話 1
「……痛むか?」
男の荒い息遣いだけが、部屋に充満している。 身の下の女はひどく抵抗し、男は何度も試みを繰り返さなければならなかった。
アルコールのせいか、男は片手で女のしなやかな腰を支え、まるで手取り足取り教えるかのように、自身を受け入れさせた。
夜が白み始める頃、ようやく部屋の中で重なり合っていた二つの影は静かになった。
浴室から響くシャワーの音で、佐本清祢は深い眠りから意識を浮上させた。 シーツを胸元まで固く引き寄せ、霞のかかった頭で昨夜の記憶の糸を必死に手繰り寄せようとする。
昨日は、長年寄り添ってきた婚約者、東海林様景との婚約披露宴だった。
儀式は盛大で、招待客は佐本、東海林両家の取引先ばかり。 夜には様景の友人たちが集まる席が設けられたが、口のきけない彼女は断る術を知らず、立て続けに酒を飲まされた。 最後の記憶は、様景が自分を最上階のプレジデンシャルスイートへ送り届けてくれたところまで。
その後、ぷつりと意識が途切れ、アルコールに煽られた男女が、求め合うままに激しく肌を重ねた。
やがてシャワーの音が止み、湯気の向こうから、腰にタオルを一枚巻いただけの男が現れる。 広い肩幅、引き締まった腰。 水滴が、鍛え上げられた筋肉の筋をなぞるように滑り落ちていく。
初めての夜を越えた清祢は、羞恥心に顔を背けた。 昨夜の熱い肌の記憶が蘇り、顔が熱くなる。
「起きたか?」 加賀見芳成は眉を上げ、ベッドの上で縮こまる女に目をやった。 白い頬には疑わしいほどの緋色が残り、弾けば壊れてしまいそうなその肌から目が離せない。 彼はさながら満腹の獣のように、満足げに己の獲物を見つめていた。
――この声は、様景じゃない!
清祢は弾かれたように顔を上げ、男と視線がぶつかる。 そこには侵略的な光を宿した、漆黒の桃花眼があった。
彼女は一瞬、顔色を失って青ざめ、相手の顔をはっきり見た途端、全身の血が頭に上り、脳が真っ白になり、涙がぽろぽろとシーツに落ちた。
男の顔をはっきりと認識した瞬間、昨夜の甘美な記憶は、残酷な悪夢へと姿を変えた。
ぽつり、とシーツに落ちた雫が、堰を切ったように溢れ出す。 彼女は全身をわななかせ、絶望と無力感に襲われながら、震える指先で必死に問いかける。
「あなたは、誰?」
「どうしてここにいるの?」
「昨夜の人は……あなただったの?」
女は口が利けないのか? 加賀見芳成の目に、わずかな驚きがよぎった。
どうりで昨夜、あれほど痛みに耐えながらも、声一つ漏らさず涙を流すだけだったわけだ。
芳成は彼女を品定めするように見つめる。 その視線は彼女の肌の上を這い、瞳の奥の感情はますます読み取れなくなっていく。
芳成は深呼吸を一つし、こめかみを引きつらせた。 怒りがこみ上げてくる。 帰国したばかりの昨夜、旧友たちに無理やり酒を飲まされ、餞別だとルームキーを押し付けられたのだ。
薄暗い部屋の中、互いに泥酔していたとはいえ、最初にキスを仕掛けてきたのはこの女の方だった。 それを情熱的だと感じてしまい、相手の素性を確かめもせずに抱いてしまった。
昨夜はあれほど積極的だったくせに、今さら何を貞淑ぶっているのか。 芳成は女を持て余し、侮蔑に口の端を歪めて吐き捨てるように言った。 「手話は分からん。 服を着てとっとと消えろ」
いつまでもこうしてはいられない。 清祢は男がそっぽを向いた隙に、慌ててドレスに袖を通す。 だが、肌着は無残に引き裂かれ、もはや身につけられる状態ではなかった。
彼女がなんとか身支度を終え、男の前に立つ。
芳成は傍らに立ち、朝の光の中に佇む女の姿に、一瞬、我を忘れた。
小さな瓜実顔に、潤んだ瞳。 桜色の唇は誘うようにわずかに腫れている。 長い髪は乱れたまま胸元にかかり、光を放つように白い肌が痛々しいほど目に映る。 泣き腫らした目はひどく赤いが、その狼狽した姿さえも、実に美しかった。
