2

田中鴻太は、虚を突かれたように一瞬固まった。

(……父親だと?)

確かに五年前の結婚当初、彼女が口にしていた記憶がある。父親は仕事の都合でずっと海外におり、どこか辺境の国に滞在しているのだと。

だが、この五年間、その男が姿を見せることは一度もなく、連絡すら寄越した形跡はなかった。

知美はこの五年間、文字通り影のように自分に寄り添い、尽くしてきた。あまりに彼女が「独り」であることに慣れすぎていて、彼女にも家族というものが存在することを、鴻太はすっかり失念していたのだ。

(それが、今さら帰ってくるだと?)

鴻太の脳裏には、たちまち強欲で落ちぶれた中年男の姿が浮かび上がった。

実の娘を他人の家に五年も放置し、音沙汰ひとつ寄越さなかった父親だ。碌な人間であるはずがない。

(どうせ、俺が今や田中グループの総裁となり、千億円もの個人資産を持つ身になったと聞きつけて、おこぼれに預かろうと這い寄って来たのだろう)

彼はそうやって金を目当てに擦り寄ってくる人間が、反吐が出るほど嫌いだった。

しかし、不意に突き刺さった知美の視線があまりに冷たく、その氷のような眼差しに、彼の胸はなぜかドキリと大きく跳ねた。

「……分かった」 鴻太は一瞬ためらったが、渋々と頷いた。「午後三時に、港へ迎えに行く」

知美はもはや、彼に一瞥すらも呉れない。そのまま踵を返し、音もなく執務室を去っていった。

翌日、午後三時五分。

知美は港の交差点に立ち、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。 メッセージアプリのトーク画面には、既読すらつかない。

三時十五分。

ようやく、手元で端末が震えた。

「知美」 受話器の向こうから聞こえてきたのは、隠しきれない焦燥を帯びた鴻太の声だった。『すまない、今日はお義父さんを迎えに行けなくなった』

「どうして?」

『清佳のところで事故があって、彼女は人を助けなきゃいけないんだ! とにかく、先に彼女を病院に連れて行く! お義父さんの件は、また日を改めて挨拶に伺う。お前が一人で迎えに行ってやってくれ。いいな、頼むぞ』

電話の向こうから、清佳の咽び泣くような、か細い声が漏れてくる。『鴻太さん……もっと速く……早く行かなきゃ、みんなが死んじゃう……私、助けないと……っ』

『大丈夫だ、俺がそばにいる。怖がるな』 鴻太の声が、途端に優しくなった。

知美はスマートフォンを握りしめたまま、人通りの絶えない街角に立ち尽くしていた。

その視線の先――。 道路を挟んだ向かい側に、見覚えのある黒いマイバッハが停車している。

そこには、今まさに車から清佳を抱き上げようとする鴻太の姿があった。

彼の腕の中に収まった清佳は、弱々しく身を縮こませているが、その様子に「人を助けようと焦っている」気配など微塵も感じられない。

(……事故?人助け?)

