話 2
ナゾバー。
七海は分厚い黒縁の眼鏡を外し、指先でそっとテーブルに置いた。 その瞬間、まるで封印が解かれたかのように、彼女の瞳に生き生きとした悪戯っぽい光が宿る。
艶やかなウェーブのかかった黒髪、燃えるような赤を引いた唇。
その一つ一つが相まって、蠱惑的な色香を放っていた。 家での地味で退屈な姿の欠片もなく、そこにいたのは全くの別人だった。
「そういえば、来週の射撃大会、行かない?」愛理が持ちかける。
七海は考えるまでもなく首を横に振った。 「行かない。 ブランクが長すぎて、勘も鈍ってる」
「勘なんてどうでもいいじゃない。 気分転換よ」愛理は悪戯っぽく笑いかける。 「あのクソ野郎、西永良陽を的に見立てて、心ゆくまで撃ち抜いてやればいいのよ!」 七海はワインを一口含んだ。
「その提案、悪くないわね」 「でしょ!」愛理は身を乗り出す。
「それにね、四年前、アンタをあと一歩まで追い詰めたライバル『L』も来るらしいわよ。 アンタが引退してから、奴は連覇中。 ここでアンタが返り咲けば、最高のショーになるじゃない!」
興奮冷めやらぬ様子で、愛理はとどめの一撃を放つ。 「今年の優勝賞品、知ってる?世界に一台しかない、特注のブガッティですって!」
彼女はそう言って、大会要項が表示されたスマートフォンの画面を七海に向けた。
七海はそれにざっと目を通す。 この大会には豪華な賞品以外に、もう一つ、観客を沸かせる仕掛けがあった。
参加者全員が仮面をつけ、コードネームで競い合うこと。 そして、優勝者だけが、敗者一人を指名して仮面を外させる権利を持つこと。
「今回参加するなら、 絶対にLの仮面を剥がしてよ。 アンタをあと一歩で倒しそうになった奴がどんな顔してるのか、 すごく気になるの」 と愛理が言った。
「ええ」 七海は赤ワインのグラスを揺らし、口元に微かな笑みを浮かべた。 「やるなら、派手に遊んであげる」
「どう遊ぶつもり?」愛理の好奇心が掻き立てられる。
七海は不敵な笑みを深めた。 「情報を流して。 優勝者は、神医キンの治療を一度受けられる、とね。 神医キンのルールにさえ従えば、いつでも有効だって」
愛理は即座に目を見開いた。 「そんなビッグニュース流したら、参加者が殺到するわ!刺激的すぎる!」
「少し席を外すわ」 七海はそう言って立ち上がった。
トイレへ向かうその僅かな空間を、数人の男たちが壁のように塞ぐ。
「ねーちゃん、一杯どう?」
下卑た笑みを浮かべ、男たちの粘つくような視線が彼女を頭のてっぺんから爪先まで舐め回す。
七海は氷のような表情で、温度のない声を投げつけた。 「失せろ」
「威勢がいいねぇ! ハハッ、 俺好みだ。 そういう女を屈服させるのが好きなんだよ」
「駄犬は道を空けなさい」七海は無表情に言い放つ。
男の一人が口笛を吹き、嘲るように伸ばした手が、七海の胸元を掴もうとした、その刹那――。
七海の堪忍袋の緒が、音もなく切れた。 閃光のような手刀が、男の腕を正確に捉える。
「ぎゃああ!」 手首を砕かれた男が、豚の断末魔のような悲鳴を上げた。
仲間が「てめえ……!」と続く間もなく、七海のしなやかな蹴りが、次々と男たちの体を宙に舞わせる。
ほんの数呼吸の間に、屈強な男たちは床に叩きつけられ、呻き声一つ上げることさえできずに沈黙した。
その一部始終を、二階のボックス席から見下ろす一団がいた。
「うわっ、あの女すげえな。 綺麗だし、俺のタイプだ」
友人の軽薄な声を聞き流し、良陽は階下の女へ何気なく視線を落とした。 大きく波打つ髪、華やかな出で立ち。 だが、その横顔のライン、ふとした瞬間の仕草に、既視感が胸をざわつかせる。 ――まさか。あの地味で退屈だった元妻、七海だというのか?
