話 1
「長年、本当にお疲れ様でした。 ボス、ご帰国おめでとうございます」
祝賀会の席で、上質なオーダーメイドのスーツに身を包んだ青年が、名残惜しそうに藤原涼音を見つめていた。
彼女の整った顔立ちには、いかなる感情も浮かんでいない。冷ややかに澄んだ切れ長の瞳は、ただ目の前の青年を映すのみ。紡がれた声もまた、硝子の欠片のように冷たかった。「ええ。先に行くわ」
「ボス、お送りしますよ」三浦優一が間髪入れずに申し出た。
涼音は拒まなかった。
車に乗り込むと、三浦が口を開く。「ボス、今回はいつ頃、会社に復帰されますか? おかげさまで業績は絶好調ですよ」
二人はとあるプロジェクトで出会った。わずか19歳の藤原涼音がどれほど恐るべき実力を秘めているか、共に戦場を駆け抜けた三浦が一番よく知っている。だからこそ彼女を誘い、共同で会社を興したのだ。今やその会社は、業界の頂点に君臨している。
涼音は淡々と唇を開いた。「考えがまとまったら連絡するわ。今はただ、家に帰りたいの」
「はいはい、妹さんに会いたいんですよね。ご安心ください、きっとお元気にされてますよ。 ここ数年、良い案件はすべて叔父様に回しておきましたから」三浦は、どこか褒めてほしそうな顔でそう言った。
涼音と妹は6歳の時に両親を亡くし、その後、叔母一家が越してきて姉妹の面倒を見ることになった。
涼音は静かに頷く。「……感謝するわ」
細い指先が、胸元の桜のペンダントに触れる。慣れた手つきで留め金を外し、そっと開くと、中には色褪せた二人の写真が収められていた。
彼女と、妹。
写っている涼音は無表情だが、隣の妹は満面の笑みを浮かべている。 その屈託のない笑顔を見つめるうち、涼音の氷のように張り詰めた表情が、ほんのわずかに緩んだ。自覚のないまま、口元に淡い微笑が浮かぶ。
両親が逝ってから、姉妹は互いだけを頼りに生きてきた。妹は小さな太陽のように、いつも周りを明るく照らす存在だった。
12歳の時、涼音は国にその才能を見出され、極秘プロジェクトから離れられない日々が始まった。あれから7年ーープロジェクトを完遂した今、ようやく家に帰り、妹に会える。
国から支給された給与は、そのほとんどを妹に送金してきた。妹は今頃、何不自由ない暮らしをしているはずだ。
涼音の口元に浮かんだ微かな笑みを見て、三浦は思わず息を呑んだ。
(あの氷の美貌が、笑っているーー? マジかよ。俺もその妹さんに一度会ってみてえな)
車は閑静な住宅街の入り口に停まった。
どの家にも手入れの行き届いた庭があり、見るからに高級住宅地だ。
ここは涼音の両親が遺した家で、現在は叔母一家と妹が暮らしている。
登録のない車両は入れない規則のため、涼音は警備員を煩わせることなく車を降り、住宅街へと足を踏み入れた。
自宅の玄関からは暖かな光が溢れ、楽しげな笑い声が夜の静寂に響き渡っている。
ーーどうやら妹は、元気に暮らしているようだ。
涼音は安堵の笑みを浮かべたまま、庭の門をくぐった。
庭の隅に、犬小屋がある。
その傍らに、うずくまる人影があるのを涼音は鋭く捉えた。
家の明かりが届かない薄暗がりで顔ははっきりと見えないが、椀のようなものから何かを口に運んでいるのが見える。
なぜ、こんな場所に人が?
涼音は眉をひそめ、静かに歩み寄った。
その人影はビクリと肩を震わせ、怯えた小動物のように素早く犬小屋の中へと身を隠す。
訝しむ涼音の耳に、次の瞬間ーー中から、か細く震える声が届いた。「もう、ぶたないで……っ。わ、私、ちゃんとしますから……もっと気をつけるから……」
この声はーー妹!
涼音は瞬時に目を見張り、怒りと衝撃に息を呑んだ。そして躊躇なく、小屋の中にいたその人を引きずり出した。間近で見れば、乏しい光の中でも、その顔ははっきりと判ったーー目に焼きつくほどに。
彼女の妹、藤原杏奈ーー!
