話 1
私は, この冬山で死ぬ. 婚約者に見捨てられ, お腹の赤ちゃんも一緒に.
私は, この冬山で死ぬ. 婚約者に見捨てられ, お腹の赤ちゃんも一緒に.
最新鋭のはずの防寒具はGPSごと故障し, 私は猛吹雪の崖から突き落とされた. 婚約者の真弘と, 彼の愛人である綾の手によって.
私とお腹の子は, 一瞬で命を奪われた. だが, 私の魂はすべてを見ていた.
幽霊となった私が見たのは, 信じがたい光景だった.
「恵美はいつもそうだ, 俺を困らせる」
救助を待っていたはずの真弘は私の死を迷惑そうに扱い, 綾は心配するふりでほくそ笑む.
なぜ? 私が命がけで愛し, 絶望から救ったはずの彼は, 私と我が子の死を何とも思わないの?
だが, 二人は知らない. 私が死の間際に握りしめた「証拠」と, 私の母と彼の姉が, この偽りの悲劇の真相を暴き始めることを. 私の死は, 彼らにとっての地獄の始まりに過ぎなかった.
第1章
倉田恵美 POV:
目の前に広がるのは, 白く濁った無限の虚空だった. 猛吹雪がゴーゴーと唸り, まるで生きた怪物の咆哮のように私の全身を震わせる. 凍てつく風が容赦なく吹き付け, 皮膚の奥まで冷え切っていくのが分かる. 頼みの綱だったはずの最新式防寒具は, なぜかまるで機能していなかった. 指先はとうに感覚を失い, かろうじて動く唇からは白い息が吐き出される. 私は今, 断崖絶壁の淵に立たされていた.
この状況で, 私は自分の体よりも, お腹の中の小さな命を心配した. 数ヶ月前に知ったばかりの, 私の赤ちゃん. 真弘に伝えようと, どれほど楽しみにしていたか. その喜びは, この世界に生まれることのない命の悲劇へと変わってしまった. この絶望的な寒さの中, 小さな心臓がまだ脈打っているのか, それとももう止まってしまったのか, 私にはもう分からなかった. ただ, 冷たい感覚だけが全身を支配し, 意識が遠のき始めていた.
足元には, 真っ白な雪に覆われた深い谷が口を開けていた. その深さは, 底が見えないほどだ. もしこのまま落ちたら, 無数の岩に激しく叩きつけられ, 私たちの体は原型を留めないだろう. そんな考えが頭をよぎるたび, 吐き気がこみ上げてきた.
それでも, 私は何かに縋ろうともがいた. 僅かに残された理性で, 唯一の希望だったGPS付き最新防寒具のデバイスを確認しようと, 凍え震える手をポケットに差し込んだ. だが, 私の指が触れたのは, 冷たい金属の感触だけだった. 何の反応もない. ディスプレイは真っ暗なままだ. 私は必死にボタンを押したが, 何も起こらなかった. どうして? これは真弘が「最新鋭だから絶対に大丈夫」だと言っていたものなのに.
突然, デバイスの小さな画面が, 一瞬だけ光を放った. そこに表示されたのは, たった一言のメッセージだった.
「邪魔. 」
その文字は, まるで私の心を直接抉り取るかのように, 冷たく, そして残酷だった. それは, 私がこの遭難の前に, 綾から送られたものだ. そのメッセージは, GPSの故障を告げるものではなく, 私の存在そのものを否定するものだった. 彼女は, 私が真弘にとって邪魔な存在だと言いたかったのだ.
全身を震わせる吹雪の中で, 私は, もう一度デバイスの画面に目を凝らした. やはり, そこには「邪魔」という文字が, 私の意識を嘲笑うかのように, はっきりと映し出されていた. 背後から聞こえる吹雪の音は, まるで彼女の嘲笑のようにも聞こえた.
「恵美さん, まだ生きてるの? 」
その声は, 風に乗って, 私の耳元に届いた. 綾の声だ. 弱々しく, 心配しているような声色なのに, 私の心には鉛のように重く響いた. 彼女は, 私がまだこの世に存在していることに, 心底驚いているようだった.
