話 2
しかし付き合いが長いご近所さんは皆、張王氏の考えていることなんてまるわかりだった。黄秀蓮が自分よりも美しく、気遣いができて親孝行なので張勝の両親にかわいがられていることを妬んでいるだけなのだ。当然、舅姑が死に、旦那の張勝にも先立たれたこの絶好の機会を逃すことはなく、黄秀蓮を追い出したわけである。
結局、黄秀蓮は城外のぼろ屋に身を寄せることになった。
曲の父親と曲は、お腹に子がいるまま未亡人になった黄秀麗を見て、気の毒に思ったので、よく世話をしていたのだ。
雨音が強まってきて、公道の先で馬のひづめが、泥や水の中をパシャパシャとはねながら風のように彼女のそばを通り過ぎていった。
足を止めて振り返り、傘の少し端を上げた曲は、霧に紛れて、目を瞑り考え込んでいるような人影を見た。
「血の臭いだわ。それに松の香、麝香、樟脳、没薬の臭い、これは金瘡薬ね、雨で臭いは薄くなっているはずなのに、それでもこんなに強烈だなんてーーこの男怪我をしてる!しかももきっと軽い傷じゃない!」
「この男、布製の服を着ているのに馬のたたてがみは切り揃えられて尻尾は結ばれてる、これは普通の百姓が乗る馬じゃなくて、軍用の馬に違いない」
そう考えながら、彼女は先ほど馬が通った道にしゃがみこんで調べ出した。「馬の蹄鉄の跡の外縁部分がひどくすり減っているわ。深さもまちまち、脱落しているような痕跡もある。兵士にとっては馬は自分の命と同じぐらい大切なもの。蹄鉄すら替える余裕がないということは、つまり、戦が迫ってるということ。今、戦争をしているのは、平陽県外で大盛軍と戦っている狼軍だけ!」
大盛の人々の間では、「鉄蹄が動くと、風雲が変わり、黒服鉄鎧は山河を揺らす。 虎狼が唸ると、戦旗がはためき、英雄男児が四方を震わす」という歌が流行っている。
「虎狼」とは、北西部の国境に駐留している狼軍のことで、両国の戦争は何十年も前から続いており、大離も何度も軍を率いて東への侵攻を試みたが、悉く狼軍に迦南門の外に食い止められていた。
狼軍は、大盛百姓の守護神なり!
それなのに今、その狼軍の兵士が馬の蹄鉄すら気にかけず、深手を負って笋渓県に来るなんて、まさか… 国境での戦いに何かあったの?
彼は一体何しに笋渓県にきたの?
曲はしばらく立ち尽くして、ゆっくりと息を吐いた。これは医者である自分には関係のない話だ。
そんなことを考えていると突然、竹林の奥から聞く人の体まで凍らせるような悲鳴が静かな雨を刃のように切り裂いた。
曲は顔色を変え、悲鳴を辿って振り返ると、それはぼろ屋の方だった。
「大変!」
先ほどの考えなど全て頭から消え、未亡人の家に急いで向かった。
中庭に入った瞬間、家の裏からちらりと黒い影が見えたが、あっという間に消えてしまった。
通常であれば、すぐに真相を確かめに行くところだが、今は黄秀蓮の安否が気になって気になって仕方がないので、とりあえず家に入った。
ボロボロの小屋は散らかっていて、机や椅子がそこらに転がっていた。部屋には生臭い血のにおいが漂い、真っ白に洗濯された粗麻の天幕は破れていて、やせ細った腕がその中から伸びていた。
曲が速やかにベッドに近づき、天幕を持ち上げると、女の血の気のない顔が見えた。その女は、頬骨が高く、痩せすぎた頬が窪んでいて、意識もすでにどこか飛んでいる様子であった。
話 3
「張姉さん、諦めないで…私がついてるから」
曲は急いで銀の針を取り出し、主要なツボに素早く押し込んだ。銀の針の刺激を受けて、女性の瞼がピクリと動きだし、朦朧としていた視線が少しずつ焦点を結び始めた。彼女は少し頭を振り、震え声で曲に呼びかけた。「きょ、曲さん…私のことはいいから。お願い、お願いだから、何としてでも、勝さん、勝さんの息子だけは助けてあげてください…お願いです...」
曲はしゃがみ込んで彼女の手を掴んだ。「どうしたんですか、一体だれがこんなこと…?」
「これは…」 女は、何かを言おうとしたが、息はどんどん荒くなり、穴の開いた風船のようにヒューヒューとした声しか出すことができなかった。
これ以上は持たないだろうことは見て取れたので、曲は、すぐに彼女の耳元に身を寄せて、「これは何?」と急いで尋ねた。