「あ……」杏奈もまた、目の前の相手に見覚えがあるかのように、呆然と涼音を見つめている。信じられない、とでも言うように。
「杏奈……あなたなの?」涼音の言葉は、一語一語が刃となって自らの胸を抉る。杏奈がこくりと頷いた、その瞬間ーー
涼音の全身から放たれたのは、世界そのものを凍てつかせるような絶対零度の殺気だった。その瞳に宿った破壊衝動は、街一つを容易に瓦礫へと変えてしまいそうなほど、昏く燃えている。
「お姉……ちゃん……?」杏奈は信じられないといった様子で、震える唇を動かした。
「お姉ちゃん……帰って……きたの……?」
まるで夢でも見ているかのような虚ろな様子に、涼音は我に返り、心配そうにその額に触れたーー熱い。指先に伝わる異常な熱さに驚いたのも束の間、杏奈は糸が切れたように涼音の腕の中で意識を失った。
額は焼けるように熱いのに、身体は氷のように冷たい。
涼音の心も、それにつられるように急速に冷えていく。
その時、屋敷のドアが乱暴に開け放たれた。
「藤原杏奈! このグズ! 何分かかってんのよ、まだ食い終わらないの!? さっさと来て皿洗いしなさい!」 現れた叔母が、甲高い声で罵り立てている。
涼音はゆっくりと振り返り、その女を見据えた。
数年ぶりに見る叔母は、かつてのやつれた面影もなく、高価そうなコートを羽織り、翡翠の装飾品で身を飾り、まるで貴婦人のような佇まいだった。
恵美は、涼音の目に宿る凄まじい殺気に怯み、言葉を失う。「あ、あんた……涼音? い、いつ帰ってきたのよ……」
「お前たち……この子に、何をした」 一歩、また一歩と近づいてくる涼音は、死神そのものだった。
恵美は無意識に後ずさる。その目に宿る昏い光に、本能的な恐怖を感じたのだ。だが、すぐに気を取り直す。ーー目の前にいるのは、まだ十代のガキじゃないのよ!
恵美は嘲るように笑った。「あの子が皿を割ったから、躾けてやっただけよ。あんたがいない間、うちがどれだけ苦労したと思ってんの? それでも住む場所も食事もちゃんと与えてやったわ。兄さんの娘じゃなきゃ、とっくに追い出してるわよ」
ーー次の瞬間。恵美の喉が、氷のように冷たい指に鷲掴みにされた。目の前に突きつけられた、感情の凍りついた美貌。息が、できない。「ぐ……っ、は、放しなさいよ……っ」
涼音の表情は凍てつき、その瞳は塵でも見るかのようだった。「ここは私の家よ。私の妹に皿洗いをさせて、犬小屋で寝かせる……?いい度胸ね!」
屋内から漏れる明かりが、杏奈が食べていたものを照らし出す。ーー正体不明の、どろりとした塊。豚の餌と見紛うばかりの代物。
腕の中の妹は紙のように軽く、その顔はやつれ果て、血の気も失せている。
涼音の心は、鈍い刃でじわじわと抉られるように、血を流していた。
掌中の珠のように慈しんできた妹がーーこんな仕打ちを受けていたとは。
「高橋恵美……! この家に住む時、妹の面倒は必ず見ると約束したはずだ」 涼音の瞳に、明確な殺意が灯った。
呼び捨てにされたことに恵美は憤慨したが、その殺気を前に全身が竦み上がる。
涼音は幼い頃から、どこか常人離れした冷酷さを纏っていた。だからこそ、彼女がいた数年間、恵美も迂闊なことはできず、かろうじて叔母の仮面を被っていたのだ。
ーーまさか涼音が、突然いなくなるとは思わなかったわ。
家に残されたのが気弱な杏奈一人になったのをいいことに、恵美は次第にこの家を我が物顔で使い、杏奈を追い詰めていった。
まさか、涼音が帰ってくる日が来るなんてーー夢にも思わなかった!