それは、あまりにも稚拙で、それゆえに悪意に満ちた茶番劇だった。

知美にとって最も大切な日に、彼女を徹底的に惨めな「笑い者」へと突き落とすために仕組まれた、卑劣な舞台装置。

知美は、遠ざかっていくマイバッハの残像をただ静かに見つめていた。

心の中に澱のように溜まっていた何かが、音を立てて崩れ去る。それはあまりに唐突で、驚くほどあっけない幕切れだった。

空っぽになった胸の隙間に風が吹き込んでも、もはや寒さすら感じない。

「……田中鴻太」 すでに通話の切れたスマートフォンに向かって、彼女は羽毛が落ちるような微かな声で呟いた。「もう、これで終わりだ」

知美は迷うことなく踵を返すと、車のドアを開け放ち、運転席に滑り込んだ。エンジンが猛り狂ったような咆哮を上げる。彼女はアクセルを床まで踏み込み、その場を後にした。

***

「雲頂公館」

その巨大な門扉には、黒地に金の紋様が躍る旗が掲げられていた。ヨーロッパの裏社会において誰もが知る――桜井一族の紋章である。

普段、ここには選ばれた特定の車両以外、立ち入ることさえ許されない。

だが今日、門に立つ警備員たちは知美の車のナンバーを確認した瞬間、制止するどころか直立不動の姿勢を取り、道を開けた。

知美が車を降りると、そこには異様な光景が広がっていた。

黒いスーツに身を包んだ屈強な男たちが、道の両側に二列に並び、静粛に佇んでいる。

その数、百人。黒一色に染まったその集団からは、肌を刺すような鋭い殺気が放たれている。

彼らの腰元には、例外なく「本物」の銃器が備えられていた。

知美の足が、一歩、石畳を踏みしめた。

「――ザッ!!」

百人の動きが、寸分の狂いもなく同調する。彼らは一斉に、九十度の深い敬礼を捧げた。

「お嬢様、お帰りなさいませ!!」

地鳴りのような咆哮とともに、巨大な鉄の門がゆっくりと左右へ滑り出していった。

正面の広大な吹き抜け、その窓辺に一人の男が背を向けて立っていた。

物音に気づいたのか、その影がゆっくりと振り返った。

男が一歩踏み出すたび、後ろに従う側近たちは、それ以上踏み込むことを許されない不可侵の境界線があるかのように、十メートル手前で足を止めた。

「……痩せたな」

桜井賢士は、娘の目の前で足を止めた。愛おしげにその頬に触れようとして――けれど、まるで壊れ物に触れるのを恐れるかのように、その大きな手を宙で震わせた。

「知美……父さんだ。帰ってきたぞ」

欧州全土の裏社会を震撼させる、桜井一族の『ゴッドファーザー』。その鉄の仮面のような顔には今、抑えきれないほどの慈しみと、愛娘を独りにしてしまった後悔が滲んでいた。

知美は、五年という歳月の重みを噛みしめるように父を見つめ、鼻の奥がツンと熱くなるのを感じた。

「……お父さん」

「すまない、知美。帰るのが遅くなった」賢士は、我慢しきれないといった様子で娘を力強く抱きしめた。

知美の張り詰めていた背中から、ようやく、何かが崩れるように力が抜けていった。

この五年間。孤独な戦いの中で、もう二度と両親には会えないのではないかと、心のどこかで諦めかけていたのだ。

「……お父さん」

賢士は、震える娘の顔を大きな両手で包み込んだ。

「知美、誰がお前を虐げた?……例の男か?」

「案ずるな、父さんがついている。 田中グループごとき、吹けば飛ぶような羽虫に過ぎん。たとえ欧州全土を敵に回そうとも、この桜井賢士がお前の後ろ盾となり、すべてをなぎ倒してやろう」

「お母さんは……」知美の口から漏れたのは、ただその一言だった。

賢士の手がぴたりと止まった。その瞳に宿っていた苛烈な殺気は一瞬で霧散し、代わりに底知れぬ哀惜の色が塗り替えられた。

彼は懐から、大切に保管されていた少し黄ばんだ写真を取り出すと、知美の手のひらにそっと握らせた。

それは、幸福そのものを切り取ったような家族三人の記念写真だった。

写真の中の母は白衣をまとい、穏やかな微笑みを湛えながら、手には一枚の研究レポートを携えている。

「お前の母さんは、我々を捨てたわけではないのだ」

賢士は、言い聞かせるように静かに語り始めた。「あの頃、一族内で激しい内紛があってな。分家の連中が家長の座を狙い、お前の母さんが持つ遺伝子薬のレシピを奪おうと画策した。 ……母さんは、刺客たちの目を我々から逸らすために、自ら姿を消したのだ」

知美は写真を指が白くなるほどに固く握りしめた。母は、自分たちを守るために……。

「この五年間、私が姿を見せなかったのは、一族の膿を出し切る――『家中の掃除』のためだ」 賢士の目に、獣のような凶狠な光が走った。「我々の一家をバラバラにしたあのクズどもは、一人残らずこの手で始末した。 ……さて、次は母さんを迎えに行く番だ」

彼は愛おしい娘を見つめ、優しく、けれど重みのある声で告げた。「知美、帰ってこい。 桜井の門はお前のために、いつでも開かれている。 お前を不快にさせる者がいるのなら、それが誰であろうと、父さんがこの世から消してやろう」

沈黙が流れた。やがて知美は、ゆっくりと、しかし確かな意志を込めて首を横に振った。

「いいえ、お父さん。……これは、私自身の手で決着をつけたいの」

この五年間にわたって踏みにじられ、無為に費やされた真心。それらを一つひとつ、自分の手で取り戻さなければならない。

あの男との間に流れた、愚かで、あまりにも滑稽な偽りの日々に――自らの手で終止符を打つために。

賢士はそれ以上、無理強いはしなかった。

「……よかろう、行け。 だが忘れるな。お前の背後には、桜井一族のすべてが控えているということを」

3

田中家の屋敷。

「お母様、清佳姉さんって本当に品があるし、しかも博士号まで持ってるんですよ。 それに比べて桜井知美は何なんですか。いつも陰気くさくて、見てるだけで食欲なくなるわ」

