話 2
凛花POV:
体中に激しい痛みが走る.
頭がガンガンと鳴り響き, 視界は真っ赤に染まっていた.
意識が朦朧とする中で, 私は必死に声を絞り出した.
「雅明... 雅明, 助けて... 子どもが... ! 」
私の声は, か細く, 会場のざわめきの中に消え去りそうだった.
遠くで, 雅明の声が聞こえた気がした.
私の名前を呼んでいる... ?
いや, 違う.
それは, 私を責める声だった.
「凛花, お前, 何を騒いでいるんだ! 大事なパーティーを台無しにする気か! 」
雅明の声は, 冷酷で, 私を突き放すようだった.
彼の脳裏には, 私の体調や, お腹の子どものことなど, 微塵もなかったのだろう.
彼の怒りの矛先は, 私に向けられていた.
「雅明さん, 大丈夫ですか? 凛花さんのせいで, お怪我でもしたら大変です! 」
小春の声が聞こえる.
彼女の声は, 甲高く, 私をさらに追い詰めるようだった.
「小春, 大丈夫か? 君が怪我でもしたら, 今後のコンペに影響するぞ」
雅明の声は, 小春を気遣う優しさに満ちていた.
私の心は, 完全に凍りついた.
彼は, 私のことなど, 微塵も心配していない.
雅明は, 私の方を一瞥することもなく, 小春を抱きかかえて会場を去っていった.
私の視界から, 彼の背中が遠ざかっていく.
私の唯一の支えだったはずの雅明が, 私を見捨てて去っていった.
もう, 誰も私のことを助けてくれる人はいない.
絶望が, 私の全身を包み込んだ.
「子ども... 私の, 子ども... 」
私は, 震える手でお腹を撫でた.
しかし, そこには, 確かな温もりは感じられなかった.
下腹部に, 激しい痛みが走る.
そして, じわじわと広がる生温かい感触.
私は, 恐る恐る目を開けた.
真っ赤な血が, 私のドレスを, そして床を, じわじわと染めていた.
「いや... 嘘でしょ? そんな... 」
私は, 現実を否定した.
私の子どもが, 私の唯一の希望が, こんな形で失われるなんて.
私は, まだ見ぬ我が子に語りかけた.
「大丈夫よ... ママが, ママが守ってあげるから... ! 」
しかし, 私の声は, もはや届かない.
「誰か! 誰か助けて! 」
私の必死の叫び声が, ようやく誰かの耳に届いた.
ホテルのスタッフや, まだ会場に残っていた数人の人々が, 私の方に駆け寄ってきた.
「奥様! しっかりしてください! 」
誰かの声が, 遠くで聞こえる.
私の意識は, 再び闇に沈みかけていた.
救急車の中で, 私は意識を取り戻した.
救急隊員が, 私の脈を測っている.
「赤ちゃん, 赤ちゃんは無事ですか? 助けてください... ! 」
私は, 救急隊員の服を掴み, 必死に懇願した.
救急隊員は, 困ったような顔で私を見た.
「奥様, 落ち着いてください. 今, 病院に向かっていますから」
彼の言葉は, 私には何の慰めにもならなかった.
私は, 彼らの表情から, 最悪の事態を察した.
「ご主人にご連絡を... 」
救急隊員の一人が, 雅明に電話をかけようとした.
しかし, 電話に出たのは, 雅明ではなく, 小春だった.
「もしもし? 西園寺ですが, 何か? 」
小春の声は, 冷たく, 不機嫌そうだった.
「奥様が緊急搬送されました. ご主人はどちらに? 」
救急隊員が, 焦った声で小春に尋ねた.
「雅明さんですか? 今, 私をホテルから家まで送ってくれていますけど. あんな転び方をする凛花さんが悪いんでしょう? 自業自得ですよ」
小春の声は, 私にははっきりと聞こえた.
彼女は, 私のことを「自業自得」だと言った.
「奥様, 今, 大変危険な状態です. 早急にご主人の付き添いが必要です」
救急隊員が, さらに強い口調で小春に訴えた.
「雅明さんは, 私を優先してくれるって約束したんです. それに, 凛花さんなんてどうでもいいって言っていましたから」
小春の声には, 嘲りの色が混じっていた.
彼女は, 私の命を, そしてお腹の子どもの命を, 嘲笑っているのだ.
「浜崎さん, お願いです! 雅明さんに替わってください! 子どもが... 私の赤ちゃんが危ないんです! 」
私は, 震える声で小春に懇願した.
私の最後の希望が, 小春の手に握られている.
小春は, 一瞬沈黙した.
そして, 冷たい声で言った.