絶望の淵で, 私は深呼吸をしようとしたが, 冷たい空気が肺を焼き, 咳き込むことしかできなかった. 心臓の鼓動が, 自分の意思とは関係なく, 速く, そして激しく打ち鳴らされる. その音は, まるで死神が私を呼び寄せているかのようだった.
私は, 崖の縁に立つ自分の足を見下ろした. まるで他人の足のような感覚だった. もう, 何も感じない. ただ, 冷たさだけが, 私の存在を主張していた. このままでは, 凍え死ぬだけだ. それも, ゆっくりと, 確実に.
私は, お腹に手を当てた. 小さな命が, まだかすかに脈打っているような気がした. この子だけは, 私と同じ運命を辿らせたくない. でも, もうどうすることもできない. 私の手には, 何の力も残されていなかった.
突如, 強い突風が私の身体を押しやった. まるで, 誰かに背中を押されたかのように, 私はバランスを崩し, 虚空へと吸い込まれていった. 身体がフワリと浮き上がり, 次の瞬間, 重力が私と赤ちゃんを容赦なく引きずり下ろした.
落下する感覚.
それは, まるで夢の中を漂っているかのような, 奇妙な浮遊感だった. 同時に, 私の魂が身体から引き剥がされるような, 激しい痛みが全身を貫いた. 私は, 自分の身体が, まるで紙切れのように軽くなったのを感じた.
落下していく私の身体は, 小さな点となり, あっという間に雪の中に消えていく. 私は, まるで第三者であるかのように, その光景をただ眺めていた. この視界は, 一体何なのだろう. 私は, もうこの世にいないのだろうか.
身体は, 無数の岩に叩きつけられ, 砕け散っていった. それでも, 私には何の痛みも感じなかった. ただ, 虚しく, 冷たい感覚だけが残された.
私の意識は, まるで古びた映画のリールが巻き戻されるように, 過去へと遡っていった. 最初に脳裏に浮かんだのは, 真弘と出会った頃の自分だ. あの頃の私は, 希望に満ち溢れ, 未来に何の不安も抱いていなかった.
「真弘, 聞いてほしいことがあるの」
雪山に向かう前日, 私は真弘にそう告げた. その夜, 私は真弘に, お腹に新しい命が宿っていることを伝えようと思っていた. サプライズで, 可愛い赤ちゃんの靴をプレゼントするつもりだった. 彼がどんな顔をするだろう, どんな風に喜んでくれるだろうと, 私は胸を躍らせていた.
だが, あの時の真弘は, いつものように私の話をろくに聞こうともしなかった. 私の目を見ることなく, ただ携帯電話の画面に目を落としたままだ. 彼は, 私といるときよりも, 携帯電話の向こう側にいる誰かに夢中だった. 彼の態度から, 私の期待は少しずつ削り取られていった.
「恵美, また何か面倒な話? 」
真弘は, 冷たい声で私を遮った. うんざりしたような顔で, 彼は携帯電話を置いた. その表情は, 私の心を深く傷つけた. 私は, 彼にとって, ただの面倒な存在だったのだろうか.
「あのね, 私, 妊娠してるの」
私は, 震える声でそう告げた. 真弘の表情は, 一瞬にして凍りついた. 彼は, 私を信じられないといった目で見た. その目には, 喜びの色は微塵もなかった.
「恵美, 冗談だろ? 今, こんな時に? 」
真弘は, 不快そうに顔を歪めた. 彼は, 私を信じていないようだった. どころか, まるで私が彼を困らせようとしているとでも言いたげな態度だった. 私の心は, 冷たい水をかけられたように, 一瞬にして冷え切った.
「私が嘘をつくと思うの? 」
私は声を震わせた. 必死に真実を伝えようとしたが, 真弘はさらに苛立ちを募らせた.
「綾が今, 体調を崩してるんだ. 知ってるだろう? お前はいつもそうだ, 肝心な時に俺を困らせる」
真弘は, 私の言葉を遮るように言った. 彼の目は, 私ではなく, まるで遠い場所にいる綾を見ているようだった. 私の言葉は, 彼には届いていなかった.
