2

「これで、 終わりだとでも? 一晩の約束ではなかったのか? まだ、 たっぷり時間は残っているだろう」

いつの間にか手錠が外れていたことすら理解できないまま、沙織は、狂おしいほど激しい侵略に晒され、その身に宿るすべての理性を、あっけなく奪い去られた。

男の大きな手が、まるで先ほどの彼女の真似をするかのように、荒々しくその唇を塞いだ。 目尻は痛々しいほどに赤く染まり、止めどなく溢れる涙は枕を濡らす。 嗚咽が喉の奥から漏れ出るばかりで、ただその全てを受け入れるしかなかった。

「一晩」という言葉は、文字通り、夜が明けるまでの時間を指していた。

沙織は、その夜、自分が何度意識を失ったのか、もはや数えることもできなかった。 男は、飽くことを知らない獰 猛な野獣のように、沙織の体の奥底、骨の髄までを貪り尽くした。

ようやく夜が明け、沙織が力なく散らばったドレスを拾い上げ、身につけようとしたその時、もう、振り返ってあの男の顔を見るだけの勇気は、寸毫も残されていなかった。

声も出ないほど枯れ果てた喉が、それでも必死に、最後の警告を放った。

「事故現場の動画は、確かに保存してあるわ。 このドアを出たなら、私たちはもう赤の他人。 余計な口は慎みなさい」

その背後から、男の気だるげな、しかし確かな声が響いた。 その声には、深い満足と、獲物を手に入れたような喜びが満ち溢れていた。

「奇遇だな、お嬢様。 事故の動画なら、俺もちゃんと保存してあるぜ」

沙織は、男の言葉に隠された真意に気づくことなく、震える手でバッグを掴み、ドアへと足を引きずった。

力なく揺れる腰は、もはや自身の体重を支えきれず、今にもよろめいて倒れそうだった。

男の意地の悪い、嘲るような笑い声が、低く、しかし明確に響き渡った。

「本当に、もう一眠りしないのか?」

(このクズ!)

沙織によって、部屋のドアは乱暴に、そして激しい音を立てて閉められた。 その最後の力は、まるで男の顔に直接叩きつけるかのような、痛ましいほどの怒りを帯びていた。

しかし、沙織は気づかなかった。 その背後で、男が彼女に送る視線が、狂気にも似た、深い独占欲を宿していたことを。

ホテルのロビーに設置された大型液晶テレビからは、リアルタイムのニュースがけたたましく流れていた。

「京州の名家が絡む縁談にスキャンダル。 松本家の御曹司、結婚を強要されたか。 婚約の席で不機嫌なまま退席。 宮沢家の令嬢、ぬか喜びに終わる」

「松本家の御曹司は、宮沢家の令嬢の姉と親密な関係にあるという噂も。 姉は前妻の子だが、母親が宮沢家の当主のベッドに返り咲いたからな。 姉妹で嫁が入れ替わる可能性もある」

画面に映し出された女は、まさしく沙織と同じ赤いミニドレスを身につけ、その髪には、祝祭の残骸のようなクラッカーの紙吹雪が点々と絡みついていた。 幸福の象徴であったはずの笑顔は、顔に張り付いたまま硬直しており、無慈悲なカメラによって醜く、そして無残に拡大されていた。

一夜の情事の後、沙織の心は、意外なほど引き裂かれるような痛みを感じていなかった。

これまでの私は、松本海斗という男に、あまりにも執着しすぎていた。 制服姿の学生時代から、共にウェディングドレスを夢見たあの頃まで――そんな、強固な愛だと信じていたからこそ、私は彼にここまで無残に踏みにじられたのだ。

彼以外にも、私を心ゆくまで満足させてくれる男は、きっと存在する。

例えば、昨夜の――底なしの体力で、三百ラウンドでも戦い続けられそうなあの男のように。

3

「こんにちは、チェックアウトをお願いします」

フロントの二人のスタッフは、まさにその噂話に花を咲かせ、興奮気味に言葉を交わしていたところだった。 顔を上げた瞬間、動画で見たのと寸分違わぬ、あまりにも鮮烈な顔が目の前に現れ、弾んでいた会話は、まるで堰を切られたかのようにぴたりと止まった。

彼らの顔には、引きつったような、気まずい笑みが浮かんだ。

一人は思わず俯き込み、スマートフォンで動画を再確認した。 目の前に立つ息を呑むほど華やかな女性と、画面の中の姿を交互に見比べながら、その視線は羨望と好奇を宿し、顔から首筋へと滑るように移っていった。 ぎこちない手つきでチェックアウトの手続きが終えられた。

沙織は車に身を滑り込ませ、家路についた。 フロントスタッフが見せたあの奇妙な視線の意味を反芻するうち、胸の奥で、漠然とした予感がざわめいた。

バッグから鏡を取り出すと、目に飛び込んできたのは、くっきりと残されたキスマークだった。 あまりにも生々しく、熱を帯びたその痕跡に、沙織は思わず息を呑んだ。

彼女はファンデーションを取り出し、その痕跡のある部分を隠すように丁寧に塗り重ねていった。

あの男は、一体どうしてあれほどまでに体力があるのだろう。

まるで疲労というものを知らないかのようだ。

些細な交通事故が縁で出会い、そして熱に浮かされた一夜を過ごしたことを、沙織はふと思い出し、自嘲するように小さく苦笑を漏らした。

三十分後、沙織のスポーツカーが宮沢家の別荘の敷地へと滑り込んでいった。 ほぼ同時に、もう一台の黒いカイエンも、その後を追うように続いて進入し、二台はあたかも示し合わせたかのように並び、静かにその動きを止めた。

