話 2
翌日、陸承淵はいつものように後ろから私を抱きしめ、私の頭頂部に顎を乗せた。
「今日は俺たちの結婚3周年記念日だ。仕事を全部キャンセルして、一日中君と過ごすよ」
彼は相変わらず優しい声で言った。
私は悟られないように彼を押し返したが、提案自体は断らなかった。
離婚のことは、すでに弁護士に協議書の作成を依頼してある。
これが彼と過ごす最後の記念日だ。離婚前の最後の晩餐だと思えばいい。
それに、ここを去る前に余計な波風は立てたくなかった。
夜、私は陸承淵の腕を組んでオークション会場に入った。
私は相変わらず目元が隠れるほどの重い前髪に、顔中のそばかすメイク、サイズの合わない暗い色のドレス姿だった。堂々とした陸承淵の隣に立つと、まるで垢抜けない田舎娘だ。
周りのセレブたちの軽蔑と嘲笑の視線が、隠すことなく私に突き刺さる。
陸承淵はいつものように私の手をぎゅっと握り、小声で慰めた。「周りの目なんて気にするな。君は俺、陸承淵の妻なんだから」
昨日までなら、私はボロボロ泣くほど感動していただろう。
でも今は、ただ吐き気がするだけだ。
この深い愛情の演技は、誰に見せるためのものなのか。
道具である私への罪滅ぼし?
それとも私をなだめすかして、これからも大人しく彼のそばで、林若曦との愛の盾になれということか。私は無表情でオークションのカタログをめくり、「深海の心」と名付けられたブルーダイヤのブローチに目を留めた。
デザイナーが沈没船からインスピレーションを得たもので、深海に忘れ去られた愛を意味しているという。
私は言った。「これがいい」
スタート価格は4億円。
陸承淵はためらうことなくパドルを挙げた。
「6億円」
「8億円」
価格はどんどん跳ね上がっていく。
セレブ妻たちが顔を寄せ合い、嫉妬交じりにヒソヒソと囁き合う。
「陸社長は本当に太っ腹ね」
「あんな顔でもあんなに愛されるなんて、なんて運がいいのかしら」
「反対を押し切ってまで結婚したんだから、間違いなく真実の愛よね」
価格が12億円に迫り、会場内で入札する者はいなくなった。
オークショニアが木槌を振り下ろそうとした。 その時、後列から澄んだ女の声が響いた。
「16億円」
会場がどよめいた。
無数の視線が一斉に後ろを向き、白いロングドレスを着た、すっぴんなのに息を呑むほど美しい女に釘付けになった。
その顔を見た瞬間、私は全身が凍りついた。
林若曦だ。
どうして彼女がここに?
陸承淵は彼女を厳重に隠し、公の場には決して出さないようにしていたはずじゃなかったのか。
今こうして堂々と人前に現れたということは、弾除けである私には、もはや利用価値すら残っていないということなのか。
耳元で人々のヒソヒソ話が聞こえる。
「誰よあれ?陸社長の奥さんに張り合うなんて」
「見たことないわね。どこの成金?」
「いい度胸してるわ。陸社長の身内贔屓は有名よ。あんなの怒らせたら、あの女、タダじゃ済まないわよ」
皆、陸承淵が怒り出し、さらに高い金額を提示して相手に赤っ恥をかかせるのを待っていた。
私も陸承淵をじっと見つめた。少なくとも表向きは、私が彼の妻なのだから……
しかし、陸承淵は涼しい顔をして手元のパドルを下ろしたのだ。
彼は身を乗り出して顔を近づけ、優しい声で言い訳をした。「清顔、このブローチはデザインが派手すぎて、君にはあまり似合わないよ。 この後ルビーのジュエリーセットが出るから、そっちの方が君の肌に合うと思う」
カタログを握る指先が白くなるほど力が入り、心の底に苦いものが広がった。
やっぱり。林若曦が現れた瞬間から、このブローチは私のものにはならないと分かっていた。
さっきまで淡い期待を抱いていた自分が馬鹿みたいだ。
陸承淵がパドルを下ろした瞬間、林若曦は勝ち誇ったように微笑み、見覚えのあるブラックカードを掲げて、オークショニアに支払いの合図をした。
周囲が呆気にとられて静まり返った後、あちこちから嘲笑が漏れた。
誰も面と向かって笑う勇気はなかったが、その表情は明らかに「陸社長の愛もコスパ重視なのね」と物語っていた。