良陽は深悠を病院へ送った後、彼女の気晴らしに付き合ってこのバーへ来ていた。 こんな場所で、最も会いたくない人間に再会するとは。
「あれ……織田、お姉さん?」隣で深悠が驚きの声を上げた。
「はあ? あれが織田七海? 冗談だろ。 あんなイイ女が、あの所帯じみた主婦のわけない」
良陽の友人たちは、改めて女の姿を凝視し、その立ち振る舞いから放たれる艶めかしい雰囲気が、記憶の中の元妻と重なった瞬間、言葉を失った。
「ふん」良陽の妹、恵瑠が鼻で笑う。 「あんなふしだらな格好、まともな女のすることじゃないわ。 お兄ちゃんに捨てられた途端、男漁り?体を売るしか能がないのよ」
恵瑠の言葉を皮切りに、周りの男たちも嘲りの声を重ねる。
「ビッチってのはこれだからな。 男なしじゃ生きていけないんだろ」
「お前の兄貴が離婚して正解だったな。 ああいう色目を使う女は、平気で亭主を裏切る」
「男に寄生するしか能がないんだ。 一生売女でもやってろってんだ」
下卑た笑い声が飛び交う中、良陽のこめかみに青筋が浮かぶ。 彼は低く、しかし有無を言わせぬ声で一喝した。 「黙れ!」
鋭い視線で一同を黙らせると、良陽は足早に席を立ち、七海のもとへと向かった。
話 3
「お兄ちゃん!」
「良陽お兄ちゃん!」
矢継ぎ早に名を呼びながら、
西永恵瑠と北村深悠が良陽に駆け寄り、 その行く手を阻むように立ちふさがった。
「お兄ちゃん、まさか、あの女のところに行くつもりじゃないでしょうね?」恵瑠は目を丸くし、信じがたいものを見るような眼差しで良陽を問い詰める。
良陽は不快げに眉をひそめた。 「恵瑠、誰にそんな下品な口の利き方を教わった。 西永家の品位を汚す真似はよせ」
「良陽お兄ちゃん、恵瑠ちゃんを怒らないで。 あの子はまだ子供なんだから……もし織田お姉様のことが好きなら、はっきり言って。 私、絶対に邪魔なんてしないから……今すぐ消えるから」
たちまち深悠の瞳が潤み、赤い縁取りが浮かぶ。 彼女は悲痛な面持ちでそっと背を向け、その場を去ろうとした。
「深悠!」良陽は慌ててその細い腕を掴んで引き留める。 「違うんだ、お前が思ってるようなことじゃない。 俺と織田七海はもう何の関係もない。 誤解しないでくれ」
「良陽お兄ちゃん、 本当のことを言って…… まだ織田お姉様のことが心に残ってるの? 私…… 私は大丈夫、 受け入れられるから……」 深悠の声は涙で震えていた。
その痛々しい姿に、良陽は胸が締め付けられる思いがした。 「考えすぎだ。 あいつが自分を安売りするのは勝手だが、俺には関係ない」
「良陽お兄ちゃん、織田お姉様にも何か事情があるのかもしれないわ。 私たちで助けてあげない?」深悠は悲しみを堪えるように、しかし健気な思いやりを滲ませて言った。
良陽は彼女への愛しさを一層募らせる。 「深悠、お前は優しすぎるんだ。 あいつの死活なんて気にするな。 手切れ金は一生遊んで暮らせるほど渡したんだ。 体を売って虚栄心を満たしたいなら、好きにさせればいい」
「でも……」深悠が何かを言いかけた、その時。 不意に、彼女の身体がぐらりと揺れ、か弱く後ろへ倒れかかった。
良陽は目を見開き、とっさにその華奢な身体を抱きとめた。 焦燥に駆られた声で叫ぶ。 「深悠!」
「私……大丈夫……ただここがうるさくて、少しめまいが……個室に戻りましょう……」 深悠はまるで骨がないかのように、ぐったりと彼の腕の中に身を預けた。
「病院であと二日大人しくしてろって言ったのに、聞かないからだ」 良陽の声には、呆れと甘やかしが溶け合っていた。
彼は恵瑠に視線を移す。 「お前、先に深悠を個室に連れて行ってくれ。 俺は化粧室に寄ってからすぐ戻る」
「お兄ちゃん、まさかこっそり織田七海に会いに行くんじゃないでしょうね!」恵瑠が疑いの目を向けた。
良陽が何か言うより早く、深悠が割って入る。 「恵瑠ちゃん、織田お姉様は今、道を踏み迷っていらっしゃるのよ。 良陽お兄ちゃんがこれ以上堕落しないよう説得するのは当然のことだわ。
……それに、織田お姉様は良陽お兄ちゃんの前妻なのよ? 変な噂が立ったら西永家の顔に泥を塗ることになるもの」
「深悠姉さんは優しすぎるよ。 こんな時にまであの女のこ……」 恵瑠ははっと息を呑み、自分を射抜くような良陽の視線に怯え、慌てて言葉を飲み込んだ。
「お兄ちゃん、深悠姉さんの体調、まだ万全じゃないんだから、早く戻ってきてよ!何かあっても私、責任取れないからね!……深悠姉さん、行こう」
そう言うと、恵瑠は深悠の手を引いて歩き出した。
……
化粧室から現れた七海が、 しなやかな手つきで豊かなウェーブヘアをかき上げる。
その何気ない仕草一つが蠱惑的な空気を放ち、 バーにいる男たちの視線を一斉に惹きつけた。
良陽の目に、七海に注がれる男たちの粘つくような視線が映る。 品定めするような、あるいは貪るようなその眼差しに共通するのは、彼女を己の物にしたいという剥き出しの欲望だった。
「織田七海!」良陽は、苛立ちを隠そうともせずに低く叫んだ。
声のした方に視線を向けた七海は、良陽の姿を認めると、唇の端に冷笑を浮かべた。 まるで値踏みでもするかのように、彼の頭のてっぺんからつま先までをゆっくりと目でなぞる。 そして挑発的に片眉を上げ、笑って尋ねた。 「あら、どうしたの?元旦那様。 私に何かご用?」
そのあまりに淡白な口ぶりは、彼への未練など微塵も感じさせない。
その事実が、良陽の胸の奥で燻っていた苛立ちに火をつけた。
彼は衝動的に一歩踏み出し、七海の白く華奢な手首を乱暴に掴んだ。 「来い!」