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『おかけになった電話は、現在通話中です。のちほどおかけ直しください……』

蒼南市役所の入り口。鉛色のスーツに身を包んだ結城紗良は、洗練された美しい顔立ちを秋の木枯らしに晒し、氷のように冷たい表情を浮かべていた。

手に握りしめた戸籍謄本は、力みのあまりしゃぐしゃに変形している。

今日は、恋人の相沢蓮司と婚姻届を出す日だった。

丸1日待ち続けたが、結局彼は現れなかった。

蓮司に約束をすっぽかされたのは、これで何度目か。もう数える気にもならなかった。

もう1度電話をかけてみたが、聞こえてくるのは相変わらず無機質なアナウンスだけだ。

紗良がうつむいたその時、スマホの画面にニュースのプッシュ通知が表示された。

「#相沢グループCEOの相沢蓮司、帰国した恋人を空港で堂々とお出迎え。2人のアツアツな姿をキャッチ」

タップすると、1枚の写真が表示された。

黒のスーツを着こなす長身で気品のある男。横顔しか写っていないが、その完璧なフェイスラインだけで、世の女性を虜にするには十分だった。

特筆すべきは、その目元に浮かぶ優しい色だ。

紗良は自嘲気味に片方の口角を上げた。

あんなに優しい蓮司の表情なんて、今まで1度も見たことがない。

さすがは、彼がずっと忘れられずにいる初恋の相手だ。

たった1本の電話で、婚姻届の提出という人生の重要なイベントすら放り出してしまうのだから。

続いて、メッセージアプリの通知が鳴った。

「ネットのニュース、見たでしょ?身の程を知るなら、さっさと蓮司お兄ちゃんから離れてね」

送信元の名前は、白石凛子。

蓮司の初恋の相手だ。

紗良が画面を少しスクロールすると、数日前に凛子から送られてきたエコー写真と検査結果の画像があった。

妊娠8週目。

母親の欄には白石凛子の名前。

そして父親の欄には、相沢蓮司と書かれていた。

その画像を見た時も、紗良は全く驚かなかった。

蓮司は毎年、年の半分は凛子のいるフランベル国へ飛んでいる。

これだけ長年通い詰めていて凛子が妊娠していなかったら、逆に蓮司の男性機能に問題があるのではと疑ってしまうレベルだ。

別れを切り出さず、あえて結婚を提案した。

それはきっと、紗良の未練だったのだろう。

18歳の時。大学の門の前で蓮司を一目見た瞬間、どうしようもなく彼に惹かれてしまった。

周りの人間は皆、相沢グループの御曹司である彼は高嶺の花で、軽々しく手を出せる相手ではないと言った。

しかし紗良はそんな言葉に耳を貸さず、飛んで火に入る夏の虫のごとく、溢れる情熱を胸に彼へと突っ走っていった。

猛アタックを続けて3年目、彼女の恋はようやく実を結んだ。

だが、手放しで喜ぶことはできなかった。

告白が成功した次の瞬間、蓮司は凛子からの電話を受け取ったからだ。

そして、木枯らしの吹く中に紗良を1人残して去っていった。

蓮司に忘れられない初恋の人がいると知ったのは、まさにその時だった。

小さくため息をつき、紗良は再び通話画面を開いた。

ただし、今度かける相手は蓮司ではない。

実家だ。

電話はすぐに繋がった。相手の女性が口を開くより先に、紗良は淡々とした口調で告げた。『実家に戻って、政略結婚を受け入れるわ』

電話の主は、紗良の母である三浦真由だった。娘がようやく折れたことに驚いた様子で問い返してくる。『やっと目が覚めたのね?』

紗良は一切の躊躇なく告げた。『ええ』

真由が尋ねる。『いつ帰ってくるの?』

『20日よ』

それだけ言うと、紗良は電話を切り、車に乗って帰路についた。

道中、胸の奥に広がる痛みをただやり過ごした。

どうせ、こんな思いをするのもこれが最後だ。

家に帰り着くと、紗良はどっと疲れが押し寄せてきた。シャワーを浴びて、そのままベッドに倒れ込んだ。

本当なら、このまま何もかも捨てて出て行くことだってできる。

だがこの7年間で、彼女の生活は蓮司と深く結びつきすぎていた。

残り半月。時間を惜しんで身辺整理をし、彼との関係を完全に断ち切らなければならない。

深夜。

眠っていた紗良は、隣のマットレスが沈み込むのを感じた。直後、ひんやりとした冷たい腕に抱きしめられる。

不快感に眉をひそめると、耳元で低く魅力的な男の声が囁いた。「ごめん」

暗闇の中、紗良は目を閉じたまま長いまつ毛をわずかに震わせた。

「明日の朝イチで、婚姻届を出しに行こう」

次の瞬間。

ベッドサイドのスマホが光った。

冷たい抱擁が解け、蓮司のひどく優しい声が続く。『泣かないで。今すぐ行くから……』

背後で服を着る音を聞きながら、紗良は暗闇の中で音もなく自嘲した。

そしてベッドサイドのランプをつけ、ドアに向かって歩き出した彼に声をかけた。「蓮司、行かないで……」

蓮司は立ち止まらなかった。

そのままドアを開け、大股で足早に去っていった。

遠ざかる足音を聞きながら、紗良は唇の端を吊り上げた。笑いながらも、目尻からはひと筋の涙が音もなく滑り落ちた。

翌日。紗良が起きると、家には見知った顔が1人増えていた。

蓮司の助手である、佐倉悠真だ。

「結城さん。こちらは相沢社長からの贈り物です」

悠真は、テーブルの上にずらりと並べられた宝石やアクセサリーを指して言った。

しかし彼の予想に反し、紗良の反応はひどく薄いものだった。「そう」

悠真の目に驚きの色が走る。

蓮司が贈り物をするたび、彼女はいつも飛び上がらんばかりに喜んでいたのだ。

こんなにも冷めた態度は、初めて見るものだった。

「では、私はこれで失礼します」

悠真はプロ意識が高く、理由を深く詮索することなくその場を後にした。

紗良はテーブルの上でまばゆい光を放つ宝石を見つめたが、心は全く動かなかった。

どうせ全部、悠真が適当に見繕ったものに決まっている。

蓮司の謝罪は、いつだってこんな風に誠意のかけらもない。

せめてもの救いは、彼女はもう彼に何も期待していなかった。

期待しなければ、心が痛むこともない。

ピコン――。

メッセージの通知音が鳴った。

凛子:「蓮司お兄ちゃんからのプレゼント、受け取ったでしょ?私に感謝してよね。私がプレゼントを贈って謝った方がいいって説得しなかったら、お兄ちゃん絶対やらなかったんだから!」

