話 1
藤堂柚月は、心を込めて選んだプレゼントを抱え、藤堂森の誕生日パーティーへ向かった。
玄関に着いた、その瞬間——中から声が漏れ聞こえてきた。
「森、鈴木桜戻ってきたなら、これでやっとゴールインだな…… でもさ、家にいるあの子、気が強いだろ。もし反対されたらどうする?」
一枚のガラス越しに、薄暗い照明が揺れている。森の表情は見えない。ただ、淡々とした声だけが届いた。「ただの子どもだ。いちいち相手にする必要はない」
「柚月は確かにまだ若いけどさ……彼女がずっと君を好きだったこと、知らない奴はいないんだ。 あれだけ長い間、まったく心は動かなかったのか?」
佐藤和希のその一言に、柚月の胸がいきなりぎゅっと締めつけられた。息をするのも忘れる。
——知りたかった。彼は、自分に対して、果たして一度でも心を動かしたことがあったのだろうか。
リビングの中央、ソファに身を預けた男は、どこか気怠げに座っていた。全身から、成熟した大人の男の落ち着いた空気が漂っている。 彼はわずかに間を置き、低く冷たい声で言った。「……あの子が幼いのは仕方ない。だからこそ、これ以上、冗談にするな。柚月は俺にとって姪だ。それ以上でも以下でもない。俺が彼女を好きになることは、永遠にない」
——俺が彼女を好きになることは、永遠にない。
その言葉は、鋭い刃のように、容赦なく柚月の心臓を貫いた。
室内の誰も、扉の外に立つ存在には気づいていない。笑い混じりの声が、無神経に続く。「はいはいはい。森にとって最高の初恋の女神は桜だもんな。何人の柚月を集めたって、あの人一人にはかなわないって」
森は淡々と「……ああ」とだけ応じ、続けて言った。「あとで、桜の前で柚月の話はするな。変に誤解されると困る」
「俺たちがわざわざ言わなくてもだろ」
和希は意味ありげにため息をついた。「あの子の性格だぞ。君が他の女と一緒にいるなんて、黙って許すわけがない」
「だよな」 隣にいた仲間も調子に乗って口を挟み、笑いながらからかう。「そういえばさ、柚月ももう二十歳だろ? いっそ柚月を愛人ってことにすればいい。家には柚月、外には桜。あの子の立場と、お前を好きな気持ちを考えたら、拒まないはずだ」
言い終える前に、森の冷えきった視線が、その男を射抜いた。
「……ふざけたことを言うな」 低く、はっきりとした声だった。「俺は、あの子が可哀想だったから、兄に引き取らせただけだ」
「俺の心にいるのは、桜だけだ。……気持ち悪いことを言うな」
「……っ」
——その瞬間。扉の向こうで、柚月の手がドアノブを強く握りしめられた。息が、詰まる。
——そうか。自分の気持ちは、気持ち悪いものだったのだ。
さっきまで、彼女はそのまま扉を押し開けるつもりだった。けれど今は、身体から力が抜け落ちたようで、言葉ひとつ、口にする気にもなれなかった。
柚月は視線を落とし、込み上げてくる涙を必死に堪える。そして、何も言わないまま、踵を返した。
外は薄暗い通り。人影は、どこにもなかった。
その会員制のプライベートクラブは、人目につかない川沿いに建っており、“極端なまでの私密性”で知られていた。そのせいで、周囲にはタクシー一台すら見当たらない。
柚月は手にした誕生日プレゼントを強く握りしめ、足早に歩き続ける。
先ほど耳にした言葉が、ひとつひとつ、頭の中で繰り返された。
……じゃあ、私は今まで一体、何を諦めきれずにいたの?
柚月よ……あんた、そんなに卑しい女だったのか?
