話 1
「おめでとうございます、妊娠していますよ。赤ちゃんもとても元気です」
医師は検査結果の用紙を桜井結衣に手渡した。
結衣はあまりの驚きに呆然としたまま、信じられない様子でもう一度尋ねた。「先生、本当ですか?」
医師は力強く頷いた。「間違いありませんよ。もうすぐ3週目に入ります」
病院を出るまで、結衣はその検査結果をきつく握りしめていた。驚きが少しずつおさまり、やがてじわじわと喜びが胸に広がっていく。
結婚した当初、神崎涼真は彼女に「子供は作らない」とはっきり告げていた。
2人がベッドを共にする時は、毎回必ず避妊していた。
だが先月、どうしてもひ孫の顔が見たい祖父が、2人を寝室に閉じ込めたのだ。
あの夜、涼真は朝が来るまで彼女を離さず、ありとあらゆる体位を試してきた。
結衣は思わずにはいられなかった。3年という月日が経ち、彼も考えを変えたのかもしれない、と。
スマホを手に持ち、妊娠したことを今すぐ涼真に伝えるべきか迷っていた。
その時、ふいにスマホが鳴り、1通のメッセージがポップアップした。
「俺のオフィスに来い」
結衣は少し驚いた。彼の方から会社に来るよう呼んだことなど、これまで1度もなかったからだ。
***
すでに社員たちは退社している時間だった。結衣はエレベーターで神崎グループ本社の最上階へ直行し、涼真のオフィスへと向かった。
道中、彼女の胸はずっと高鳴っていた。妊娠を知って驚き、喜ぶ彼の姿を想像していたのだ。
きっと彼も喜んでくれるはず。ーー私と同じように。
しかし、オフィスのドアを開けた瞬間、結衣は頭が真っ白になった。顔からさっと血の気が引いていく。
床には女性の服が散乱しており、ピンク色のハイヒールまで転がっていた。
隣のシャワールームからは、ザーザーと水の流れる音が聞こえてくる。
結衣は胸をナイフで深くえぐられたようなショックを受け、一瞬で呼吸が苦しくなった。
(私を呼んだのは、これを見せつけるためだったの!)
背後から、氷のように冷酷な声が響いた。 「何しに来た」
結衣が振り返ると、ドアの前に涼真が立っており、不機嫌そうな目でこちらを睨んでいた。
彼はシャツ姿で、首元のボタンを2つ外していた。その首筋には、生々しい赤いキスマークが残っている……。
結衣は無理やり視線を逸らすと、激しく胸を上下させ、床の服を指差して問い詰めた。「これ、どういうこと?」
涼真が眉をひそめ、口を開きかけたその時。シャワールームのドアが開き、彼のオーバーサイズのシャツを着た1人の女が出てきた。
胸元のボタンが2つだけ留められており、胸の谷間と、すらりと伸びた2本の脚が露わになっていた。
女が甘い声を出した。「涼真、シャワー終わったよ……」
だが、顔を上げて結衣の姿に気づくと、女は言葉を詰まらせ、オロオロとした視線を向けた。
その整った顔立ちには、見覚えがあった。結衣は彼女をじっと見つめ、少しの間を置いた後、ふいに自嘲するような笑みをこぼした。
どうりで。彼が自分のオフィスに他の女を入れるわけだ。
相手が白石莉子だったのだから。
涼真がずっと忘れられずにいた初恋の女が、ついに帰ってきたのだ。
結衣と涼真の結婚は、親族からのプレッシャーによる政略結婚に過ぎず、結婚式すら挙げていなかった。
彼女が涼真の妻であることを知る者など、世間にはほとんどいない。
彼が自分を愛していないことくらい、結衣は最初から分かっていた。
なのに、彼が自分たちの子供を愛してくれるなどと、どうしてそんな甘い夢を見てしまったのだろう?