ふと、くしゃくしゃになった白いシーツの上に、暗く、それでいて鮮烈な一点の赤が滲んでいるのが目に入った。
芳成は無意識に喉仏を上下させた。
女が出て行く気配がないのを見て、芳成は合点がいったように、財布から分厚いドルの束を抜き出し、無造作に彼女の手に押し付けた。
「これで足りるか?」 彼が見てきた女たちは皆こうだった。 だが、芳成の言葉が終わる前に、女は札束を彼の体に叩きつけた。
彼は目を細め、全身から危険な気配を放つ。「なんだ、 足りないのか? 仲介した奴が俺の友人から大金を受け取ったと聞いているが。 体を売る前に相場も調べなかったのか? それとも、 大物を釣るために長期戦でも狙うつもりか? 夢を見るな……」
パァン!と乾いた音が響き、芳成は打たれて呆然とした。 口の中に広がった鉄の味を吐き捨てると、その目に殺意にも似た獰猛な光を宿す。「聞け!てめえがどうやってこの部屋に紛れ込んだか知らねえが、 昨夜はてめえからキスしてきたんだろうが。 今さら被害者ぶるな……!」
清祢はもう何も聞きたくなかった。 床に散らばる緑の紙片を踏みしめ、半狂乱で部屋を飛び出した。
大通りでかろうじてタクシーを捕まえ、スマートフォンの電源を入れると、無数の不在着信とメッセージが画面を埋め尽くした。
メモ帳に行き先を打ち込み、運転手に見せる。
流れゆく景色のように、清祢の心もまた千々に乱れていた。 男の言葉が耳にこびりついて離れない――お前の方からキスしてきたんだ。 なぜ。 どうして一夜を共にした相手が、見ず知らずの男だったのか。
車は壮麗な邸宅の前で停まった。 一刻も早くこの身を隠したい、シャワーで全てを洗い流したい一心で、清祢は屋敷へと駆け込んだ。
だが、全ては手遅れだった。 邸宅の広大なリビングは、水を打ったように静まり返っていた。そこにいる全員の視線が、刃のように清祢に突き刺さる。
乱れた髪、泣き崩れた化粧、真っ赤に充血した瞳、深く刻まれたドレスの皺、そして何より――白い首筋に生々しく咲く、いくつかの赤い痕が、彼女の過ごした背徳の夜を雄弁に物語っていた。
やがて、妹の佐本ももが甘ったるい声で静寂を破った。 「まあ、お姉様、どこにいらしてたの?みんなで一晩中探したのよ。 様景お兄様なんて、心配のあまり警察を呼ぶところだったんですから」
東海林様景は氷のように冷たい表情で、清祢の首筋の痕に視線を突き刺した。 「どこへ行っていた?その様はなんだ?」 両親までもが、汚物でも見るかのように、侮蔑と嫌悪、そして憎しみに満ちた眼差しで彼女を上から下まで値踏みしている。
悔しさと、混乱と、無力感と、恐怖が濁流のように押し寄せる。 声にならない叫びを、彼女は最も信頼していた婚約者へ、必死に手で訴えかけた。
「どこにいたの!どうして私をホテルに一人にしたの?」
様景は手話をある程度解するはずなのに、冷ややかに眉をひそめるだけだった。 彼は己が能弁であることを盾に、反論する術を持たない清祢へと、全ての罪をなすりつけた。
「俺たちはもう婚約した仲だぞ。 一晩中帰りもせず、どこの馬の骨とも知れん男の痕をつけて帰ってくる……俺の気持ちを考えたことがあるのか!」 様景は声を荒らげ、額に青筋を立てる。 その姿は、一途な想いを裏切られた、悲劇の男そのものだった。
周囲から同情的な囁き声が聞こえてくる。
「あんなみっともない姿で、よく東海林様の前に立てるわね……」
「どんな躾をされてるのかしら。 婚約者がいながら外で男遊びなんて。結婚したところでろくなものじゃないわ」
人混みの中から、聞くに忍びない陰口が聞こえてきた。 誰も彼女を信じない。 四周は聞くに堪えない非難と罵声、そして下品な噂話で満ちている。
清祢は呆然としていた。 昨夜、酔った自分を最上階の部屋へ送り届けたのは、間違いなく様景だったはずだ。
彼女は言葉を発せない。 そして誰も、彼女の言葉なき言葉を信じようとはしない。