唇の端に、かすかな苦笑が浮かぶ。気づかないうちに、涙が地面に落ちていた。音もなく、誰にも知られずに。
前方には、十字に分かれた交差点。通り過ぎる車のハイビームが、真正面から差し込み、目が焼けるように痛んだ。——その瞬間だった。柚月の指先が、ふっと力を失う。
手の中から、誕生日プレゼントが落ちた。鈍い音を立てて、アスファルトの上に転がる。
ボーナスを使って買ったカフスだった。決して安いものではない。
……けれど、もうどうでもよかった。
柚月は大きく息を吸い込み、スマートフォンを取り出す。迷いなく、一つの番号を押した。
「……二階堂宗介。前に言ってた話、受けるわ。あなたと、結婚する」
宗介は柚月より五つ年上で、かつては藤堂家の隣に住んでいた幼なじみだった。二人は同じ時間を過ごして育ったが、彼は高校卒業と同時に海外へ渡り、帰国したのはつい最近のことだ。
宗介はいま、北城に腰を落ち着けている。時間を作って柚月に会いに来たのは、一度きりだった。そのときの会話は、ほとんどが国内の結婚事情についての愚痴だった。言葉の端々から伝わってきたのは、避けようのない“結婚への圧力”。
「柚月。俺にしても、君にしても、最後はどうせ政略結婚だ。親は、俺たちが幸せかどうかなんて気にしない。彼らにとって大事なのは、“結婚した”という事実だけなんだ」
そして、少し肩をすくめるように、こう続けた。「どうせ結婚するなら、一緒にいて楽な相手を選んだほうがいいだろ。 ……いっそ、俺たちで結婚しないか?」
そのときの柚月は、思わず笑ってしまった。あまりにも現実的で、どこか冗談めいて聞こえたからだ。
けれど今となって見ると——悪くない話だった。
柚月はふと振り返る。背後の建物でネオンがきらびやかに瞬いている。まるで、かつて自分が、あの人に向けて抱いていた想いのように。
「……どうせ、互いのことはよく知ってるし。他人と無理に合わせるより、ずっといいと思う」 そう言って、静かに続けた。「もし、あなたのご両親に急かされているなら……早めに話を進めてもいい」
電話の向こうで、男は柚月がこれほどあっさりと同意するとは予想だにしなかった。思わず言葉を失い、二秒ほど沈黙した。やがて低く、掠れた声が返ってくる。「……わかった。いつ、迎えに行けばいい?」
柚月は視線を落とす。ちょうど足元には、地面に置かれたままのギフトバッグがあった。「インターンのことを整理してから。……そんなに時間はかからない」
宗介と結婚することを決めた以上、インターン先を海城にこだわる理由も、もうなかった。
通話を終えたあと、柚月はしばらく歩き続け、ようやくタクシーを捕まえて、南湾別荘へと戻った。
南湾別荘は市の中心部にあり、立地としては申し分ない。かつて暮らしていた家からも、五キロと離れていない。……もっとも、そこにはもう、何も残っていないのだけれど。
柚月が九歳のとき、家族の会社は倒産した。莫大な借金を背負い、両親は、揃って命を絶った。家は火に包まれ、跡形もなく焼け落ちた。
正気を失った債権者たちは、幼い柚月にまで手を伸ばそうとした。
——そのとき、彼女を連れ出したのが、森だった。
当時、彼はまだ十七歳。それでも、はっきりとした口調で藤堂明に言い切った。「俺は未成年だし、結婚もしてない。養子の手続きはできない。だから兄貴が引き取ってくれ。……柚月の将来は、俺が責任を持つ」
その言葉通り、森は約束を守った。彼女に、最良の生活を与え、十数年にわたって、変わらず大切にしてきた。過剰なほどに、丁寧に、細やかに。
ただひとつ——彼は、柚月の前では一貫して、自分を「叔父」だと名乗った。けれど柚月は、一度も、彼をそう呼んだことはなかった。
柚月はずっと、自分は森と一緒になる存在なのだと、疑いもせずに信じていた。
だから十八歳になったその日、彼女は、迷うことなく想いを告げたのだ。
だが、森は彼女を厳しく叱責した。ろくなことを学ばないこと、年の差が大きすぎること、、そして——自分はあくまで、彼女の「叔父」でしかあり得ないのだと。
そう言い切りながら——彼は同時に、柚月のそばに近づく異性を、一切許さなかった。
柚月は、それを“嫉妬”だと思った。そして、彼が自分のことをまだ子供だから嫌っているのだと、そう思い込んでいた。
——だったら、待っていればいい。大人になれば、きっと。
車窓の外を流れていく夜景を眺めながら、柚月はいつの間にか、記憶の奥へ沈んでいった。視界が、にじむ。……なるほど。成長しても、意味はなかった。
——好きじゃない、という感情は、こんなにも重たいものなのだ。
だったら。——藤堂森。
あなたを自由にしてあげる。
