話 1
「死にたくなければ動くな!」
首筋にナイフが突きつけられ、藤原美月は視線を上げ、たった今車のドアを開け、血まみれのまま乗り込んできて彼女を脅している男と目を合わせた。
2人が睨み合っていると、窓の外から騒々しい声が聞こえてきた。
「クソッ!どこだ? どこに逃げやがった!」
「さっき怪我を負わせたから、遠くへは行けないはずだ!車を1台ずつ探せ!」
隣の男のナイフを握る手が明らかに小刻みに震え出したのに気づき、美月は男の手首を掴むと、身を翻して彼の上に馬乗りになった。
九条怜司の目に殺意が走り、美月の首に当てたナイフに力を込めた。「死にたいのか!」
女の首にすぐさま血の跡がつき、血が流れ出した。
美月は脅されているという危機感を微塵も見せず、美しい目を伏せ、怜司のドクドクと血が吹き出している腹部を見た。「あなたが先に死ぬか、私が先に死ぬか、見ものね」
美月の喉に押し当てられたナイフがさらに食い込み、怜司は死人を見るような目で彼女を見た。「試してみるか!」
追手たちが車に近づいてくる足音を耳にし、美月は手早く自分の上着を脱ぎ、中のシャツのボタンを一気に引きちぎった。
ボタンが後部座席に散らばり、シャツが半ばはだけて肌の大半が露わになる中、美月は脚を開いて怜司の上に深く腰を下ろした。
怜司は美月の首を絞めていた手をパッと離し、彼女を凝視した。ーーこの狂った女は何をするつもりだ!?
怜司が動こうとした次の瞬間、美月は身を乗り出して彼の首に抱きつき、その唇にキスを落とした。
ーーこの忌々しい女、よくも……
怜司は瞳を揺らし、手を上げて彼女を突き飛ばそうとしたが、耳元で女の声が聞こえた。
「生きたいなら、私に合わせて」
長年生きてきて、見知らぬ女に強引にキスされるなど。たとえ重傷を負っていても、怜司は今すぐ自分の上で好き勝手しているこの女を殺してやりたかった。
美月はうつむいて彼の喉仏にそっと歯を立て、指で彼の襟元のボタンを外し、人差し指で男の胸の肌をそっとなぞる。男の震えを感じ取ると、彼女は満足げに唇の端を吊り上げた。
「くっ!」
怜司は眉をひそめてくぐもった声を漏らし、痛みと熱さで次第に呼吸が荒くなっていった。
突然!
後部座席のドアが、勢いよく開けられた!
「きゃっ!」美月はわざと慌てた様子で怜司の首にしがみつき、驚いたような目で外の数人を振り返った。「あなたたち、何なの!」
外の男たちは、美月の胸に顔を埋めている男を一瞥し、さらに服が乱れて怯えている美月を見ると、バンッと音を立ててドアを閉めた。
「チクショウ!ここは駐車場でいちゃついてるバカどもだ!あっちを探せ!」
声が遠ざかると、怜司は手を上げて美月を突き飛ばした。「どけ」
ちょうどその時、誰かが運転席のドアを開けて乗り込んできた。怜司の目つきが鋭さを増し、すぐにでも動けるようナイフを握り直した。
「美月さん!」
神谷拓真は男の上に座っている美月を見て、飛び上がるほど驚いた。「どうしたんですか? !」
美月は身を翻して怜司の上から降り、傷口を押さえてすっかり弱っている彼を一瞥して、ふっと笑った。「何でもないわ。とりあえず車を出して」
車が駐車場を出た後、怜司はスーツのポケットから黒い名刺を1枚取り出した。「助けてもらった礼だ、1つだけ、望みを叶えてやる」
血まみれの名刺を嫌そうに受け取ると、美月は傍らのガラス瓶から赤い錠剤を1つ取り出し、怜司に差し出した。「生き延びてから言って。飲んで」
怜司はしばらく美月を見つめた後、薬を手に取って飲み込んだ。
美月は眉を上げた。「毒殺されてもいいの?」
怜司が寄りかかったまま黙っているのを見て、美月は前で運転している拓真に目を向けた。「この辺の私立病院の前にでも、そいつを捨てといて」
「分かりました、美月さん」
厄介者が車を降りた後、拓真はバックミラー越しにメイクをしている美月を見た。「美月さん、あの人は大丈夫なんですか? 今回藤原家に戻るのは奥様の遺物を取り戻し、連中と縁を切るためなんですから、桜京市でトラブルは起こさないでくださいよ」
メイクミラーの中の自分を見つめ、美月は満足げに言った。「安心して、この姿なら誰も私だと気づかないわ」
先ほどまでの息を呑むような美女は、美月の神がかったメイク技術によって、目を背けたくなるような顔に変わっていた。
褐色のあざが美月の右顔の半分を占め、さらに無数のシミが描かれている。そこに黒縁メガネをかければ、人混みに紛れてもひどく醜く見えるだろう。
美月は上機嫌で、無意識に首元のネックレスに触れようとしたが、指先は空を切った。
彼女ははっとして首元をまさぐる。(——ない! 私のネックレスが!)