紗良はスマホを強く握りしめた。

凛子をブロックしていない理由はただ1つ。蒼南市を去った後、これらの暴言のスクショをまとめて蓮司に送りつけるためだ。

彼の中で清純無垢な天使になっている凛子が、裏でどれほど性悪でドロドロした女なのか、とくと見せてやるつもりだった。

深呼吸をして、彼女は自分が住んでいるこの別荘に目を向けた。

ここは蓮司の持ち家で、紗良の私物はそれほど多くない。だから荷造りを急ぐ必要はなかった。

問題は、彼女自身の持ち家の方だ。

蓮司を熱烈に愛していた頃、彼女は彼がいるこの蒼南市に永住するのだと信じて疑わなかった。

そのため、後先考えずに色々と買い込んでしまったのだ。

家電類はどうでもいい。売ってしまえば済む。

紗良が手放しがたいのは、家中に溢れかえる骨董品のコレクションだった。

だが、実家に帰る前に1度病院に行かなければならない。

数日前から胃の調子が悪く、何を食べても吐き気がしていた。婚姻届の提出を優先するため、検査を先延ばしにしていたのだ。

車を走らせ、病院に到着した。

車から降りる前、紗良は病院の入り口が黒山の人だかりになっているのに気がついた。群衆の中から叫び声が聞こえる。「出てきたぞ!相沢社長と彼女だ!」

紗良は長いまつ毛を震わせ、フラッシュの嵐の中、凛子を庇いながら包囲網を突破しようとする蓮司の姿に視線を釘付けにした。

前回はただの写真だった。

だが今回は、目の前で繰り広げられる生放送だ。

蓮司の鋭く冷たい視線に宿る、焦燥と威圧感がはっきりと見て取れた。

「死にたくなければ、退け!」

男の全身から、凄まじい殺気が放たれていた。

トップに立つ者特有の圧倒的なオーラに、その場にいた全員が息を呑み、静まり返った。

しばらくして、1人の記者が恐る恐る口を開いた。「相沢社長、こちらの女性はどのようなご関係で?」

世間では凛子が蓮司の恋人だと噂されていたが、彼自身の口から正式に認められたことはまだなかったのだ。

全員の視線が蓮司に集まる。

車の中に座っている紗良もまた、彼を見つめていた。

蓮司は質問には答えず、長い指でいきなりその記者の首ぐらを掴み上げた。

周囲から一斉に息を呑む音が漏れる。

ーー真っ昼間の公衆の面前だぞ。

相沢蓮司は狂ったのか?

たかが1人の女のために? !!!

しばらくして、蓮司はようやく顔面蒼白になった記者を突き放し、冷ややかな視線で周囲をねめつけた。

「そんなに知りたいのなら、教えてやろう。俺たちの関係を」

「だが――これが最初で最後だ。二度と聞くな」

病院の入り口は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれた。

誰もが恐怖に震え上がっていた。

張り詰めた空気の中、蓮司の響くような声だけが落ちた。

「彼女は、この俺が守り抜く人間だ!」

「今後、彼女をつけ回すような真似をすれば、どうなるか覚えておけ!」

その言葉に合わせて、凛子はタイミングよく恥じらうように顔を上げ、か弱い様子で熱狂的な尊敬の眼差しを彼に向けた。

その光景を見て、記者たちが関係性を察しないわけがない。

車の中で一部始終を見ていた紗良は、ふいに診察を受ける気が失せ、アクセルを踏み込んで自分の別荘へと引き返した。

2

別荘にあった骨董品は、トラック10台以上を使ってようやく運び出された。

結城紗良は半分以上空になった別荘を見つめながら、自分自身も空っぽになってしまったような感覚に陥った。

スマホを取り出してカレンダーをチラッと見て、彼女は気がついた。家を出る前日が、自分の誕生日だったことに。

イベントがあるたびに、白石凛子が必ず相沢蓮司に電話をかけてくるせいで、紗良は記念日というものにトラウマを抱えていた。

だから、自分の誕生日すら忘れていたのだ。

でも、蓮司から離れさえすれば、普通の生活を送れるようになる。

紗良は希望を胸に眠りにつき、翌日目を覚ますと、彼女と蓮司の新居へと向かった。

この家は、本来なら蓮司が一括払いで買ったものだった。

しかし、彼女は意地でも割り勘にこだわった。

だって、ここは2人の家だ。2人で一緒に費用を出してこそ、初めて「家」と呼べると思っていたから。

だから、当時手元に現金がなかったにもかかわらず、彼女は泣く泣く手放したのだ。一番お気に入りだった奈良三彩のペアを売って。

あれは1点ものだったのに。

紗良が暗証番号を入力すると、電子錠はエラーを表示した。

彼女は眉をひそめた。

暗証番号を設定したのは彼女だ。

彼女と蓮司の誕生日。

間違えるはずがない。

家の中から突然、中年の女性の声が聞こえた。「誰ですか?」

続いて不審そうな顔がドアの隙間から覗き込む。

紗良は警戒しながら口を開いた。「あなたは誰?」

中年女性は聞き返した。「そっちこそ誰?」

紗良がその女性を押し退けて中に入ると、ネグリジェ姿で寝室から出てくる凛子の姿が目に入った。

凛子が、なんと自分の新居に住んでいたのだ。

彼女は怒りのあまり失笑した。「誰の許可を得て引っ越してきたの?」

凛子は紗良を見ても、全く驚いた様子はなかった。

彼女はここが紗良と蓮司の新居だと知っていて、わざと引っ越してきたのだから。

「蓮司お兄ちゃんが住んでいいって言ったの。結城紗良、まだ分からないの? 蓮司お兄ちゃんの心には、私しかいないんだから!」

凛子はそう言って、紗良が激怒するのを待ち構えていた。

しかし予想に反して、紗良はそのままスマホを取り出し、管理会社に電話をかけた。『管理会社ですか? 私の家が見知らぬ人に不法占拠されてるんですけど。あなたたち、どういう管理をしてるんですか?』

