話 1
Sシティの大手企業、FXインターナショナルグループは、ホテルチェーン、建設業界、大型商業施設、エンターテインメント会社から遊園地に至るまで手広く事業を展開していた。 Sシティの住民は彼らの市長が誰なのか知らなかったかもしれないが、大家族経営の権力者であり、引く手あまたのビジネスの巨匠の一人であるエドワード・ムーを知らぬ者は誰一人として居なかった。 ムー氏は大富豪の成功者なだけでなく、 そのルックスはほとんどの女性よりもゴージャスで、絶対的な魅力を誇っていた。 噂を耳にした誰もが、そんな話があるわけがないと思うのだが、彼を一目見た瞬間、それが真実であったと認めざるを得ない。 加えて、頭脳明晰な男なので、競合他社の不意を突いて打ち負かすことがよくある。 また、彼に関する艶聞はいつも諸々の雑誌に掲載されていたため、人々に「プレイボーイ」の印象を残した。 彼の秘密を知る者は多くはいなかったが、噂によれば、 ジェシカ・リンがムーの本命ということだった。
FXインターナショナルグループの玄関ホールは、彫像、色とりどりな象眼細工の大理石、金メッキを施した青銅の天井で贅沢に装飾されていた。 接客カウンターには5歳の男の子を連れた一人の女性軍人が立っていた。 容姿端麗な女性だけど、冷たく真面目そうに見えた。 彼女は予約なしで社長に会うことを求めたが、 同社には、約束なしに誰も社長に会うことはできないという規則があった。 女性軍人が至急社長に謁見することを主張するような状況は前代未聞で、職員の間に混乱を招いた。 職員は彼女に来訪者は事前に予約がないと社長に会うことはできないという説明をしたが、ついに88階の社長秘書に助けを求めた。
「チャオさん、今ここに社長に 会いたいと仰る女性軍人がお見えになっています。 お通ししても宜しいでしょうか?」 職員は言った。
「何だって? 女性軍人?」 アーロン・チャオは驚いた。 「ああ、一体何が起こっているんだ? 社長にガールフレンドがたくさんいることは承知しているが、軍人のガールフレンドなんて聞いてないけどな? 補佐官の仕事も楽じゃないよ。 何故僕が社長の日常業務と私生活の両方に責任を負わなければならないんだ?」 彼はぶつぶつと不平を言った。 躊躇しながらもチャオ氏は 社長に尋ねることにし、彼のオフィスに入っていった。
「社長、今あなたに至急会いたがっている女性軍人さんがお見えですが、事前にお約束をされておりません。 お会いになりますか?それともお引き取り願いますか?」 アーロン・チャオは微笑んだ。 彼の明るい瞳は喜びに満ちていた。
「女性軍人?」 エドワード・ムーは読んでいた書類から頭を上げた。 しかし彼は過去に女性軍人と関わったことを覚えているようには見えなかった。 「その人の要件は?」 再び書類に視線を戻しながら言った。
「要件については何も言っていませんが、早急に社長に会いたがっておられます」 アーロンは自分の上司をからかうようににやりと笑ってみせた。
「本当か? 突然予約もなしに俺に会うことを要求するとは余程自信があるんだろうな」 通してあげなさい」 エドワードはこの女性に好奇心をそそられ始めたのだ。
デイジー・オウヤンという女性軍人は、平静を装おうとしていたが、実際のところ少し緊張していた。 彼女はエドワードがまだ自分のことを覚えているかどうかさえも分からなかった。 会見を待っている間、そわそわとした様子で手のひらをこすり合わせていた。 ビクビクしながらも、結婚初夜に彼に大声で言い渡された言葉を決して忘れていなかった。
「結婚したからって、俺がお前の物になることは無い。 一枚の紙切れに書かれているように、お前は俺の妻かもしれないが、 俺の心と愛は決してお前に属さない。 肉体関係を結ぶために俺に薬を飲ませるなんて、 よくもそんなことができたな! もうそんなへまは二度としない!」 男は怒りに震えながら言い放った。