彼のあの愛情たっぷりの顔を見ていると、胃液が込み上げてきた。
本当にご苦労なことだ。名演技すぎる。
私は黙ったまま、陸承淵と林若曦に交互に視線をやった。
2人は十数列の座席越しに視線を交わしている。
一人は必死に感情を抑え込み、もう一人は寵愛を盾にふんぞり返っている。
オークションがお開きになった。
パーティー会場で、林若曦はシャンパングラスを手に、まっすぐ私たちの方へ歩いてきた。
「陸奥様、ごめんなさいね。横取りしちゃって」
彼女は手にしたベルベットの箱を揺らしながら、甘ったるい声で言った。「でも私の旦那様、すごく優しくて。私の好きなものなら、いくらでもカードを切っていいって言ってくれるの。 女の子だもん、やっぱり甘やかされないとね」
こんなあからさまな挑発を受ければ、愛妻家で有名な陸承淵は今度こそブチ切れるだろうと皆が思った。
皆、陸承淵がこの身の程知らずの小娘を追い出すのを見ようと待ち構えていた。
ところが、陸承淵は眉をひそめ、ただ一言警告しただけだった。「いい加減にしろ」
そして私を抱き寄せて、その場を立ち去ろうとした。
陸承淵はやはり彼女を深く愛している。演技であっても、彼女にきつい言葉をかけることすらできないのだ。
でも私は、彼の思い通りにはさせない。
私はくるりと向き直り、林若曦の勝ち誇った視線を受け止めて、静かに言った。「本当に綺麗よね。でも……」
私は彼女の手から箱をひったくり、ブルーダイヤのブローチを取り出した。
完璧にカットされたダイヤが、シャンデリアの光を反射してまぶしく輝いている。
パッと手を離す。
そのとんでもない値段のブルーダイヤは、大理石の床に叩きつけられ、真っ二つに割れて光を失った。
周囲から一斉に息を呑む音が響いた。
「あら、手が滑っちゃった」パンパンと手を払い、床の砕けたダイヤと、林若曦の青ざめた顔を交互に見て続けた。「品質も大したことないわね。16億円も出してこんな壊れやすいものを買うなんて、損したわ」
「でも林さんの旦那様はあんなに優しいんだから、また新しいのを買ってくれるわよね? どうせカードを切るだけなんだし、痛くも痒くもないでしょ」
林若曦は怒りで全身を震わせていた。
陸承淵が一歩前に出て、声を殺して私を叱責した。「清顔、ふざけるな!他人の物を壊したら弁償しなきゃならないんだぞ」
弁償?
あなたのメインカードで、あなたの家族カードに弁償するってこと?私は彼を無視して、出口に向かって歩き出した。
林若曦は納得がいかず、追いかけてきて廊下で私を引き止めた。「蘇清顔、待ちなさいよ!」
彼女は私の鼻先を指差して罵倒した。「あんた何様のつもり? 私が誰だか分かってるの?」
私は平坦な声で答えた。「ただの日陰の女でしょ?」
私の言葉を聞いて彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに鼻で笑った。「なんだ、私と承淵のこと知ってたの? よくもまあ私の前でそんなデカい口叩けるわね。あんたなんて、ただの醜くて馬鹿な当て馬でしょ!」
当て馬!その言葉が私の胸を激しくえぐった。
私が顔面蒼白になるのを見て、林若曦はさらに勝ち誇った。「承淵が本当にあんたを愛してると思ってたの? 夢見ないでよ!あんたはただの弾除け。彼はあんたに触れるのも気持ち悪がってたわ!」
その言葉が、ずっと押さえ込んでいた私の怒りに完全に火をつけた。
私は手を振り上げ、彼女の頬を思い切りひっぱたいて、冷笑しながら言った。「当て馬でも、私は3年間『陸奥様』って呼ばれ続けてきたわ。あなたは?公の場で認められたことすら一度もないでしょ?」
「蘇清顔、よくも殴ったわね!」
林若曦はビンタされて一瞬呆然としていたが、我に返ると狂ったように殴りかかってきた。
揉み合っているうちに、すぐ近くでコントロールを失った黒い乗用車が、私たちに向かって一直線に突っ込んでくるのに誰も気づかなかった。
「危ない!」焦った男の声が背後から響いた。
