口当たりが良くて美容にいいから、食べてみて」
「さすが優月は気が利くわね」
母と妹の高橋優月が仲良くおしゃべりしていて、三人の兄も穏やかな表情でそばに座っていた。
美咲はそれを一瞥すると、無表情のまま身をかがめて靴を履き替えた。
高橋誠司は玄関の美咲に気づいた。「こんな時間まで何をしていた?」
高橋文枝と優月が振り返り、その場の空気が一瞬で少し気まずくなった。
文枝は冷ややかな表情で、何も言わなかった。
一番上の兄と二番目の兄は短く挨拶したが、四番目の兄はチラッと顔を上げただけで、すぐに下を向いてスマホをいじり始めた。
美咲はこんな無視には慣れっこだった。「ちょっと用事があって遅くなりました」
誠司はそれ以上深く追及せず、厳しい表情で切り出した。
「鈴木家と高橋家の婚約のことは覚えているな? 両家で今すぐ婚約を果たすことになった。鈴木翔太の今の状況を考えれば優月を嫁がせるわけにはいかない。お前が代わりに行け」
父親の言葉は、青天の霹靂のように美咲の頭を真っ白にした。
「一ヶ月前、鈴木家のトップである鈴木翔太は交通事故で植物状態になったのよ。鈴木家が世界中の名医を呼んでも目を覚まさなかったのに、私に優月の代わりにあいつに嫁げって言うの?」
話 2
高橋美咲は思わず失笑した。
彼女と高橋優月は赤ん坊の頃に取り違えられ、13歳になってようやく高橋家に戻ってきた。
美咲が戻ってきても、優月は本来の家には帰らなかった。
両親も4人の兄たちも、優月との別れを惜しんだからだ。
優月を悲しませないため、彼らは美咲を祖父の高橋一郎の元へ送りやり、美咲は働き始めてからようやく家に戻ることができた。
彼らは優月を慰め、血の繋がりなんて関係なく、いつまでも家族だと言い聞かせた。
鈴木翔太との婚約はとっくに優月のもので、鈴木翔太に嫁ごうなんて身の程を知れと釘を刺された。
それなのに、翔太が事故に遭うや否や、美咲に嫁げと言うのか?
高橋誠司は彼女の態度が気に入らなかった。
「鈴木翔太に嫁げるなんて身に余る光栄だぞ。親父が鈴木謙太郎を助けた恩がなけりゃ、お前にこんなチャンスが回ってくると思うか?」
美咲は冷笑した。「へえ!そんなにいいチャンスなら、どうして高橋優月に行かせないの?」
誠司は眉をひそめたが、彼が口を開くより先に、隣にいた高橋文枝が口を挟んだ。
「美咲、あなたがずっと優月を疎ましく思っているのは知っていたけど、そこまで冷酷だとは思わなかったわ」
美咲:「?」
「妹はあなたとは違うの。あの子は温室育ちで、あなたみたいに苦労に耐えられないわ。鈴木家の今の状況で嫁がせるなんて、あの子を不幸にする気?」
文枝の怒りに満ちた視線を受け、美咲は自嘲気味に目を伏せた。
優月の実の父親は肉屋で、母親は八百屋、生活は決して楽ではなかった。
美咲は小学生の頃からすべての家事を押し付けられ、養父母からはひどくこき使われ、殴られるのも日常茶飯事だった。
冬、美咲が指を真っ赤に腫らしながら皿洗いや洗濯をしている間、優月は高橋家で家政婦に傅かれていた。
美咲が山のような家事を終えてようやく勉強できる頃、優月は家庭教師をつけてもらい、ピアノやダンスのレッスンに通っていた。
美咲が苦労に耐えられるのは、幼い頃から苦労するしかなかったからだ。
四男の高橋海斗は美咲の表情を見て、不満げな視線を向けた。
「なんだよ、その態度は? 鈴木家に嫁ぐのがそんなに不満なのかよ?」
美咲はそれを聞いても、まともに取り合う気になれなかった。
海斗は今をときめく超人気歌手で、昔から優月を可愛がり、美咲とはウマが合わなかった。
彼女は冷たい顔で言い放った。「私が嫁ぐかどうか、あんたに関係あるの?」
海斗は露骨に顔を歪めた。
「鈴木翔太が意識不明で、鈴木大旦那様が縁起を担いで結婚させたいってだけでも、鈴木家に嫁ぎたい奴は行列を作ってるんだ。身の程を知れよ」
美咲は鼻で笑った。「縁起を担ぐ?」
今の時代に、そんなこと信じてる人がいるの?