先ほど自分の首を絞めていた男を思い出し、美月の美しい瞳が冷え込んだ。「助けてやったのに、私のものをパクるなんて!」
拓真が尋ねた。「どうしました、美月さん?」
「何でもないわ」
美月は指で首元をさすった。「とりあえず藤原家に戻るわ」
使用人が美月をリビングの前に案内した時、中から言い争う声が聞こえてきた。
パシャン!
花瓶が床に叩きつけられて割れ、藤原莉乃がリビングで地団駄を踏んでいた。「嫁がないわ!お父さん!私を九条家のあのポンコツに嫁がせるくらいなら、死んだ方がマシよ!」
「何を馬鹿なことを!」藤原浩二は莉乃に腹を立てて目を剥いた。「九条家は桜京市で最も権力のある一族だ。あの九条怜司は 足は不自由でも、それでも嫁ぎたがる家は掃いて捨てるほどいるんだぞ!」
「ポンコツなだけじゃなくて、もう長くないってことも言ってよ!」 莉乃は泣き出した。「私に若後家になれっていうの?!」
バンッ!
浩二は机を強く叩いた。「この件にお前の意思は関係ない!」
莉乃は叫んだ。「絶対に嫌!嫁ぎたい奴が嫁げばいいでしょ!」
堂々と桜京市に残るチャンスが、向こうからやってきたじゃない。それを聞きながら、美月の瞳に微かな笑みが浮かんだ。
ホールに足を踏み入れ、美月は通る声で言った。「あなたたちが言っているそのポンコツ、私が嫁ぐわ!」
話 2
藤原浩二は振り返り、リビングの端に立つ藤原美月を見た。色あせたデニムの服を着て、ボロボロの編み袋を背負い、田舎くさい三つ編みを2つ作っている彼女を見て、彼は眉をひそめて黙り込んだ。
藤原莉乃は美月を険しい目で睨みつけた。「お父様!この不細工は誰なの!」
「馬鹿なことを言うな。お前の姉だ」 浩二は不機嫌そうに言った。
莉乃は姉という言葉を聞くや否や、すぐに立ち上がった。「はっ!これが貧乏人の中で育ったっていう、私の不細工なお姉様?」
莉乃は新しくしたネイルをいじりながら、美月を指差した。「やっぱりね、貧乏で不細工で、おまけにがめつい!お父様、どうせこの女が帰ってきて、あの死に損ないに喜んで嫁ぐって言ってるんだから、行かせてやればいいじゃない」
浩二は険しい表情を浮かべた。彼がこのいまいましい娘を呼び戻したのは、美月の母親が死ぬ前に彼女に残した遺産を手に入れるためでしかないのだ!
だが、彼女を九条家に嫁がせれば、もっと割のいい取引になるかもしれない。
九条グループとの今後の提携を勝ち取れるだけでなく、彼女を桜京市に留め置き、自分の手中で操り続けられる!!
浩二は顔を上げ、計算高い視線を美月に向けた。「お前が嫁ぐというならそれでもいい。だが、お前の母親が残したものは、藤原家に置いていくんだな!」
浩二の言葉を聞いて、美月はまるで冗談でも聞いたかのように笑い出した。
彼女はリビングに入ると、浩二たちの向かいのソファに無造作に腰を下ろし、テーブルの上のコップを手に取って、遠慮するそぶりも見せずに水を飲んだ。「勘違いしてもらっちゃ困るわね。今、頼んでるのはアンタたち。条件を出すのは、こっちよ」
「この田舎者の不細工が!九条家に嫁げるだけでもありがたいと思いなさいよ!私たちに条件を出すなんて、どの口が言ってるの!」
美月は言った。「そのありがたい話、あなたにあげようか?欲しい?」
莉乃は美月の軽い一言に言葉を詰まらせ、顔をしかめて座り込むと、父親の腕を揺すった。「あんたっ!お父様!何か言ってよ!」
浩二は鼻で笑った。「九条家は桜京市で最も権力のある一族だ。お前を嫁がせるだけでも身に余る光栄だろう。それなのに、私に条件を突きつける度胸があるのか? !」
美月は眉を上げ、手にしていたコップを置いた。「話にならないわね。結構よ。それなら、そっちの可愛い娘さんにでもお嫁に行ってもらって」
莉乃はまたしても騒ぎ立てた。「お父様!あんな死に損ないに嫁ぐなんて絶対に嫌よ!」
浩二は眉間に皺を寄せ、莉乃の声を遮ると、美月に視線を向けた。「いい加減にしろ!」
この娘はみすぼらしい身なりをしていて、見た目もひどいものだが、その瞳だけは母親に瓜二つだった。
美月のその目を見つめていると、浩二はまるで10年前のあの光景を思い出したかのように、全身を震わせて勢いよく立ち上がった!