目的地に着くと、柚月はそっと涙を拭った。すべての感情を胸の奥に押し込み、何事もなかったかのように、部屋へ上がる。シャワーを浴び、そのままベッドに身を沈めた。
今夜は眠れないだろうと思っていた。けれど、意外にも、眠りはすぐに訪れた。翌朝。——カン、カン、と。何かがぶつかる音で、柚月は目を覚ました。
身支度を整えて階下へ降りると、キッチンからは、さらに賑やかな物音が聞こえてくる。
大きくあくびをしながら、そちらへ向かい、声をかけた。「小林さん、こんなに早くから……」
言葉の途中で、キッチンに立つ人影が、視界に入った。
白いワンピースに身を包み、ウエストには生成り色のエプロンを結んでいる。その細い腰のラインが、はっきりと浮かび上がっていた。長い髪は、バンスクリップで後ろにまとめられている。
彼女こそが……
森の忘れられない人ーー元恋人。
鈴木桜。
「柚月、起きたの?」桜は振り返り、にこやかに微笑んだ。「朝ごはんを作ってから、起こしに行こうと思ってたの。でも、思ったより早かったね」
……この騒がしさで目が覚めないほうが、よほど耳に問題がある。
柚月は胸に溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出した。なんとか口元に笑みを作り、問いかける。「……どうして、ここに?」
桜は口元を軽く押さえ、少し照れたように言った。「昨日ね……森、飲みすぎちゃって。私が送ってきて、お風呂に入れて、着替えさせたの。あなたが一人だって聞いてたから、じゃあ、朝ごはんでも一緒にって思って」
——つまり。昨夜、二人はここに泊まった、ということだ。
柚月が必死に保っていた礼儀が、少しずつ崩れ始める。声は、わずかに低くなった。「……私は、あなたに朝ごはんを作ってもらう必要はないわ」
そのとき。背後から、冷えた男の声が落ちてきた。「柚月。そんな言い方を、誰に教わった? ……謝れ!」
話 2
柚月は背筋を強張らせたまま、しばらくしてから、ゆっくりと振り返った。
森は、ちょうどシャワーを浴び終えたところだった。半乾きの髪から、水滴がぽたぽたと落ちている。身にまとっているのは、濃いグレーの部屋着だけ。それでも、その立ち姿は相変わらず凛としている。 ——あの険しい表情さえなければ。誰の目にも、理想の男に映っただろう。
柚月は唇をきゅっと結び、視線を逸らしたまま、何も言わない。
その様子を、桜の視線が行き来する。彼女はわざとらしく少しだけ眉をひそめ、森の腕にそっと絡みついた。「そんなに怖い顔しなくてもいいでしょ?」
軽くたしなめるように、けれど甘えるような声。「柚月、起きたばかりなんだから。寝起きで機嫌が悪いのは、よくあることよ。……あなたも、普段は彼女以上に気が強いじゃない」
叱る口調でありながら、むしろ甘えているように聞こえる。
柚月の顔から、血の気が引いていく。自分が、ここにいるだけで余分な存在に思えた。
森の表情は、まだ硬い。だが先ほどほどの冷たい圧は、確かに和らいでいた。 彼は、宥めるように桜の肩を二度ほど軽く叩き、低い声で柚月に言う。「……書斎に来い」
柚月は唇を噛み、何も答えずに、黙って彼の背中についていく。
背後から、桜の少し心配そうな声が届いた。「年長者なんだからって、あんまり厳しくしすぎないでね。ちゃんと、落ち着いて話してあげて」
「……」
——まだ結婚もしていないのに、もう正妻気取りだなんて。
柚月は心の中で冷たく笑った。前を見ずに歩いていたため、前方の男が立ち止まっているのに気づかなかった。次の瞬間、不意にその固い胸板にぶつかった。鼻先に鈍い痛みが走る。
「お前は一日中、頭の中は一体何を考えてるんだ?」
低く、重たい声が降ってくる。柚月が顔を上げると、そこには、冷え切った森の視線があった。
なぜかでしょう——言葉が、口をついて出た。「……私が何を考えてるか、あなた、本当に分からないの?」
たぶん、最後の未練だったのかもしれない。
あるいは、彼の反応を確かめたかっただけ。
森は眉をさらに強く寄せ、しばらく彼女を見下ろしたまま、口を開く。「柚月。俺は前から言ってるだろ。考えるな。分を越えたことだ」そして、淡々と続けた。「お前は、もうすぐ卒業だ。俺が、ちゃんとした相手を用意する。……だが、その相手が俺であることは、絶対にない」
森は、言葉を切り、決定事項のように言い放つ。「俺は、お前の叔父だ。桜は、いずれお前の叔母になる。俺を敬うのと同じように、彼女を敬え。分かったな?」
——それらの言葉は、柚月にとって、初めて聞くものだった。
なるほど。彼は、彼女を好きにならないだけじゃない。——他の誰かを、自分に“あてがう”つもりでいたのだ。
……宗介が言っていた通りだ。柚月は、ゆっくりと息を吐いた。
——ふっ……私は、いったい何を望んでいるっていうの?