清祢は何度も手話で訴える――「違うの、話を聞いて!」
だが様景はあまりに性急に、大勢の前で最も残酷な言葉を投げつけ、彼女の最後の尊厳を完膚なきまでに踏みにじった。
「俺と婚約したその舌の根も乾かぬうちに、他の男と寝るとはな。 佐本清祢、お前がそこまでふしだらな女だったとは見損なった」
清祢の手話が止まり、両腕が力なく垂れ下がる。 光を失った瞳から、涙だけが静かに流れ落ちた。
「佐本清祢、この東海林様景は、ふしだらな女を妻に迎えるつもりはない。 婚約は、破棄させてもらう。 円満にな」
「私じゃない……あなたが、仕組んだの?」 狂ったように様景の襟首を掴んだ清祢の目に、彼の首筋に刻まれた、見覚えのある赤い痕が飛び込んできた。 彼女がその意味を悟るより早く、乾いた衝撃が頬を打った。
父、佐本知也の手が、殴った力でわななく。 彼は怒りを抑えきれず、娘の鼻先を指差して罵倒した。 「この恥知らずが!我が家の面汚しめ!」
話 2
「佐本君ッ!」
ソファの中央に鎮座していた白髪の老人の、雷鳴のような怒声がホールに響き渡った。 杖で床を鋭く突き鳴らし、震える体でやおら立ち上がると、鬼の形相で佐本知也を睨めつける。 「この期に及んで、わしに何か申し開きのひとつでもあるのだろうな?」
「若者の色恋沙汰に口を出すつもりはない。 だが、この一件は話が別だ。 我々東海林家が、これまでどれだけ貴様の面倒を見てやったと思っている。 東海林グループ銀行からの融資がなければ、お前の会社などとうの昔に潰れていただろうが」
再び痛いところを突かれ、知也の顔からサッと血の気が引いた。 しかし、なけなしのプライドを押し殺し、深く頭を下げる以外になかった。 「東海林様から賜りましたご恩、片時も忘れたことはございません。 ですが……」
苦々しい視線が、娘の佐本清祢へと突き刺さる。 この恥知らずめ。 我が家の財産を食い潰す穀潰しが、と怒りに任せて八つ裂きにしてやりたいほどの憎悪が、その目に宿っていた。
もはや、歯を食いしばって婚約破棄を申し出るしかない。
「婚約は、断じて反故にはできん」知也の心中を見透かしたように、東海林家の当主が冷たく言い放った。
「じいさん、冗談じゃない! あんなふしだらな女、誰が嫁にもらうもんか! 口がきけないだけでも厄介なのに、どこの馬の骨とも知れない男と寝たんだぞ!」 東海林様景は怒りに我を忘れ、祖父が一族の利益のために自分を無理やり結婚させるのではないかと恐れた。 「この俺を衆目の前で笑いものにするつもりか!」
はじめは、清祢を娶ることに渋々ながらも同意していた。 あの女の容姿とスタイルは、北都市中を探してもそうは見つからない極上品だったからだ。
だが、まさか口のきけない唖だったとは。 それを思うたび、様景は顔に泥を塗られたような屈辱を覚える。
抱いたところで、ベッドの上で声ひとつ出せない女なのだ。
それに、もとより彼が好んでいたのは、奔放で愛嬌のある義妹、佐本ももの方だった。
幼馴染の二人はとっくに関係を持っており、 一夜の過ちの後、
ももは泣きながら彼に責任を求めてきた。 様景の心は揺れた。 どうせ飾りの嫁を娶るなら、多少見劣りしたとて、気立ての良い女の方がいい。
少なくとも、あの陰気で、すぐに不機嫌な顔をする唖よりはずっとましだ。
昨夜の騒ぎも、婚約を破棄する口実を作るために、彼が仕組んだ芝居に過ぎない。
ももの見張りがなければ、わざわざ他の男に清祢を寝取らせる必要もなかった。
ただで女を抱ける絶好の機会だったというのに、どこの馬の骨がその幸運を手にしたのかと思うと、腹立たしくて仕方がない。
様景は、剥き出しになった清祢の白く滑らかな肌を、舌なめずりでもするかのような粘っこい視線で見つめ、昨夜の情景をいやらしく幻視していた。