「ふん、あんな女、うちで飯でも作ってるのがお似合いよ」 田中夫人の鼻で笑うような声が響いた。「今日はあの貧乏くさい父親に会いに行ったんでしょう?」

神子がくすくすと笑った。「海外から帰ってきたんですって? どうせどこかの辺境で違法な仕事でもしてて、食い詰めたから娘を頼って戻ってきたんじゃない?」

鴻太は眉をひそめただけで、その言葉を咎めようとはしなかった。

そのとき、玄関のドアが開く。

入ってきた知美の姿を見た途端、田中夫人の顔には露骨な嫌悪が浮かんだ。

「あら、ちゃんと帰ってきたのね。 だったら早く夕飯の支度をしなさいな」

知美は何も言わない。ただ静かに靴を履き替えると、そのまま二階へ向かって歩き出した。

「ちょっと!お母様が話してるでしょ!聞こえないの?」

「何その態度? 貧乏親父に会ってきたくらいで、急に図に乗ったわけ?」

知美は足を止めた。目の前に立ちはだかる神子を、氷のような目でまっすぐ見据える。「どいて」

その一言に、神子は思わず半歩退いた。けれどすぐに我に返ると、むきになって声を張り上げる。「なによ、その目! ここは私の家なのよ!」

「お兄ちゃんに養ってもらってるくせに、食事くらい作って何が悪いのよ!」

「あなたの家?」知美はそう呟き、ゆっくりと視線を屋敷の中へ巡らせた。

――家を探していたあの頃。田中鴻太は、まだスラム街を抜け出して間もない頃だった。知美は彼から千円だけ受け取ると、そのまま桜井家の所有する邸宅のひとつへ彼らを住まわせた。

しかも彼の自尊心を傷つけまいとして、これは自分の親戚が所有している家で、しばらく借りられるだけだと、わざわざ嘘までついて。

知美の唇に、冷え切った笑みが浮かんだ。「田中鴻太。教えてあげたら? この家が、本当は誰のものなのか」

その一言に、鴻太の顔色がさっと変わった。「お前、何を言い出すんだ!」

「何を、って?」 知美は目の前の男を見つめた。五年も一緒にいたはずなのに、今はもう、見知らぬ他人を見るような気分だった。「何? 本当のことを言えないの?」

「黙れ!」鴻太は低く怒鳴り、あからさまな警告をその目に滲ませる。「お義父さんを迎えに行かなかった件は、たしかに俺が悪かった。お前が腹を立てるのもわかる。そこは謝る」

「だからって、これ以上騒ぐな。疲れてるなら部屋に戻って休め」

「私は疲れてない」知美はそう言って、ゆっくりとローテーブルの前まで歩み出した。「ただ、ちゃんと話を終わらせたいだけよ」

あまりに普段と違うその態度に、田中夫人は完全に逆上した。勢いよく立ち上がると、甲高い声を張り上げた。「何様のつもりよ、この小娘が!鴻太に向かってそんな口を――」

そして、その口から飛び出したのは、さらに下劣な言葉だった。「どうせあんたの母親だって、どこぞの男と駆け落ちでもしたんでしょ!」

知美の目つきが、一瞬で変わる。「……今、何て言ったの?」

「何か間違ってる?」田中夫人は両手を腰に当て、唾を飛ばしながら吐き捨てた。「失踪ですって? 笑わせないで。男と逃げたに決まってるじゃない。

あのふしだらな女!」

「今日だって遅くまで帰ってこなかったんでしょ? 母親そっくりに、どこかで男と会ってたんじゃないの!」

「黙れ!」

次の瞬間、知美がテーブルを叩きつけた。バンッ――と鈍い音が響き、上に置かれていたカップが跳ねる。室内の空気が、一瞬で凍りついた。

母を侮辱することだけは、絶対に許せない。

それは、知美にとって誰にも触れさせてはならない逆鱗だった。

踏みにじった者は、何があっても無事では済まない。

その剣幕に、田中夫人は一度こそ怯んだ。けれどすぐに我に返ると、今度は恥をかかされた怒りで顔を真っ赤にした。「あらまあ!見てちょうだい鴻太!これがあんたの嫁よ!」

鴻太も眉間に深い皺を刻み、知美を睨んだ。「何をそんなに怒鳴ってるんだ。母さんだぞ!」

「年だって取ってるし、体も弱いんだ。少し口が過ぎたくらいで、そこまで怒ることか?今すぐ母さんに謝れ!」

謝れ――?

