1

「結衣、いい。あなたは今日、妹の代わりに婚約しなさい。今すぐ田舎から戻ってくるのよ。夏川家の恥をさらすような真似だけは絶対に許さないから!」

母親からの身勝手な電話を、結衣は無造作に切った。三歳で誘拐され、先月ようやく見つかった実の両親――再会を喜ぶ間もなく、突きつけられたのは末娘の身代わりとして嫁げという、あまりにも冷酷な命令だった。

その時――「――ッ!」鋭い破裂音が路地に響く。

聞き間違うはずもない、銃声だ。結衣は手元の薬学書を素早く鞄に押し込み、厄介ごとを避けるべく、迷わず路地裏から立ち去ろうとした。

だが、曲がり角で何者かが勢いよくぶつかってくる。

「……っ」現れたのは、銀色の仮面をつけた男だった。仮面の下から覗く顎の輪郭は、刃のように鋭く、しかし美しい曲線を描いていた。 一目で仕立ての良さがわかる高級スーツは、赤黒い鮮血に染まり、彼が深手を負っていることを物語っていた。

「動くな……」

掠れた声には、死線を越えてきた者特有の危うい殺気が宿っている。

男――長谷川京介が拘束しようと手を伸ばしかけた、その時だった。結衣の顔を正面から捉えた瞬間、彼の動きが凍りついたかのように止まる。

視線が、火花を散らすように交差した。女の瞳は、深く透き通る琥珀色。対照的に、その唇は毒を含んだ花のように赤い。顔の半分を覆う酷い火傷の痕さえも、彼を惹きつけてやまない強烈な生気を放っていた。

何より――。十数年もの間、色を失い褪せたモノクロームだった京介の世界に、今、この女だけが、虹よりも鮮烈な「色彩」を連れて舞い降りたのだ。

「追え!あの野郎、そう遠くへは行けてねえはずだ!」 追手の罵声が路地に響く。

静寂が戻った空間で、重なり合う二人の荒い息遣いだけが混じり合う。

結衣は瞳を細め、追手たちの首筋にある「燕」の刺青を捉えた。裏社会で恐れられる冷酷な暗殺集団の標章だ。

「……私は何も見ていないわ。だから、放して」

結衣が拒絶を口にするより早く、京介は強引にその身を押し込んできた。冷たい壁と彼の体温の間に、逃げ場を塞ぐように閉じ込められる。

「助けろ。……報酬は、言い値でいい」

射抜くような視線。

世界は相変わらず白黒のままだが、彼女を見つめる時だけは、眩暈がするほどの色に支配される。 (……何者なんだ?)

路地の外から、複数の足音が刻一刻と近づいてくる。

結衣はわずかに目を細めた。「……ちっ、面倒ね」

覚悟を決めると、結衣は京介の襟首をぐいと引き寄せた。胸板に掌を当て、吐息が耳をくすぐるような、甘くねっとりとした声を絞り出す。

「ねえ、ダーリン。こんなところで誰かに見られちゃったら……恥ずかしいじゃない?」

頭上に干された白いシーツが、絶妙なカーテンとなって二人のシルエットを覆う。外から見れば、それはどこにでもある、情事にふける恋人たちの睦言にしか見えない。

黒服たちの足音が、一瞬、戸惑ったように止まる。だが、疑り深くこちらへ歩を進めてくる。

次の瞬間、結衣は強い力で腰を抱き寄せられた。抗えない剛腕に引き寄せられ、二人の距離は一気にゼロとなる。

「何を怖がる?わざわざこんな人気のねえ田舎までライブ配信に来たんだ。 ……いっそ誰かに見られた方が、バズるんじゃないか?」

京介の呼吸が、わずかに熱を帯びる。

至近距離で鼻腔を突く、雨上がりの草地のような彼女の香り。そして、目の前で揺れる、あの鮮烈な色彩。

一人は見上げ、一人は屈み込む。

白い薄布を隔てた二人の影は、情熱的に愛を交わす恋人同士そのものだった。

「……チッ、配信者かよ。反吐が出る」黒服たちは吐き捨てると、興味を失ったように別の路地へと消えていった。

危機が去ったのを感じ、結衣は安堵の息を吐く。

「……今の報酬、4000万ね」

布越しに伝わる男の掌は、驚くほど大きく、そして火傷しそうなほど熱い。

(……いい身体、してるわね。)

スーツの隙間から覗く、鋼のように引き締まった胸筋。仮面で顔は隠されていても、その広い肩幅と立ち姿からは、隠しようのない色気が溢れ出している。

「いいだろう。連絡先を教えろ」

京介は、いまだ彼女から視線を外さずに言った。 「今すぐ振り込む」

貪るように、彼女の持つ「色」を見つめ続ける京介。

だが、その視線とぶつかった瞬間、結衣の背筋に本能的な戦慄が走った。

獲物を狙う野獣の瞳。油断すれば、骨まで食い尽くされる――。

(ドクン、ドクン……)