そして、ドアを叩きつけるように閉め、去って行った。 デイジーは、訳が分からず、同時に恥ずかしい思いもした。薬の事など何も知らなかったのだ。 気が付いたら全裸で彼の腕の中で眠っており、体中が痛んだことしか覚えていない。 その男は彼女に何の身に覚えも無い事で彼女を非難し責め立てたのだ。 実際何が起こったのか、いくら思い出そうとしても思い出せなかった。
その夜に起こったことには霞がかかってしまい、 思い出せるのはただ熱くて無力で動けなくなったことだけだった。 恐らく彼女も薬を盛られたのだろう。 過去6年間、エドワードが数多くの女優やアイドルと関係を持っているそうで、それについてのゴシップや噂を聞き、デイジーは折り合いを付けていかなければならなかった。 最悪なのは、それらのことはニュースから知ったのだ。
それにしても、彼女は決して彼に連絡しなかった。 エドワードの放った「お前は所詮名ばかりの妻に過ぎない」という言葉がいつまでも脳裏から離れなかったからだ。 彼が誰と付き合おうが、寝床を共にしようが、彼女の知ったことではなかった。 実のところ、彼はもうずっと前に彼女のことなど忘れてしまった様に見えた。 このような予期せぬ状況がなければ、彼に会うことなど努々思わなかった。 そもそも、エドワードもデイジーも家族の利益のための犠牲者に過ぎなかった。 この結婚には支払われるべき代償があるようだった。
「ママ、痛いよ」 ぎゅっと繋がれた手を引き抜こうと、男の子もがいた時、母親ははっと我に返った。 デイジーはしばらくの間ぼーっと考え込み、男の子の手を力任せに強く握りすぎていた事にも気付かなかった。
「ごめんね、ジャスティン。 前に起こったことを考えていたの」 デイジーは少年の前でしゃがみ込みささやいた。 この小さな男の子は彼女の息子だった。 彼女はあの夜の後に妊娠するなんて夢にも思っていなかった。 幸か不幸か、彼の遺伝子と優れた能力のおかげで、この魅力的な息子を授かった。 ジャスティンはデイジーの人生そのものになって、もしこの先この少年を失ってしまったら、彼女はどうしたら良いのか分からなかった。
「大丈夫、僕痛くないよ、ママ どうしたの? パパのこと? パパは僕たちに会いたくないって?」 ジャスティンは優しい声で尋ねた。 彼は輝く瞳でお母さんを見つめた。
「いいえ、そんなこと無いわ、ハニー、パパは今少し忙しいから、準備ができるまでここで待ちましょうね」 彼女は根気よく説明した。 父親のことについて息子に隠すことなく全部正直に話していた。 息子はいつも何故パパが彼らと一緒に住んでいないのと理由を尋ねたが、パパを探し出そうとおねだりするようなことは一度も無かった。
「お客さま、社長のムーがお待ちしております」 職員は彼女に敬意を持って接した。 その少年にとてもなじみのある何かを感じたからだ。 しかし、職員は以前に彼に会ったことがあるかどうかは思い出せなかった。
「分かりました、ありがとうございます!」 デイジーは丁寧に答えた。 それから彼女は静かにその場を去った。 デイジーは陸軍の軍服を着て非常に真面目で厳格に見えたが、それも彼女の魅力を一層輝かせていた。
興奮を抑えることはできなかった。 これまでの6年間、自分の気持ちを抑えようとし、この関係を諦めていたが、エドワードに会おうと思うと神経が昂った。
今までこのビルに女性軍人が訪れるなんてことは無かったので、デイジーはみんなの注目を集めていた。 着飾ったセレブや有名な女性スターが常連だった。
「お客さま、こちらです」 エドワードの秘書が彼女を案内した。 デイジーは額に小さな汗のビーズができる程に、明らかに緊張していた。 彼女は息子の手をしっかりと握り締めた。 ジャスティンは母親の感情をしっかりと感じ取っていた。ママの強く握りしめた手は痛かったけれど、今度は何も言わなかった。 彼は母親と同じ気持ちだった。 いつもインターネットでしか見かけないパパは彼のことをちゃんと愛してくれていたのか確信を持てずにいた。
