1

「…… 鷹司の旦那様、まだいらっしゃらないようですね」

叔母である青山佳代が、 扇子で口元を隠しながら囁いた。 心配しているふりを装っているが、その声には隠しきれない嘲笑の色が滲んでいる。

遺族席に立つ青山静香は、その言葉に反応せず、ただ斎場の入り口へと続くがらんとした廊下をじっと見つめていた。黒い喪服が、彼女の血の気の失せた顔色を一層際立たせている。淡い期待が、秒針の音と共に削られていく。心臓が冷たい手で掴まれたように、 じりじりと痛んだ。

「お姉ちゃん 、可哀想。せっかく名家にお嫁入りしたのに……これ、ネットで話題になってるよ 」

隣に立つ従妹の玲奈が 、同情するような声色で、スマートフォンを静香の手元にそっと突き出した。液晶画面には、夜景をバックに豪華なクルーザーの上で寄り添う男女の姿が映し出されている。男は、静香の夫・鷹司暁。そして彼の肩に頭を預けているのは、彼の幼馴染である堀川美羽。

画面の上部には、週刊誌のネットニュースの見出しが踊っていた。

『鷹司グループCEO、 幼馴染の誕生日に東京湾でサプライズ花火!』

静香の瞳孔が急速に収縮し 、呼吸が浅くなる。写真の中の暁は、静香が一度も見たことのない優しい笑みを浮かべていた。美羽の髪を撫でるその指先は、まるで宝物に触れるかのように柔らかい。

昨夜の電話が脳内で再生される。

『明日、母の告別式なの。あなたにも最後のお別れをしてほしい』

『……悪いが、明日は重要な海外の会議が入っている。行けない』

冷たく事務的な声。それが嘘だったのだ。彼の「重要な会議」とは、 堀川美羽の誕生日パーティーのことだった。自分は、彼の人生においてその程度の存在でしかないのだ。

胃の奥が 、ぎりりと痛んだ。三年間、鷹司の家で耐えてきた孤独と屈辱が、一気に喉元までせり上がってくる。結婚してから一度も、 彼は静香の実家に顔を出したことがなかった。いつも理由は「仕事」だった。

「ご遺族代表 、青山静香様よりご挨拶がございます」

司会者の声が遠くに聞こえる。静香は強く噛みしめた下唇の内側に、鉄の味が広がるのを感じた。ここで涙を見せるわけにはいかない。これは、母の最後の尊厳を守るための儀式なのだから。

一歩、また一歩と、マイクスタンドへと歩を進める。参列者のひそひそ話が鼓膜を刺す。

「鷹司のご当主も、あちらのご両親もいらっしゃらないなんて……」

「やっぱり家柄が釣り合わないから、認められていないのよ」

聞こえないふりをして背筋を伸ばす。マイクの前に立ち、深呼吸を一つ。用意していた原稿の言葉が、一瞬頭から抜け落ちそうになる。目の前のスクリーンには、 母の生前の写真がスライドショーで映し出されていた。笑っている母。旅行先での母。しかし、静香の隣に本来いるべきだった夫の姿はない。

彼の優しさは、すべて堀川美羽のためだけのもの。自分は、彼が天性的に冷たい人間なのだと、そう思い込もうとしていた。違う。彼はただ、自分にだけ冷たいのだ。

その事実が、 ナイフのように静香の心を抉った。

数日前 、妊娠検査薬で陽性反応が出た。病院での検査結果は、妊娠五週目。暁へのサプライズにしようと、エコー写真の入った封筒をバッグに忍ばせていた。今となっては、それは世界で最も滑稽なジョークだ。

視界がぐらりと揺れた。数日間まともに眠れていないせいか、強烈なめまいが襲う。下腹部に鈍い痛みが走った。倒れるわけにはいかない。静香は演台の縁を強く握りしめ、かろうじてその場に立ち続けたまま、かすれる声で参列者への感謝を述べた 。

やがて出棺の時が来た。棺の中に白い花を入れる。静香の隣 、夫がいるべき場所は最後まで空っぽのままだった。朝一番で秘書が届けに来た、冷たい香典袋の感触だけが手のひらに残っている。彼が自分の手で渡すことすらしなかった、 無機質な弔意。

「静香さん 、いつまでそうしているつもり? 鷹司家からは誰も来ないのだから、あなたがしっかり他の来賓の方々のお見送りをしなさいな」

青山佳代が、再び嫌味がましく言った。静香は喉の奥に広がる血の味を、唾と共に飲み込んだ。爪が食い込むほど強く握りしめた拳が、 小さく震える。

もういい。

この 、愛のない結婚生活に、今日で 最後の別れを告げよう。

2

静香は集まってくれた参列者一人一人に対し、機械のように頭を下げて回った。感謝の言葉を口にしながらも、心の中では鷹司暁という男への三年間の想いを静かに葬っていた。

霊柩車がゆっくりと斎場を離れていく。静香は傘もささずにその場に立ち尽くし、遠ざかる車を見送った。冷たい雨が喪服を濡らし肌の温度を奪っていくが、心に空いた穴の痛みに比べればずっとましだった。