心臓の鼓動がうるさいほどに速まる。

「これを追加すれば……」結衣は彼を突き放すと、手慣れた様子で予備のSNSアカウントを提示した。

(今のドキドキは……ただの気のせい。 この顔は醜く偽装してるし、親友にだって『本物の火傷にしか見えない』って言われたんだから。 この男が、そんな物好きであるはずがないわ。)

間もなく、訓練されたボディガードたちが大挙して駆けつけた。

「若様!申し訳ございません、遅れました!刺客はもう抑えました……」

先頭の男が報告を終え、京介の傍らに立つ女に気づくと、即座に表情を険しくした。

「若様、その女は仲間の刺客ですか?……どう始末いたしますか」

彼らは、女の暗殺者が弱者のフリをする手口を嫌というほど見てきた。だが、これほど見るに堪えない醜悪な貌をした女は、初めてだった。

結衣は内心、舌打ちする。

(……ふん、恩を仇で返して口封じってわけ?) 男が躊躇なく4000万の支払いに応じた理由も、今ならわかる。

彼女はわざとらしく、冷ややかな声を響かせた。

「私を誰だと思ってるの?……私は『長谷川京介』の婚約者よ。長谷川家の権勢を考えれば、私に手出しすることがどういう意味を持つか、あなたたちなら理解できるわよね?」

『婚約者』……?

一瞬の静寂の後、黒服たちは顔を見合わせ、腹を抱えて爆笑した。自分たちの主人が、こんな醜い女を娶るなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。

「笑わせるなよ、ブス!お前、自分たちが仕えてる『若様』が誰か、本気でわかってて言ってんのか?」

2

部下たちの嘲笑は、長くは続かなかった。

「黙れ」 ――氷のように冷たい声が響く。京介は無表情のまま、射抜くような視線を投げかけた。「……夏川さんは、俺の命の恩人だ。彼女に謝罪しろ」

その一言で、場の空気は一瞬にして凍りついた。男たちの額に、じわりと嫌な汗が滲む。

「――ッ!」

誰からともなく、重々しい音を立てて片膝をつくと、残りの者たちも慌ててそれに倣った。

「夏川様、大変申し訳ございませんでした!我々の目が節穴でございました!」

主がなぜ身分を隠しているのか、彼らには窺い知れない。だが、この女性が主を救ったという事実は揺るがない。ならば彼女は、長谷川家に仕える者にとっても絶対的な恩人だ。

結衣はそんな彼らの動揺をよそに、ただ静かに佇んでいた。

「……別にいいわ。報酬はたしかに頂いたもの。 用が済んだなら、私は行くわね」

淡々と告げ、踵を返そうとした瞬間、彼女の前にすっと長い影が落ちた。見上げれば、広い肩とすらりとした長身を誇る京介が、行く手を塞いでいる。

「礼を言う。……先ほどの君は、とても勇敢だった」

京介が今日婚約するはずの相手――それは、陸田家に引き取られたばかりの長女、夏川結衣。

噂によれば、彼女は顔に酷い傷を負い、実家に戻っても虐げられ、 今も養父母の姓を名乗る「役立たずの臆病者」のはずだった。

だが、今目の前にいる彼女のどこに、そんな影があるというのか。

「夏川さん。……俺たちは、またすぐに会うことになるだろう」

その声は磁石のように心地よく響き、どこか言い知れぬ不思議さを帯びていた。

結衣は驚いた様子も見せず、鼻で笑った。「……察しがいいのね。

でも、二度と会わない方がお互いのためだと思うわよ」

彼女は腕を組み、去り際に一言だけ付け加えた。

「……親切心からの忠告。その腕時計、調べてみたほうがいいわよ」

含みを持たせた言い方で、結衣は今度こそ背を向けた。こんなところで道草を食っている暇はない。

これから「身代わりの婚約」という、最高に退屈な茶番が待っているのだから。

「……ボス、あの時計は先代様からの賜り物です。我々が事前に確認した際も、異常はありませんでしたが……」

部下の一人が訝しげに進言するが、京介の眉根は深く寄せられた。どういうわけか、彼女の言葉がただの戯言とは思えなかった。彼は懐からナイフを取り出すと、迷いなく高級時計の裏蓋をこじ開けた。

――カチャリ。

「……ッ、これは!」ケースの内側には、身に覚えのない微細な「白い粉末」が仕込まれていた。

京介の瞳から、温度が完全に消え去る。

「……病院へ回せ。すぐに成分を検査させろ」

黒服の男たちは息を呑んだ。プロである自分たちが念入りに調べ、異常なしと判断した逸品だ。

それを、あの女は一目で見抜いたというのか?