秘書がドアをノックした。中から「どうぞ」という太い声が聞こえた。 デイジーは当初、この低く懐かしい声を聞いたらパニックになるだろうと思っていた。 予想に反して、自分でも信じられないほど落ち着いていた。それでも、目の前の男に恐れをなしていることを察されないよう最善を尽くした。 エドワードは真顔で彼女を見た。 彼の目に映ったデイジーはこわばっていて血の気が引いてはいたが、どこから見ても魅力的な女性だった。
「お邪魔をして申し訳ないが、これ以上の方法は見つかりませんでした。 3ヶ月間、息子の世話をお願いします。 任務が終わったらすぐ迎えに来るから」 デイジーは事実を述べるように冷たく言った。 彼に一目さえやらないうちにこれらの言葉を発した。
「ちょっと待って、あなたはどなたですか? お話の意味が分からないのですが」 エドワードは、なぜ自分が知りもしない小さな男の子の世話をしなければならないのか解らずに混乱していた。 目の前の女性が彼の目を見ることが出来ないでいることに気付いた。 エドワードは依然としてとても混乱していた。
自分のことを覚えていないであろうと、デイジーは覚悟をしていたが、まさかエドワードが全く思い出さないとは、心が傷ついた。 そして静かに結婚許可証を手渡した。
「戻ったらすべての質問に答えますが、今は急いでいます」 彼女は言った。 去る際に、彼女の携帯電話から広いオフィス全体に響き渡る程の大きな着信音で軍歌が鳴り響いた。
彼女はすぐに電話を取った。 「もしもし、マーク、 ええ、分かっている。 すぐ戻る。 彼らの位置情報だったら直接軍に連絡して頂戴」 そう言った後、電話を切った。 彼女の発した言葉は彼女の意思と同じ様に固くて迷いがなかった。
エドワードは一瞬凍りついた。 「なぜだ? なぜこの女は俺のことを無視している? 誰も私の魅力に抗うことは出来ないはずなのに、俺って思うほどイケてないのか?」 心の中で思った。
「ジャスティン、もう行かなきゃ お利口にしてるのよ、パパを困らせないでね」 デイジーは息子の顔に優しく触れた。 息子の乳母は、丁度彼女が陸軍の軍事訓練に行くタイミングで辞めてしまった。 短期間で新しい乳母を探すことが出来なかったのだ。 そうでもなければ、その少年を父親に預けたりはしなかったであろう。
ジャスティンは母親を見た。そして母を安心させられるような言葉を探した。 「ママ、心配しないで! いい子でいるから」 優しい笑顔で答えた。 しかし、ジャスティンはその時もう何かを企んでいた。 パパに良き夫となる術を教え込むという計画を。
息子に別れを告げた後、 デイジーは、エドワードに返事をする隙も与えずにすぐにオフィスから走り去った。 エドワードは、その少年が彼の息子である事実を理解できなかった。 テーブルの上の結婚許可証をずっと見つめていた。
「デイジー・オウヤン」と彼はつぶやいた。 彼と6年間婚姻関係にあった女性だった。 そしてただの一度も恋しいとすら思ったことのない妻だった。 彼女は風のように現れ、また風のように去り、残ったのはただ自分を見つめている小さな男の子しかなかった。
話 2
エドワードは、目の前の小さな男の子を眺めながら、椅子にじっと座っていた。 エドワードによく似た小さな顔にその年齢に相応しくない落ち着きがみえ、小さな黒い瞳はまるでエドワードの心を見透すように彼を見ていた。
少年は相手の出方をじっと窺っていた。 ジャスティンは軍人の中で育ち、 ひたすら軍の規則にさらされてきたので、幼いながらもこのような場合の戦い方をよく心得ていた。 相手は他でもない、彼の父親だ。 そして今、父親が彼を見つめている。今の状況に驚愕しているのか?それともただ息子の存在が気に入らないのか?
