1

冷たい空気が流れ込む慶應義塾大学病院の地下駐車場に、桜子は一人降り立った。

自分の車のキーを取り出しながら、コンクリートの柱が並ぶ薄暗い空間を歩く。コートの襟を合わせても、肌を刺すような寒気がした。

その時だった。

「パパ!」

無邪気で、弾むような幼い子供の声が、静かな駐車場に響き渡った。

桜子の体は、まるで氷水を浴びせられたかのように硬直する。声がした方へ、ゆっくりと視線を向けた。

太いコンクリートの柱の陰から、そっと覗き込む。

視界の先、黒塗りのマイバッハが停まっていた。その前で、西園寺暁がスーツ姿のまましゃがみ込み、泣きじゃくる小さな男の子の肩を掴んで、事務的に安撫している。

決して父親のような甘やかしはない。ただ、厄介な事態を収拾しようとするような、冷静で距離を置いた態度だった。

その傍らには、白衣を着た高橋結衣が、まるで聖母のような微笑みを浮かべて二人を見つめていた。

息が、喉の奥で詰まる。バッグの持ち手を握りしめる指先に、力が入る。爪が掌に食い込む鋭い痛みが、これが悪夢ではない現実なのだと、彼女に告げていた。

胃が痙攣し、吐き気がこみ上げてくる。

桜子は足音を殺して後ずさり、自分の車の運転席に逃げ込むように滑り込んだ。

バタンとドアを閉めると、外界の音が遮断される。ハンドルに額を押し当て、冷え切った指先を震わせながら、荒い呼吸を整えようとした。

あの光景が、網膜に焼き付いて離れない。

あれが、彼が守ろうとしているもの。では、自分は?

この三年間、西園寺の妻として完璧に振る舞うために、自分の心にどれほど嘘をついてきただろうか。彼の冷たい背中を見つめ続け、いつか振り向いてくれると信じていた愚かな日々。

しかし、答えは最初から出ていたのだ。

桜子はゆっくりと顔を上げた。ルームミラーに映る自分の顔は青白かったが、その瞳の奥には、今までになく静かで冷たい炎が宿っていた。

バッグから一枚の書類を取り出す。『異動願』と印字されたその紙の皺を、指先でそっと伸ばす。

もう、終わらせよう。

車を降り、再びエレベーターホールへ向かう。上階のボタンを押し、冷たい白熱灯が照らす長い廊下を歩く。

「小林先生、お疲れ様です」

すれ違う看護師の明るい声に、桜子は無表情に会釈を返す。

ナースステーションの前を通り過ぎた時、ひそやかな会話が耳に滑り込んできた。

「ねえ、聞いた? 西園寺の総帥、またいらしてるんですって」

「高橋先生のところでしょう? 本当に熱心よねぇ」

先ほどの光景を裏付けるような言葉にも、今の桜子の足は止まらなかった。もう、関係ない。

院長室の重厚なドアの前に立ち、一つ深く息を吸い込む。

コン、コン。

「どうぞ」

中から落ち着いた声が聞こえ、桜子はドアを開けた。

「失礼します」

壮年の院長、中村はデスクで書類に目を通していたが、顔を上げて桜子を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。