「ちゃんと面倒は見てたわよ! 悪いことしたから罰を与えて、何が悪いっていうのーーぐぅっ!」 言い終わらぬうちに、恵美の喉が再び締め上げられた。完全に呼吸を奪われ、死神がすぐそこで手招きしているかのような錯覚に陥る。
「涼音……!?」騒ぎに気づき、屋敷の中から従妹たちが様子を見に出てきた。
涼音の目に映るのはーー広々とした豪華な内装、テーブルに並んだご馳走、そして高価な服に身を包んだ叔父と従妹たち。
その一方で、彼女の妹は犬小屋で寝かされ、豚の餌を食べさせられていた。涼音の目尻が、再び紅く染まった。
話 2
「藤原涼音、何してるの? 早く私のママを放しなさい!」従妹は不満げに言った。「うちのママが親切にあんたたちの面倒を見てあげたから生き延びられたのに、よくも何年も外で働いて帰ってこなかったわね? まさか、外で子ども作ったんじゃないの? 本当に浅ましい……」
従妹は嘲笑した。
だが心の中では、涼音が戻ってきたなら、これからは二人で自分たちの世話をしてくれるのだから、それも悪くないと思っていた。
次の瞬間、涼音がふいに歩み寄った。
「ドン!」
食卓が一脚で蹴り飛ばされた。
上の料理は床にぶちまけられ、あたりはめちゃくちゃになった。
「きゃあああ!」
涼音は手近にあった花瓶を掴むと、そのまま従妹と叔父に叩きつけた。二人はたちまち血が噴き出し、悲鳴を上げながら震えだした。
「一日だけ時間をやる、私の家から出て行け」涼音の声は氷のように冷たく、地獄の底から響いてくるみたいだった。そう言い終えると、彼女はすぐに背を向け、妹を抱きしめたまま家を飛び出し、車を止めて病院へ向かった。
別荘の中はめちゃくちゃで、泣く者もいれば、叫ぶ者もいる。
「ママ、このクソ女、よくも私を殴ったわ!顔を切られたの、私、傷跡が残って顔が台無しになったりしないよね!」 従妹は鏡を見ながら、怒りと悔しさで泣きじゃくった。
高橋恵美も腹が立って仕方ない様子で言った。「このクソ女、数年外に出てたと思ったら、ますます大胆になったわね!また戻ってくるようなら、今度こそきっちり懲らしめてやる。私たちは昔の私たちじゃないのよ。今はうちの会社だって北斗事業連合と提携してるんだから、あんな小娘一人、何が怖いっていうの?」
そう言うと、惠美は娘を痛ましそうに見て、「大丈夫よ、いい子、心配しないで、今すぐママが病院に連れて行ってあげる」と慰めた。
……
病院。
「脚の骨折はかなり前からのものです。体中あちこちに傷があって、歯も何本か欠けています。あなた、お姉さんとしてどうしてこんなことに?」 医師はさまざまな患者を見てきたが、それでもひどく衝撃を受けた。
涼音は低い声で言った。「私のせいです」
前髪が顔を覆い、表情ははっきり見えなかった。
医師は彼女が従順で聞き分けがいいのを見ると、きつい言葉も言えなくなった。「傷口はもう処置して包帯も巻きました。もし誰かにいじめられているなら、必ず警察に通報しなさい」
医師は親切にそう念を押した。
涼音はうなずき、杏奈のベッドのそばへ歩み寄った。
19歳の少女だというのに、体つきは信じられないほど小さく痩せている。手首は細く弱々しく、少し力を入れれば折れてしまいそうだった。
短い髪は枯れ草のようにぱさぱさで、切り方もガタガタだった。
涼音はゆっくりと布団をめくった。
少女の肌には鞭で打たれた痕や傷がびっしりと残り、煙草の火で押し付けられた痕まである。涼音は全身の荒ぶる衝動をもう抑えきれず、目の縁に涙があふれ出た。
「お姉ちゃん……」
そのとき、ベッドの上の少女がかすかに呟いた。
涼音はすぐにその手を強く握りしめた。「お姉ちゃんはここにいる」
