話 2
「黒田玄也……?」森川清緒の耳に、己の名を呼ぶ自分の声がどこか遠くに聞こえた。
思考が白く染まり、彼女はただ呆然と立ち尽くす。
彼が自分の味方ではないことなど、とうに理解していた。
それでも、せめて公正な人間ではあると、心のどこかで信じていたのだ。 調査もせず、宮沢和子の言い分だけを鵜呑みにして、一方的に断罪するような男ではない、と。
だが今、その最後の微かな光さえも、手の届かない場所で儚く消え失せた。
清緒は力なくうつむき、唇の端に乾いた自嘲の笑みを刻む。
この男こそ、自分が情熱のすべてを捧げて心を溶かそうと願った男。 父親に背いてまで、その腕の中に飛び込んだ相手。
三年。
あまりにも長い、三年という月日。
彼の心に宮沢和子が棲みついていることも、二人が幼馴染みであることも知っていた。 だが和子は彼の従兄に嫁いだのだ。 だから、自分が誠意を尽くし続ければ、いつか黒田玄也も自分という人間を見てくれるはずだと信じていた。
だからこそ、玄也が宮沢和子の看病を結婚の条件として突きつけた時も、清緒はわずかに逡巡した末、それを受け入れたのだ。
まさか三年後の今日、離婚という二文字が、黒田玄也の口からこれほど無造作に吐き出されようとは、夢にも思わずに。
清緒はゆっくりと顔を上げた。 正面に立つ玄也の瞳が、射るように彼女を見据えている。
その冷え切った眼差しは氷のように無情で、彫りの深い顔立ちには何の感情も浮かんでいない。 三年前と何ひとつ変わらない、まるで赤の他人を見るかのようなよそよそしい眼差しだった。
自分が、あまりに甘かったのだ。
好かれていない人間は、どれだけ身を尽くしても、決して愛されることはない。
「森川清緒!玄也の言葉が聞こえなかったのかい?!辞職しないなら、離婚だと言っているんだよ!」老婦人の甲高い声が、勝ち誇ったように清緒を射抜いた。 その顔には、隠しきれない嘲笑が浮かんでいる。
「申し上げたはずです」清緒はゆっくりと身を起こすと、憑き物が落ちたように凪いだ表情を浮かべた。 「私は最善を尽くしました。 もし私の処方に疑義がおありなら、病院の監査委員会に調査をご依頼ください。 職を辞するつもりはございません」
その言葉が引き金だった。
老婦人はテーブルを力任せに叩きつけ、清緒の顔を指差して声を荒らげた。 「最善を尽くしただぁ?!」
「ふんっ――」
「よくもまあ監査委員会などと口にできたものだね。 病院の連中とあんたがグルなのはお見通しだよ!和子ちゃんが病院であんたたちにどれだけ虐待されたか、洗いざらい私に話してくれたわ。 寄って集っていじめておいて、自分たちの非を隠蔽するつもりかい!」
「よろしい!反省の色もないなら、小山!この女を薪小屋に放り込んでおしまい!いつ反省するか、そこで考えさせるんだ!」
「口だけは達者なようだから、食事は抜きだ!死なない程度に水だけやっておけ!」 信じられない、という思いが清緒の胸を貫いた。
ここは現代の法治国家のはずだ。 薪小屋に監禁し、食事を与えないなどという前近代的な仕打ちが、まかり通るというのか。
彼女はすぐには反論せず、最後の望みを託すように玄也に視線を向けた。
愚かだと、自分でも分かっている。 それでもなお、この瞬間の玄也の考えを確かめずにはいられなかった。
だが、玄也から返ってきたのは、彼女の心を凍らせる冷たい視線だけだった。 「頭を冷やしてから、改めて俺に言いに来い。 和子の件、お前には責任を取ってもらう」
「お兄様、そんな女と話すだけ無駄よ」黒田遥は、清緒を蛇蝎のごとく嫌っていた。 玄也が脅されて清緒と結婚したのだと信じ込み、嫁いで以来、事あるごとに彼女を目の敵にしてきた。 「薪小屋に三日三晩放り込んで食事を抜けば、その減らず口も少しはマシになるんじゃないかしら!」