彼女は表情をこわばらせて口を開いた。「嫁ぎたい人が嫁げばいいでしょ。私を巻き込まないで」
彼女は翔太と親しいわけでもなく、何の感情もないのに、嫁ぐなんてあり得ない。
次男の高橋大輝は有名なファッションデザイナーで、比較的落ち着いた性格だ。
彼は鼻梁の金縁メガネを押し上げた。「美咲、物事は多角的に考えないといけないよ」
美咲はわずかに眉をひそめ、彼の真意を測りかねた。
誠司の声音が一段と低くなった。「高橋美咲!」
「高橋家の娘として、タダでここまで育ててもらったわけじゃないだろう。お前には家族全体のために尽くす義務があるんだ」
彼の言葉が終わるや否や、リビングに優月の優しい声が響いた。
「お父さん、もう言わないで。お姉ちゃんが嫌ならいいの、私が嫁ぐから」
彼女は淡いピンクのロングワンピースを着て、戸惑うように両手を重ね、おびえたような目で、勇気を振り絞ってそう言ったようだった。
優月の言葉が終わるが早いか、長男の宗介が反対の声を上げた。
「ダメだ、優月が嫁ぐなんてあり得ない!」
宗介は慌てた様子で優月を自分のそばに座らせ、美咲を非難するような目で見つめた。
「お前はそこまで冷酷なのか? どうしても妹を追い詰めないと気が済まないのか?」
誠司は険しい顔をした。「美咲、高橋グループが今直面している危機は、お前が誰よりもよく分かっているはずだ。鈴木家の援助がなければ、今回は間違いなく致命傷になる」
美咲の顔色はさらに冷え込んだ。
彼女は大学を卒業する前から高橋グループに入り、表向きは長男の宗介の秘書だが、実際は裏で彼の知恵袋として動いていた。
ここ数年、高橋グループを盤石なものにしただけでなく、かつて同等だったライバル企業を引き離すほどの勢いを作ってきた。
今回の高橋グループの危機は、宗介が彼女の忠告を聞かずに巨大プロジェクトに手を出したことが原因だ。
長期プロジェクトで莫大な資金が必要となり、一時的な資金ショートを起こして危機に陥ったのだ。
まさか高橋家が鈴木家に頼ろうとしていたとは思いもよらなかった。
自分が心から家族に尽くせば、彼らも少しずつ自分を受け入れ、本当の家族として見てくれると信じていた。
まるで、優月にするのと同じように。
美咲は、自分が長年尽くしてきたことが、彼らの心に何の響きも持っていなかったとは夢にも思わなかった。
何かあれば、真っ先に彼女を犠牲にすることを考えるのだから。
彼女は深呼吸をした。「高橋グループが致命傷を負うのはあなたたちの経営ミスのせいでしょ。どうして私が犠牲にならないといけないの?」
誠司は彼女が聞く耳を持たないのを見て、一瞬目を鋭く細め、口調を和らげた。
「あの家政婦を助けたいんだろう? 鈴木翔太の医療チームは世界トップクラスだ。鈴木家に嫁げば、彼女を救えるチャンスがあるぞ」
美咲は一瞬にして硬直した。
彼女は高橋家に戻ってすぐ、祖父の元へ送られた。
祖父は高齢でほとんど何も干渉せず、ずっと山口さんが彼女を献身的に世話してくれていた。
2年前に山口さんが不慮の事故で転倒して以来、ずっと意識不明のままだ。
彼女はこの2年間、手を尽くして山口さんのために多くの医者を探したが、少しも回復しなかった。
翔太が交通事故で植物状態になったことで、鈴木家は間違いなくその分野の専門家を世界中から探し集めているはずだ。
もし山口さんが目を覚ますチャンスがあるなら、絶対に見逃すわけにはいかない。
美咲は、怒り狂う母親、猫をかぶる優月、打算的で偽善的な父親、そして自分を非難する高橋家の3人の兄弟を見つめ、全身の血が凍るのを感じた。
瞬く間に、心の底からの失望が押し寄せた。
しばらくして、彼女はようやく自分の声を取り戻し、真っ赤な唇を噛み切らんばかりにして口を開いた。「わかった、嫁ぐわ」
翔太のトップ医療チームに山口さんを治療してもらうだけでなく、自分自身がこの高橋家という牢獄から抜け出すためでもあった。
彼女が承諾したのを見て、誠司の顔色はようやく少し和らぎ、文枝の顔にも笑顔が戻った。
「お前が聞き分けのいい子だと信じていたよ。これからの高橋家はお前にかかっているからな」
鈴木家は百年前から名を馳せた豪商であり、長年の蓄積によって、その名声と富は計り知れないものだった。