莉子が帰ってきた今、彼は一刻も早く自分を神崎家から追い出し、「神崎夫人」の座を彼女に返してやりたいと思っているに違いない。
結衣は、これ以上ピエロのように惨めな姿を晒したくなかった。彼女は踵を返し、逃げるようにその場を去った。
涼真は彼女を引き止めることもなく、弁解の言葉1つすら口にしなかった。
結衣の姿が完全に見えなくなってから、莉子はわざとらしく申し訳なさそうな顔を作り、おずおずと口を開いた。
「涼真、ごめんなさい。結衣が外にいるなんて知らなくて。私から彼女に説明しに行こうか?」
空港から出たところでちょうど雨に降られ、涼真のオフィスでシャワーを借りたいと提案したのは莉子の方だった。
彼女は涼真が席を外した隙を狙い、結衣にメッセージを送りつけ、その直後にすぐ送信履歴を削除していたのだ。
涼真の視線は結衣が消えた方向を見据えたままだった。そのゴツゴツとした指は、力強く握り込まれていた。
彼は険しい顔つきのまま吐き捨てた。「必要ない」
莉子の瞳の奥で、勝ち誇ったような光が怪しく煌めいた。
話 2
「結婚式を挙げるんだってね」
莉子は感情を押し殺し、少し寂しげな声で小さく尋ねた。
涼真は短く相槌を打ったが、その視線が莉子に向けられることは一度もなかった。「俺にはあいつに、結婚式をしてやる義理がある」
3年前、神崎グループのトップに就任したばかりの彼は、方々で反感を買っていた。結婚式を挙げなかったのは、結衣に恨みの矛先が向くのを恐れたからだ。
だが今となっては、彼の身内に軽々しく手を出そうとする者など誰もいない。
***
結衣は本社ビルを出ると、足早に歩き出した。ここから一刻も早く逃げ出せば、胸の痛みも和らぐような気がしたのだ。
彼女が車のドアを開けようと手を伸ばした瞬間、背後から足音が近づいてきた。急いでいるが、どこか落ち着きのある足音だ。次の瞬間、温かい体温が背中にぴったりと張り付いた。男の冷たくも強引な気配が夜の冷たい風と混ざり合い、一気に結衣の鼻腔をすり抜ける。
涼真は彼女を腕の中に閉じ込め、身をかがめて耳元で囁いた。「送っていく」
彼が追いかけてきたことに結衣は少し驚いたが、思わず皮肉を口にした。「今夜は用事があるんじゃなかったの?」
涼真は答えず、感情を押し殺すように低い声で尋ねた。「今日はウェディングドレスの試着に行かなかったのか?」
ウェディングドレスは空輸されてきたもので、国際的に有名なデザイナーの手による純手縫いの品だ。ちりばめられたダイヤモンドも、1粒1粒が厳選されたものだった。
それを聞いて、結衣はついに振り返って彼を見つめ、静かな顔で言った。「この結婚式、必要ないと思うの」
涼真は眉をひそめ、瞳の奥に怒りをたぎらせた。車のドアに手をつき、無意識のうちに関節が白くなるほど力を込めて問い詰めた。「どういう意味だ?」
彼が追いかけてきたのは、つい先ほど祖父から電話があり、結衣が結婚式をキャンセルしたがっていると聞かされたからだった。
「言葉通りの意味よ」
結衣は目を伏せ、無意識に指を丸めた。「最初からその気がなかったのに、後から取って付けたようにやって、何の意味があるの?」
涼真は珍しく少しの間沈黙し、どこか自信なげに口を開いた。「怒っているのか?」
結衣は言いたかった。あなたの妻として、あなたが他の女をオフィスに連れ込んでいたのに、弁解の1つもないなんて、怒らない方がおかしいでしょう、と。
結衣は深呼吸をして、静かに告げた。「神崎涼真、私たち離婚しましょう」
涼真の瞳に一瞬驚きの色が走ったが、すぐに顔を険しくし、眉をひそめて結衣を睨みつけた。「何を言ってるんだ?」
1度口に出してしまえば、それ以上言葉を紡ぐのはそう難しいことではなかった。
心にぽっかりと穴が空いたようだったが、結衣は同時に、久しく感じていなかった清々しさを覚えていた。
彼女は顔を上げ、目の前に立つ背の高い男を静かに見つめ、もう1度繰り返した。「離婚しましょう」
涼真はひどく顔を歪め、手を伸ばして彼女の顎を掴み、凶暴な目を向けた。「桜井結衣、大人しく『神崎夫人』の座に収まっていればいい。離婚など考えるな!」
結衣は何も言わず、静かだが頑固な視線で彼をじっと見つめ返した。
涼真の心臓がわずかに震えた。状況が思い通りにならないことへの苛立ちを、久しぶりに感じていた。
彼は車のドアを開けて結衣を助手席に押し込み、陰鬱な顔でエンジンをかけた。
「離婚協議書はもう作ってあるの。送ってもらう必要はないわ、ここでサインしてくれればいい」
結衣は元々、涼真に離婚の話をするつもりだった。口に出してしまった以上、これ以上お互いの時間を無駄にする必要はない。
「言ったはずだ。離婚はしないと」
涼真の声は氷のように冷え切っていた。それと同時に車のスピードが跳ね上がり、まるで結衣を道連れにして心中でもするかのような、狂気じみた荒々しさを見せた。
話 3
結衣は黙って手すりを握りしめた。涼真がなぜ同意しないのか疑問に思ったが、ふと1つの可能性を思いついた。
彼女はため息をついて言った。「安心して。離婚のことは私から直接おじいさんに話すから。私のせいだって言うし、あなたを困らせるようなことは……きゃっ!」
言葉を言い終わらないうちに、車が突然再び加速した。前の車にぶつかりそうになった瞬間、涼真が急ハンドルを切り、車を路肩に急停車させた。
シートベルトがなかったら、結衣は完全に外に放り出されていただろう。
彼女はまだ心臓をバクバクさせながら、腹立たしげに振り返り、正気を失ったような男を睨みつけた。
涼真はハンドルを握る指が白くなるほど、明らかに怒りを押し殺して言った。「そんなに待ちきれないのか?」
結衣は彼が何に怒っているのか分からなかった。この結婚を望んでいなかったのは彼の方だ。自分が自ら切り出し、祖父・神崎宗助を説得する厄介事も引き受けると言っているのに、これ以上何の不満があるというのか?