火葬場の家族控室は、ひどく冷え切っていた。

すべてが終わり、静香は一人硬い長椅子に腰を下ろして、母の小さな骨壺を大切に抱きしめていた。その時、慌ただしい足音とともにドアが開けられ、冷たい外気と共に鷹司暁が入ってきた。

「静香」

彼の声を聞いた瞬間、必死に堪えていた涙の堰が決壊しそうになった。

だが、暁が何かを言う前に、彼の背後から華奢な影が姿を現した。堀川美羽だった。彼女はひどく青ざめた顔で申し訳なさそうに身を縮め、か細い声で言った。

「ごめんなさい静香さん。昨夜、私の母が急に倒れてしまって……暁さんがずっと付き添ってくださったの」

美羽は暁が不眠不休で手伝ってくれたことを、すまながりながらも事細かに説明した。暁はそれを否定もせず、気まずそうに黙って立っている。その態度が静香の悲しみをどす黒い嫌悪感へと変えた。

「どうして電話に出なかったの」

静香の声は自分でも驚くほど冷たく響いた。

「病院で携帯の電源を切っていたんだ。気づいた時にはもう……」暁は弁解するように言いよどんだ後、静香の冷たい視線に耐えかねたのか、少し声を荒げた。「悪かったと思っている。だが、こんな場所で人を責めるような真似はよしてくれ」

彼は静香の異常に青ざめた顔に気づき、無意識に手を伸ばそうとした。しかし静香は条件反射のように身を引く。暁の手が気まずそうに宙を彷徨った。

「あなたたちの顔なんて見たくない」

三年間従順な妻を演じてきた仮面が音を立てて剥がれ落ちる。静香は傍らのバッグからずっと前に用意していた一枚の封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。中から覗くのは『離婚届』の文字だった。

その文字を見た暁の瞳が鋭く細められた。

「静香、いくら怒っているからといって冗談が過ぎるぞ」

「暁さん、静香さんもお母様を亡くされたばかりで気が立っているのよ」

美羽がとりなすように間に入ったが、それがかえって火に油を注ぐ結果となった。

静香はもはや彼らと言葉を交わす気力すら失っていた。骨壺を大事に抱き直して立ち上がると、無言のまま暁の脇をすり抜けて部屋を出ていこうとした。

その時、数日の疲労で体がついていかず、足元がふらついた。暁がはっとしたように彼女の腕を掴む。その手に触れた静香の体の信じられないほどの薄さに、彼は一瞬息を呑んだ。

「きゃっ」

暁が急に動いた反動で、元々体調が万全でなかった美羽がバランスを崩し、暁の体にもたれかかった。暁は反射的に静香の腕を離し、倒れかけた美羽を支えてしまう。

静香はその光景をただ冷たい目で見つめていた。

「私に触らないで」

彼女は静かに告げると、暁に掴まれた腕をハンカチで拭い、背筋を伸ばして控室を出た。

廊下を歩きながら、平坦な自分のお腹をそっと撫でた。この誰からも祝福されることのない命。もし鷹司の家で生まれれば、この子まで悲劇に巻き込んでしまうかもしれない。静香の心の中である決断が下された。

「待て、静香!」

暁は美羽を長椅子に座らせると、慌てて後を追ってきた。

廊下の突き当たりで静香は足を止めた。振り返った彼女の瞳にはもはや何の感情も浮かんでいない。

「私たち、これで終わりにしましょう」

三年間分の絶望がその一言に凝縮されていた。

しかし暁はまだ事の重大さを理解していなかった。彼は静香が母を亡くした悲しみと自分への当てつけで、離婚という言葉を口にしているだけだと思い込んでいた。

「静香さん、誤解なの!」

休んでいるはずの美羽が追いついてきて、弁明しようと静香の袖を掴もうとする。

「やめて!」

静香が反射的にその手を振り払うと、足元のふらついていた美羽はバランスを崩し、床に崩れ落ちてしまった。

「何をするんだ!」

暁は倒れた美羽を庇うように抱き起こし、信じられないという目で静香を睨みつけた。

その姿を見て、静香の心から最後の未練も完全に消え失せた。もはやこの男のために一言も言葉を費やしたくない。

彼女は骨壺を濡らさぬようコートの胸元に抱え込むと、重い体を引きずるようにして外へと続く階段を下りていった。一歩一歩が過去との決別を意味していた。

暁はエントランスから雨の中に消えていく静香の背中を呆然と見つめていた。胸の奥に得体の知れない不安が湧き上がってくる。だが彼はまだ頑なに信じていた。少し頭を冷やせば、彼女はいつものように家に戻ってくるはずだ、と。