車のドアが開き、松本海斗は宝物を扱うかのように宮沢雪乃を車から降ろした。 顔を上げた海斗が、そこに沙織の姿を認めると、その表情は瞬時に硬く険しいものへと変わった。

「雪乃を刺激するな。 話があるなら、後で改めて聞く」

その声は、昔と変わらぬ、静かでいて抑圧的な響きを湛えていた。 生理中にアイスを食べるな、スカートで学校に行くな、とまるで自分の所有物であるかのように沙織を支配していた頃の、あの耳障りな響きと寸分違わなかった。

かつて、沙織はこの海斗を心底、愛していた。

だが、今となっては、ただただ忌々しい吐き気しか感じない。

「ちょうどいいところに来たわ。 婚約を解消しましょう」沙織は、一切の迷いを含まない声で言い放った。

沙織は背筋を伸ばし、凛と立っていた。 陽光の下、雪のような白い肌が淡く輝きを放ち、その絶世の美貌は、言葉を失うほどの艶やかさを帯びていた。

海斗は一瞬、呆然と立ち尽くしたが、ふと沙織の首筋にびっしりと刻みつけられたキスマークに気づくと、その双眸は見る間に血走り、怒りに燃え上がった。

海斗は雪乃の手を突き放すように離し、怒りに任せて三歩で駆け寄ると、沙織の手首を掴んだ。 その力は、骨が砕け散るのではないかと錯覚するほどだった。

「昨夜、何をしていた!?誰に触られたんだ!?」

その表情は、まさに浮気現場を押さえつけた夫そのものだった。

なんて皮肉なことだろう。

「離して」 沙織の瞳は、 氷のように冷たい光を宿していた。

「俺がお前を甘やかしすぎたから、こんなに好き勝手振る舞うようになったんだな。 まさか、他の男にその首筋を触れさせるなどと」 海斗は、沙織が自分を裏切るなどとは微塵も疑っていなかった。 これは沙織が自分を刺激するために、わざと痕跡をつけたのだと、そう思い込んでいた。

沙織は振りほどこうともせず、ふと、冷ややかに唇の端を吊り上げてみせた。

「首筋だけじゃないわ。 全身よ。 彼は私を全身で熱く抱きしめながら、何度も何度も『私の愛しい人』と囁いてくれた。 それはもう、情熱的な夜だったわ」

海斗の表情は見る見るうちに青ざめ、掴んでいた沙織の手首から、無意識のうちに力が抜けた。

「……この件は、俺からちゃんと説明できる。 雪乃を刺激するな」海斗の声には、動揺がにじんでいた。

やはり、あの動画の存在を知っていたのだ。

なんて手の込んだ、悪趣味な遊び方をしているのだろう。

沙織は怒りがついに頂点に達し、海斗の頬に鋭い音を立てて平手打ちを食らわせた。

「何をするの!?」宮沢雪乃が甲高い悲鳴を上げ、慌てふためいて駆け寄ると、沙織の腰に抱きつき、そのまま二歩ほど後ろへ押しやった。 「私が海斗さんを好きなの。 私が彼にまとわりついているのよ。 彼はあなたにだってあんなに優しくしてくれたのに、どうして海斗さんを叩けるの!?」

すすり泣きながら情熱的に訴えかけるその声は、一転して沙織の耳元で、低く抑えられた陰湿な嘲笑へと変わった。

「結婚式で捨てられる気分はどう? 私は手首をちょっと切っただけなのに、 海斗さんはすごく心配してくれて、 私を抱きしめ、 長い間、 熱いキスをくれたわ……」

毒蛇に絡みつかれるような冷たく不快な感覚に、沙織は堪えがたい嫌悪感に襲われ、思わず雪乃を突き放そうと手を伸ばした。 その手が雪乃の腕に触れた途端、彼女は甲高い悲鳴を上げ、まるで吹き飛ばされたかのように、無様に地面に崩れ落ちた。

「宮沢沙織!」海斗の声が、怒りに震えていた。

海斗は怒りで顔を真っ青にしながら、素早く雪乃を抱き起こした。 「謝れ!すぐに雪乃に謝るんだ!」

「海斗お兄ちゃん、そんなに怒らないで……」雪乃は、沙織を指さす海斗の大きな手を、そっと握りしめた。 情愛に満ちた、しかし哀れで傷ついた響きを帯びた声で、か細く続けた。 「私が悪いのよ。 人の婚約者を好きになった私が。沙織がどんなに怒ったって当然だわ。私が我慢すれば、それでいいだけだから……」

その弱々しい姿は、確かに海斗の心を深く揺さぶっていた。 「雪乃、泣かないでくれ」海斗は、優しく雪乃を抱きしめた。 --- **潤色後文字数チェック:**

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婚約破棄当日、彼女は帝都の御曹司の禁断の花嫁となった

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