「分かったわ. 雅明さんに伝えてあげる. でも, 雅明さんが私をどれだけ大切に思っているか, 試す良い機会だわ」
彼女の声は, 悪魔の囁きのように聞こえた.
数分後, 電話越しに雅明の声が聞こえた.
「凛花がどうしたって? また何か, 騒いでいるのか? 」
彼の声には, 苛立ちと不機嫌さが滲み出ていた.
「ご主人, 奥様が緊急搬送されました. 一刻を争う状況です. すぐに病院に来てください! 」
救急隊員が, 必死に雅明に訴えた.
「は? またかよ. 小春が少し腕を擦りむいただけなのに, 大げさなんだよ」
雅明の声は, 私をさらに絶望の淵に突き落とした.
彼は, 私の命よりも, 小春の些細な怪我を心配している.
私の体は, 彼の言葉によって, 完全に凍りついた.
「雅明... あなたは, 本当に私のことなんて, どうでもいいのね... 」
私の心の中で, 何かが音を立てて崩れ落ちた.
私の視界は, 再び霞み, 意識が遠のいていく.
電話は, そこで切れてしまった.
救急隊員が, 何度も雅明にかけ直そうとしたが, 電話は繋がらなかった.
救急隊員の一人が, 私の手を握りしめた.
彼の掌は, 温かく, 私に僅かな希望を与えてくれた.
しかし, 私の体は, もう限界だった.
下腹部の痛みが, さらに激しくなる.
私は, お腹の中で, 何かがスッと消えていくような感覚を覚えた.
ああ, 私の赤ちゃん.
私の, 唯一の子どもが... .
病院の白い天井が, 私の目には眩しかった.
消毒液の匂いが, 鼻腔を刺激する.
私の目から, 涙が止めどなく溢れてきた.
私は, もう何も感じたくなかった.
「奥様, 目を覚まされましたか? 」
看護師が, 私の顔を覗き込んだ.
彼女の顔には, 憐憫の表情が浮かんでいた.
「お子さんのことは, 残念でしたが... また, きっと新しい命を授かることができますから」
看護師の言葉が, 私の心に深く突き刺さった.
私は, 恐る恐る, 自分の腹部に手をやった.
そこには, もう何もない.
温もりも, 膨らみも, 何もかもが失われていた.
虚無感が, 私の全身を包み込んだ.
私は, 雅明と結婚して七年.
ずっと子どもを望んでいた.
何度も不妊治療を受け, ようやく授かった命だった.
雅明の家族も, 私の妊娠を心から喜んでくれた.
雅明も, 表面上は喜んでいるように見えた.
しかし, 彼が私を突き落とし, その結果, 赤ちゃんを失った.
私の心は, 凍りつき, 絶望に沈んだ.
雅明の家族は, 私を「子を産めない嫁」として見捨てるだろう.
そして, 雅明は, 小春と新しい家庭を築くのだろう.
私の未来は, 真っ暗だった.
私は, この絶望の中で, 何をすればいいのだろう.
私の心は, 完全に壊れてしまっていた.
話 3
凛花POV:
「お子さんの父親は, どなたですか? 」
医師の問いかけに, 私の心は凍りついた.
私は, 白い天井を仰いだまま, 感情のない声で答えた.
「いません. 子どもに, 父親なんて, いませんから」
私の言葉に, 医師は戸惑った様子を見せた.
彼は, 私のカルテに目を落とした.
「ですが, 岡本様は, 既婚者でいらっしゃいますよね? 」
医師の声には, 僅かな困惑が滲んでいた.
私は, 雅明が一度も産婦人科に付き添ってくれなかったことを思い出した.
いつも「仕事が忙しい」と言って, 私を一人で行かせていた.
周りの妊婦さんが, 夫に優しくエスコートされている姿を見るたびに, 私は胸が締め付けられるような寂しさを感じていた.
それでも, 私は雅明を信じていた.
子どもが生まれれば, きっと, 彼は変わってくれると.
「雅明さん, 次の健診は, 一緒に行ってくれませんか? 」
私がそう懇願した時, 雅明は一瞬, 優しい笑顔を見せた.
「ああ, もちろん. 凛花と赤ちゃんのためなら, いくらでも協力するよ」
しかし, その約束は, 小春の帰国によって, あっけなく破られた.
「ごめん, 凛花. 小春が帰国したばかりで, 仕事の引継ぎで忙しいんだ. 悪いけど, 一人で行ってきてくれないか? 」
雅明の言葉は, いつも同じだった.
「小春が」「小春の仕事が」
彼の口から出るのは, いつも小春のことばかりだった.
私は, 彼の言葉を信じていた.
彼の仕事の邪魔をしてはいけないと, 自分に言い聞かせていた.