その視線に気づいた佐本ももは、表情を一層曇らせる。 憎悪が、黒い炎のように心の中で燃え盛っていた。 必ず清祢を破滅させ、二度と立ち上がれなくしてやる、と。
「お姉様、早く様景お兄様に謝って」 ももの甘ったるい声が、張り詰めた場の空気を揺らした。
東海林大資は険しい顔でしばし黙考していたが、やがて重々しく口を開いた。 「婚約は反故にはできん。 ……佐本家には、娘が一人しかおらんわけではあるまい」
その言葉が放たれた瞬間、ホールにいた全員の視線が、並んで立つ姉妹へと一斉に注がれた。
さっきまで婚約破棄を叫んでいた様景は、駄々をこねていた子供が飴を与えられたように、ぴたりと静かになった。
ももの頬にも、疑念を誘うような赤みが差し、恥じらうように母である佐本琴葉の後ろに隠れる。 その仕草が、いかにも純真無垢な少女のように見えた。
清祢は、ただその場に凍りついたように立ち尽くす。 婚約者と義妹が交わす視線の熱に、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。 すべてを悟ってしまった。
ホールに集まった客たちの囁き声が、波のように広がる。 佐本家の内情は、もはや公然の秘密だった。
数年前、佐本家は子供を一人亡くし、佐本夫人の心は日に日に病んでいった。 一日も早く日常を取り戻すため、夫妻は清祢と年頃の近い少女を孤児院から養子に迎えた。 佐本ももと名付けられたその子を、一家は掌中の珠のように慈しんだ。
十数年の歳月が流れたある日、警察から一本の連絡が入る。 遺伝子データベースから、行方不明だった令嬢のDNAが発見された、と。
噂は瞬く間に街中を駆け巡った。 体面を重んじる佐本家は、外で苦労を重ねてきた実の娘を家に迎え入れたが、養女を追い出すことはせず、対外的には娘が二人いると公表した。
本来なら、美談として終わるはずだった。
しかし、実の令嬢である清祢は、あまりに過酷な歳月を送ってきた。 十七歳の時、育ての親である大西あゆみが交通事故で亡くなった衝撃から、心的外傷による失語症を患い、言葉を失ってしまったのだ。
本物の令嬢と偽物の令嬢。 容姿、 気品、 立ち居振る舞い、 そのどれをとっても清祢は養女の妹を圧倒していたが、 ただ一点、 口がきけないという致命的な欠点があった。
佐本家と東海林家の縁談もまた、周知の事実だった。 数年前、佐本家が経営危機に陥った際、東海林グループ銀行が巨額の融資を行い、倒産の淵から救ったのだ。
佐本家の事業が息を吹き返したのは、ひとえに東海林家の力添えあってこそ。
両家は、より強固な利益共同体となるべく、子供たちの政略結婚を約束した。 当初、その相手は佐本家で育ったももになるはずだった。 彼女と様景は幼馴染で、気心も知れていたからだ。
だが、東海林家は利益の確実性を重んじ、佐本家の血を引く清祢を嫁に指名した。
いつか佐本家が恩を仇で返すことを、東海林家が恐れていたのは誰の目にも明らかだった。
そして今、清祢の醜聞がこれほどまでに知れ渡った以上、もはや彼女が東海林家の嫁として迎え入れられることはないだろう。 だが、一族の利益は守らねばならない。 大資は一歩譲り、養女であるももを代わりに受け入れることを示唆したのだ。
「あの子はまだ若うございます。 もう少し、手元に置いておきたいと……」 それまで沈黙を守っていた佐本琴葉が、愛する下の娘を庇うように、か細い声で口を挟んだ。
清祢は、冷え切った瞳で実の母親を見つめた。 この婚約が決まった時、誰一人として彼女の意思を尋ねなかった。 両家の利益のためだけに、無理やり押し付けられた結婚だった。 自分は良くて、ももは駄目だというのか?
清祢の唇に、自嘲の笑みが浮かぶ。 この部屋に、自分の味方は一人もいない。 実の親でさえ、無意識のうちに養女であるももを庇い、自分を疎んでいる。
一体、どちらが佐本家の実の娘なのだろうか?