1時間後。

ようやく誰かがやってきた。

しかし、管理会社ではなかった。

蓮司だった。

男は冷気をまといながら入ってきた。整った顔立ちは氷のように冷たく、紗良を見ると、その瞳にはあからさまな苛立ちしか浮かんでいなかった。「また何を騒いでるんだ?」

紗良の心臓がギュッと締め付けられ、息が詰まるような感覚に襲われた。

ーーもう気にしないつもりだったのに。

「ここは私たちの新居よ。どうして勝手に、彼女を住まわせたりしたの!?」

2人の間には一触即発の空気が漂う。

凛子は目の前の状況に大満足だった。

彼女はわざとらしくすすり泣き、火に油を注いだ。「蓮司お兄ちゃん、ごめんなさい。私が悪いの。ここが2人の新居だなんて知らなくて。今すぐ出ていくから……ゲホッ、ゲホッ……」

そう言いながら、彼女は胸を押さえて激しく咳き込んだ。

まるで今にも死んでしまいそうに。

蓮司は足早に駆け寄り、凛子を支えた。「結城紗良、少しは物分かりよくできないのか?」

凛子の体に添えられた男の手を見て、紗良の心は再びチクリと痛んだ。次に口を開いた時、彼女のトーンは冷めきっていた。「彼女が出ていく必要はないわ。この家を買う時、私も半分お金を出した。