清緒は遥に目をくれなかった。 彼女にどう思われようと、もはやどうでもいい。 最初から最後まで、清緒が気にかけていたのは玄也の心ひとつだけだった。
彼女はまっすぐに彼を見つめ、言葉を紡いだ。 「黒田玄也……私に、宮沢和子さんを害する意図など微塵もありませんでした。 私は医者です。 患者の命を危険に晒すような治療は断じて行いません。 あなたは、ご自身を誰よりも公平で理性的だと自負していらっしゃるでしょう?でしたら、どうか私にも、その公平さを示してはくださいませんか」
切実な光が、清緒の瞳に宿る。
特別扱いを望んでいるわけではない。 ただ、公平な扱いを望んでいるだけだ。
公平に事の真相を調べ、公平に、自分に説明の機会を与えてほしい。
ただ、それだけだった。
だが、その願いもまた、踏みにじられた。
清緒は小山に腕を掴まれ、引きずられるようにして薪小屋へと連れて行かれた。
重い木の扉が、軋みながら閉じていく。 その隙間から、玄也の無表情な顔が遠ざかっていくのを、清緒はただ見つめていた。
男の瞳には一瞬、わずかな動揺がよぎった気もしたが、すぐに氷のような冷たさに覆われ、彼女への情など一片も見いだせなかった。
踏み出そうとした足は、その昏い眼差しに縫い付けられ、虚無感に胸を突かれた彼女は立ち尽くす。 やがて扉は完全に閉ざされ、彼の姿は視界から消えた。
じっとりとした闇の中、どれほどの時間が過ぎたのか、清緒には分からなかった。
指先に触れる床は、湿った土の感触がする。
肌を刺す冷気と黴の匂いが、肺を満たしていく。
すぐそばで、得体の知れない柔らかな生き物が這い回る気配と、心臓を凍らせるような鳴き声が絶え間なく鼓膜を揺さぶった。
最初の悲しみは、やがて麻痺に変わり、最後には冷たい床に力なく座り込むしかなかった。 胸の内で燃え盛っていた愛の炎が、時間の経過とともに少しずつ熱を失い、灰になっていくのを感じた。
暗闇の中、どれほどの時が流れたのだろう。
重い扉が「ギー」という鈍い音を立てて外から開けられ、目が眩むほどの陽光が、鋭い刃のように差し込んできた。
逆光の中に立つ玄也の輪郭が、冷たく切り取られる。 彼は一言、投げつけた。 「反省したか?」
反省したのなら、早く病院へ行って和子の看病をしろ――その言葉の裏にある意図を悟った瞬間、胸の奥で燻っていた最後の余温さえも、跡形もなく消え去った。
それでも、清緒は諦めきれなかった。 この三年の歳月を諦めきれないのか、それとも黒田玄也という男を諦めきれないのか、自分でも分からなかった。「私は、宮沢和子さんの治療に誠心誠意あたりました。
彼女に対して、何一つ恥じるようなことはしておりません。 もし……もし許されるなら、少しだけ時間をください。 病院へ戻り、必ず真相を突き止めてまいります。 必ず、納得のいく答えを出しますから……お願いします」
清緒は顔を上げ、この関係のために最後の懇願をした。
「時間をくれ、だと?」玄也の瞳に宿った侮蔑の色が、清緒の心を深く刺した。 彼の声が、冷たく響く。 「隠蔽工作をするための時間か?」
こうなると分かっていたはずなのに、抉られた心は確かに痛んだ。
彼女はふらつきながらも膝に手をついて立ち上がり、暗がりに佇んだまま、どうしても確かめずにはいられない問いを口にした。 「黒田玄也……この三年間、ほんの一瞬でも、私のことを好きだと思ってくれたことはありましたか?」
玄也は一瞬虚を突かれたようだったが、すぐに鼻で笑った。
その乾いた嘲笑が、無慈悲な平手打ちのように清緒の最後の幻想を打ち砕いた。
「……ああ、ないのですね。 そう、すべて私の独り善がりだった」清緒は独り言のように呟いた。 顔からは血の気が引いている。 「分かりました。私が、愚かだったのです」
「それなら……」清緒は寂寥を湛えた笑みを浮かべた。 「離婚しましょう」
玄也は数秒間、言葉を失い、眉根を寄せて冷ややかに清緒を見つめた。