「でも, これは... 」
私の言葉は, 真弘の怒鳴り声にかき消された.
「もういい! 俺は綾のところに行く. お前はここで大人しくしてろ」
真弘は, そう言い放つと, 私のことなど見向きもせずに, 綾の元へと駆け寄っていった. 彼は, まるで綾を守る騎士のように, 私の目の前から消えていった.
真弘と綾は, 私が凍え死ぬかもしれないという状況だというのに, 当たり前のように話し, まるで何も起こっていないかのように振る舞っていた. その光景は, 私にとって, あまりにも残酷だった.
私は, 自分の死を受け入れようと努めた. だが, お腹の中の赤ちゃんだけは, 私と同じ運命を辿らせたくなかった. この子だけは, 生まれてくるべきだった. 私に, その力があれば... .
私は, ポケットから, かろうじて動く指で衛星電話を取り出した.
「もしもし! 助けてください! 遭難しました! 」
私は, 震える声で叫んだ.
「落ち着いてください. 現在地を教えていただけますか? 」
電話の向こうから聞こえてきたのは, 冷静な男性の声だった.
「私のGPSは壊れていて... . でも, 真弘が持っていた最新式の防寒具にはGPSが付いています! それを頼りに探してください! 」
「分かりました. まずは, 身につけている重いものを全て捨ててください. 少しでも身軽になれば, 状況は好転します」
男性は, 冷静に指示を続けた.
私は, 言われるがままに, 持っていた食料や飲料水を全て捨てた. 少しでも生存の可能性を高めるために, 必死で指示に従った.
「状況は分かりました. すぐに救助ヘリを向かわせます. パイロットと連絡を取り, できるだけ早くそこへ向かわせます. それまで, 電話は切らないでください」
男性は, 私に希望を与えてくれた. だが, その希望は, 長くは続かなかった.
私の周りの状況は, 急速に悪化していった. 吹雪はさらに激しさを増し, 視界はほとんどゼロになった. 体温はどんどん奪われ, 指先は氷のように冷たくなった.
「お願いです! 早く来てください! もう, 限界なんです! 」
私は, 涙ながらに叫んだ. だが, 私の声は, 吹雪にかき消されていく.
突然, 別の電話がかかってきた. 画面には, 「国立公園管理事務所」と表示されている.
「もしもし, 倉田恵美さんですか? 中島真弘さんは今, どちらにいらっしゃいますか? 」
電話の向こうから聞こえてきたのは, 意外な質問だった.
「真弘は, もうここにはいません. 彼は綾と一緒に下山してしまいました. 私の持っていた防寒具は故障してしまって, 今は身一つです」
私は, 必死で状況を説明した.
「それはおかしいですね... . 中島様は, まだ山頂にいらっしゃるはずでは? 」
管理事務所の職員は, 困惑した様子だった. 彼らは, 真弘が私を置いて下山したことなど, 知る由もないのだ.
「落ち着いてください, 倉田さん. 私たちも最善を尽くします. 他にできることはありませんか? 」
職員は, 私を励まそうとしてくれた.
「この熱気球, ガスを放出して高度を下げれば, 少しは安定するかもしれません. ですが, 山頂付近は風が強く, 危険です」
職員は, 新たな提案をしてきた. だが, それはあまりにも危険な提案だった.
「そんなこと, できません! ガスを放出したら, 一気に地面に叩きつけられてしまいます! 真弘もそう言っていました! 」
私は, 必死で拒否した. 真弘は, 私にそう教えてくれたはずだ. まさか, 彼が私を危険な目に遭わせようとしているとでも?
「それでは, 私たちにはもう, できることがありません」
職員の声は, 絶望に満ちていた. 彼らは, 私を見捨てるしかないのだ.
「中島様が下山されているのであれば, 彼が助けに来てくれるはずです. 彼なら, この山のことをよく知っていますから」
職員は, そう言って電話を切った. 彼らは, 真弘が私を見捨てたことなど, 知らないのだ.
私は, 真弘が本当に下山したのか, 不安になった. 彼が下山したということは, 私を見捨てたということではないのか? いや, そんなはずはない. 彼は, 私を愛しているはずだ.