しかし, 今思えば, 彼はあの時から, 小春と密会を重ねていたのだ.
私の子どもを, 私を, 裏切っていたのだ.
子どもは, もういない.
雅明を信じる理由も, 待つ理由も, もうどこにもなかった.
私の心は, 完全に雅明から離れていた.
離婚しよう.
それが, 私の心に残った, 唯一の感情だった.
七年間の結婚生活.
雅明を追いかけ続けた学生時代からの恋.
もう, 十分だった.
もう, 疲れた.
私は, ただ, この痛みが消えてくれることを願った.
「岡本様. 入院の手続きを済ませていただけますか? 」
医師が, 私の目の前に書類を差し出した.
私は, その書類に, 自分の名前を書き込んだ.
私の手は, 震えていた.
体は, 鉛のように重く, 今にも倒れてしまいそうだった.
私は, 重い足取りでカウンターに向かった.
そして, そこで, 私は信じられない光景を目にすることになる.
雅明と小春が, 病院の廊下を歩いてくる.
雅明は, 小春を優しく抱きかかえ, まるで壊れ物を扱うかのように, ゆっくりと歩いていた.
小春の額には, 小さな絆創膏が貼られていた.
私の胸の中に, 激しい怒りが込み上げてきた.
雅明は, 私に気づくと, 一瞬, 足を止めた.
そして, すぐに小春を庇うように, 私の前に立ちはだかった.
「凛花, お前, こんなところまで追いかけてきたのか? 小春に, 何かするつもりか! 」
雅明の声は, 私を責めるようだった.
「雅明さん, 凛花さんは, きっと心配してくれたんですよね? 私のことは, 大丈夫ですから, 凛花さんを責めないでください」
小春は, 雅明の腕の中で, か細い声で言った.
彼女の目は, 私を真っ直ぐ見据えていた.
その目に宿るのは, 私への憐憫などではなく, 勝利の光だった.
彼女は, まるで私が悪者であるかのように, 雅明に訴えかけていた.
「凛花さん, 私, 本当に大丈夫ですから. 雅明さんと, お幸せにね」
小春は, 私に向かって, 意味深な笑顔を見せた.
その笑顔は, 私をさらに追い詰めるようだった.
「凛花, 分かっただろう? 小春は, お前のことを心配してくれているんだ. だから, お前も小春に謝って, 何か温かいものでも買ってきてやってくれ」
雅明は, 私に命令した.
彼の言葉に, 私の心は完全に凍りついた.
私は, 彼の言葉を, もう何も信じられない.
私は, 小春の額に貼られた小さな絆創膏を見た.
そして, 私の腹部に手をやった.
そこには, もう何も残っていない.
私の子どもは, 雅明と小春のせいで, この世から消えてしまったのだ.
私の痛みは, 小春の傷とは比べ物にならないほど, 深く, そして重いものだった.
私は, 何も言えなかった.
言葉を失い, ただ雅明と小春を見つめるしかなかった.
私の沈黙を, 雅明は誤解した.
彼は, 私のことを, まだ小春に嫉妬しているのだと思ったのだろう.
「凛花, 分かったなら, 早く行ってくれ. 小春も, 疲れているんだ」
雅明の声は, 私をさらに急かすようだった.
私は, 彼の言葉に, 何も応えなかった.
「凛花, 頼むから, もう家に帰って待っていてくれ. 俺も, 小春のことが落ち着いたら, すぐに帰るから」
雅明は, 私を追い払うように言った.
私は, 彼の言葉に, 何度も騙されてきた.
「すぐに帰る」
その言葉が, どれほど虚しいものだったか.
私は, 雅明と結婚して七年.
雅明の裏切りは, これで五度目だった.
五度目の裏切り.
私は, 雅明と結婚する時, 彼に約束させたことがある.
「もし, 雅明が私を裏切ることがあったら, 五回まで許す. でも, 六回目は, もう絶対に許さない. その時は, もう私を二度と追わないで」
雅明は, その時, 私の言葉を笑い飛ばした.
「凛花, 俺が君を裏切るなんて, 絶対にないよ」
しかし, その約束は, 今, 破られた.
雅明は, 五度目の裏切りを犯したのだ.
「凛花, 早く行くんだ! 」
雅明が, 苛立ったように私を急かした.
私は, もう何も言わなかった.
私は, ただ, 静かにその場を立ち去った.
私の手には, 離婚届の書類が握られていた.
雅明は, 私の手元に目をやった.
彼の顔に, 一瞬の戸惑いが浮かんだが, すぐに消え失せた.
私は, もう振り返らなかった.
私の心は, 完全に決まっていた.
もう, 雅明のいる場所には, 戻らない.