一晩もすれば過ちを認め、いつものように折れて素直に言うことを聞き、病院の主任の職を辞すだろうと高を括っていた。
まさか、彼女の口から「離婚」という言葉が飛び出すとは。
身の程知らずにもほどがある。 反省の色など、どこにもないではないか。
清緒は玄也の反応を静かに見つめ、うつむいて自嘲気味に笑った。
これまで彼の言うことには何でも従ってきたのだ。 今日、初めて牙を剥いた自分に、彼がこれほど驚くのも無理はない。
彼女はひとつ深く息を吸い込むと、呆然と立ち尽くす玄也の瞳を真っ直ぐに見据えて、繰り返した。 「黒田玄也。 離婚します」
そう言い終えると、清緒は顔を上げ、陽光の中へと一歩踏み出した。
その足取りは重く、覚束ない。 一歩踏み出すたびに、湿った冷気で悪化した熱が全身を蝕み、杖で打たれた背中が軋むように痛んだ。 指先を滑っていった、あの生き物の感触が、五感の中で際限なく増幅されていく。
それでも、彼女は確かな意志で前へ進んだ。
この場所を、黒田家を、そして自分が一生をかけて守り抜くと信じていた結婚という名の檻から、自らを解き放つために。
話 3
荷物一つ持たず、森川清緒は黒田家を飛び出した。
背後から、使用人たちのひそひそと囁き交わす声が聞こえてくる。
「けっ、離婚だなんて大見得切って、結局は手ぶらじゃない。 じらし作戦のつもりでしょうけど、芝居を打つならもっとうまくやりなさいよ」
「全くだ。 気取ってはいるけど、所詮は坊ちゃんのお金が目当てで嫁いできたんでしょ?聞きましたよ、これだけ長くいて、坊ちゃんとは一度も夜を共にしていないって」 「寝てなくて正解よ。
あんな腹黒い女、玄也坊ちゃんにはふさわしくないわ。 でも賭けてもいい、あの女、絶対に離婚なんてしないわよ」 「私もそう思うわ。
産婦人科の主任なんて肩書き、月給がいくらになるっていうの。 どうせ見栄を張っているだけで、そのうち仕事を辞めて和子お嬢様の世話係に逆戻りよ」
「口先だけよ。 本当に離婚する気があるなら、やってみせろって話だわ」
「……」
嘲りと皮肉に満ちた言葉は、清緒の背中が遠ざかるにつれて、薄い空気の中へと溶けていった。
長引く高熱が体力を奪い、彼女の状態は最悪だった。
長年医者を務めてきた経験から、自分の体が限界に達していることは痛いほどわかっている。
彼女はふらつく体をどうにか支え、道端でタクシーを待った。
ふと。
一陣の風が巻き起こり、冷気をまとったセダンが、すぐ脇をかすめて走り去った。
鈍い反応で一歩後ずさった清緒が顔を上げると、黒いセダンの中に、黒田玄也の氷のように鋭い横顔が一瞬にして目の前を過ぎ去っていく。
そして無情にも窓がゆっくりと上がり、彼の姿は彼女の視界から完全に遮断された。
しばし呆然と立ち尽くした後、彼女の口元に、心が砕けるような自嘲の笑みが浮かんだ。
三年間、誠心誠意を尽くした結婚生活の果てが、仇のような仕打ちとは。 なんて、惨めな失敗だろう。
車が角を曲がる時。
運転手はバックミラー越しに、よろめく女性の姿を一瞥した。 「坊ちゃん、奥様は相当具合が悪そうでございます。 万が一、家の前で倒れでもしたらニュース沙汰になりかねません。 世間体が悪うございます」
閉じていた目を、玄也はゆっくりと開いた。 その双眸は、氷のように冷え切っていた。 「あいつは和子の子を流産させた。 その罪は、今すぐ死んだとしても償いきれるものじゃない」
運転手は玄也に見えない角度で口の端を吊り上げ、落ち着き払った声で「かしこまりました」と答えた。
次の瞬間、車は淀みなく交通の流れに合流した。
灼けつくような炎天下、清緒の体は頼りなくよろめき、唇は乾ききってひび割れていた。
必死に意識を繋ぎ止めようと頭を振るが、かえって眩暈はひどくなり、足元がおぼつかなくなる。