静香は通りに出ると一台のタクシーを拾い、濡れた体をシートに沈めながら震える声で行き先を告げた。

「病院までお願いします」

3

あの日の夜、火葬場で離婚届を叩きつけられた後、鷹司暁は静香が消えたマンションに戻った。

テーブルの上には彼女の荷物はすでになく、一枚の『妊娠中絶同意書』だけが置かれていた。同意書には乾いた血痕が僅かに付着していた。

彼女が離婚を急いだ理由がこれだったのか。生まれるはずだった自分の子供を彼女が独断で抹殺したのだと知った瞬間、暁の頭の中で決定的な何かが切れた。彼は近くにあったグラスを壁に叩きつけ、砕け散ったガラスの破片の中で獣のように咆哮した。後悔と怒りが彼の体を内側から焼き尽くしていく。

それから、五年。

パリ、サザビーズのオークション会場はシャンデリアの光で満たされていた。

「――落札です」

壇上に立つ女性が高らかに宣言し、小さな木槌を打ち下ろした。彼女は「シオン」と名乗る、この会場の首席オークショニアだ。体にフィットしたオートクチュールのドレスに、顔の上半分を覆う繊細なレースの仮面。その姿は神秘的で近寄りがたいオーラを放っていた。

VIPルームの分厚いマジックミラーの向こう側で、鷹司暁はその姿を食い入るように見つめていた。

五年間、日本中をくまなく探しても静香の行方は知れなかった。まるでこの世から蒸発してしまったかのように。

その時、シオンがオークションハンマーを握る右手の小指が、僅かにぴんと反っているのに暁は気づいた。それはかつて静香がお茶を飲む時に見せた無意識の癖と全く同じだった。

心臓が大きく脈打った。

「すぐにあのシオンという女の素性を調べろ。どんな些細なことでもいい、すべてだ」

暁はインカムに向かって、秘書の佐藤健一に低く命じた。抑圧してきた執念が再び鎌首をもたげる。

シオンは流暢なフランス語と圧倒的なカリスマ性で、次々と美術品を競り落としていく。その声は静香のものより少し低い。意図的に変えているのだろうか。

「社長、調べました。シオンはフランス国籍の日系人。経歴はクリーンで、怪しい点は何も……」

佐藤からの報告に暁は冷笑を浮かべた。完璧すぎる経歴は偽装の証だ。直感がそう告げていた。

壇上の女の仮面の下から覗く冷たい瞳。五年前、自分に別れを告げた時の静香の瞳と重なる。胸の奥が怒りにも似た探求心でざわついた。

オークションが終わり、シオンは優雅な一礼と共に舞台袖へと消えた。暁は制止を振り切ってVIPルームを飛び出し、関係者用通路へと向かう。

一方、楽屋に入った静香――シオンはドアに鍵をかけると仮面を外した。

鏡に映る自分は五年前の面影を残しつつも、どこか違う。青臭さが消え、代わりに鋼のような強さが宿っていた。

もう二度と、鷹司の名の下に今の生活を奪われてたまるものか。

通路の入り口で暁は警備員に止められた。彼は固く閉ざされたドアを睨みつけながら苛立ちを募らせる。

静香は鷹司財閥の力がヨーロッパにも及んでいることを知っていた。榊蓮に用意してもらった偽の身分証明書が完璧であることを改めて確認する。

彼女は普段着に着替え、大きなサングラスと帽子で顔を隠すと、内部の人間しか知らない秘密のエレベーターで地下二階へと向かった。

通路に残された微かなジャスミンの香水に暁は足を止めた。それはかつて静香が愛用していた香りだった。間違いない。あの女は静香だ。

暁は力ずくで楽屋に押し入ることはしなかった。代わりに佐藤に命じた。

「すべての出口を封鎖しろ。一匹の鼠も逃がすな」

静香が秘密のエレベーターを降り、地下駐車場に踏み入れたその時だった。

「マミー!」

ピンクのプリンセスドレスを着た小さな女の子が彼女の足元に飛び込んできた。静香はその小さな体を愛おしそうに抱きしめた。

今すぐ全編を読む
作者の『Moboreader』を応援して、素晴らしい物語の続きを楽しみましょう!
全話ロック解除

愛を捨てた元妻は、天才オークショニアとして華麗に舞う

第1話
エピソード
カスタマイズ
次の章