その半分を現金で返してくれれば、それでいいから」

以前はこの新居をどう処理しようか悩んでいた。

でも今は……もう悩む必要はない。

紗良が急に聞き分けが良くなったのは、まさに蓮司が望んでいたことだった。

だがなぜか、彼の心の中にはひどくモヤモヤしたものが残った。彼は答えた。「分かった。戻ったらすぐに悠真に振り込ませる」

「ええ」

紗良は振り返ることなく立ち去った。

紗良の背中を見つめながら、蓮司の心にふと焦りがよぎった。

しかし、すぐにその感情を押し殺した。

紗良はあんなにも自分を愛しているのだから、少し感情的になったところで、大したことではない。

ーー彼女自身で気持ちの整理をつけるだろう。

その日の午後。

紗良の口座に、蓮司からの入金があった。

きっちり2億円。

家を買う時に彼女が出した金額の、倍の額だった。

蓮司は本当にダメな男だ。

ただ1つ、金払いがいいことだけを除いて。

すぐ後に、蓮司からメッセージが届いた。

「明日、迎えに行く」

相談ではなく、ただの通達だった。

いつも、こうだ。

この一言だけで、何をするのかも、誰と行くのかも言わない。

一言多く話すだけで、命でも削られるとでも思っているかのようだ。

紗良はそのメッセージを気にも留めず、スマホを放り投げ、引っ越しの準備を続けた。

翌日の10時。蓮司の車が時間通りにマンションの下に現れた。

紗良がなんと自分の別荘に住んでいたことに、彼はかなり驚いている様子だった。彼は尋ねた。「千葉町に住んでたんじゃないのか?」

千葉町は蓮司の別荘がある場所だ。

彼女は蓮司と付き合い始めて3年目に、ようやくそこに住む資格を得た。

噂によると、蓮司は凛子と知り合った最初の夜に、彼女をそこへ持ち帰ったらしい。

愛されているかどうかの差は、これほどまでに大きいのだ。

紗良は適当に答えた。「長く住んで、飽きたの」

蓮司はそれ以上何も言わず、車内は静寂に包まれた。

30分後、車はポルシェの正規ディーラーの前に停まった。

紗良の瞳の奥が少し揺れた。

1ヶ月前、ポルシェから新しいスポーツカー「ミッションX」が発表された。

彼女はそれがとても気に入っていた。

毎日毎日、蓮司の耳元でその話をしていたのだ。

しかし、その車はまだ量産されておらず、現在世界に3台しかない。

1週間前、このディーラーが1台仕入れたことがニュースになっていた。

紗良の胸が高鳴った。

彼女は車を降り、蓮司の後に続いて店内に入った。

しかし店に入った瞬間、スタッフたちにちやほやと囲まれている凛子の姿を見て、紗良のいい気分は一瞬で吹き飛んだ。

女はきびすを返して帰ろうとした。

しかし、凛子が弱々しい声で呼び止めた。「蓮司お兄ちゃん、紗良お姉ちゃん。来てくれたんだね!」

凛子は指をさしながら言った。「蓮司お兄ちゃん、車決めたよ。これにしてもいい?」彼女が指さしたのは、まさに「ミッションX」だった。

蓮司はとても優しい声で答えた。「凛子が気に入ったならそれでいい」

そして振り向き、紗良を見る時の目は冷ややかだった。彼が言った。「お前も1台選べ」

紗良は、得意げで挑発的な表情を浮かべる凛子を見つめ、スッと手を挙げた。「私もこれがいいわ」

蓮司は眉をひそめた。「他のにしろ」

紗良は一切の妥協を許さない強い口調で言った。「絶対にこれがいい」