「おチビちゃん、名前は何ていうの?」 先制はエドワードだ。彼はジャスティンの隣にしゃがみ込み囁いた。 この子は本当に俺の息子なのか? そうに違いない! そうでなければ、あの女はこの子をここに連れては来なかっただろう。
「僕はおチビちゃんじゃないよ。 ちゃんと名前があるからね」 ジャスティンは目の前の男をうっとうしそうに見つめた。
「じゃ、 君の名前を教えて?」 エドワードは面白がって微笑んだ。 「ジャスティン・ムー」 言い終わると男の子はエドワードを見た。エドワードは小さな男の子の振る舞いに気恥ずかしさを感じた。 だが、その小さな男の子の威張り腐ったような表情がとても可愛かった。
「ジャスティン・ムー」 あの女性は彼の素性を隠し通すつもりではなかったようだ。 それを知って彼の怒りは薄れていった。 たった一晩で赤ちゃんが産まれるなんて一体誰が想像できただろう。
「俺があなたのパパということは知っている?」
「はい、ママから聞いています」 ジャスティンは体勢を変えるために椅子の上で動いた。 彼は少し疲れていた。 早朝に陸軍基地からここに来て もうそろそろ正午を回るところだった。少しお腹も空いてきたのだ。
「じゃあ、どうしてもっと早くパパに会いに来なかったの?」 それこそがエドワードが知りたかったことだ。 また、デイジーがどのような経緯で軍の将校になったのか、それにも興味を持っていた。 他に彼女について知らなかったことは… この瞬間、エドワードは自分のいわゆる「妻」について殆ど何も知らなかったことに気が付いた。 彼女の生業さえも知らなかった。
「ママはパパがとても忙しい人って言ってるよ。だから邪魔したらダメって」 ジャスティンは一生懸命に説明しながらも、威張りくさった表情は変わらなかった。 年相応の可愛らしい態度にもかかわらず、その顔には彼の年齢よりもずっと大人びた悲しさがあった。
「ママがそう言ったの? 俺は忙しい、って?」 エドワードは動揺した。 確かに、彼は忙しかった。ただし、色々な女性たちといちゃつくのにな。 まさか一夜限りの妻と子供ができたなんて思ってもいなかった。 それに、彼女も一度も連絡しなかったし、もはや妻の存在をきれいさっぱり忘れてしまっていたのだ。 なんせ結婚した日の翌朝彼女を捨てて出て行ったのだから。 この結婚生活の為に、彼は毎年送金するよう秘書に指示をしただけだった。 もし今日、彼女の予期せぬ現れがなかったら、彼の人生にこの女が存在したことはもとより、自分が既婚男性ということすら忘れてしまったんだろう。
「そう、パパと他の女の人たちのことは、ママと一緒に毎日テレビで観てるから」 ジャスティンはこの場に慣れてはきたものの、父親に対して少しぶっきらぼうで歯に衣着せぬ物言いをした。 ママはパパが一緒に住んでいないのには理由があると言っていたが、それでもただの一度もママと自分に会いに来なかったのはおかしいと思っていた。
「どうやら君たちは、パパのことに対してとても関心を持つようだね」とエドワードは言った。 そして、ジャスティンの怒った皮肉っぽい顔を見て、思わず笑いだしてしまった。 エドワードの魅力的な佇まいに、幼いジャスティンさえも唖然とした。
「パパの事なんて別にどうだっていい もしパパがマヌケな笑顔で毎日テレビに出てなかったら、パパに会おうなんて思わなかったんだからね」 ジャスティンは怒っていた。なぜなら、エドワードが別の女性と一緒にテレビに映る度に、ママの目が真っ赤になるから。
「なんだって? マヌケな笑顔?」 どんな美人でも秒殺で虜にできるこの魅力的な笑顔が、どうしてこの少年の目にはマヌケな笑顔に映ったのだろう?
ジャスティンはパパのことを無視して、ふざけてふかふかのソファに飛び込んだ。 何だかんだ言って、まだ遊びたい盛りの小さな子供だったのさ。
「お腹空いてるかい?」 エドワードは時計を見るために腕に視線を落とした。 彼のどんな動作でも優雅そのもので、女性にモテるのも無理はないだろう。
「行こう! ランチに連れて行ってあげる」 エドワードは椅子に掛かったコートを取り、ジャスティンを抱き上げて、外に出て行った。