私たちがハッと振り返った時、暴走した車はすでに目の前まで迫っていた。
死の恐怖が瞬間的に私を包み込んだ。
まさにその一瞬、陸承淵が飛んでくるのが見えた。
彼は一切の迷いなく林若曦に飛びつき、自分の体で彼女をしっかりと庇って、脇へ転がった。
そして私は、車に激しく撥ね飛ばされ、冷たい地面に叩きつけられた。
足から激痛が走ったが、感覚がなかった。
私はただ、少し離れたところで陸承淵が必死に林若曦の様子を確認しているのを見つめていた。
彼は何度も聞いていた。「若曦、大丈夫か?どこか怪我してないか?」
彼はただの一度も、私の方を振り返ろうとしなかった。
その瞬間、私の心に残っていたわずかな愛も、滑稽なまでの期待も、粉々に砕け散り、完全に消え失せた。
話 3
消毒液の匂いが鼻をつき、私は目を覚ました。
脚にはギプスが巻かれ、宙に吊られていた。少し動かすだけで、骨の髄まで響くような激痛が走る。
病室には誰もいなかった。
薬を替えに来た見回りの看護師が、陸承淵は下の階で林若曦の精密検査に付き添っていると、何気なく教えてくれた。
私は天井の蛍光灯をじっと見つめた。乾いた目がヒリヒリと痛む。
どれくらい時間が経っただろうか。病室のドアが開いた。
林若曦だった。
彼女の後ろには、ガラの悪いチンピラ風の男たちが数人続いている。
林若曦はベッドに近づき、腕を組んで私を見下ろした。「蘇清顔、あんたもしぶといわね」
私は彼女を見るのも億劫だった。「出て行って」
彼女は鼻で笑うと、首を傾げて後ろの男たちに合図を送った。 「相変わらず減らず口を叩くのね。陸夫人にマナーを教えてあげて」
1人の男がすぐに歩み寄り、私の顔めがけて腕を振り上げた。
私が首を逸らして避けると、その平手打ちは枕に落ちた。
男は下品に笑い、私の髪を掴もうと手を伸ばした。「おっ、いっちょ前に避けやがって」
別のタトゥーを入れた男が一歩前に出て、私の病衣の襟元を乱暴に引っ張った。
「ツラはイマイチだが、スタイルはまあまあだな。俺たちが今日、たっぷり可愛がってやるよ」
私は必死に抵抗した。しかし、脚のギプスのせいで逃げ場はどこにもない。
林若曦は傍らに立ち、腕を組んだまま、私の無様な姿を特等席で見物していた。
絶望の中、サイドテーブルの上を闇雲に探っていた私の手に、冷たくて硬いものが触れた。
ガラスの花瓶だった。
私はありったけの力を振り絞り、その花瓶を掴むと、私の服を引き裂こうとしている男の頭めがけて力いっぱい叩きつけた。
男は悲鳴を上げ、頭を押さえて倒れ込んだ。指の隙間から鮮血が流れ落ちる。
その時、病室のドアが勢いよく開け放たれた。
陸承淵が入り口に立っていた。彼の視線は、散乱した室内、頭を押さえて呻くチンピラをなめ回し、最後に私の乱れた襟元へと落ちた。
林若曦の反応は早かった。彼女はすぐに目を潤ませ、彼の胸に飛び込んだ。「承淵!私、清顔さんの様子を見に来ただけなのに、彼女ったら私を見るなり急に発狂して暴れ出したの。まるで打ち合わせでもしてたみたいに……」
陸承淵は、床で頭から血を流している男を一瞥し、再び私に目を向けた。
「清顔、君はどうしてこんな風になってしまったんだ?」
彼の声は低く、深い疲労感が滲んでいた。「私が林さんの擦り傷の手当てに付き添っただけで、こんな連中を雇って自作自演の被害者ぶるのか?」
彼は私が芝居をしていると本気で思っているのか。
私は愕然とし、目の奥が熱くなった。
普段の彼なら、少し考えればすぐに真相に辿り着くはずだ。それほど賢く鋭い人なのに。林若曦が絡むと、彼は何も疑わなくなる。彼女の言うことなら何でも信じ込んでしまうのだ。
彼の偽善はとっくに気付いていたし、彼の心に別の女がいる事実も受け入れていたつもりだった。それでも、これほど露骨なえこひいきを目の当たりにすると、やはり惨めさと苦しさがこみ上げてくる。
私が黙っているのを見て、陸承淵はさらに声を低くした。「清顔、事故のことで私を恨んでいるのか?」
「あの時は状況が緊迫していて、私はただ、一瞬人違いをしただけだ」
人違い?