私は, 真弘だけが, この状況で私を救うことができると信じていた. 彼なら, きっと私を助けに来てくれる. そう信じて, 私は何度も真弘の携帯電話に電話をかけた.
何度も, 何度も. コール音だけが虚しく響く.
諦めかけたその時, ようやく真弘が出た.
「真弘! お願い, 助けて! 私, もうダメなの! 」
私は, 涙声で必死に訴えた.
「恵美, また騒いでるのか? もういい加減にしてくれ」
真弘は, 私の言葉を遮るように言った. 彼の声は, 苛立ちに満ちていた.
「どういうこと? 私, 妊娠してるのよ? それに, 今, 死にそうなんだから! 」
私は, 叫んだ. だが, 真弘は私の言葉を信じようとしなかった.
「お前はいつもそうだ. 妊娠してるだの, 高所恐怖症だの, 俺を困らせるだけだ. 昔のお前は, もっと強かったじゃないか」
真弘は, 私の過去の勇敢な行動を例に出し, 今の私を否定した.
「恵美, お前は本当にわがままだな. 綾を巻き込むなよ」
真弘は, 私のことをわがままだと罵り, 綾を擁護した.
「いいから, 自分で降りてこい. 俺はもう, お前の相手をする暇はないんだ」
真弘は, そう言い放った. 彼の声は, 冷たく, そして感情がこもっていなかった.
その時, 電話の向こうから, 綾の弱々しい声が聞こえてきた.
「真弘さん, 私, 胸が痛むわ... 」
綾は, まるで真弘に甘えているかのように, 弱々しい声を出した.
「綾, 大丈夫か? 恵美, もういいから, 自分で何とかしろ. 綾の体調が悪いんだ」
真弘は, 私の言葉を遮るように言った. 彼は, 私のことなど, どうでもよかったのだ.
話 2
倉田恵美 POV:
真弘の言葉が, 私の全身を硬直させた. 目の前が真っ暗になり, 心臓が鉛のように重く沈んだ. 自分で何とかしろ, か. この状況で, 私にどうしろというのだろう. 私は, もう笑うことしかできなかった.
「私が, 生きて家に帰れるとでも思ってる? 」
私は, 自嘲気味に呟いた. だが, 真弘は私の言葉に答えることなく, 一方的に電話を切った. 冷たい風が, 私の頬を叩きつけた.
私と真弘の関係は, 常に一方的なものだった. 私が彼に与えるばかりで, 彼は私から何も受け取ろうとはしなかった. 私の愛は, 彼にとって, ただの重荷だったのだろうか.
私が真弘を好きになったのは, もう十年も前のことだ. 彼に片想いをして, ずっと彼の傍にいた. 彼の笑顔を見るだけで, 私の心は満たされた.
そんなある日, 真弘は山で事故に遭い, 意識不明の重体となった. 医師からは, 「一生, 歩けないかもしれない」と告げられ, 彼の未来は絶望的だった. 彼の元恋人は, そんな彼を見捨てて去っていった.
誰もが彼から離れていく中, 私は彼の傍に寄り添った. 彼の入院生活を支え, 献身的に世話をした. 毎日, 彼の病室に通い, 彼の手を握り続けた. 私の愛が, 彼を救うことができると信じていた.
私の献身的な行動が, 真弘の心を動かした. 彼は, 私の愛を受け入れてくれた. 私たちは, 恋人として, 新たな関係を築き始めた. あの頃の私は, 本当に幸せだった.
私は, 真弘の愛が本物でなくても, 私が彼をもっと深く愛すれば, いつか彼も私を同じように愛してくれると信じていた. 私の心は, 彼の愛に飢え, 彼に全てを捧げようとしていた.
私が妊娠した事実を真弘に伝えるために, 私は特別な日を選んだ. 彼との出会いを祝う記念日だ. 私は, 真弘の好きなお料理をたくさん作り, 部屋を飾り付けた. 彼が帰ってくるのを, 心待ちにしていた.
夕方から待っていたが, 真弘は帰ってこなかった. 時計の針は, 深夜を過ぎていた. 私は, 不安と焦燥に駆られ, 何度も真弘の携帯に電話をかけた.