高橋家が鈴木家の姻戚となれば、謙太郎が約束したいくつかのプロジェクトだけでなく、その肩書きだけでも絶大な利益をもたらす。
誠司が喜びに浸っていると、再び美咲の声が聞こえた。
「でも、1つ条件があるわ」
誠司は笑った。「私たちは家族じゃないか。欲しいものがあるなら何でも言いなさい。そんな他人行儀な」
美咲は誠司の顔に浮かぶ偽善的な笑顔を見つめ、両脇に下ろした手を強く握り締め、一言一言区切って言った。「会社の株の3パーセントをちょうだい」
話 3
高橋家は鈴木家と縁を結びたいくせに、高橋優月を嫁がせるのは惜しいだなんて、そんな都合のいい話があるわけない。
これまでの数年間、高橋美咲は高橋グループを破産の危機から救い出し、その3パーセントの株を優に超えるほどの利益を生み出してきたのだ。
美咲のこの言葉に、その場にいた全員の顔色が変わった。
高橋文枝は不満げに眉をひそめた。「あんた、株なんてどうするつもり? 家でひもじい思いでもさせてるとでも言うの?」
四男の海斗がせせら笑った。「はっ!高橋美咲、お前は本当に恩知らずだな。一体いつから株なんか欲しがるようになったんだ?」
次男の高橋大輝は美咲をちらりと見ただけで、何も言わなかった。
長男の高橋宗介はそれを見て、ひそめていた眉を緩めた。「美咲、その株はいずれ全部俺たちのものになるんだから、今すぐどうこうする話じゃないだろ」
高橋誠司も笑って頷いた。「そうだよ、美咲。私たちは家族なんだから、お前をぞんざいに扱うようなことは絶対にしない」
美咲は彼の笑顔を見つめ、微かに皮肉を込めて言った。
「株をくれないなら、別の人を当たってちょうだい」
利益のために植物状態の男に売る家族が、今後よくしてくれる?笑わせる。
実際のところ、美咲が高橋家に戻ってきたばかりの頃は、家族の態度はそれなりに良かった。
しかし、それも長くは続かなかった。
美咲が何もしなくても、優月を目の敵にしていると決めつけた。
優月が少しでも落ち込んだ素振りを見せれば、美咲は非難の的となり、いくら弁明しても言い訳だと片付けられた。
所詮、血の繋がりも共に過ごした時間と情には勝てないということだろう。
落ち込んではいたが、それでも心の底では家族の愛を求めていた。
しかし今日、彼女はふと悟った。自分が彼らを家族だと思っていても、相手はそうとは限らないのだと。
自分は一生家族に恵まれない運命なのだろう。それなら一人でも構わない。
誠司は美咲の言葉を聞いて、口調を和らげた。
「美咲、鈴木翔太は確かに意識不明だが、相手はあの鈴木家だ。普通では想像もつかないほどの富と名声が手に入るんだぞ……」
彼は少し言葉を切った。
「安心しなさい。お前が嫁いでも我々は永遠に家族だし、会社でのお前の立場は、俺が絶対に守ってみせる」
美咲は、乾いた笑いしか出なかった。「ふっ!」
今更「家族」なんて都合のいい言葉で、自分の結婚を利益のダシにできるとでも思っているのだろうか?
「株の譲渡手続きが終わったら、結婚してあげるわ」
そう言い残し、美咲は身を翻して階段を上がっていった。
「高橋美咲、ずいぶんと偉くなったものね?」
文枝は怒りに任せて手に持っていた湯呑みを机に叩きつけた。「小さい頃から育ててない子はこれだから。感謝の欠片もないんだから……」
海斗が鼻を鳴らした。「母さん、あいつの性格なんて最初から分かってただろ? 毎日誰かに借金でも取り立てるような仏頂面してさ、あいつに何を期待してるんだよ?」
次男の大輝は美咲の背中を見つめ、微かに眉をひそめた。
なぜか、先ほどの美咲の表情が妙に引っかかり、胸の奥がざわついていた。
宗介は眉をひそめた。「高橋美咲のやつ、どういうつもりだ?」
誠司は険しい顔をしたまま黙り込んでいた。
優月は彼らの表情を窺うと、瞳を揺らして殊勝な声を出した。「お父さん、お母さん、やっぱり私が嫁ぐよ。気にしないで……」
文枝が真っ先に反対した。「ダメよ。鈴木翔太が倒れて鈴木家は今大混乱なんだから、あんたを嫁がせるわけにはいかないわ」
翔太は鈴木家で唯一の後継者というわけではない。
今、彼はベッドで昏睡状態にあり、世間ではもう植物人間だとか、体のどこかを失っただとか、そんな噂まで飛び交っている。
