話 2
赤楚 悠は、冷静さを保ったまま冷泉 木遠に事の経緯を語った。 その声には、どんな非難にも揺るがない、明瞭な響きがあった。 「倉庫には監視カメラがありました。 たとえ火事で本体が壊れても、データはどこかにバックアップが保存されているはずです」
「いい加減にしろ!」 冷泉 木遠は目を細め、射抜くような視線で赤楚 悠を睨みつけた。 その声は氷のように冷たく、沸騰するような怒気をはらんでいた。 「言い逃れをしたいだけだろう。 防犯カメラの映像などいくらでも偽造できる。 お前のような嘘つき女の言葉が、一言でも信じられるか!」
悠は、その視線をまっすぐに受け止めた。
彼の表情に変化はない。 その眼差しは刃のように鋭く、微塵も揺るがない。 この瞳に見つめられると、いつも心の奥底まで見透かされるような無力感に襲われた。
十年以上、赤楚 悠はこの男の凍てついた心をいつか溶かせるかもしれないと、愚かにも信じ続けてきた。 築き上げてきたはずの愛が、ただの砂上の楼閣だったとは思いもしなかった。
「今すぐ白藤つつじに謝りに行け!」
氷の刃のような命令が突き刺さり、悠は頭から冷水を浴びせられたように全身の感覚が麻痺していくのを感じた。 「私はあなたの妻よ!どうして信じてくれないの?」彼女の声はか細く震え、先程までの強さは見る影もなかった。 「赤楚 悠、言ったはずだ――謝れと!もし白藤つつじが事を荒立てれば、泣いて慈悲を乞うのはお前の方になるんだぞ」
その言葉は、彼女の心を容赦なく抉った。
この結婚も、十年という歳月を捧げた愛情も、すべてが茶番だったのだ。 木遠は悠の襟首を荒々しく掴むと、白藤つつじの病室へと引きずっていった。 「肋骨が折れているんです! 安静にしないと… … ! こんなの、虐待ですよ! 」
看護師が慌てて追いすがったが、その声も木遠には届かない。
悠は足をもつれさせながら、無抵抗のまま引きずられるようにして、清潔な廊下を抜け、特別病室の扉の前に立たされた。
病室は暖かく、静寂に満ちていた。 ベッドには白藤つつじが横たわり、傍らでは河内康子が甲斐甲斐しく果物を剥いて彼女の口元へ運んでいる。
悠が入ってきたことに気づくと、康子は汚物でも見るかのように一瞥をくれたが、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
赤楚浩介が、隠そうともしない嫌悪感を顔に浮かべて吐き捨てる。 「どの面下げて来たんだ!つつじがどんな目に遭ったか分かっているのか!」
その声を聞いた瞬間、悠の心は完全に凍てついた。
彼女は実の父親に向き直り、静かに問いかけた。 「お父さん、私があなたの血を分けた娘だということ、お忘れになったのですか?お母さんが出ていった後、もう再婚はしないと、私の面倒は自分が見ると、そう誓ってくれましたよね。 これが、そのやり方なのですか?」
父親は、娘に弁解の機会すら与えるつもりはないらしい。
浩介は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに不機嫌そうに眉をひそめ、悠を睨みつけた。 「しくじったのはお前だろうが!なぜ俺を巻き込む!随分と偉そうな口を利くようになったな、この俺に逆らうつもりか!」
その時、ベッドに横たわる白藤つつじが、弱々しいふりをしながらも、その瞳には隠しきれない勝ち誇った光を宿していた。
彼女はわざとらしく胸を押さえ、苦しげに息を継ぐふりをした。 「お父さんに孤独な老後を送らせたいの、赤楚 悠?あなたが結婚したら、お父さんは一人きり。 病気になっても、水を一杯汲んでくれる人さえいなくなるのよ?」
そして、つつじは木遠へと視線を移した。 「冷泉さん、私が本気で自殺するために火をつけるような女に見えますか?」
木遠は沈黙したまま、その言葉の重みを噛み締めていた。 彼の顔は刻一刻と険しさを増し、内なる嵐がその表情に影を落とす。
やがて彼は、冷たく容赦のない視線を悠に向け、厳かに命じた。 「赤楚 悠、土下座して白藤つつじに許しを乞え!」
悠は木遠を睨み返し、その瞳には反抗の色が浮かんでいた。 なぜ、私が。
その瞬間、康子が椅子から弾かれたように立ち上がり、嵐のような勢いで駆け寄ってきた。 乾いた破裂音が響き、悠の頬に鋭い痛みが走る。
突然の暴力に、悠は呆然と立ち尽くすしかなかった。 康子はヒステリックに泣き崩れる。 彼女は震える指で赤楚 悠を指さして叫んだ。 「赤楚 悠!私の娘を殺そうとしたくせに、よくもそんな平然とした顔で立っていられるわね!ああ、可哀想な私の娘……!全部私が悪いのよ、継母になんてなるべきじゃなかった!私があなたを好きな人から引き離して、こんな危険な目に遭わせてしまった… …!私は、私自身が許せない!」
康子の苦悶の表情に、浩介の胸に鋭い痛みが走った。
怒りに駆られた彼は悠に歩み寄り、今度はためらいなく、力任せにその頬を打ちつけた。
強い衝撃に体ごとよろめき、悠は壁に叩きつけられる。