「お姉ちゃん、私……会いたかった」杏奈はしゃがれた声で、か細く呟いた。
涼音はその手を握り締めたまま、雨のように涙をこぼした。「ごめんね、杏奈。お姉ちゃん、プロジェクトをやれば、あなたをもっといい暮らしにしてあげられるって思ってた、私が間違ってた。これからは、もう二度とあなたのそばを離れない」
涼音のぬくもりを感じ取ったのか、少女の眉間のしわが少しずつほどけていった。
杏奈が落ち着いたのを見て、涼音は立ち上がり、会計へ向かった。
「お支払いはすでに済んでいますよ」会計窓口で、看護師が親切に告げた。
涼音は眉をひそめる。(誰だ? まさか三浦、いや、彼はまだこのことを知らないはずだ)
「誰が払ったのか、調べてもらえますか?」涼音が尋ねた。
看護師は申し訳なさそうに言った。「すみません、こちらには確認する権限がなくて、もしかしたらご家族かもしれません。よろしければ、ご自身でお尋ねになってみてください」
家族という二文字に、涼音の表情がすっと冷めた。これ以上は何も言わず、背を向けて戻り、自分で確かめようとした。
病院の廊下。
惠美は娘の高橋愛莉を連れて、ちょうど処置を終えたところだった。
「私は絶対に涼音を許さない」愛莉は憎しみでいっぱいだった。
「大丈夫よ、涼音だって、そう簡単に楽にはさせないから、あなたも落ち着きなさい、顔の傷がまた開いたら大変でしょ」 惠美は心底いたわるように続けた。「いつになったら、少しはお姉さんを見習うの?そんなに短気じゃだめよ」
姉のことを思い出した瞬間、愛莉の表情は得意げになった。「もう、うちのお姉ちゃんが優秀ならそれでいいじゃん? お姉ちゃんはいま臨江舞踊団でいちばん若いダンサーなんだよ。あの杏奈のくせに、お姉ちゃんと張り合おうとするなんて、脚を折ったのも自業自得!もしお姉ちゃんが、私がいじめられたって知ったら、きっとすごく心配してくれるもん」
「今は大事な時期なんだから、先に言わないで」 惠美は彼女の鼻先を軽くつついた。だが顔を上げた瞬間、涼音の後ろ姿が視界に入った。
愛莉もそれを見た。顔の傷を思い出した途端、怒りで胸が上下し、手にしていたバッグを涼音めがけて思いきり投げつけた。
バッグには鋲が打たれていて、愛莉は全力で振りかぶる。これが当たれば、皮膚が破れて血まみれになるに違いない。
涼音はいつもどおり歩いていたが、背後の気配を感じた瞬間、反射的に動こうとした。
しかし振り返ると、そこには背の高いすらりとした男の姿があった。男は肩幅が広く、背中は引き締まっている。彼はバッグのストラップを掴むと、そのまま前へ強く引き抜いた。
「きゃっ!」
愛莉は勢いよく床に叩きつけられ、悲鳴を上げた。
話 3
「愛莉!」高橋惠美は心配でたまらず、高橋愛莉を支え起こした。怒りに顔を歪め、突然現れた男を睨みつける。「あなた、誰?涼音の愛人ってわけ?」
男は何も答えなかった。深い眉と目には感情が一片もなく、まるで遥か深海のように、静まり返っていて危険だった。
彼は惠美に向かって、一歩、また一歩と近づいてくる。革靴が床板を踏むたび、鈍い音が響いた。
惠美は心臓をぎゅっと掴まれたようで、息ができなかった。
直感した、この男は、相手にしてはいけない。
「涼音!家に戻りたいなら、さっさと戻ってきて謝りなさい。でなきゃ、あんたたちみたいな孤児の姉妹、もう二度と置いてやらないから!」 惠美は吐き捨てるように言い放ち、愛莉の手を引いて背を向けた。
(置いてやった? ふざけるな!あの別荘は元々私の家だ!)
涼音は男の手元に一瞬見えた拳銃が、腰のあたりへ隠されるのを見て、目つきが鋭くなった。
(この男はいったい何者?)