鈴木家の中で翔太に抑えつけられていた連中が、再び不穏な動きを見せ始めている。
翔太がこの先目を覚ませばいいが、もし目覚めなければ彼は捨て駒となり、権力闘争の渦の中心にされるだろう。
誠司は優月の真摯な眼差しを見て、強張っていた表情を緩めた。「大丈夫だ、優月は心配しなくていい。後でまたお姉ちゃんを説得するから。お前のキャリアに傷をつけるわけにはいかない」
美咲は自分の部屋に戻った。
彼女の部屋は3階の一番奥にあり、狭いうえに北向きの窓からは日差しがほとんど入らない。
メイドたちが話しているのを偶然聞いたことがあるが、ここは元々物置だったらしい。
高橋家に戻ってきたばかりの頃は、優月の隣の、日当たりのいい部屋をもらっていた。
しかしその後、優月が「ピアノ室が遠くて」と何気なくこぼした。すると文枝はすぐに美咲の部屋を取り上げ、そこを優月専用のピアノ室に改装してしまった。
もっとも、美咲は気にも留めていなかった。
どんな部屋であれ、優月の実の両親の家にいた頃の部屋よりはマシだったからだ。
美咲が腰を下ろした直後、宗介が3階に上がってきた。
その顔には温和な笑みが浮かんでいる。
「美咲、俺たちだって本当はお前を嫁がせたくはないんだ。でも鈴木謙太郎さんの方から婚約の話を持ち出されて、断るわけにもいかなくて……」
美咲には、彼の笑顔がひどく嘘くさく見えた。
「へえ、私を嫁がせたくないの?それとも、高橋優月を嫁がせたくないの?」
宗介は軽く咳払いをした。「お前が物分かりが良くて、いつも家族のために動いてくれてるのは分かってる。でも優月は今、業界で人気が出てきて仕事も上り調子なんだ。今結婚したら、彼女のキャリアに大きな傷がつく……」
美咲はわざとらしく小首をかしげた。
「婚約したのは鈴木翔太と鈴木謙太郎でしょう?鈴木のお爺さんが婚約の履行を求めてきたのに、誰が嫁いでもいいわけ?」
「それは、あちらも特に指定してこなかったからな」
謙太郎はただ婚約を履行したいとだけ言い、こちらが同意するか、何か要求はあるかと尋ねてきただけだ。
「それに、厳密に言えばこの婚約はお前と翔太くんのものだ。優月の話は、間違いみたいなもんなんだよ」
美咲は数秒彼を見つめた後、呆れたように笑った。
「私が戻ってきた時、あなたたち寄ってたかって私に警告したわよね。翔太を狙うな、鈴木グループの女主人は優月だけだって」
そのことを指摘され、宗介はばつが悪そうに鼻を掻いた。「状況が変わったんだから仕方ないだろ?」
美咲は眉をひそめて彼を見据えた。
どうしてこんなにも堂々と厚顔無恥でいられるのか、まったく理解できなかった。
翔太が順風満帆だった頃は、婚約者は優月だと言い張っていたのに。
翔太の生死が分からない状態になった途端、私に嫁げと、しかもこんなに悪びれずに言えるなんて。
要するに、高橋家の人々は美咲のことなどハナからどうでもよかったのだ。
美咲は彼らを家族として扱い、あれだけ冷たくあしらわれた海斗にさえ手を貸してきたのに。
美咲の眼差しに込められた軽蔑の色が、あまりにも露骨だったのだろう。
宗介は彼女と目を合わせないようにした。「美咲、よく考えてくれ。お前が鈴木家に行けば、すべてが丸く収まるんだ」
そう言い残すと、宗介は部屋を出て行った。
「ふん!兄貴、あいつに何言っても無駄だよ……」
海斗はポケットに両手を突っ込みながら、嘲笑を浮かべていた。
「高橋美咲のやつ、本当に恩知らずだな。俺たちの本当の妹とは到底思えない。その点、優月はいつだって俺たちのことを一番に考えてくれてる」
あの時、優月が曲のアレンジを手伝ってくれなければ、海斗が芸能界でブレイクすることもなかっただろう。
「翔太がどうなろうが、嫁に行くだけで痛くも痒くもねぇし、タダで鈴木夫人になれるんだ。あいつにとって何の損があるって言うんだ?」
宗介は小さくため息をついた。「あいつにも自分の考えがあるんだろうさ」
海斗は冷たく鼻を鳴らした。「はっ!あいつに何の考えがあるって言うんだ? 今日、業界のダチから聞いたんだけど、高橋美咲のやつ、渡辺家の坊ちゃんにフラれたらしいぜ。機嫌が悪いのを俺たちに八つ当たりしてるだけだろ!」