目の前の義妹を、氷のような視線で見つめる。 この家に引き取られたばかりの頃、両親はももが傷つくことを恐れ、すべての愛情を彼女に注いだ。
実際の誕生日は、ももより自分のほうが二日遅いだけだ。 だが、それが何だというのか。
自分はもものように甘え上手でもなく、言葉さえ発せない。 十七歳で初めて会った娘に、親としての情など湧くはずもなかったのだろう。
私の部屋は、物置同然のメイド部屋の隣。 対するももは、陽光あふれる広々としたプリンセスルーム。
私の学費と生活費は、月一万円。 揺れるバスに乗り、公立の学校へ通った。
それなのに琴葉はももの身を案じ、専属の運転手をつけ、家政婦は毎日豪勢な食事を用意し、飽きれば五つ星レストランへ連れて行く。 小遣いは限度額なしのクレジットカードだ。
私は公立の寄宿学校へ。 ももは北都市の超名門貴族学校へ。
私のクローゼットには、育ての親の家から持ってきた古着が数枚。 ももは、数えきれないほどのドレスとブランドバッグ。
ももの成人祝いは、真っ赤なスポーツカー。 私の十八歳の誕生日を覚えている者など、誰一人いなかった。
二人の誕生日は、たった二日違い。 毎年、もものためには盛大なパーティーが開かれるというのに、私には小さなケーキの一切れすらなかった! 誰も、私の生まれた日を覚えてはいないのだ。
彼らは、ももが政略結婚の犠牲になることを憐れむ。 けれど、見ず知らずの男に嫁がされる私の気持ちなど、誰一人として考えようともしない。 一体、どちらが佐本家の実の娘なのだろうか?
誰が見ても、蝶よ花よと育てられたももの方だろう。
親には愛されず、婚約者は義妹と情を交わし、私は衆人環視の中で辱めを受ける。
私の人生そのものが、壮大な茶番劇ではないか。 *****
話 3
あの日、どうやって佐本家を後にしたのか、清祢の記憶は曖昧な霧に包まれていた。 ただ覚えているのは、もう二度とあの家の敷居は跨ぐまいと、心に固く誓ったことだけ。 三日と空けずスマートフォンを震わせ、結婚の幸福をこれ見よがしに突きつけてくる。
清祢が借りたのは、会社のほど近くにある、四十平米ほどの小さな城。 殺風景なワンルームにバスルームがひとつ。 最低限の家具だけが置かれたその空間は、しかし、誰にも邪魔されない彼女だけの聖域だった。
狂ったように更新され続ける、佐本もものインスタグラム。 清祢はうんざりして彼女をブロックしようとしたが、指が滑り、誤ってそのページを開いてしまった。
画面の中のももは、相変わらず虚栄心の塊だった。 佐本家のリビングに山と積まれた宝飾品の隣に、分厚い不動産権利証の束がこれ見よがしに置かれている。
添えられたコメントが、清祢の神経を逆撫でする――「これがパパとママがくれた余裕ってやつ。 23歳で二億円の嫁入り道具を全額キャッシュでゲット。 自分の力じゃないよ、全部親のスネかじり」
さらに過去の投稿を遡ると、そこにはきらびやかな名家の令嬢の日常が、飽きることなく綴られていた。 乗り切れないほどのスーパーカー、有名ブランドのバッグの壁、クローゼットを埋め尽くすオートクチュールと宝石の海。 時折投稿される家族LINEのスクリーンショットでは、氷のように冷たいはずの父・佐本知也が冗談を飛ばし、ヒステリックな母・佐本琴葉が聖母のような微笑みを浮かべている。 こんな光景を見せられて、誰が羨まずにいられようか。
乾いた笑いがこみ上げた。 家族グループのメンバーは三人。 ――そこに、自分の居場所はない。
佐本知也と佐本琴葉とのやり取りは、彼女を政略結婚の駒として東海林家へ差し出した、あの日の会話で止まったままだ。 彼らは、慈悲深い親の仮面を被ってこう言ったのだ―― 「清祢、結納金はパパとママが預かっておくわ。 あなたが持っていっても、どうせ東海林家のものになるだけだから。 嫁入り道具もちゃんと考えたのよ。 上質なシルクの布団を何枚かあつらえたから、全部持っていきなさい」
笑止千万だ。 当時の自分は、その言葉に愚かにも胸を熱くしてしまったのだから。