「やあ、小林先生。どうしたんだい」

桜子は無言のままデスクの前まで進み、深く一礼すると、持っていた異動願を差し出した。

「……これを、お願いいたします」

中村院長の眉が驚きに上がる。「異動願……? 横浜分院にか。どうしてまた急に。君には近々、医局長補佐のポストをと思っていたんだが」

昇進。それはかつての彼女が望んでいたものだったかもしれない。だが、今の彼女の心には何の響きももたらさなかった。

「一身上の都合です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

桜子は唇を強く噛み、静かだが揺るぎない声で言った。その目に宿る光に、中村院長はこれ以上の説得が無駄であることを悟ったようだった。

彼は大きなため息をつき、異動願を受け取った。

「……わかった。非常に残念だが、君の決意は固いようだ」

「ありがとうございます」

再び深く頭を下げ、桜子は院長室を退出した。ドアが閉まる音を聞きながら、肩から重い荷物が一つ、下りたような気がした。

2

病院を後にした桜子は、再び自分の車の運転席に滑り込んだ。

エンジンをかける。低い唸り声と共に、ヘッドライトが前方の暗闇を照らし出した。

彼女はアクセルを踏み込み、病院の駐車場から車を発進させた。

夜の東京。きらびやかなネオンが、フロントガラスを次々と滑っていく。そのどれもが、今の桜子の目には色褪せて見えた。

向かう先は、世田谷区にある西園寺本家。

重厚な鉄の門が静かに開き、車は手入れの行き届いた砂利道を進んでいく。車を停め、冷たい夜気の中を歩いて母屋の玄関へと向かった。

出迎えたのは、ベテランの家政婦である木村だった。

「桜子様、お待ちしておりました」

「静様は?」

「奥の茶室にてお待ちでございます」

桜子は頷き、磨き上げられた廊下を静かに進んだ。茶室の障子戸の前で立ち止まり、一度、居住まいを正す。

「桜子でございます」

「お入りなさい」

凛とした声に応え、静かに戸を開けた。

茶室の中央、上座には西園寺家の絶対的な女主人、西園寺靜が座り、静かにお茶を点てていた。

桜子は畳の上に正座し、指先を揃えて深く頭を下げた。

「夜分遅くに申し訳ございません」

静は茶筅を動かす手を止め、その鋭い視線を桜子に向けた。値踏みするような、全てを見透かすような目だ。

「顔を上げなさい」

桜子はゆっくりと顔を上げた。そして、何の躊躇もなく、はっきりとした声で言った。

「静様。暁様との離婚をお許しください」

一瞬、茶室の空気が凍りついた。畳の擦れる音も、庭の虫の声も聞こえなくなる。

しかし、静は少しも動揺を見せなかった。

「……理由を」

短く、そう問うた。

「暁様のお心は、私にはございません」

桜子は淡々と事実だけを述べた。そこには、何の感情も乗っていなかった。

静はしばらく沈黙し、桜子の顔をじっと見つめていたが、やがて、小さく頷いた。

「わかりました。あなたの意思は尊重しましょう。ただし——」

静の冷ややかな声が、茶室に響く。

「西園寺家の体面を傷つけることは許しません。暁の新たな伴侶としてふさわしい代わりの聯姻相手を見つけるまで、表面上の婚姻関係は維持しなさい。それが、この家を出るための条件です」