男はそのとき振り返り、涼音の視線とぶつかった。涼音は男の顔をはっきりと目にした。これまで見たこともないほどの絶世の美貌。彫りの深い、鋭い輪郭の整った顔立ち。双眸は氷のように冷たく、何事も彼の心を揺らせないかのようだった。
けれど彼の周囲に漂う気配は、涼音が今まで感じたことのない恐怖と危険そのものだった。
惠美が逃げ出したのも無理はない。
「藤原涼音」男はゆっくりと唇を開き、彼女の名前を呼んだ。低く磁力のある声なのに、ひどく冷たく骨身に沁みる。
涼音は男を見つめた。「あなたが……妹の費用を払ってくれた人?」
「察しがいいな」 男の声は冷酷で、感情の起伏がない。「支度をしろ、俺の家に行く」
涼音は眉をひそめた。
(何この変な人)
そのとき、そばにいた別の男が近づいてきて説明した。「藤原さん、はじめまして。こちらは北村様です。北村様のお父様と、あなたのお父様は戦友でした。ご当主が亡くなる前に、北村様に“あなたたち姉妹の面倒を見るように”と、特別に言い残されまして。北村様はつい先日、軍をご退官になり、やっとご姉妹のもとへたどり着いた次第です」
なるほど、彼の気配があれほど恐ろしく感じるわけだ。
涼音には分かった。男は冷酷ではあるが、自分に悪意はない。
涼音は淡々と言った。「あなたのお父様が、私の父の戦友だって、それを証明できるものはあるんですか?」
北村凌也は一枚の写真を取り出した。
写真はおそらく戦場で撮られたものだった。背景は荒れ果て、写っているのは涼音の父と、見知らぬ男。見知らぬ男の眉や目元は、確かに目の前の男とどこか似ていた。
涼音は考え込んだ。「少し考えさせてください」
「わかった、 連絡先を交換しろ」凌也は必要最低限の言葉だけで言った。
涼音は彼の連絡先を追加した。彼のアイコンは真っ黒な画像だった。
涼音のアイコンも同じく真っ黒。
なんだか妙な感じがした。
続いて助手も涼音の連絡先を追加しながら名乗った。「藤原さん、私は北村様のアシスタント、今井大翔と申します。何かあればいつでもご連絡ください」
「わかりました」
二人はそのまま立ち去った。
涼音は妹の病室へ戻った。
しばらくすると、病室の前にボディーガードが二人立っていた。
考えるまでもなく、あの男の手配だ。
涼音は自分の手で妹の服を着替えさせ、髪も洗ってやった。枯れ草みたいだった髪が、少しだけなめらかになった。
だが、彼女の体に大小さまざまな傷口があり、煙草の火で押し付けられた痕まであるのを見ると、涼音の目の縁はまた赤くなった。
こらえて、こらえて、涼音は妹に、自分が開発した軟膏を塗ってやり、それから持ち歩いているノートパソコンを開いた。
自分がいなかったこの数年、妹が何を経験してきたのか、それを知りたかった。
涼音は別荘区の監視カメラシステムに侵入した。
その映像を見た瞬間、涼音の体は少しずつ硬直していった。
自分が出て行って間もなく、妹は寝室から追い出され、庭の犬小屋で寝かされるようになっていた。
かつて太陽みたいに明るかった妹の顔からは、もう笑顔が消えていた。
妹はバイトを始めた。だが職場ではセクハラに遭った。
必死に勉強して一番いい大学に合格したのに、大学の最初の学期で骨折した。 妹は舞踊科の学生だ。骨折は、もうまともに踊れないことを意味した。
愛莉の姉・高橋柚希は妹と同じクラスで、涼音は、妹の骨折が柚希と無関係だとはどうしても思えなかった。
それ以降、妹は家に縛りつけられ、毎日家政婦のように働かされ、寝るのは犬小屋。人間扱いもされない、家畜同然の暮らしを強いられていた。
けれど妹が彼女に送ってくるメッセージは、いつもこうだった。「お姉ちゃん、心配しないで。私は家で元気にしてるよ。お姉ちゃんも向こうで元気でいてね」
涼音の視界はにじんで、目の前がぼやけた。
妹はこんなにも惨めな思いをしているのに、叔母一家は万邦興業との提携を足がかりに、会社を少しずつ大きくしていった。
中学で退学した従妹の愛莉はインフルエンサーになり、柚希は大学で幅を利かせ、叔母は富裕層の奥様たちの輪に入り込み、叔父もビジネス界で注目の人物になっていた。
「ドン!」
涼音は拳で机を叩きつけた。痛みなどまるで感じない。あるのは、底なしの後悔だけ。
(もっと目を配っていれば、杏奈がこんな目に遭うことはなかったのに……! 今まで積み重ねてきた努力は、結局、あの一家の踏み台にされてしまった!)