「ごめん, 恵美. 急な仕事が入ってしまって. もう少し時間がかかりそうだ」
真弘は, 申し訳なさそうに言った. だが, 彼の声には, どこか嘘のような響きがあった.
「本当? 何かあったの? 」
私は, 真弘の言葉を疑った. だが, 彼は私の疑いを否定した.
「ないわけないだろ. お前は俺を信じられないのか? 」
真弘は, 私を責めるように言った. その言葉に, 私は何も言い返すことができなかった.
「いつ帰ってくるの? 」
私は, もう一度尋ねた.
「分からない. 多分, 朝には... 」
真弘は, 曖昧な返事をした. 私は, 彼の言葉に絶望した.
私は, 真弘が帰ってくるのを信じて, 何度も料理を温め直した. 食卓には, 温め直された料理が並んでいる. 真弘が, この料理を食べてくれることを願って, 私はひたすら待っていた.
その時, 私の携帯電話が鳴った. 綾からの通知だ.
綾は, 真弘と一緒に楽しそうにしている写真をSNSに投稿していた. 彼らは, まるで恋人のように寄り添い, 幸せそうに笑っていた. その写真を見た瞬間, 私の心臓が凍りついた.
真弘が, 私に嘘をついていたのだ. 彼は, 私との記念日を忘れ, 綾とデートしていたのだ. 私は, 真弘が綾にプレゼントを渡している写真も見つけた. 彼は, 私には一度もプレゼントをくれたことがなかったのに, 綾には惜しみなく与えていた.
私は, その夜, 一睡もできなかった. 涙が止まらず, 枕は濡れてしまった. 私の心は, まるでナイフで切り裂かれたかのように, 深く傷ついていた.
深夜, 真弘が帰ってきた. 彼の体からは, お酒の匂いと, 甘い女性の香水の匂いがした. 私の心は, さらに深く沈んだ.
「真弘, どこに行ってたの? 」
私は, 震える声で尋ねた. 真弘は, 私の目を見ようとしなかった.
「友達と飲んでたんだ. 急な仕事で帰れなかったから, 気分転換に」
真弘は, 平然と嘘をついた. 食卓に並んだ料理を見ても, 彼は何も言わなかった.
「嘘よ! 綾と一緒だったんでしょ! 」
私の感情は, 爆発した. 私は, 真弘に怒りをぶつけた.
「記念日なんて, どうでもいいだろ. そんなことより, 綾が体調を崩してるんだ」
真弘は, 私の言葉を冷たく突き放した. 彼は, 私の気持ちを全く理解しようとしなかった.
「綾が, 日本に帰ってきたの? 」
私は, 震える声で尋ねた. 私の心は, 恐怖でいっぱいだった.
真弘は, 私の質問に答えることなく, 突然, 冷たい目を私に向けた.
「俺は, お前を愛してると言っただろう? それ以上, 何を望むんだ? 」
彼の声は, まるで氷のように冷たかった.
私は, 真弘の体をどれだけ手に入れても, 彼の心は永遠に私のものにならないことを悟った. 私の心は, 絶望で粉々に砕け散った.
真弘は, 私を一人置き去りにして, 寝室へと向かった. 私は, その場でただ涙を流すしかなかった. 私の心は, 深い闇に包まれていた.
その夜, 再度, 綾から電話がかかってきた.
「真弘さん, 私, 胸が苦しいの... 」
綾は, 弱々しい声で真弘に助けを求めた.
真弘は, 睡眠不足で疲れているにもかかわらず, すぐに綾の元へと駆けつけた. 彼は, 私を置き去りにして, 綾の病院へと向かった. 私の心は, さらに深く傷ついた.
過去に一度, 私は真弘を止めようとしたことがある. その時, 真弘は私を突き飛ばし, 壁にぶつけた. その時の傷は, 今でも私の体に深く刻まれている. 彼は, 私を愛していると口では言いながら, 私を傷つけることにも何の躊躇もなかった.
話 3
倉田恵美 POV:
「お前は, 俺の邪魔をするな! 」
真弘は, そう叫びながら, 私の腕を強く掴んだ. 彼の目には, 怒りの炎が燃え上がっていた. 私は, 彼の腕を振り払おうとしたが, 彼の力には敵わなかった.