母を売女呼ばわりして、「少し口が過ぎた」で済ますつもりか?

知美は、五年間愛してきたその顔を見つめたまま、胸の奥からじわじわと冷え切っていくのを感じていた。

――あの日、自分を命懸けで助けてくれたのは、本当にこの人だったのだろうか。そんな疑いさえ、胸をよぎった。

知美は一歩、静かに後ろへ下がった。二人の間に、はっきりと距離を作るように。

「もう一度だけ聞くわ」

「あなたも……母のことを、あの人たちが言うような女だと思ってるの?」 「それに、私が母を捜そうとしてきたことを……あなたは一度でも、本気で助けようと思ったことがあるの?」

鴻太は知美を見た。それから、怒りに顔を歪めた母と妹へ視線を移した。

この場で母に逆らえば、また面倒なことになる。それは彼にも、よくわかっていた。

――知美のことなら、どうせ自分からは離れられない。あとでなだめればいい。

そう思った鴻太は、知美の焼けつくような視線から目を逸らし、口を閉ざした。

また、沈黙。

田中家の人間が彼女を踏みにじるたび、彼はいつもこうして黙り込む。何も言わず、何も止めず、ただ見ているだけ。

知美は、ふっと笑った。

――ほら。答えなんて、ずっと前から出ていたじゃない。

この五年間、彼女が母を捜したいと口にするたび、鴻太は決まって話をはぐらかした。時には、もう無駄だと暗に諦めさせようとすらした。

つまり彼の中でも、母はとうに「ろくでもない女」として片づけられていたのだ。

「……そう、よく分かったわ」

そして次の瞬間、まっすぐ鴻太を見据えた。「田中鴻太。三年前、あなたの会社の資金繰りが完全に詰まったとき、最初の融資を引っ張ってきたのが誰だったか――忘れたの?」

「まさか、自分の運が良かっただけだとでも思ってた? あれは私が、昔の恩師に頭を下げてようやく繋いでもらった話だったのよ」

「それから、あんたの母の胃潰瘍も」知美の視線が、そのまま田中夫人へと向く。「医者に手術しかないと言われたとき、誰が毎日三時間しか寝ずに薬膳を煎じて、一口ずつ飲ませて、あそこまで回復させたと思ってるの?」

鴻太は顔色を変え、苦々しく口を開いた。「……今さら昔のことを持ち出して、何になる」

「今さら?」知美はかすかに嗤ったあと、今度は神子を見た。 「田中神子。あなた、自分がヨーロッパの上流階級のパーティーに出入りできるようになったのは、田中家にお金があるからだと思ってるの?」

「出席するたびに私があなたのドレスを選んで、誰が何を好んで、どんな話題を嫌うかまで全部教えてあげた。それがなかったら、あなたは今でもあの世界の入口にすら立てていなかったはずよ」

「私は……あなたたちのために、できることを全部してきた」一語一語、押し殺したように言い切った。「家族だと思っていたから」

「それなのに、あなたたちは?」

「もういい加減にしなさい!」ついに田中夫人が怒鳴り声を上げ、知美の目の前まで突進してきた。怒りに任せて振り上げた手が、そのまま頬を打とうと振り下ろされた。

「恩知らずめ!うちが拾ってやらなきゃ、あんたなんかとっくに野垂れ死にしてたくせに!」

「お前がいなかったら、私の胃だってとっくに治ってたわ!」

「この恩知らずが――ぶっ叩いてやる!」

鋭い風を切って、掌が迫る。

だがその瞬間、知美は身を翻してそれをかわした。すると夫人は、その勢いのまま知美が胸に抱えていたクラフト封筒をひったきた。「そんなガラクタ、寄こしなさい!」

ビリッ――封筒が破れ、中から一枚の家族写真が滑り落ちた。

床へ舞い落ちたそれを、夫人はろくに見もしないまま拾い上げ、その場で引き裂いた。

「縁起でもない!あんたの死んだ母親と同じで、不吉なものは田中家に持ち込むんじゃないよ!」

その瞬間。知美の表情から、最後の温度が消えた。彼女は田中夫人を押しのけ、床に散った写真を拾い上げた。震える指で破れた端を合わせながら、そのまま弾かれたように外へ飛び出した。

「知美――!」制止しようとする間もなく、知美は彼の手を振り払い、わずかな躊躇もなく玄関の向こうへと姿を消した。

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蹂躙されるのはあなた達よ〜覚醒した天才神医と最狂ドンの淫らな執着〜

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