もう、決めたはずじゃない。
柚月は深く息を吸い、人を諦めるというのは、思っていたほど、難しいことじゃないのかもしれない。
彼女は素直に頷き、静かに言った。「……分かりました。叔父さま」
「……」
森は、思わず眉を上げた。その反応は、明らかに意外だった。
これまで、柚月が「叔父さん」と呼ぶのは、大きな失敗をして、許しを請うときだけだった。こんな話し合いの場では、彼女はいつも言葉を返し、食い下がってきたはずだ。
本気で心を入れ替えたと思い込んだのか、森の表情がわずかに和らいだ。「……ほら、桜はお前にずいぶん良くしてくれてるだろ。わざわざ朝食まで作ってくれたんだ。あまり敵意を向けるな。な?」
——たとえ彼女が作らなくても、森が用意したはずだ。
そもそも、柚月は、食べるつもりなどなかった。
彼女は何も言わず、もう一度頷く。「分かりました。……叔母さんとは、穏やかに過ごします」
そのあまりに従順な態度に、森は、得体の知れない違和感を覚えた。深い視線が、柚月の顔に落ちる。何か言いかけて、やめて——そして、別の問いを口にした。「……昨夜、どうして来なかった?」
昨日は、彼の二十八歳の誕生日だった。
——柚月は、行った。
ただ、誰にも気づかれなかっただけだ。
彼女は、淡々と答える。「大学で研究会があって、終わるのが遅くなりました。疲れていたので、そのまま帰りました」少し間を置いて、付け加える。「……叔父さん。お誕生日、おめでとうございます」
今の柚月は、ただ一刻も早く、すべてを整理して、彼のそばを離れたいだけだった。余計な波風を立てるつもりはない。だから、これ以上説明する必要もなかった。
森は短く「……ああ」と頷き、少し迷った末に、手を伸ばして柚月の頭を軽く撫でた。「何かあったら、ちゃんと叔父さんに言え。一人で抱え込むな。いいな?」 そう言ってから、続ける。「……朝ごはん、食べてこい」
——こんな場面が、本当に存在するなんて。好きな人と並んで、“恋敵”が作った朝食を口にする瞬間。
柚月は、適当な理由をつけて先に席を立とうかと思った。しかし、ふと思い直す。——森を手放すと決めた以上、こんな光景も、受け入れるべきなのだ
……どうせ、もう長くは続かない。
食事を終えると、森は二階へ着替えに上がった。
柚月も、自室へ戻って身支度をするつもりだった。今日は大学へ行き、北城でのインターンについて、指導教員と相談しなければならない。
「——柚月」
背後から、声がかかった。
振り返ると、キッチンの入り口に立つ女がいる。家事用の手袋をはめ、動きは自然で、どこか優雅。まるで、ここが自分の居場所だと言わんばかりの佇まい。
柚月の胸が、詰まる。表情を変えないまま、問い返した。「……何か?」
「大したことじゃないの。ちょっと、二言ほど話したくて」
桜は柔らかく微笑む。けれど、よく見れば——その笑みは、瞳の奥に届いていなかった。「あなた、昔から成績が良かったって聞いたわ。何度か飛び級もしてるんでしょう?もうすぐ卒業よね……それで、もう決めているの?どこでインターンをするのか」
その声音は穏やかで、あくまで“世間話”のようで。——けれど確かに、線を引こうとする気配があった。
柚月は、わずかに笑った。「……それは、叔母さんの管轄外じゃないですか」
本来なら、森の意向として、彼女のインターン先は藤堂グループの関連会社になるはずだった。 その話を初めて聞いたとき、柚月は嬉しくて仕方がなかった。ようやく、彼と肩を並べて立てるのだと、本気で思ったから。
——けれど、今は。
……もう、どうでもいい。