彼は息子がいるという事実を受け入れようとしていた。 自分の「妻」は今朝、断る隙さえ与えずに息子を預けて去ってしまった。 とはいえ、この少年が愛らしいということは紛れもない事実だ。 驚いたことに、世界がひっくり返るような出来事が起こっているにもかかわらず、自分は却って上機嫌になっている。
3ヶ月? 彼女が3か月後に再び彼を無視するかどうかを見届けるのが楽しみになってきた。 挑戦状を叩きつけられたような気分になったのだ。 追われる恋にはうんざりだが、追う恋には燃えてしまう彼の性だった。
話 3
「社長、 お出かけになるんですか?」 アーロン・チャオは山積みの資料を持ちながらせかせかとやって来て、エドワードとジャスティンにぶつかるところだった。
「歩く時はちゃんと前を見たまえ」 エドワードはよく手入れされた眉をしかめた。 もし彼が機転を利かせてすぐにかわしていなかったら、腕の中の小さな男の子は怪我をしていたかもしれない。
「申し訳ありません。 たくさんの書類があったもので、気が回りませんでした。 それにしても、この少年は誰ですか?」 アーロンは話を逸らすように、何げなく尋ねた。
「私の息子さ」エドワードは、まるで今日の天気について話しているかのように軽く答えた。 その言葉を聞いて、周りの人がどれほど仰天するか全く気付いていなかったようだ。 おまけにその傲慢な態度は誰が見ても苛立つだろう。
「えっ? ご子息?」 驚いたアーロンはのけ反って、床に倒れそうになった。 先ほどの女性将校の大事件からすると、 こちらの一件もあり得ないようなおかしな話ではないのかもしれない。 だが、彼が離れたほんの少しの間に、 何で急に息子さんができた? 世界は本当に刻々と変化しているんだよな。 この真理は社長からぴったり表現されているんじゃないか。
「どうした? 息子がいるのは変なのか?」 エドワードはむかっとして、少し声を荒げた。 どうやら普段からアーロンのやつにあまりにも優しすぎるから、俺にはこんな話し方だと、と考えた。
「うーん…少し変ですね」 そりゃ、完全に変だろ。 社長に息子がいるなんて誰も知らなかったんだからとアーロンは心の中でつぶやいた。
「なんだと?」とエドワードが言って、 そのそっけない態度が どんな濃い好奇心でも挫ける 。
「いやいや! 変じゃないですよ。 全然変じゃないです」 まさか。 彼はそれほど馬鹿ではない。 エドワードを怒らせるようなことをあえて言う必要は無い。 社長が冷たい悪魔であることは周知の事実なのだ。 頭の中で疑問符が溢れかえっていたが、これ以上尋ねると危ない。 まだ定時で帰りたいので、さもなければガールフレンドとデートする時間も無くなっちゃう。
「なら良い。 これからお昼を食べに出るから、よほどの重要案件が出ない限り邪魔しないでくれ。 あと、午後の予定もキャンセルしておけ」 そう言って彼は秘書室にくるりと背を向けてしなやかに去って行った。 残されたのは、ただ心が砕けた美人の秘書たちだけだった。
まさか彼女たちの社長には愛息がいるなんて。 母親は誰? さっきの素敵な女性軍人なの?それとも社長と謎めいた関係を持っているジェシカ・リン?
「冗談を言ってるんじゃないかしら、それとも本当だと思う?」 秘書の一人が思案に暮れていて、周りの人と話し合った。 どうやら彼女たちは社長の恋愛対象になるチャンスを失った。 何しろ、すでに子持ちなのだから。
「ただの養子かも、 まだ分からないわよ」 そう言って自分を慰める者もいた。 本当に想定外の事だったので、 彼女たちがそう反応するのも無理はない。
「でも、あの子供、社長にそっくりじゃない?」 秘書室の一人が嘆いた。 現実とはいつも残酷なものだ。
「いつまで怠けるつもりだい? 早く自分の仕事に戻れ」とアーロンが言った。実は彼も興味津々なのだ。 しかし今、彼がすべきことは、皆の好奇心を抑えて、職場の秩序が乱れないようにするのだ。
そもそも、社長は一言で簡単に予定をキャンセルすることはできるが、 尻ぬぐいをするのはいつもこっちだぞ、とアーロンは心の中で文句を言った。 本当に泣きたいのは補佐官の彼だよ! 以前社長に言われたことがある、「君の価値は使用人として俺のすべての命令に従うことにある。 君の見かけが好みで雇ったわけじゃない。 まあ、このイケメンの社長の俺の前に、君くらいのレベルは到底日の目を見ることは無いけどな」
何という上から目線だ。 アーロンの見かけはそんなにひどかったか?