彼女がまた以前のようなワガママな紗良に戻ったのを見て、凛子はわずかに口角を上げた。

彼女は蓮司の方を見た。

案の定、蓮司はすでに眉間にしわを寄せていた。彼は叱りつけた。「結城紗良、ワガママを言うな!」 「他にも車はたくさんあるだろう。どうして適当に1台選べないんだ?」

紗良は低くつぶやいた。「そうね。どうして選び直せないのかしら?」

そう言うと、彼女は顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。「冗談よ。あなたの大事な宝物と張り合うわけないじゃない! 私が欲しいのはこっち――」

紗良が指さした方向を見て、凛子の表情が凍りついた。

ポルシェ919ハイブリッド!

軽く20億円はくだらない代物だ!!!

3

白石凛子が気を失うのを見て、店長が大声を上げた。「奥様!」

次の瞬間、店長よりも素早く飛び出した人影が、凛子のもとへ駆け寄った。そして彼女を抱きかかえ、慌ただしく去っていく。

その高くたくましい背中は、相沢蓮司以外の何者でもなかった。

結城紗良は自嘲気味に口角を上げた。

蓮司が車に乗って行ってしまったため、彼女は自分でタクシーを拾って帰るしかない。

だが、ディーラーの周辺ではなかなか車が捕まらなかった。

紗良はハイヒールで丸1時間歩き続け、ようやく配車アプリでタクシーをつかまえた。

後部座席に乗り込み、水ぶくれのできた足を見つめる。

そして、ふっと息を吐いた。

足が痛いだけで、心が痛まないのがせめてもの救いだった。

……

カーディーラーでの一件以来、紗良は数日間、蓮司と顔を合わせていなかった。

だが、わざわざ彼の動向を調べる必要はない。

凛子がご丁寧に報告してくるからだ。

「9:05 今日は蓮司お兄ちゃんが直接お粥を飲ませてくれたよ」

「18:23 これは蓮司お兄ちゃんが剥いてくれたグレープフルーツ。すごく美味しそうでしょ?食べたい? ふふっ、あなたは一生食べられないだろうけどね」

その下には、綺麗に剥かれたグレープフルーツの写真が添えられている。

「22:35 蓮司お兄ちゃん、私の隣で寝てるよ。えへへっ」

その下には、蓮司が凛子のベッドの傍らで腕枕をして眠っている写真があった。

「……」

紗良は一瞥しただけで、スマホをバッグに放り込んだ。

もう感覚が麻痺してしまったのだろう。ここ数日、凛子から送られてくる自慢話を見ても、ただ滑稽なピエロのショーを見ているような気分にしかならなかった。

車のドアを開けて降り、紗良はLSメディアエンタメのオフィスビルへと足を踏み入れた。

この会社は、彼女と蓮司が共同で立ち上げたものだ。

当初は、蓮司との繋がりをより強固にするためだった。

そうすれば、彼も簡単には別れを切り出せないだろうと考えていた。

まさか、それが結果的に自分を縛る鎖になるとは思ってもみなかった。

会社の副社長である中村祐也は、驚いた顔で紗良に尋ねた。「君1人で蒼南市を離れて、京都に戻るって?相沢蓮司はそのことを知ってるのか?」

紗良は首を振った。「まだ彼には話していないの。悪いけど、内緒にしておいて」

祐也は頷いたものの、やはり信じられない様子だった。「もちろん、それは構わないけど。君は相沢蓮司のことが大好きだったんじゃないのか? 離れるなんて、本当にいいのか?」

