話 1
「お母さん, 死ねばよかったのに! 」
燃え盛る炎の中, 実の息子が私に放った言葉は, 崩れ落ちる天井よりも, 私の心を深く抉った.
夫は私を足蹴にし, 私の親友だった女を抱きかかえて瓦礫から脱出していく. 息子はそんな夫に駆け寄り, 「パパ, 早く静美お姉ちゃんを助けてあげて! お母さんは他の人に助けてもらえばいいよ! 」と叫んだ.
私は喘息の発作で息も絶え絶えになりながら, ポケットに残った最後の一錠の薬を握りしめる. 7年前, この子を産むために死の淵を彷徨ったというのに.
なぜ, 夫も息子も, 私ではなくあの女を選ぶのか. なぜ, 私はここまで憎まれなければならないのか.
絶望の淵で意識が遠のく中, 見知らぬ少年が私の手を掴んだ. 「僕が, 助けるよ」. その声を聞いた瞬間, 私は悟った. この子を, 私の本当の息子にしよう, と.
第1章
高井朋穂 POV:
「お母さん, 死ねばよかったのに! 」
炎が私の皮膚を舐め, 熱い空気が肺を焼く中, 私は息子, 勇太のその言葉を聞いた. それは爆発音よりも, 崩れ落ちる天井よりも, 私を深く抉る刃だった.
私の視界は煙で霞んでいたが, その言葉だけは鮮明に, 鼓膜に焼き付いた.
隣で甲斐翔梧が静美を抱きかかえ, 私のことを完全に無視している.
彼は私を足蹴にし, 静美を背負って安全な場所へと急ぐ.
「翔梧さん, しっかり! 私を置いていかないで! 」静美の甘ったるい声が, 火事のサイレンのように耳障りだった.
「大丈夫だ, 静美. 必ず君を助ける」
翔梧の声は優しさに溢れていた. その優しさは, かつて私に向けられたものだったはずだ.
私はその時, 自分が彼の人生において, どれほど取るに足らない存在であったかを痛感した.
私の心臓が, まるで冷たい手で鷲掴みにされたように苦しくなった.
呼吸をするたびに, 熱い煙が喉を焼く.
私の命は, 彼らにとって, まるで道端の石ころだ.
ただ邪魔なだけ.
この惨劇が起こる数時間前, 静美は私たちの家にやってきた.
「朋穂さん, 勇太くんと遊んであげようと思って」
彼女の顔は, いつも通りの親友の顔だった.
しかし, その言葉の裏に隠された意図を, 私は知っていた.
「悪いけど, 静美. 今日は勇太も私も疲れてるから」
私は冷たく言い放った. 彼女の偽りの優しさが, 私には耐えられなかった.
「えー, つまんない. 勇太くん, 今日ママと公園行けないって. 私と行こうよ! 」
勇太は静美の誘いに, 目を輝かせて飛びついた.
「行く! 静美お姉ちゃんと一緒ならどこでも行く! 」
私の腕を振り払って, 勇太は静美の手を取った.
その瞬間, 私の心に冷たい風が吹き抜けた.
「勇太, やめなさい. あなたのお母さんは私よ」
私は勇太の腕を掴もうとした.
しかし, 彼は私を力強く突き飛ばした.
「うるさい! 静美お姉ちゃんの方がいい! 」
私の腕は, 床に打ち付けられ, 鈍い痛みが走った.
勇太の目には, 私への憎しみが燃え盛っていた.
それは, 私を焼き尽くさんばかりの激しい炎だった.
「お母さんなんて, いなくなればいいんだ! 」
その言葉が, 私の心臓を氷の刃で貫いた.
私は絶望の淵に突き落とされた.
私の心は, まるでガラスのように砕け散った.
その直後, 家全体が揺れ, 天井から火の粉が降り注いだ.
地震か, いや, 火事だ!
一瞬にして, 炎が私たちを包み込んだ.
私は勇太を抱きしめようとしたが, 彼は静美の影に隠れて, 私を見ようともしなかった.
「静美お姉ちゃん, 怖いよ! 」
勇太は静美の服をぎゅっと掴み, 私の存在など眼中にないかのように震えていた.
まるで静美が彼の唯一の母親であるかのように.
私の心は, 文字通り引き裂かれるような痛みを感じた.
私は一体, 何のために生きてきたのだろう.
勇太が私を憎む理由. それは, 私が彼を産んだから, 私が彼の母親だから.
翔梧が静美を愛しているから, 私を邪魔者だと見なすから.