「神崎グループの株なんて1ミリもいらないわ。そっちの弁護士に離婚協議書を作り直させたいならそれでもいいし、私は……」
涼真は冷たく彼女の言葉を遮った。眉間の険しさと苛立ちはもう抑えきれないようだった。 「結衣!結婚式は予定通り行う。ウェディングドレスは今から試着しに行くぞ!」
彼はそう言い終わると再びエンジンをかけ、神崎家本邸へと直行した。
***
この時間、宗助はすでに休んでいた。涼真は結衣を乱暴に引っ張り、驚きを隠せない執事の横を通り過ぎて、大股で階段を駆け上がった。
結衣は自分を拘束する大きな手を力任せに振り払い、背を向けて立ち去ろうとした。しかし、有無を言わさず再び涼真に引き戻された。 「涼真、離して!こんな結婚式、私は嫌よ!」
寝室のドアが力強く蹴り閉められる。部屋の中央には、あの豪奢なウェディングドレスが置かれていた。
涼真は彼女を腕の中に閉じ込め、結衣の拒絶など聞こえていないかのように言った。 「自分で着替えるか、それとも俺が着替えさせてやろうか?」
結衣は怒り通り越して笑い出し、顔を上げて目の前の男を冷ややかに見つめて言い放った。 「あんた人間の言葉が通じないの?私は離婚するって言ったの!離婚ってことは、もうあんたなんていらないってことよ!」
彼女が言葉を重ねるごとに、男の顔色は険しくなっていった。 彼女が言い終わるや否や、涼真は彼女の顎をガシッと掴み、顔を近づけて乱暴に唇を塞いだ。
結衣は必死に唇を噛み締めた。
彼女の抵抗に気づき、涼真は強引にその唇をこじ開け、野獣のように彼女を貪り尽くす。
彼女の腰に回された男の手が徐々に力を増し、突然彼女を軽々と担ぎ上げると、そのままベッドへと向かった。
結衣は彼が何をしようとしているのか悟り、必死に暴れた。彼の肩を叩きながら怒鳴りつけた。「涼真!この最低野郎!」
涼真は結衣の抵抗をいとも簡単に押さえ込み、吐き捨てるように言った。「ドレスの試着が嫌なら、別のことでもしようか!」
少し冷たい彼の唇が彼女の耳裏に押し当てられ、荒い息遣いが首筋に吹きかかる。
「ブーッ、ブーッ」
揉み合いの末、ベッドに落ちていた涼真のスマホが突然鳴り出し、2人の取っ組み合いはピタリと止まった。
結衣が顔を向けると、画面に表示されていたのは白石莉子の名前だった。
涼真は眉をひそめたが、結局結衣から手を離し、起き上がって電話に出た。
『涼真、ごめんなさい。こんな時に電話しちゃダメだって分かってるんだけど、でも、誰を頼ればいいか分からなくて……』
スマホの向こうから、莉子の声が焦りと罪悪感に満ちた様子で響いてきた。
涼真は声を潜めて言った。『どうした?ゆっくり話してくれ』
ここへ来る前、すでにアシスタントに莉子をホテルへ送り届けるよう指示していた。こんな短時間で何かトラブルが起きるはずがない。
莉子はしゃくり上げながら言った。『涼真、1人でいられないの。なんか……息が詰まりそうで。会いに来てくれない? 少しだけでもいいから……』
スマホから漏れ聞こえるその声を聞きながら、ベッドのヘッドボードに寄りかかる結衣は、すでに涼真の返答を予想していた。
案の定、涼真は少し黙った後、静かに答えた。『分かった。待っててくれ』
その短い返答は、鈍器で殴りつけるほどの衝撃で結衣の心を激しく打ち砕いた。