血の繋がらない養女の結婚には、家や高級車を惜しげもなく与え、リビングが埋まるほどの翡翠やダイヤモンドを贈り、「裕福な東海林家に嫁いで肩身の狭い思いをしないように」と心を砕く。 その一方で、実の娘である自分には、布団数枚で体裁を整えようとした。
清祢は、佐本家の両親とあのぶりっ子の妹のアカウントを、指先ひとつでブロックし、削除した。 自分の評判など、とうに地に落ちている。 これ以上、彼らの目の前で恥を晒すなと、そう望んでいるのだろう。
深く息を吸い、渦巻く感情を心の底に押し込めて、出勤の準備を始めた。 仕事用の制服の下には、タートルネックの薄手のインナーを一枚。 肌に刻まれた、生々しいキスマークの痕を隠すために。
清祢の職場は、全国の主要都市に支店を持つ高級プライベートバンク、利生銀行。 彼女は北都市本店で融資業務を担当し、申請の評価と管理を一手に担っている。
その業務能力は高く、部署内の融資案件はすべて彼女の承認を経て、最終確認の後、古藤光佑課長へと報告されるのが通例だった。
声を失った彼女にとって、顧客訪問は常に高い壁となって立ちはだかる。 手話は、必ずしも万人に通じる言葉ではなかったからだ。 それでも、大学で財務金融と経営管理の複数学位を取得した彼女の才を買い、利生銀行は異例の採用に踏み切った。 これも昇利銀行が彼女を例外的に採用した理由の一つだ。
そして何より、 この銀行に入れたのは、 先輩である古藤光佑が口利きで推薦枠を確保してくれたおかげだった。
「清祢さん、加賀見財閥のベンチャーキャピタルから、 建築入札に関するクレジット資料です。可及的速やかに。 上層部も加賀見との繋がりを熱望している。 なんといっても、あそこの年間資金流動は十桁を超える。 長期的な協力関係が築ければ、我々の部署の年末ボーナスも十倍だと息巻いていますよ」 光佑の物腰は柔らかく、その人好きのする笑みは、行内の若い女性たちをいつもときめかせている。
清祢は静かに頷いた。 こと業務に関しては、彼女の右に出る者はいない。
「来月の三日、私はオトレシュ連邦へ出張します。 私の代わりに、加賀見靖隆氏の誕生祝賀会へ顔を出していただけませんか?」
そう言って光佑は、金箔が施された豪奢な赤い招待状を、もう一枚彼女の前に滑らせた。 清祢の眉がわずかに寄せられる。
「ドレスは手配済みです。 君は私が用意したプレゼントを持って、会場に顔を見せるだけでいい」 光佑はすべてを整えた上で、諭すように彼女の頭を優しく撫でた。
その仕草はあまりに親密で、清祢は戸惑いを覚えたが、今はそれどころではなかった。 彼女は困惑したまま、手話で問いかける。
【私が、ですか?】
後輩の不安を即座に察し、光佑は少し胸を痛めた。 「私の代理としてプレゼントを渡すだけです。 誰かと話す必要はありません」
それでも清祢は反射的に首を横に振ろうとした。 先輩に恥をかかせるわけにはいかない。 すべてを台無しにしてしまうのが怖かった。 光佑は、彼女を安心させるように最後の一押しをする。 「加賀見財閥のクレジット案件を獲得するには、どうしてもこの繋がりが要るんです。 父に頼み込んで、ようやく一枚、招待状を融通してもらえたんですよ」
先輩には、拾ってもらった恩がある。 お使いどころか、火の中水の中でも飛び込んで恩返しをしなければ。 ましてや、加賀見家との繋がりを欲しても、その糸口すら掴めない者がごまんといるのだ。 それは、またとない好機に他ならなかった。
【はい!ぜひ、行かせていただきます!】 清祢は、感謝を込めた笑顔で力強く頷いた。
一ヶ月後。 加賀見家の本邸前は、途切れることのない高級車の列で埋め尽くされていた。
清祢は黒檀の木箱を抱え、タクシーの運転手に合図して路肩に寄せてもらった。 きらびやかな車の列に混じって注目を浴びるより、少し歩く方を選んだのだ。
すっと伸びた背筋に、際立つ容姿。 彼女は人混みに紛れてもなお、鶴が舞い降りたかのような存在感を放っていた。