一族の利益を最優先する冷徹な計算。桜子はその言葉に微塵も驚かず、ただ静かに頷いた。

「……ありがとうございます。承知いたしました」

再び深く頭を下げ、感謝を述べた。これ以上、この場所にいる理由はない。

茶室を退出すると、張り詰めていたものが切れ、安堵のため息が漏れた。

本家を後にし、再び自分の車に乗り込む。エンジンをかけ、自宅である高級マンション、レジデンス泰平へと車を走らせた。

これで、終わらせることができる。

マンションの地下駐車場に車を停め、エレベーターに乗り込む。居住階のボタンを押した。

チーン。

エレベーターが居住階に到着し、扉が開いた。

その瞬間、桜子は廊下に見慣れない光景を目にした。数人の作業員が、大きな段ボール箱を次々と向かいの部屋である3205号室に運び込んでいる。

桜子の視線が、無造作に積まれた箱の側面に貼られた伝票に引き寄せられた。

そこには、太いマジックで『高橋結衣 様』と書かれていた。

桜子の瞳孔が、カッと開いた。

その文字を、何度も何度も見つめる。3205号室。それは、自分の部屋の、真向かいの部屋だ。

桜子は、乾いた笑いを漏らした。

西園寺暁。あなたという人は、どこまで私を侮辱すれば気が済むのだろう。

彼女はエレベーターを降り、自分の部屋に向かって歩き出した。その足取りには、先ほどまでの安堵感など微塵も残っていなかった。

心は、冷たく、固く閉ざされていく。

3

桜子は視線をそらし、自室のドアの前に立ち、慣れた手つきで暗証番号を入力する。

電子ロックが解除される音と共に、ドアを開けた。

その瞬間、桜子の動きが止まった。

リビングのソファに、西園寺暁が座っていた。ネクタイを少し緩め、明らかに不機見そうな顔でこちらを見ている。

桜子は一瞬だけ彼に視線を向けたが、すぐに逸らし、無表情のまま靴を脱いだ。彼を完全に無視して、寝室へ向かおうとする。

「おい」

立ち上がった暁が、彼女の腕を強く掴んだ。

その感触に、桜子の眉が不快にひそめられる。彼女は振り向き、掴まれた腕を冷たく振り払った。

「何ですの」

「あの女を、このマンションに住まわせたそうね」

桜子の声には、温度がなかった。

「結衣の身に危険が及ぶ可能性があった。ここのセキュリティが一番確実だ」

暁は苛立ちを隠さずに弁明する。

「そうですか。それはご親切なことで」

桜子は静かにそう言うと、バッグから一枚の書類を取り出した。昨日、暁が不在の間にサインだけしておいた、離婚届だ。

それを、ローテーブルの上に、滑らせるように置いた。

暁の視線が、その紙に落ちる。彼の瞳孔が、一瞬、鋭く収縮した。

彼は無言で離婚届を手に取ると、次の瞬間、何の躊躇もなくそれを真っ二つに引き裂いた。

ビリッ、という乾いた音がリビングに響く。

破り捨てられた紙の破片が、床にひらひらと舞い落ちる。

「離婚はしない」

低く、地を這うような声で暁が言った。

「絶対にだ」

桜子は、そんな彼を嘲りとも軽蔑ともつかない目で見つめた。そして、何も言わずに彼に背を向け、寝室に入ると内側から鍵をかけた。

ドアの向こうで、暁が忌々しげに舌打ちをする音が聞こえ、やがて玄関のドアが乱暴に閉まる音がした。

翌朝、桜子は部屋の隅にスーツケースを一つ置き、いつも通り病院へ出勤した。

タクシーで慶應義塾大学病院に着くと、ロッカールームで手術着であるスクラブに着替える。

着替えながら、彼女は無意識に左手首にある古い傷跡を指でなぞった。心のスイッチを切り替えるための、長年の癖だった。

オペ室へ向かい、念入りに手洗いを行う。

「小林先生、お願いします」

加藤誠をはじめとするオペチームのメンバーが、緊張した面持ちで彼女を迎えた。

「ええ。始めましょう」

今日のオペは、難易度の高い心臓バイパス手術だ。

桜子はメスを受け取ると、迷いのない、鮮やかな手つきで患者の胸に最初の切開を入れた。

私生活の混沌が嘘のように、彼女の心は静まり返り、目の前の生命だけに集中していく。

手術が中盤に差し掛かった時だった。

ピッ、ピッ、ピピピピッ!

モニターの警告音が、オペ室の緊張を極限まで高めた。予期せぬ部位からの出血だ。

チームに動揺が走る中、桜子の声だけが、氷のように冷静だった。

「慌てないで。サクション。ガーゼを」

彼女は素早く出血点を確認し、的確な指示を次々と飛ばしていく。その冷静さがチームに伝播し、オペ室は落ち着きを取り戻した。

彼女の迅速な処置により、患者のバイタルは徐々に安定していく。

それから数時間後。

桜子は、最後の一針を縫い終えた。

「……終了です」

その声と共に、オペ室は安堵の空気に包まれた。

桜子はオペ室を出て、マスクを外す。汗で湿った額を手の甲で拭った。

待合室で待っていた患者の母親、斎藤明美に手術の成功を告げると、彼女は泣きながら桜子の手を握りしめた。

「先生……! 本当に、本当にありがとうございました……!」

その温かい涙と感謝の言葉が、ささくれだった桜子の心を、ほんの少しだけ癒してくれた。

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離婚を求めた天才外科医:もうあなたには戻らない

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