真弘は, 私を突き飛ばした. 私の体は, コントロールを失い, 近くにあった鋭利な角に激しく打ち付けられた. 激痛が全身を貫き, 視界が真っ白になった. 今でも, その時の傷跡は私の腕に残っている. 彼が私を傷つけた証拠だ.
「二度と, 俺の邪魔をするな. さもなければ, 次はどうなるか分からないぞ」
真弘は, 冷たい声で私に警告した. 彼の目には, 何の反省の色もなかった. 彼は, 私を傷つけたことに何の罪悪感も抱いていないようだった.
あの時, 私は愚かにも, 自分が悪いのだと思ってしまった. 私が真弘を怒らせたから, 彼が私を傷つけたのだと. 私は, 彼に嫌われたくなくて, 彼に愛されたくて, 自分を責め続けていた.
だが, 今なら分かる. 愛は, そんなものではない. 愛は, 相手を傷つけるものではない. ただ, 愛があるか, ないか. それだけなのだ. 真弘には, 私への愛がなかった. ただそれだけだった.
私の愛は, 一方的なものだった. 私が彼に与えるばかりで, 彼は私から何も受け取ろうとはしなかった. 私は, 彼にとって, ただの都合の良い存在だったのだろう. そして, 私はその中で, 完全に敗北したのだ.
突然, ゴォォォォォォォォォォォォ! という耳をつんざくような激しい爆発音が, 私の耳に響いた. 私は, あまりの音の大きさに, 思わず耳を塞いだ. 何が起こったのか, 理解できなかった.
私は, 恐怖で叫び声を上げた. 何が起こったのか分からず, ただ空を見上げた. そこには, 信じられない光景が広がっていた.
私たちの乗っていた熱気球が, 炎に包まれていた. 火の手は, あっという間に全体を覆い尽くし, 真っ赤な炎が空に舞い上がっていく. 熱気球は, 燃え盛る炎の中で, みるみるうちに高度を下げていった.
「真弘! 熱気球が燃えてる! 助けて! 」
私は, 必死に真弘に電話をかけた. もう, 彼しか頼る者がいなかった.
「恵美, また何か言ってるのか? 俺は今, 忙しいんだ. お前が燃やしたとでも言いたいのか? 」
真弘は, 私の言葉を遮るように言った. 彼は, 私の言葉を信じようとしなかった. いや, 彼は聞こうともしなかった.
「違うの! 本当に燃えてるの! 早く来て! 」
私は, 必死で真実を伝えようとした. だが, 真弘は私の言葉を信じようとしなかった. 彼は, 私を信じるよりも, 綾を信じる方を選んだ.
「綾が今, 体調を崩して病院にいるんだ. お前なんかに構ってる暇はない」
真弘は, そう言い放つと, 一方的に電話を切った. 私の心は, 絶望の淵に突き落とされた.
私と真弘の関係は, 常に彼が主導権を握っていた. 私は, 彼の言葉に逆らうことはできなかった. 彼の言葉は, 私にとって絶対だった. だが, もう, そんな時代は終わったのだ.
その時, 私の携帯電話に再び通知が来た. 綾からのSNS投稿だ.
綾は, 真弘と一緒に, 高空飛行を楽しんでいる写真を投稿していた. 彼らは, 病院にいるはずの綾が, どうしてこんなことを? 私の心は, 激しく動揺した.
綾の投稿には, 真弘と二人で楽しそうに笑っている動画も添えられていた. 彼らは, 病院にいるはずなのに, まるで何も起こっていないかのように, 楽しそうに笑っていた. 私の心は, 絶望に打ちひしがれた.
動画を最後まで見る前に, 炎が私のすぐ傍まで迫っていた. 熱気が, 私の肌を焼く. 私は, 焼死するか, それともこのまま落下して死ぬか, どちらかを選ばなければならなかった.
私は, お腹をそっと撫でた. 涙が, 視界を覆い尽くす. この子だけは, 私と同じ運命を辿らせたくなかった.