桜の表情が、一瞬だけ固まる。すぐに取り繕うように、微笑みを作った。「ただ、心配してるだけよ。あなたの叔父さんは男性でしょう?色々と、話しづらいこともあると思って」
——何が話しづらいのだろう。柚月は、そう言いかけて、やめた。子どもの頃から、どんなことでも森に話してきたのだ。
けれど、目の前にいるのは——彼が心の底から愛している女性。
もう、言う必要はなかった。
「……はい。分かりました」
桜の瞳に、わずかな驚きが走る。この子が、こんな反応をするとは思っていなかったのだろう。二秒ほど置いてから、探るような口調で続けた。「でも……もう大人なんだし、叔父さんと一緒に暮らすのは、少し不便じゃない? いっそ、私のところに引っ越してきたら?ちょうど、話し相手も欲しかったの」
その提案は柔らかく、親切心に包まれているようで。——けれど、柚月は知っている。恋愛の中に潜む、数えきれないほどの回り道も、恋愛ドラマに描かれる、静かな駆け引きも。
誇張だと思っていた。けれど、どうやら——事実だったらしい。
桜が望んでいるのは、彼女のそばに柚月を置くことではない。ただ、森のそばから追い出したいだけだ。
喉の奥に、何かが詰まったような感覚がした。棘のように引っかかって、吐き出すことも、飲み込むこともできない。
……それでも。柚月は、結局、堪えきれなかった。二歩、前に出る。桜の目を、まっすぐに見据えて言う。「……それじゃあ、叔母さんのその“ご配慮”に、感謝しなきゃいけないのかしら?」
その瞬間だった。桜の表情がわずかに揺らいだ。まるで——森が纏うあの圧迫感を、直に向けられたかのように。彼女は思わず、二歩、後ずさった。「い、いいえ……そんな、必要ないわ……」
ふいに、視線が背後へ逸れる。そして、柔らかな声で続けた。「柚月。私が、あなたから叔父さんを奪うなんて、思わないで。あなたは、ずっと……彼にとって、大切な存在なんだから——」
その言葉が終わる前に。「——っ!」桜は、引き戸の敷居に足を取られ、大きく体勢を崩した。次の瞬間、後ろへ、強く倒れ込む。
柚月は反射的に、手を伸ばした。だが、その腕を——突如として、強い力が掴み、振り払う。身体が弾かれるように横へ飛び、テーブルの縁に、背中を強く打ちつけた。
森の冷え切った視線が、失望を帯びて、柚月に落とされた。「……柚月。本当に、お前は——大きくなるにつれて、ますます性格が悪くなったな」
話 3
その視線は氷の刃のように冷たく、一目で心臓を貫く鋭さを孕んでいた。柚月は凍りつき、言葉を失った。
さらに、ダイニングテーブルの角に強くぶつけた脇腹は、骨の奥まで響く痛みを訴えていた。それでも柚月は動けず、ただ森が桜をそっと抱き上げ、急ぎ足で部屋を出ていくのを、見送るしかなかった。
そして気づけば、熱い涙が次々と頬を流れ落ち、顔を濡らしていた。柚月は鼻をすすりながら、痛みと絶望に押し潰され、その場から一歩も動けなかった。
やがて数分が過ぎ、玄関のドアがそっと開く音が響いた。
ちょうど掃除に来た家政婦さんだった。
すると家政婦さんは鼻歌まじりにダイニングの入口まで来たが、柚月の姿を見た瞬間に足を止め、驚きと心配が混ざった声で言った。「あら……お嬢様、どうなさいましたの?」 そして続けて、「どうしてそんなに泣いていらっしゃるの?」と問いかけた。
その優しい声を聞いた途端、柚月はもう我慢できず、震える声で必死に言った。「……お願い、助けて。すごく、痛いの」
「……」
そこで家政婦さんはすぐ管理会社の車を手配し、痛みに身を縮める柚月を連れて近くの病院へ向かった。
その後、一通り検査を受けた結果、幸い大きな異常はなく、柚月はようやく小さく息を吐いた。