いいえ! 彼の外見に問題があるわけではない! ひとえに社長がハンサム過ぎて、太刀打ちできる男性はおらず、いくら外見自慢の男でもひとたび彼の横に並べばたちまち見劣りしてしまうのだ。
エドワードはジャスティンを腕に抱きながら会社から出た。 またゴシップのネタにされると分かっていたけれど、 気にも留めなかった。 何と言っても、彼自身もまだ完全に納得していない。まさか自分にはこんなに大きな息子がいたとは。 まるで夢を見ているような感覚だった。
ジャスティンは彼の父親であるこの男を観察するような調子で眺めた。 確かにとてもハンサムで、 ママのような素敵な女性がこの人を好いているというのも無理のない話だ。 ジャスティンはずっと、父親に抱かれるとはいったいどんな感じなのか想像していた。 今、やっとその待ち望んでいた感覚を味わうことが出来た。 ママに抱かれる感じとは少し違って、パパの身体は少しごつごつとしているけれど、それもまた快適だった。
「伯父さん、ケンタッキーに行こうか?」 男の子はあどけない顔でエドワードを見た。 この「伯父さん」という呼び方がパパを驚かせることになるとは思わなかった。 エドワードは「伯父さん」と呼ばれて、驚きのあまり地面に倒れそうになった。
「ジャスティン、俺は伯父さんじゃなくて、君のパパでしょ」 エドワードはモヤモヤした気分になった。 なぜジャスティンは彼をパパと呼ばなかったのだろう? 俺は彼の父親であることを知ったのに、あえて伯父さんと呼んだとエドワードが考えた。
「だって伯父さんじゃない? みんなのパパはママと一緒に暮らしてるけど、うちは違うでしょ。だから、パパじゃないよ。 伯父さんって呼ばなくっちゃ」
「ふん」ジャスティンはひそかに考えた。「簡単にパパなんて呼んであげないよ。 ここからが本番なんだから。 これからもっと面白くなるからね、 オ・ジ・サ・ン」
…
なるほど。 確かに俺のせいかもしれないな。 しかし、たった一度の関係で息子を授かっていたなんて到底想像にも及ばなかったのだ。 だから、全部が俺のせいでも無いらしい。 今日の今日までジャスティンの存在すら知らなかったんだから、とエドワードは考えた。
「あのね、君がそこに居るってことは知らなかったので、一緒に居られなかったんだよ」とエドワードは弱弱しく説明した。
クソー、面倒くさいとエドワードは心の中で叫んだ。 今までの人生、自分の行動を人にとやかく言われる事なんて一度も無かったのだから。
「もし知ってたら一緒に居たの?」 ジャスティンは首を傾げて尋ねた。 父親が一体どんな言い逃れをするのか見たかったのだ。 ママにパパを探すように頼んだことは一度も無かった。なぜなら、ママが新聞に載ったパパの写真を1、2時間も眺めながら途方に暮れているのをよく見ていたから。 そんな時ママの目は真っ赤だった。 彼には大人の世界はまだよく分からなかったが、ママは彼の父親が好きなことを感じていた。 そうでなければ、新聞や雑誌によく登場するスキャンダラスな男がパパだと彼に言わなかっただろう。 パパを憎まないようにとも言った。そして彼らが一緒に住んでいない理由は結婚式のすぐ後に行き違いが生じてしまったからということも。
そうは言っても、母親のことを心から愛し、また心に寂しさを抱えているジャスティンがこの件に関し憤ったり心配したりしないことは到底無理だろう。 また、他の子供たちが父親と一緒に遊んだり、走ったり、泳いだりするのを見る度にとても羨ましく思った。 彼にはママしか居ない。
学校ではクラスメイトにパパ無しっ子と笑われたこともある。 怒りを堪え切れずに喧嘩をしてしまうことも珍しくはない。そんな時決まって彼は言った、ちゃんとパパは居るけれど、忙しすぎて一緒に暮らせないだけなんだ、と。 喧嘩の事がママにバレたら、罰として腕立て伏せをするように命じられるので、学校で起こったことをママに話さなかった。
「うーん…」参ったな。 残念ながら、エドワードは唐突な質問に答えることが出来なかった。 彼にとって演説などお手の物だったが、 なぜ息子の質問には答えられなかったのだろう。
「ジャスティン、ケンタッキーがいいんでしょ? パパが連れて行ってあげる、何でも好きなだけ食べなさい」 羽目になったエドワードは ケンタッキーを餌に話をはぐらかした。
「うん! フライドチキンの脚のところのやつと、ポテトとコーラがいい」 そう言って、ジャスティンはパパへの拷問を止めた。 どうやらこの少年にとって妥協するのは簡単なことだ。 うっかり毅然とした態度を取ることも忘れてしまった。
「そうか、ちゃんと全部食べられるなら、パパが頼んであげる」 エドワードはジャスティンの髪を愛しそうに撫でた。 そして思いがけない満足感が彼の心を満たした。 この小さな男の子は彼の息子で、見た目だけでなくその立ち居振る舞いもまさに彼に生き写しだった。