「ごめんね, 赤ちゃん. ママは, もうどうすることもできないの」
私は, 震える声でそう告げた. 私の心は, 悲しみでいっぱいだった.
私は, 真弘に最後のメッセージを送った.
「もう, あなたとは終わりにします. どうか, 幸せに」
私は, そうメッセージを送った後, 熱気球から身を投げた.
身体が, 宙を舞う. 落下する感覚が, 私を支配する. 私は, 目を閉じ, 全てを受け入れた.
次の瞬間, 私の魂は, 私の身体から離れた. そして, まるで幽霊のように, 私は病院に立っていた.
真弘と綾が, 親密そうに寄り添っていた. 彼らは, まるで恋人のように, お互いのことを心配し合っていた. 私の心は, さらに深く傷ついた.
「真弘さん, 私, 胸が苦しいわ... 」
綾は, 弱々しい声で真弘に訴えた. 真弘は, 綾を優しく抱きしめ, 額にキスをした.
「恵美さん, どうしてるかしら? さっき電話があったんだけど, 何があったのかしら」
綾は, 心配しているような顔で言った. だが, 彼女の目には, 冷たい光が宿っていた.
「恵美なら, 大丈夫だろ. いつもそうだ. 俺を困らせるのが好きなんだ」
真弘は, 私のことなどどうでもいいと言いたげな顔で言った. 彼は, 私のことなど, 何も気にしていなかったのだ.
「あの熱気球が燃えたって話だけど, 恵美が何かしたのか? あいつはいつもそうだ. 俺を困らせる」
真弘は, 私のことを見下すように言った. 彼は, 私が熱気球を燃やしたとでも思っているのだろうか.
「まさか, そんな. でも, 恵美さんなら, やりかねないわ」
綾は, 真弘の言葉に同調するように言った. 彼女の顔には, 冷たい笑みが浮かんでいた.
「恵美は, 昔からああだ. すぐに拗ねるんだ. 放っておけば, 勝手に家に帰ってくるだろ」
真弘は, そう言って, 綾の頭を優しく撫でた. 彼は, 私のことを信じようとしなかった.
「真弘さん, まさか, 恵美さんが... 」
綾は, 心配そうな顔で言った. だが, 彼女の目には, 冷たい光が宿っていた. 彼女は, 私が死んだことを, 心底喜んでいるようだった.
「救助隊からの連絡だと, 熱気球が燃えたのは, 山頂付近だそうだ. 恵美は, あそこにいたからな」
真弘は, そう言って, 綾の目を見た. 彼の目には, 何の感情もなかった. 彼は, 私が死んだことなど, どうでもよかったのだ.
「綾, 君だけは, 俺が守る. 君の命が, 一番大事なんだ」
真弘は, そう言って, 綾を抱きしめた. 彼の目には, 綾への深い愛情が宿っていた. 私の心は, 絶望で粉々に砕け散った.
私の命は, 彼にとって, 何の価値もなかったのだ. 私が二年もの間, 彼に尽くしてきた愛は, 彼の心には届かなかったのだ. 彼の心は, ずっと綾のものだったのだ.
真弘は, 綾のために仕事を休もうとしたが, 上司に厳しく叱責された.
「中島, 君はまた, 綾さんのために仕事を休むのか! 君の仕事は, 山岳ガイドだぞ! いつまでそんなことをしている! 」
上司は, 真弘を怒鳴りつけた. 真弘は, 上司の言葉に何も言い返すことができなかった.
私は, 真弘の後を追って, 彼の仕事場へと向かった. そこで, 私は信じられない光景を目にした.
「中島! 君はまた, 客を危険な場所に連れて行ったのか! あの場所は, 遭難事故が多発している場所だぞ! 」
上司は, 真弘を怒鳴りつけた.
「あの場所は, 風が強く, 熱気球の着陸には不向きだ. ましてや, 遭難事故が多発するような場所で, 熱気球を飛ばすなど, 狂気の沙汰だ! 」
上司は, 真弘の行動を厳しく非難した.
「彼女は, 俺の婚約者で, 俺の友達です. それに, 彼女は経験豊富な登山家だ」
真弘は, 上司の言葉に言い訳をした.