一瞬、心臓が暴れるように脈打ち、制御を失った。 清緒はとっさに胸を押さえたが、息が詰まり、浅い喘ぎが漏れた。
顔を上げた瞬間、世界がぐらりと回転する。
ふと、自分の体が羽のように軽くなるのを感じた。 一枚の木の葉が、梢からひらひらと舞い落ちるのが見える。 霞んでいく視界のなか、彼女は彫りの深い、見覚えのある男の顔を捉えた。
見覚えがある。
彼女は懸命に目を開けようとしたが、体はもう限界だった。 意識が途切れるその瞬間、男が自分を呼ぶ声が、確かに耳に届いた。 「清緒!」
小山晴子が報せを受けて病院に駆けつけた時、森川清緒はすでに意識を失っていた。
その顔は紙のように真っ白で、体は無意識に震え、額からは冷や汗がとめどなく流れ落ちる。
まるで死の淵を彷徨っているかのようだった。
産婦人科の同僚たちが、心配そうに彼女の周りに集まっている。
院長は、ベッドに横たわる生気のない森川清緒を見て、心を痛めると同時に怒りを露わにした。 「あれだけの輸血をこなし、大手術をやり遂げた直後だというのに……病身でタクシーに乗るしかなく、あげく病院の前で倒れるとは!黒田家もあまりに非道すぎる!」
看護師長は怒りで張り裂けんばかりに、宮沢和子の病室がある方を指差して怒鳴った。 「黒田の連中、恥を知りなさい!うちの主任をここまでいじめておいて、金があれば何でも許されるとでも思ってるの!?」
科の同僚たちは憤りを露わにしながら、清緒を病室へと運び込んだ。
清緒の高熱は一晩中下がることがなかった。 消耗しきった体で目を覚ました時、彼女は力なくベッドの頭にもたれかかっていた。
虚ろな瞳は宙を彷徨い、昨日起きた出来事が脳裏に焼き付いて離れない。
記憶を辿るうちに、じわりと目頭が熱くなり、赤く染まっていく。 三年の青春。 幾度となく、静かな夜に自分を温めてくれたあの「お兄ちゃん」が、大人になった今、こんなにも自分を深く傷つけるなんて。
清緒は膝を抱え込むと、鼻をすすり、静かに涙をこぼした。
真心さえ尽くせば、真心で返してもらえると信じていた。
自分が十分に努力し、従順でありさえすれば、氷山も溶かせると信じていた。
ああ、女の思い込みとは、これほどまでに致命的なものだったのか。
周りが自分を愚かだと笑うのも無理はない。 今となっては、愚かだと言われることすら、「愚か」という言葉への冒涜に思えた。
再び目を覚ますと、窓の外はすでに白んでいた。
全身を濡らす冷や汗が不快だった。 彼女が服を着替えた後で、科の同僚たちと小山晴子が一緒に入ってきた。
晴子の手には、温かい朝食が握られている。
「清緒、目が覚めた?あー、よかった……!もう、死ぬほど心配したんだから!死体を引き取りに来ることになるかと思ったよ!」
清緒は彼女の大げさな物言いに、淡く笑った。 「もう大丈夫よ」
「主任、安心して休んでください。 ここ数日は私たちが交代で病棟を診ますから。 何も考えなくていいです、全部私たちがカバーしますので」同じ科の小野さんが、頼もしく言った。
仁生病院の心臓外科は、清緒が着任してから、あらゆる面で業務レベルが飛躍的に向上した。 その後、宮沢和子の妊娠を機に、清緒は産婦人科に異動して主任となった。
落下傘人事に、特にベテランの医師たちは快く思っていなかった。
しかし、わずか数回の手術を見学するうちに誰もが心から感服し、森川清緒の着任によって、仁生病院の産婦人科はわずか数ヶ月で、国内屈指の手術成功率九十九パーセントを誇るまでになった。
誰もが、彼女を深く尊敬している。
小野さんの言葉に、同僚たちは口々に頷き、同意を示した。
清緒は頷き、皆をそれぞれの持ち場に戻るよう促した。
ベッドのそばに残った小山晴子に、彼女は言った。 「私のスマホ、どこ?」
晴子は途端に身構えた。 「清緒、まさかまた黒田玄也に電話する気?冷たくあしらわれるだけだって、わかってるでしょ?」