すると医師は、「しばらくは腰に負担をかけないようにして、薬は決まった時間に塗ってください」と穏やかに告げた。 さらに医師は処方箋を書き終えると注意点をいくつか伝え、柚月のまだ幼さの残る顔を見て、「ひどい痣になるかもしれませんが、時間が経てばだんだん薄くなります。心配はいりませんよ」と慰めた。
それから礼を述べ、柚月と家政婦さんは病院を後にした。
「お嬢様、森様にご連絡を?」
「いいえ、結構です」
今、彼は桜の看病に忙しい。自分のことなど、お構いなしに決まっている。
そうして柚月は皮肉めいた笑みを浮かべ、そっと口元を上げた。そして試しに腰を動かすと先ほどより痛みが軽くなっているのを確かめ、薬を家政婦さんに渡しながら言った。「先に帰って。私は学校に寄ってから戻るから」
それでも家政婦さんは不安そうに柚月を見つめ、「そのお体で、本当に大丈夫ですの?」と念を押した。
「医者も骨に異常はないって言っていたでしょう。だから平気よ、家政婦さん」
その後、柚月はしばらく言い聞かせてようやく家政婦さんを帰らせた。そして一人で車に乗り込むと、胸の奥に言いようのない寂しさがじわりと広がった。
思えば8歳のときから森と暮らしてきた。ずっと守られていると信じて疑わなかったのに、実際に怪我をした今、そばにいたのは家政婦さんだけだった。
それでも柚月は、悲観する必要はないと自分に言い聞かせた。
そもそも人と人の関係は、いつかは別れに行き着くものだから。
だから自分と森の関係も、ただ少しだけ、他の誰より早く終わりを迎えただけなのだ。
いくつかの書類を出し終えると、柚月は先生に向き直り、北城でインターンをするつもりだときっぱり伝えた。
すると先生は目を丸くし、「北城ですって?」と声を上げた。 さらに先生は首を振り、「そんなに遠い場所よ。前は叔父さんと離れたくないから、彼の会社に行くと言っていなかった?」と問い返した。 そのうえで、「それに森さんだって、きっとあなたを心配するわ」と重ねた。
森との間にあった出来事をどう話せばいいのか分からず、柚月は一瞬言葉に詰まった。それから少し考えて、「私と森は血が繋がっていません。これ以上、彼に負担をかけるわけにはいかないんです」と静かに答えた。 そして続けて、「それに、もうすぐ21歳です。だから自立を覚える時期ですし、彼が反対する理由もないはずです」と言い切った。
すると先生はしみじみと頷き、軽く息を吐いた。そして「言わなくても分かるわ。森さんがどれだけあなたを大事にしているか、先生も学生も皆知っているのよ。こんなに成長しても、彼はよく自分で送り迎えをしていたし、他の男の子に取られないか気にしていたでしょう」
それから「でもね、自立するのも悪いことじゃない。外で経験を積んでおいでなさい」と背中を押した。
加えて「あなたの力なら、どこへ行っても道は開ける。先生は応援しているわ」と微笑んだ。
柚月は一つずつ頷き、少し世間話をしてから校舎を後にした。振り返れば、柚月の大学生活は長くはなかったが、それでも森が常に気にかけてくれていたのは事実だった。
とくに大学1年の頃、森は世話をするために学校近くに家まで用意し、自分で料理を作ってくれたことさえあった。
しかし──
それはもう、過ぎ去った昔話だ。
今の彼には、本気で守りたい相手がいる。森はあの女性と一生を共にするのだろう。そう思えば、柚月は彼にとって邪魔な存在なのかもしれなかった。
だからこそ身を引くことが、森への最後の贈り物であり、せめてもの恩返しなのだと柚月は考えた。
そして柚月は、森は今日も桜のそばにいて帰らないだろうと半ば諦めていた。