「各自、罰を受けろ。……これほどの失態、二度とは許さん」

全員が一斉に跪き、「はい!」と声を揃えた。

京介が我に返った時、結衣の姿はすでに雑踏の中へと消えていた。

まるで最初から幻だったかのように。

……

一時間後、結衣は婚約式の会場となるホテルに到着した。

ロビーでは、母である陸田恵子が、珍しく優しげな顔で彼女の手を取った。

「結衣、急に田舎に帰るなんて言うから、お母さん、あなたが拗ねているのかと思って。電話であんなにキツく言ったのは、心配していたからなのよ」

陸田家と長谷川家の嫡男・京介には、昔からの約束があった。

財界において、長谷川家は人脈、財力、地位、そのすべてにおいて頂点に君臨する絶対的な権力者だ。

だが、噂に聞く京介は、容姿は醜く、性格は歪みきった放蕩息子。彼の毒牙にかかり、心身を病んだ令嬢は数知れないという。

そんな男に、目に入れても痛くない次女・陸田奈緒を嫁がせるわけにはいかない。 だからこそ、彼らは「厄介払い」として、長年放置していた長女の結衣を呼び戻したのだ。

「そうよ、お姉ちゃん。お母様、あなたのことをずっと気に掛けていたの」

菜緒がおずおずと前に出て、潤んだ瞳で訴える。「だから……本来の婚約を、お姉ちゃんにお返しすることにしたのよ」

(……笑わせるわね。)結衣は心の中で冷笑し、その手を無造作に振り払った。

奈緒の一生と陸田家の面目が懸かっていなければ、彼らが自分の存在を思い出すことなど、一生なかっただろう。

もはや、この偽善者たちと家族ごっこをする気はさらさらない。結衣は近くを通った従業員を呼び止め、周囲に響く声で言い放った。「……ねえ、長谷川の『若様』に伝えて。少し早めに顔を出せないかしらって。 私、あまり体が丈夫じゃないから、早めに済ませたいの」

養父母が遺した「バイオチップ」を探り当てるには、長谷川家に入り込むのが一番手っ取り早い。

向こうから転がり込んできたこの縁談、利用しない手はない。

「ちょっと、結衣!なんて無作法な……!」

恵子が顔を真っ赤にするが、結衣は知らん顔だ。連絡を受けた従業員は、慌てて長谷川家の控室へと走った。

「……若様、夏川様が、早めにお目にかかりたいと申しております」

書斎のような控室に腰を下ろす男。鴉羽のような長い睫毛と、ハーフのような整った顔立ちをしていた。

「……すぐに行くと伝えろ」

「はい、かしこまりました」

メイドが退室し、部屋に静寂が戻ると、隣にいた赤毛の男――立花葵生が退屈そうにあくびを漏らした。

「おいおい京介、お前の醜花嫁さん、ずいぶん威勢がいいじゃないか」

葵生はどこか腑に落ちない表情で続ける。

「……お前、今朝助けてくれた女と勘違いしてるんじゃないか?

俺が聞いた話じゃ、結衣って女は気弱で、家でもいじめられてるような奴だってことだが」 京介の表情は微塵も動かない。「……さあな。

だが、あの女は俺に唯一『色』を見せてくれた存在だ。

地の果てまで追い詰めてでも、正体を突き止める」

「……まだ言ってるよ。出血多量で幻覚でも見たんだろ。

医者も言ってたぜ、お前の目は相変わらずだってな」

京介自身、あれは夢だったのではないかと疑う瞬間がある。現に、今彼の目に映る世界は、冷たい白と黒のままだ。

だが、病院の鑑定結果は残酷な真実を告げていた。あの腕時計に仕込まれていたのは、遅効性の神経毒。……あの女は、俺を二度も救ったのだ。

彼は静かに瞼を持ち上げ、薄い唇の端をわずかに上げた。

「そいつが彼女かどうかは、すぐに分かる」

3

華やかな宴会場。その喧騒の中に身を置きながら、結衣の心は午前中に遭遇した「銀色の仮面の男」に囚われていた。拭い去れない胸騒ぎが、さざ波のように心を掻き乱す。

その時だった。入り口の方がにわかに色めき立ち、誰かが声を潜めて囁きかけた。「見て、長谷川様よ……本当にいらしたわ!」

その一言が合図であったかのように、あれほど騒がしかった会場は水を打ったように静まり返る。人々は畏怖を込めて左右に分かれ、そこには吸い込まれるような一本の道が生まれた。