私の人生は, ただの悲劇だった.
話 2
高井朋穂 POV:
炎が迫りくる中, 私は本能的に勇太を抱きしめた.
熱い梁が頭上から落ちてくるのを避け, 私は彼を覆い隠すように身をかがめた.
背中に激しい衝撃と痛みが走った.
「うっ…」
私は呻き声を漏らし, 視界が歪んだ.
「お母さん, どいてよ! 」
勇太は私の腕を振り払い, 静美の元へ駆け寄ろうとした.
その瞬間, 翔梧が救助隊の装備を身に着けて現れた.
彼の顔には, 安堵と焦りが入り混じっていた.
「翔梧さん! 」
静美が彼の姿を見て, 安堵の声を上げた.
勇太は真っ先に翔梧に駆け寄った.
「パパ! 静美お姉ちゃんが, 静美お姉ちゃんが苦しんでるんだ! 」
勇太は静美を指差し, 必死に訴えた.
「ああ, 分かっている. 静美は大丈夫だ」
翔梧は静美の元へ歩み寄ろうとした.
「パパ, 静美お姉ちゃんは体が弱いんだ. 早く助けてあげて! 」
勇太は私の横を通り過ぎる翔梧の腕を掴み, 叫んだ.
「お母さんは, 他の人に助けてもらえばいいよ! 」
その言葉に, 私の全身から血の気が引いた.
私はゆっくりと, 震える手でポケットを探った.
そこには, わずかに残った喘息の薬があった.
残り, あと一錠.
「これしか…ないのよ」
私は薬を見せながら, かすれた声で呟いた.
私の息は, すでに限界に近づいていた.
これは, 七年前のあの夜を思い出させた.
勇太を産むために, 私は死の淵を彷徨った.
「どうか, この子だけは…この子だけは助けてあげて…! 」
私は翔梧にそう懇願した.
あの時の私は, 命をかけて勇太を守ろうとした.
しかし, 七年後, その勇太は私に言った.
「お母さんは, 他の人に助けてもらえばいいよ! 」
翔梧は私を冷めた目で見つめた後, 静美を抱きかかえて言った.
「待っていろ, 朋穂. 必ず誰か来る」
彼の言葉は, 私には届かなかった.
私の手は, 反射的に彼の服の裾を掴んだ.
「待って…! 私, 妊娠しているの! 」
私の声は震えていた.
翔梧の目に, 一瞬, 驚きの色が宿った.
ここ最近, 翔梧は家に帰ってこなかった. だから, 私はこのことを彼に伝えられずにいた.
話 3
高井朋穂 POV:
「お母さん, 離してよ! 」
勇太が私の指を力ずくで引き剥がした.
「嘘つき! パパを騙さないで! 静美お姉ちゃん, 可哀想だよ! 」
勇太は私の腕を叩きながら叫んだ.
静美は翔梧の腕の中で, すすり泣いていた.
翔梧の目に宿った憐憫の色は, すぐに消え失せた.
彼は私の手を振り払い, 静美を抱きしめて炎の中を逃げて行った.
私は濃い煙に包まれ, 呼吸が困難になった.
薬はもう, 残っていない.
私はゆっくりと目を閉じた.
私の心は, 深い後悔に苛まれた.
なぜ, 私はこの関係を始めてしまったのだろう.
翔梧が私を愛していないことくらい, 最初から分かっていたはずなのに.
大学時代, 私は四年もの間, 翔梧に片想いしていた.
彼の心には, 常に静美がいた.
静美が家庭の事情で海外へ留学した後, 翔梧は泥酔した夜に私と関係を持った.
その時, 彼は静美の名前を呼んでいた.
私は, その夜の温もりにしがみついた.
しかし翌朝, 彼は私に冷たく言い放った.
「昨夜のことは忘れてくれ」
その後, 私は妊娠が発覚し, 翔梧と結婚した.
勇太の名前は, 静美への想いを暗示するかのように, 彼の口から出た.
翔梧は, 静美が私を挑発する行為を, 見て見ぬふりをした.
私が彼を問い詰めるたび, 勇太は翔梧の味方をした.
「お母さんが悪いんだよ! 静美お姉ちゃんの方が, 僕のお母さんになってくれたらいいのに! 」
勇太の言葉が, 私の心を深く傷つけた.
私の意識は朦朧とし, 体は限界を迎えていた.
その時, 煙の中に小さな影が揺らめいた.
「お姉さん, 大丈夫? 」
怯えたような, しかし優しい声が聞こえた.