紗良は蓮司を追いかけて、丸7年も尽くしてきたのだ。

まさに、一番良い時期を全て彼に捧げたと言っても過言ではない。

紗良は淡々と答えた。「ええ、もう彼はいらないわ。私がここを発った後、会社の株式分割の手続きはあなたにお願いしたいの。面倒をかけるわね」

祐也はうつむき、瞳の奥に浮かんだ喜びの色を隠した。「そんなに水臭いことを言わないでくれ。君は俺の後輩だろう。俺がLSメディアエンタメに入れたのも、君が強く推薦してくれたおかげなんだから」

紗良は感謝の眼差しで祐也を見つめた。

会社の実質的なオーナーは彼女だが、実際に実務を回してきたのは常に祐也だった。

彼がいなければ、会社はとっくに倒産していただろう。

最後に社内をぐるりと見回り、紗良はようやくビルを後にした。

祐也は自ら1階まで彼女を見送り、車が遠ざかって見えなくなるまで名残惜しそうに見つめてから、オフィスへと戻っていった。

……

道中。

紗良はスマホを取り出し、メモ帳から下から2番目のタスクである「会社の株式分割」に取り消し線を引いた。

そして、最後のタスクへと視線を落とす。

――千葉町の家を出る。

千葉町の家を出れば、彼女と蓮司の関係は完全に終わる。

紗良は無言でハンドルを握り続けた。

車内の空気は重く沈んでいた。

千葉町の別荘に着くと、彼女はまっすぐ2階へ向かった。

家で働く使用人たちは、彼女が帰ってきてもまるで空気のように扱い、誰1人として挨拶に来なかった。

蓮司が彼女を全く愛していないことを、誰もが知っているからだ。

彼女がここに住み始めてからというもの、蓮司はほとんど帰ってこなくなった。

紗良はゲストルームに入った。

彼女と蓮司は寝室が別なのだ。

クローゼットには、有名ブランドの服がぎっしりと詰まっている。

全て蓮司からの贈り物だ。

しかし、紗良はもうそんなものに興味はなかった。

彼女は身をかがめ、自分のスーツケースを引っ張り出した。

荷造りをしていると、階下から車のクラクションが聞こえた。

「相沢社長……」

「相沢社長……」

「相沢社長……」

玄関の方から、次々と恭しい挨拶の声が響いてきた。

蓮司が帰ってきたのだ。

紗良は慌ててスーツケースを押し込んだ。

自分がこの家を出て行くことを、彼には知られたくなかった。

なんとか片付けを終えて顔を上げると、ドアの前に立つ長身のシルエットが目に入った。

男の顔には疲労が滲んでいたが、廊下の温かな照明に照らされた端正な顔立ちは立体的で完璧であり、まるで芸術品のようだった。

紗良は思わず息を呑んだ。

蓮司は鋭い視線を向け、すべてを見透かすように尋ねた。「何をしているんだ?」

紗良はスーツケースの前に立ち塞がるようにして答えた。「探し物よ」

蓮司はそれ以上疑うことなく、部屋の中へ入ってきた。

「ここ数日忙しすぎた。さっき悠真に確認したが、19日は空いている。その日に婚姻届を出しに行こう」

またしても、事後報告のような口調だ。

紗良は少し顔を上げて言った。「19日は私の誕生日よ」

その瞬間、蓮司の瞳の奥に一瞬だけ戸惑いの色がよぎるのを彼女は見逃さなかった。

「その日はもう予定があるの」

「お前は今まで、誕生日なんか祝ったことないだろう?」

ーーあなたと一緒に過ごしたくないだけ。

その言葉を、紗良は結局飲み込んだ。

「なら、また別の日にしよう」 蓮司はネクタイを緩めながら言った。

30分後、男はバスルームの湯気とともに姿を現した。

腰にバスタオルを1枚巻いただけの姿だ。

水滴が胸板を伝い、綺麗に割れた腹筋へと滑り落ちていく。

かつての紗良なら、その肉体美を見て心の中で悲鳴を上げていたはずだが、今は何の魅力も感じなかった。