「これは…」
未亡人は興奮した様子で何かを話そうと身を起こそうとしたが、ちょうどその時、瞳孔を見開き、体をビクッとさせるとベッドに倒れこむと、全く動かなくなった。
曲は前かがみになったまま寒気で体が凍り付いた。死んだのだろうとわかっていたが、それでも手を未亡人の頸動脈に伸ばしその生死を確認せずにはいられなかった。
脈動が感じられない。
彼女はもう、死んでいる。
「こんな…あっさり?」未亡人の死を直に感じ取った曲の表情は複雑だった。
あと半月も持てば出産迎えられたのに…家族に裏切られ、こんなおんぼろ家に一人移ってきて、食べることもままならないせいで野草を食う日も少なくなかった。こんな必死に生きようとしていたのも、すべて亡き夫が残した唯一の子種を産むためだったのに。
「子供?」 そうだ! お腹にまだ赤ちゃんが!」
この赤ちゃんを救うためには、彼女の腹を切り開くしかなかった。 しかし、何千年も前の封建時代では、21世紀では当たり前のこの小さな手術が、魔術とも呼ばれ、殺人とも呼ばれ、触れてはいけないタブーとみなされているのである。
以前に試したことがなかったわけではないが、たとえ実の父親であっても、子供を取り出すためにお腹を切り開くくらいなら、一層のこと母親の腹の中で窒息死させた方がましだと思うだろう。もし、子供を取り出すために死んだ人の腹を切り開いたことがばれたら、彼女を待っているのは…
強烈な血の匂いが曲の脳を刺激し、一瞬にして彼女を正気に戻らせた。自分は医者であり、黄秀蓮とその子供の唯一の希望である。保身のために子供をみすみす死なせるわけにはいかないのだ。
もう一々構っていられない!
迷わず、彼女は腰につけていた黒い錦織の小袋を取り出して開くと、大小様々な刃をいくつも出してきた。
このメスのセットは、成人式祝いとして彼女自身が設計し、彼女の師匠が最高の職人に作らせたものなので世界中探し回っても同じものは二つとないものであった。
彼女はそれを肌身離さず持ち歩き、誰にも見せたことはなかった。
まさか死体の解剖ではなく、人の命を救うために初めてこれを使うことになるとは。
黄秀蓮のお腹の中の子供はすでに臨月だったので、たとえ母親が死んでいても、一定時間内に取り出しさえすれば、子供は生きていられる可能性があるはずだ。
間髪入れずにナイフを手にした曲は、黄秀蓮の服を切り開き、膨れ上がった妊婦の腹にメスを入れようとしたが、突然、目の前が血の色に染まり、頭がガンガンなりだし、メスを握る手もがたがたと震えた。何千年もの時間を隔ててもなお、心電図モニターが発する死亡宣告の音が耳元で響いているようだった。
まただ!
あの医療事故の後、彼女は深刻なトラウマでメスを握ることすらできなくなり、やむをえなく法医学に転向したのだ。
2回深呼吸し、気持ちを落ち着かせた後、曲は再びメスを手にした。
恥骨結合から指2本分上で、腹部の皮膚を切り、脂肪層を切り、皮下の筋膜を切り、筋肉を切り離して腹膜を露出させる。
黄秀蓮は死んだばかりで、まだ固まっていない血が、腹部の傷口に沿って噴き出し、曲の袖とスカートを赤く染めた。
彼女は瞬きもせずメスで素早く子宮を切り開くと赤ちゃんを取り出し、へその緒を切って床の上に置いた。
小さな手術だったが、終わった後は汗びっしょりになった。がたがたと震えながら肩で大きく息をして床に倒れこんだが、ちょうどその時、視界に床の隅にあるものが飛び込み、曲は固まった。
「これは…」
彼女は手を伸ばしてそれを手に取り、慎重にチェックした。「間違いない。これは私が縫ったものよ!でもどうしてここに?」
その理由もわからないうちに、鋭い叫び声と足音が近づいてくるのを聞いて、彼女は慌ててそれをしまった。
「張広!このろくでなし!出てきなさい! ずっと前からおかしいって思ったのよ!張家に入って十年、私には一回も頬紅なんか買ってくれたこのないのに一体どういうつもり! このクズ! ここに隠れていたわけね? 今日こそあんたらみたいな不倫くそ野郎を成敗してやるわ!」
曲はその場で動きを止めた。「彼女が!?」