壁にもたれかかったまま、呆然とする悠の心は乱れ、涙で視界が滲んだ。
それでも彼女は木遠を見つめた。 心のどこかで、まだ最後の希望の光を求めていた。
彼が自分を守ってくれること、たった一言でいい、味方になってくれることを願っていた。
しかし、木遠の返答は、その最後の希望を無慈悲に打ち砕いた。 「今すぐ謝れ!さもなくば警察を呼ぶ。 お前は殺人未遂で告発されているんだぞ、赤楚 悠。 そうなれば、お前は一生を刑務所で終えることになる」
話 3
「冷泉、木遠……」
その名を呟く唇が、微かに震えた。 赤楚悠は、彼の答えを覚悟していたはずだった。 だが、実際に紡がれた言葉は、研ぎ澄まされた刃のように心臓を貫いた。
人が生きる数十年の時が、これほど無意味に成り果てるとは。
そのうちの十年という歳月を、悠はこの男を愛するためだけに捧げてきたというのに。
返ってきたのは、他の女を庇うための、氷のように冷たい拒絶だけだった。
「そうよ、警察を呼んで!」 河内康子が怒声と共にスマートフォンを振りかざす。 「この人殺しは警察に突き出してやるわ!」
その手が振り下ろされる寸前、白藤つつじの白い指が康子の手首にそっと絡みついたのを、悠だけが見ていた。
一瞬、二人の視線が交錯し、ぴたりと康子の動きが凍りつく。 白藤つつじは、まるで絹を滑るような、慈愛に満ちた声色で言った。 「木遠さん、私のことを想ってくれる気持ちは嬉しいわ。 でも、これは私たちの家の問題よ。 警察沙汰になってお姉ちゃんが逮捕されたら、赤楚の名に傷がついてしまう… … それだけは避けたいの。 だから、今回は……」
彼女はそこで言葉を切り、儚げにうつむいた。 その姿は庇護欲を掻き立てるほどか弱く見えたが、伏せられた睫毛の影で、瞳の奥に宿る狡猾な光までは隠しきれていなかった。 「今回は、不問にするのが一番だと思うの」
その言葉に、赤楚浩介は僅かに動揺し、冷泉木遠は眉間の皺を深くした。
木遠は氷のような視線で悠を射抜き、地を這うような声で命じた。 「不問になどできるか!今すぐ謝れ!土下座して許しを請え!」
折れた肋骨が軋むような激痛に襲われたが、赤楚悠は決して膝を折ろうとはしなかった。
愛されない人間の苦しみなど、愛したことのない人間にとっては、慰みものに過ぎないのだから。 「言ったはずよ、私は何もしていない!潔白だわ、土下座も謝罪もするものですか!」
悠の言葉が終わるか終わらないかの刹那、踏み込んできた赤楚浩介の掌が、容赦なく彼女の頬を打った。
ただでさえ衰弱した身体が、嵐の中の木の葉のように翻弄される。 体勢を立て直す間もなく、背中に突き刺さるような衝撃。
「ドンッ」という鈍い音と共に、悠は糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
硬い床に膝を打ちつける音が病室に響き渡り、突き上げるような激痛が胸の傷まで貫く。 かろうじて両手で床に身体を支えると、胸の包帯に、見る間に鮮血が赤い染みとなって広がっていった。
入り口で息を飲んでいた看護師が、たまらず駆け寄ってきた。
悠の肩を支え、その身体を庇うようにして木遠を鋭く睨みつける。 「カルテを拝見しました。 あなたが赤楚さんのご主人ですね? 夫婦なら互いを守り合うべきでしょう。 こんな酷い仕打ち、許されると思っているんですか!彼女は瀕死の重傷なんですよ。 適切な処置をしなければ、一生ものの後遺症が残る可能性だってあるんです!」
「こんな性根の腐った女、妻として認めるものか」 冷泉木遠は吐き捨てるように言うと、床にうずくまる悠を、まるで靴底にこびりついた埃でも見るかのように冷ややかに見下ろした。 「赤楚悠、今日のことでただで済むと思うな。 つつじがお前を許したとしても、その罪は消えない。 相応の罰を受けてもらう。 自分の過ちを認めるまで、そこで土下座していろ!」
そして、木遠は赤楚浩介に向き直った。 「赤楚さん、あなたもこれが必要だとお分かりのはずだ」
赤楚浩介は、間髪入れずに頷いた。 「全くだ。 こいつには徹底的な反省が必要だ。 私も賛成ですよ」
ちょうどその時、医師が家族を呼びに現れた。 病室には、悠とつつじの二人だけが残された。
白藤つつじはベッドにゆったりと背を預け、床に膝をつき、震える手でかろうじて身体を支える悠を見下ろしていた。 その口元には、もはや隠す気もない嘲笑が浮かんでいる。 「赤楚悠、お父様の実の娘だからって、それが何?私の前で這いつくばっている今の自分の姿を見てみなさいよ。 私は冷泉木遠が好きなの。 私が手に入れられないなら、あんたなんかのものにさせておくもんですか!」
痛みと屈辱に震える指で、赤楚悠はそっとポケットの中のスマートフォンの録音ボタンを押した。
顔は蒼白で、こめかみを冷たい汗が伝う。
それでも彼女は顔を上げ、白藤つつじの瞳をまっすぐに見据え、絞り出すような、しかし芯の通った声で問い詰めた。 「……じゃあ、あの火事は、やはりあなたが仕組んだことだったのね?」