晴子は、玄也の車が清緒のすぐそばを猛スピードで走り去るのを目撃した時、怒りでその場で爆発しそうになったのだ。
清緒が玄也の悪口を言われるのを嫌がるのを知っている晴子は、ぶつぶつと呟く。 「すがりつくにしても、体調が戻ってからにしなよ。 じゃないと、『歩くRhマイナス血液バンク』が務まらないでしょ」
Rhマイナス血液バンク。
その言葉に、清緒は眉をひそめ、自嘲気味に笑った。
その形容は、否定しようにも、あまりに的を射ている。
「違うわよ。 ネットのニュースを確認したいだけ」
宮沢和子のいつもの手口からして、お腹の子が駄目になったのだから、何をおいてもまず悲劇のヒロインを演じるに決まっている。
そして、黒田家の前で、しおらしく泣きながら自分の不手際だと訴えるだろう。
薬に細工をしたと彼女が言ったのなら、黒田家の前だけでその話をするはずがない。
かつては姉のように慕ってくれていたはずが、まさか、こんな形で牙を剥かれるとは。
人前では清純な白蓮を演じ、裏では自分を召使いのようにこき使って治療させ、体調が回復するやいなや、この仕打ち。
スマホに溢れるニュースが、森川清緒の推測を裏付けていた。
「見る価値なんてないってば」晴子は心底うんざりしている。 「前から言ってたでしょ、あの宮沢和子はロクな女じゃない、腹黒いって。 清緒みたいに裏表のない性格じゃ勝ち目ないよ。 あの時『根はいい子だ』なんて言ってたけど、見てみなよ、今じゃネットで『性悪女』扱いされてるのは清緒の方だよ!」
「あの黒田玄也も、頭空っぽなんじゃないの!社長だか何だか知らないけど、あんな知能で社長が務まるなら、誰でもできるわよ!」
清緒は答えず、うつむいてスマホの画面を見つめていた。
ネットに溢れるニュースは、黒田玄也にも黒田家にも一切触れず、その矛先はすべて清緒と仁生病院に向けられていた。
医者にとって、最も重要なのは名声だ。
清緒は自分の名誉はどうでもいいが、仁生病院の名声まで汚されるのは看過できない。
宮沢和子のこの手は、釜底抽薪。 陰険極まりない。
だが、和子は知らない。 自分には彼女を生かす腕があるように、その命を絶つ力もあることを。 そして、先天性の心臓病は、少し体調がいいからといって完治するほど甘くはないということを。
この病気は長期的なケアが必要なのだ。 そうでなければ、この世に心臓病で亡くなる患者などいるはずがない。
自分の一途な想いの滑稽さにも、和子の無知さにも、清緒は乾いた笑いを禁じ得なかった。
傍らに立っていた晴子は、清緒のかすかな笑みを見て、ぞっと総毛立った。 彼女は戸惑って言った。 「し、師匠……?あ、あの、どうされたんですか… …?」
「ショックを受けたとしても、大丈夫ですって。 これから挽回すればいいんですから。 でもその笑い方、正直ちょっと怖いです… …!」
「はい、師匠、私が悪かったです。 怒らないでください。 もう黒田玄也をクズ男なんて言いませんし、宮沢和子をぶりっ子の性悪女とも言いませんから、ね?」
清緒が顔を上げると、晴子のおずおずとした様子が目に入り、自分が以前玄也を庇っていたせいで彼女に要らぬ誤解をさせているのだと悟る。
乾ききった喉は、少し声を出すだけでナイフで抉るように痛んだ。 それでも清緒は、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。 「私……あなたの言う通りよ」
そう言い残すと、清緒は手元の水を一気に飲み干し、再びベッドに体を横たえた。
雷に打たれたような衝撃を受け、小山晴子はその場に立ち尽くした。
師匠――これって、性格が変わった?
自分が黒田玄也を罵ったのに、師匠が褒めてくれた? ! !
晴子は素早く首を伸ばして窓の外を見た。
今日の太陽は……ちゃんと東から昇ってるわよね。