美月は背もたれに寄りかかり、わずかに視線を上げて向かいの男を見つめた。一歩も引く気はない。
浩二は美月を睨みつけた。「言ってみろ。どんな条件だ」
「簡単なことよ」
美月は指を2本立てた。「条件は2つ。1つ目は、母が藤原家に残した遺品を私に返すこと。2つ目は、藤原ホールディングスの株の30%を譲ること」
莉乃がすかさず立ち上がり、地団駄を踏んだ。「寝言は寝てから言いなさいよ!藤原の株を30も要求するなんて!貧乏で頭イカれたんじゃないの!」
浩二はしばらく美月をじっと見つめた後、口を開いた。「持参金として、藤原の株を10%やろう」
美月は笑い出し、小首を傾げて浩二を見た。「たかが20%ぽっちの株が、そんなに惜しいのかしら?」
「もちろん、私じゃなきゃダメってわけじゃないわよね。ここにもう一人、娘さんがいるんだものね?」
「わかった」
浩二は歯を食いしばって言った。「藤原ホールディングスの株の20%、今日中に名義を変更してやる」
浩二は美月を見て言った。「だが、お前の母親の遺品は、絶対に藤原家に残していくんだ!」
美月の顔から笑みがスッと 消え失せ、浩二を見つめる瞳に冷たい光が宿った。
どうやら、今日は母の遺品を取り戻せそうにない。
浩二はきっと、母の遺品を使って彼女をコントロールするつもりなのだ。
ならば、藤原家に思い知らせてやらなければならない。復讐のために戻ってきた狂人を支配しようとすれば、どれほどの代償を払うことになるのかを!
美月は口元に笑みを浮かべて言った。「いいでしょう。じゃあ、まず契約書にサインを」
契約を済ませ、株式譲渡契約書を手にした美月は、立ち上がってそれをひらひらと揺らした。「それじゃ、お邪魔したわね」
浩二が言った。「待て!九条家はそう簡単に騙せる相手じゃない。私が送って行く」
車に乗ると、浩二は美月に資料を渡した。「これは九条家に関する基本的な資料だ。しっかり頭に叩き込んでおけ。九条家に入ったら、藤原家に迷惑をかけるんじゃないぞ!」
何気なく資料をめくり、最初のページにある九条怜司の顔写真を見た瞬間、美月は妖しく口元を歪めた。
(本当に意外だわ。私たち、また会えるのね!)
話 3
手元の資料によると、九条家の当主・九条宗一郎には二人の妻がいた。
最初の妻である九条静江は、二人の息子を産んで数年後に重病で亡くなった。同年、宗一郎は後妻を迎え、さらに一男一女をもうけている。
5年前、静江の長男が商談で海外へ行き、不慮の死を遂げた。その結果、もともと病弱で足が不自由であり、「28歳まで生きられない」と噂されていた九条家長男の九条怜司は、一族の中で捨て駒のように冷遇されるようになった。
ここ数年、九条家は新たな跡継ぎを選ぶため、熾烈な後継者争いを繰り広げている。資料を見る限り、宗一郎の他の孫たちのほうが、怜司よりもはるかに有力な候補のようだ。
今日、桜京市郊外の北原市で襲撃を受けた際の彼は、とても足が不自由とは思えないほどピンピンしていた。どうやらあの怜司という男、資料にあるほど単純な人間ではないらしい。
「お嬢様」
高瀬助手が口を開いた。「九条家の九条隆弘様は、藤原ホールディングスに格別の目をかけてくださっている。お嬢様も九条家に入られたら、隆弘様の指示にしっかり従ってください」
パタン!