結衣もまた、弾かれたように顔を上げた。

そこには、ゆっくりと歩を進める京介の姿があった。上質な黒のシャツは端正な体躯をなぞるように完璧に仕立てられ、無造作に捲り上げられた袖口からは、しなやかな筋肉のラインが覗く。その佇まいは、圧倒的な王者の余裕を漂わせていた。

(……え?)噂に聞く「醜悪な怪物」とは、似ても似つかない。彫りの深い精悍な輪郭。鴉の濡れ羽色のように長い睫毛の下には、すべてを見透かすような鋭い瞳。すっと通った鼻梁から、剃刀のようにシャープな顎のラインに至るまで、それは冷徹なほど完璧な「美」だった。

「嘘でしょう……?あの方が、あの長谷川京介なの?」

「メディアに一切顔を出さないからって、まさかこれほどの美貌だなんて……」

「素敵……。でも、性格は残忍そのものだって聞くわよ」

「しっ、声を落として!逆らえば最後、生きては帰れないと言われる『氷の暴君』なのよ……!」

会場を支配するのは、陶酔と、それ以上に深い恐怖。

一方の結衣は、一筋縄ではいかない違和感に目を見開いていた。(……あの瞳。どこかで……)

刹那、二人の視線が真っ直ぐにぶつかった。

変……。

四目が交わった瞬間、京介の体が微かに強張ったのを、結衣は見逃さなかった。彼の瞳には、明らかな驚愕の色が浮かんでいる。

(……まさか、この顔に怯んだのかしら?)

だとしたら、苦労して施したこの「醜い特殊メイク」の勝ちだ。結衣は内心でほくそ笑んだ。

だが、京介の内面では、今まさに世界が作り替えられるほどの大嵐が吹き荒れていた。

「……葵生、あの女だ」

京介は、結衣を射抜くように凝視したまま、隣に立つ葵生に低く告げた。確信した。午前中、死の淵で自分を救ったあの女は、決して失血による幻覚などではなかった。

あの忌まわしい事故以来、京介の世界からは「色彩」が失われていた。

医師たちが「精神的トラウマ」と名付けた、永劫に続くかのようなモノクロームの世界。彼はとうに、その死んだも同然の灰色の日常に順応していたはずだった。

だが――目の前の女が、またもや奇跡を見せつけてきた。

「……本気か?」葵生が、信じられないといった様子で問い返す。

「ああ、間違いない。俺には、あの女の『色』が見える」 京介の喉から、震えるような吐息が漏れた。「……溢れているんだ」

結衣を中心に、鮮やかな色彩が噴水のように噴き出している。

彼女が手にするグラスは燃えるような金色に輝き、漆黒のドレスでさえ、彼の目には濡れたような艶やかな光沢を帯びて映る。

世界は依然として色褪せたまま。なのに、彼女の周囲だけが、目が眩むほどの極彩色に支配されていた。

「マジか……」葵生の表情から余裕が消え、真剣なものへと変わる。 「わかった。すぐに人を回して、彼女のすべてを洗わせる」

数多の名医が匙を投げた不治の病。その解決の鍵が、目の前の「忌み子」と呼ばれた女だというのか。

葵生はふと、現実的な問いを投げた。

「……それで、婚約はどうするつもりだ?」

京介の視線は、獲物を捉えた野獣のように結衣に縫い付けられたまま。彼は迷いなく、断定した。

「決まっている」

「何があろうと、この女と結婚する」

葵生は耳を疑った。たしかに彼女が「色彩」をもたらす存在だとしても、結婚までとは。

(……京介、お前、正気か?)

その時、恵子が、顔に媚びるような笑みを貼り付けて進み出た。「長谷川様、ようこそお越しくださいました!主人も息子も、まさかこれほどお早いお着きとは存じ上げず、すぐにこちらへ参りますので!」

恵子は捲したてるように言うと、結衣の背中を強引に前に押し出した。

「まずは、こちらの結衣をご覧いただけますでしょうか。長谷川様とは幼い頃にお会いしたことがあるのですが……。 本来、ご縁を結ぶはずでしたのもこの子でして。行方知れずとなっておりましたが、この度ようやく戻ってまいりました。つきましては、婚約も当然この子が……」

恵子は、あたかも「正当な形に戻っただけ」だと言わんばかりに、言葉巧みに「身代わり」の事実をごまかそうとしている。

その傍らで、次女の奈緒は、顔を真っ赤に染めて立ち尽くしていた。

(嘘……長谷川京介……

素敵……)

その圧倒的な美貌を目にした今、あの「醜い不気味な姉」に彼を譲ってしまったことを、奈緒は激しく後悔し始めていた。

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君が染める白黒の世界〜冷徹なる覇王と傷だらけの天才医〜

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