名前を呼んだのも間違えたとでも言うの?
私は声を出して笑った。しかし、涙は制御不能なほど溢れ出てくる。
「陸承淵、人命救助の時も節穴だったみたいだけど、今も目が節穴なの? こいつらが私に何をしようとしていたか、見えないの?」
彼は眉をひそめ、ひどく失望したような声を出した。「いい加減にしろ! 証拠も証人も揃っているんだ。今回はやりすぎだ。これ以上、君を甘やかすわけにはいかない。 傷害事件となれば、私にも君を庇いきれない。少し頭を冷やしてこい」
彼は振り返って助手に通報を命じると、最後まで私を一瞥することもなく、その場を立ち去った。
林若曦が振り向きざまに私に向けた視線は、明確な挑発だった。自業自得だ、とでも言いたげに。
警察の到着は早かった。
傷害の容疑で、私はその場で連行され、留置場に入れられた。
3日間、72時間。
薄暗く湿った部屋には、汗とアンモニア臭が入り混じった悪臭が立ち込めていた。
同室の女囚たちは、病衣姿の私を見て妙に興奮していた。
彼女たちは私の髪を掴み、悪臭を放つ便器に私の顔を押し付け、その無様な姿を笑いながら弄んだ。
「自分の旦那にブチ込まれたらしいじゃん?」
「こんなブスじゃ、そりゃ捨てもするわな」
容赦ない暴力が身体に降り注ぐ。古い傷の上に新しい傷が重なり、脚のギプスは砕け、傷口は化膿して膿んだ。
私は高熱を出し、全身が火のように熱くなった。それでも、一滴の涙もこぼさず、命乞いもしなかった。
ただ、殴られる合間に、陸承淵に嫁いでの3年間を何度も何度も思い返していた。
飲み会で私の代わりに強い酒を飲んでくれたこと。深夜のキッチンで不器用にお粥を作ってくれたこと。「俺にとっては君が一番だ」という甘い誓い。
今となっては、すべてが最悪の皮肉にしか思えなかった。
私の彼への愛は、尊厳とともに、この3日間の地獄の中で完全に粉砕され、跡形もなく消え去った。
留置場を出た日、太陽の光がひどく眩しかった。
少し離れた場所に、陸承淵の車が停まっているのが見えた。
私はそちらへは向かわなかった。
スマホを取り出し、彼に電話をかけた。
自分の声はひどく掠れていた。『陸承淵、離婚しましょう』
電話の向こうで数秒の沈黙があった後、怒りを孕んだ彼の声が響いた。『蘇清顔、いい加減にしろ。まだ喚くつもりか?』
『喚いてなんかない』
私は淡々と答えた。『離婚協議書は、弁護士から送らせるわ』
それだけ言って、私は一方的に電話を切った。
陸承淵がいつ本性を現すつもりだったのかは知らないが、もう彼の茶番に付き合う気はなかった。
彼がサインしないなら、裁判を起こしてでも離婚する。
しかし、事情を聞いた弁護士は顔を曇らせた。「奥様。都内における陸社長の絶大な権力は、あなたが一番ご存知でしょう。 彼を相手に裁判を起こしても、勝てる見込みは万に一つもありません」
私はその場で立ち尽くした。
どうやらこのゲームには、私から終わりを告げる権利すらないらしい。
交差点に立ち、行き交う車の波を眺めながら、私は完全な八方塞がりを感じていた。
結局、私は永遠にかけることはないと思っていた番号を呼び出した。
すぐに、電話の向こうから威厳のある低い声が聞こえてきた。『清顔か?』
私は目を閉じ、ついに堪えきれなくなった涙をこぼした。 『お父さん。私が間違ってたわ。……家に、帰りたい』
『ああ』
電話の向こうの声には、一糸の迷いもなかった。『待っていなさい。 3日後、お父さんが迎えに行ってやる』