ところがドアを開けると、ソファに座る背の高い森の姿が目に入った。彼は膝にノートパソコンを置き、仕事をしていた。
物音に気づいた森は顔を上げ、「授業は終わったのか」と低く尋ねた。
柚月は一瞬戸惑ったが、すぐに家政婦さんが学校へ行ったことを伝えたのだと察した。
「ええ」とだけ短く返した。 それから荷物を棚に置きつつ、どうしても気になり、「桜さんは……もう大丈夫なの?」と聞いた。
すると森はわずかに眉を寄せ、あからさまに不快そうに言った。「彼女は君の叔母さんになる人だ。その呼び方は失礼だろう」
また「関係」を突き付けたいのだと悟り、柚月は淡々と「まだ結婚していないでしょう。名前は呼ぶためのものよ」と返した。
森は柚月の言い分にまだ納得していないようだったが、意外なことにそれ以上は何も言わず、不意に話題を変えた。
森は納得していない様子だったが、それ以上追及せず、唐突に話題を変えた。「さっきは焦っていて、力加減を誤った。家政婦さんから、ダイニングテーブルにぶつけたと聞いたが──怪我は重くないのか?」
柚月は体の横で握った拳にぐっと力を込めたが、すぐにその手を緩めた。そして視線を落とし、静かに告げた。「大丈夫です」
しかし森は、その言葉をまるで信じていない様子だった。というのも、家政婦さんの話では、柚月は痛みで泣いていたと聞いていたからだ。
そもそもこの子は昔から我慢強いはずだ。いったいどれほどの怪我なら、あそこまで取り乱すのか──森はそう考えた。
やがて森は眉を強く寄せ、ノートパソコンを静かに置くと、そのまま柚月の前まで歩み寄った。「見せてみろ……」
その手が伸びた瞬間、柚月は思わず大きく一歩、後ろへ下がった。 すると森の節ばった指先は宙で止まり、そのまま固まった。柚月が自分を避けるとは、想像もしていなかったのだ。
「柚月?」
森はゆっくり顔を上げ、どこか複雑な目で彼女を見つめた。
そして「さっきは本当に桜が心配で、君に気が回らなかった。悪かった。許してくれないか」と、素っ気なく言った。
確かにあのとき、森の視界には桜しかいなかった。柚月のことなど目に入っていなかったのだ。その事実に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
それでも柚月は顔を上げずに、抑えた声音で言った。「ちょっとぶつけただけ。桜が転んだ時に比べたら、大したことないわ。あなたは彼女のそばにいてあげて」
「本当に平気なのか?」
「うん」
森は疑うように2秒ほど見つめ、それからようやく息をついた。
この様子なら大事ではないのだろう。もし深刻なら、この子の性格なら今ごろ言い争いになっているはずだ──森はそう判断した。
ちょうど森が何か言いかけたとき、ソファに置いていた携帯が突然鳴り出した。彼はすぐに手に取ると、先ほどまでの冷たさとは別人のような、甘やかな声で言った。「桜、どうした?」
そして「そんなに不注意でどうする。大怪我はしていないのか?」と気遣う声を向けた。
そう言いながら森はソファの上着をつかみ、「すぐ行く」と短く告げた。
そのまま玄関へ向かったが、そこでようやく背後の柚月を思い出し、振り返って言った。「何かあれば電話しろ。大人しくして、勝手に外へ出るなよ」
柚月は、森が家を出て車に乗り込み、エンジン音が次第に遠ざかるまで、黙って見送っていた。
そっと息を吐くと、腰の傷がまたじわりと痛み出した。
そのときバッグの中で携帯が震えた。取り出すと、画面には二階堂宗介の名前が表示されていて、それを見た途端、なぜか鼻の奥がつんとした。
そして柚月は通話ボタンを押した。
気づかないうちに、少し甘えるような声になっていた。『宗介、私……怪我しちゃった』