蓮司は、うつむいてスマホをいじっている紗良を見下ろした。

端正な眉がわずかに寄る。

以前なら、彼が筋肉を見せるだけで、紗良はすぐに駆け寄ってきて嬉しそうに抱きついてきたはずだ。

「寝るぞ」 蓮司は短く告げ、部屋の明かりを消した。

紗良は暗闇の中で立ち上がり、静かに言った。「私は自分の部屋に戻るわ」

蓮司は眉をひそめ、ドアが開いて再び閉まるのを見つめていた。

部屋は再び闇に包まれる。

彼の心の奥底に、得体の知れない焦りが一瞬だけよぎった。

だが、それはすぐに押し殺された。

(そんなはずはない。)

(何も起こるはずがない。)

……

それからの数日間、紗良が蓮司と顔を合わせることはなかった。

祐也の話によれば、どうやら出張に行っているらしい。

祐也自身も彼と連絡が取れない状態だった。

以前の紗良なら、これは決して良い知らせではなかった。

だが今の彼女にとっては、これ以上ないほどの朗報だった。

蓮司が不在の隙に、千葉町の家で荷物をまとめることができるからだ。

千葉町の家に彼女の荷物はそれほど多くなかった。

大半は彼女が蓮司のために買ったものだ。

ペアウォッチ、服、クマのぬいぐるみ……。

だが、どれも蓮司から「子供っぽい」と切り捨てられ、クローゼットの奥底に追いやられていた。

彼女はそれらの贈り物を1つ1つ取り出し、スーツケースに詰め込んだ。

そして、パンパンに膨れ上がったスーツケースを引きずり、千葉町の家を後にした。

それを見た使用人も、彼女が出張にでも行くのだろうと思い込み、何も尋ねなかった。

あっという間に19日がやってきた。

紗良は全ての手続きと準備を完璧に終わらせていた。

あとは20日を迎えて、この街を去るだけだ。

夜。

紗良は1人で中心街のケーキ屋に立ち寄り、公園の適当なベンチに座って、小さなケーキを少しずつ平らげていった。

ケーキはとても甘かった。

そして、途中で蓮司が席を立ってどこかへ行ってしまう心配をする必要もなかった。

彼女は漆黑の夜空を見上げ、口元に薄く笑みを浮かべた。

その時だった――。

ドーンという音とともに、花火が打ち上がった。

色鮮やかな花火が夜空で交差するように弾け、まるで真昼のように空全体を明るく照らし出した。

どれくらい時間が経っただろうか。紗良の首が痛くなる頃、花火大会はようやく幕を閉じた。

その直後、スマホが短く震えた。

紗良はスマホを取り出し、画面に目を落とした。

蓮司からのメッセージだった。

「花火、気に入ったか? 誕生日おめでとう!」

紗良の視界が瞬時にぼやけた。彼女は今まで、蓮司から「誕生日おめでとう」なんて言われたことは1度もなかったのだ。

まさか、去る直前の最後の日に、その言葉をもらえるなんて!

彼女はメッセージアプリを開き、「ありがとう」打ちかけた時、別の通知が表示された。

1枚の写真。

凛子からのものだ。

紗良が開いてみると、そこには手作りの料理が写っていた。

「蓮司お兄ちゃんが作ってくれたご飯だよ。今日があなたの誕生日だって聞いたから、わざわざ彼にお祝いの手料理を作ってもらったの。えへへっ、私にはお祝いがあるけど、あなたにはないね!主役なのに可哀想!」

紗良の瞳に浮かんでいた涙は、一瞬にして乾いた。

彼女はLINEを開き、蓮司のアイコンをタップしてメッセージを打ち込んだ。「あなたが作ったお祝いの手料理が食べたいな」

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すでに別の男の妻なのでお構いなく

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