渋滞で停まる車の中から、幾筋もの視線が彼女に注がれるのを感じる。
光佑が用意したのは、アプリコット色のドレス。 複雑で手の込んだデザインが、彼女の完璧なネックラインと華奢なウエストを際立たせている。 長い髪はうなじのあたりでシンプルにまとめ、宝飾品は一切なし。 それゆえに、磨かれたような白い肌が、見る者の目を惹きつけて離さなかった。
清祢は足早に進み、招待状を手に使用人の案内で加賀見家の屋敷へと入った。
彼女が足を踏み入れた直後、威圧感を放つ一台の黒いベントレーが、静かにメインロードを滑り込み、最も良い駐車スペースに収まった。
後部座席の男は、完璧に仕立てられたオーダーメイドのスーツを気だるげに着こなし、長い脚を組んでいる。 加賀見芳成は、今日のきらびやかな名利の場に、心底興味がなさそうだった。
芳成は重い瞼をわずかに持ち上げ、隣の執事に声をかける。 「おい、婆さんは、ようやく菩薩様の元からお戻りになる気になったのか?」
「大奥様は二ヶ月前にお言葉を。 まずは芳成様が会社の業務に慣れるのが先決ゆえ、仏道修行を終えてからお戻りになると。 ちょうど大旦那様の誕生祝賀会に間に合い、ご家族皆様がお揃いになります」
執事は自ら芳成のためにドアを開けた。 後ろに連なる車の列など意にも介さない。 彼らは皆、加賀見靖隆の八十歳の誕生祝いに「参列する」者たち。 だが芳成は違う。ただ「家」に帰ってきただけなのだ。
五年ぶりに戻った屋敷は、見知らぬようでいて、どこか懐かしかった。 庭ではメイドたちが忙しなく立ち働き、食前酒とデザートが並ぶ。 賓客たちのざわめきが、音楽噴水の水音に溶け込んでいた。 彼は冷ややかな表情で屋敷に足を踏み入れる。その非凡な貌立ちは、当然のようにその場の注目を一身に集めた。
仕立ての良いスーツを纏った芳成は、ひときわ目を引いた。 眉目は怜悧で、切れ長の瞳は底知れぬほど深く、そして無関心。 すっと通った鼻筋。
その完璧すぎるほどの容貌は、居合わせた若い令嬢たちの視線を否応なく惹きつける。 しかし、彼が放つあまりに強大なオーラと近寄りがたい威圧感に、誰もが気圧され、声をかけることすらできなかった。
清祢は、こういう華やかな場がどうしようもなく苦手だった。 受付で光佑からの贈り物を渡すと早々に興味を失い、人目を避けて隅へと身を寄せた。 目の前の豪奢な食事やデザートに、めまいと吐き気がこみ上げてくる。 最近ずっと胃の調子が悪く、何か悪いものでも食べたのかもしれない。
「お姉さん、なんでこんなところにいるの?」
ももはどこからか招待状を手に入れたのだろう、孔雀が羽を広げるように華美に着飾り、得意げに会場を闊歩しては招待客たちと談笑している。 シャンパングラスを持つ仕草もわざとらしく、右手の薬指にはめられた大粒のダイヤモンドが、これ見よがしに煌めいていた。
その指輪には見覚えがあった。 婚約披露宴で東海林家が彼女のために用意したものだ。 それがたった二ヶ月で、ももの指を飾っている。
これ以上関わりたくない。 面倒はごめんだ。 清祢は背を向けてその場を去ろうとしたが、行く手を阻まれた。
「お姉さん、この間のスキャンダル、街中の噂よ。 今日みたいな大事な席、私があなたなら、パパとママに恥をかかせないように家でおとなしくしてるけど !」
清祢はすっと伏せていた瞼を上げた。挑発には乗らない。その美しく妖艶な双眸が、氷のような光を宿して目の前の妹を見据える。 ももの浅はかな魂胆など、手に取るようにわかる。 自分を挑発して怒らせ、この加賀見家のパーティーで醜態を演じさせる。 そして、そのすべての責任を自分に被せる――それが狙いだ。
そんな稚拙な手に乗るつもりは毛頭なく、清祢は再び背を向け、歩き出した。
しかし、長く複雑なドレスの裾を、何者かの靴先が強く踏みつけた。 不意にバランスを崩した清祢の身体が、前方へと傾ぐ。
次の瞬間、 高く積まれたシャンパンタワーが、 けたたましい破壊音を立てて芝生の上に崩れ落ちた。 その轟音に、会場中の視線が一斉に突き刺さる。 *****