藤原美月は資料を勢いよく閉じた。「もう派閥争いに首を突っ込む気? お父様、尻尾を振る相手を間違えたら、取り返しがつかなくなるわよ」
「お前が口出しすることじゃない!」藤原浩二は声を荒らげた。「いいか、よく覚えとけ!隆弘様の命令には絶対服従だ、少しでも逆らってみろ、ただじゃおかないぞ!」
美月は鼻で笑い、浩二の言葉など欠片も気に留めなかった。
浩二はさらに言い募ろうとしたが、彼女と目が合った瞬間、言葉に詰まった。
田舎くさい見た目をしているはずの娘が、一瞬、彼でさえ二の句を継げなくなるほどの凄まじい覇気を放ったように見えたのだ。
その頃、九条家の別荘。3階の部屋では。
「九条社長。本日駐車場で社長の正体を知り、顔を見た連中はすでにすべて始末しました。情報が漏れる心配はありません」 と、村上秘書が報告した。
黒のルームウェアに身を包み車椅子に座る怜司からは、今朝方追手から逃げ回っていた時の狼狽など微塵も感じられない。彼は手にした一本のネックレスを弄んでいた。
そのネックレスこそ、美月が落としたものだった。
ルビーのペンダントトップは六芒星の形をしており、宝石には一切の不純物がなく、カッティングも非常に特殊だった。このネックレスと彼女がくれた薬だけで自分の体調が上向いたことから、怜司はあの女がただ者ではないと確信していた。
「俺の顔を見た奴がもう一人いる。まだ桜京市内にいるはずだ」 と、怜司は言った。
村上秘書は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに元の顔に戻った。「社長、後ほど私が責任をもって始末いたします。絶対に逃がしはしません!」
手にしたネックレスを村上秘書に差し出し、怜司は命じた。「調べろ。このネックレスの持ち主を」
「承知いたしました」
ネックレスを受け取った村上秘書は、躊躇いがちに怜司を見た。「社長、その女を見つけた後は、私が始末いたしましょうか?」 「生かしておけば火種になります」
怜司は目を伏せて指輪を回した。彼の上に跨り、からかうように笑っていたあの女の顔が脳裏をよぎる。彼は感情の読めない平坦な声で言った。「見つけたら、ここへ連れてこい。俺が自分で片を付ける」
「かしこまりました」
村上秘書は続けた。「そういえば社長、もう一つご報告が。藤原家からの政略結婚の相手が、まもなく到着する頃かと。いかがなさいますか?」
怜司は興味なさそうに答えた。「様子を見ておけ。初日から九条家本邸で死なれては面倒だ」
「承知いたしました」 と、村上秘書は答えた。
九条家本邸の外。藤原家の車がエントランスに横付けされた。
車を降りた浩二に対し、執事長が恭しく声をかけた。「藤原様、お嬢様、どうぞこちらへ」
九条家本邸に足を踏み入れると、九条結衣が出迎えてきた。「藤原おじ様、ごきげんよう」
浩二は結衣の姿を認めると、すぐさま愛想笑いを浮かべた。「これは結衣お嬢様、わざわざお出迎えいただくなど、とんでもない」
一方、結衣の視線は美月に向けられていた。このブス、どう見ても藤原家のあの娘ではない。藤原家もいい度胸をしている。偽物を送り込んでごまかそうとするなんて!
(まあいいわ。あのお荷物の長男には、これくらいがお似合いよ!)
結衣は完璧な笑みを崩さずに言った。「藤原お嬢様、お写真とは随分と雰囲気が違うようですけれど?」
「ああ!」浩二は美月の背中を小突いた。「こいつは私が一番可愛がっている長女です!同じ藤原家の娘ですから、どちらが嫁いでも同じことでしょう?」
呆れるほど厚顔無恥な男だ、と結衣は内心で嘲笑ったが、あえて追及するつもりはなかった。
「おじ様のおっしゃる通りですね。お嬢様は私たち九条家が責任を持ってお預かりしますから、ご安心ください」
浩二はへらへらと笑いながら振り返り、隣に立つ美月を睨みつけて小声で脅した。「しっかり役目を果たせよ!一言でも余計なことを言ったら、生かしてはおかんからな!」
美月は浩二を冷ややかな目で見下ろし、脅しなどどこ吹く風とばかりに結衣へ向き直った。「私の部屋はどこ?」
「執事長、彼女を上の階へご案内して」 と、結衣は指示を出した。
二人が階段を上がっていくのを待って、九条隆之介が廊下の角から姿を現した。彼は遠ざかる美月の背中を見つめながら鼻で笑った。「藤原家が送り込んできたのはあんなブスか。長男殿が今度はどんな絶世の美女を娶るのかと期待していたのにな」
「隆之介兄さん、そんな言い方はダメよ」結衣は皮肉たっぷりに言った。「あれでも一応、私たちの義理の姉になるんだから」
「義理の姉だと?」隆之介は冷笑を浮かべた。「それなら楽しみだな。明日の食事会で、あのブスが長男殿にどれほどの恥をかかせてくれるか、見物だぜ!」