話 1
結婚三周年の記念日。高橋美咲は腕によりをかけて食卓を彩り、ただ一人、夫の帰りを昼から夜まで待ち続けていた。
ついスマホを覗き込むと、トーク画面は、午後に彼女が九条健司へ送ったメッセージのまま、動いていなかった。
「ご飯できてるよ。何時に帰ってくる?今日は休みって言ってたじゃない」
「まだ会議中?」
「お昼戻れないなら、夕飯は帰ってくる?」
……
返信は、ない。
美咲がもう一度メッセージを送るべきか指をさまよわせた、まさにその瞬間、トーク画面に短い応答が浮かび上がった。
「戻る。話がある」
その無機質な文字列が、凍てついていた美咲の心に火を灯した。彼女は弾かれたように椅子から立ち上がり、顔には隠しきれない喜びが咲いた。
話がある。きっと、三周年の記念日のことだろう。
健司が記念日を覚えてくれてるかも――そう思った途端、言いようのない期待が胸の奥でふつふつと膨らむ。もしかして、初めて彼からのプレゼント……?
その期待を胸に、美咲はとっくに湯気を失った料理を、慌てて温め直した。
時計の針が八時を指した頃、玄関の外からようやく、息子・九条悠真の甲高い笑い声が聞こえてきた。
美咲の表情がぱっと華やぎ、小走りで駆け寄ってドアを開けた。
「遅くなっちゃったわよ〜。宿題、いっぱいだったの?」
しかし、悠真は美咲に目もくれず、真っ直ぐ二階へ駆け上がろうとする。
美咲は一瞬呆然とし、思わずその腕を掴んだ。「悠真くん、まだご飯食べてないでしょ、どこ行くの?」
悠真はそこで初めて人の存在に気づいたかのように、苛立たしげに美咲の手を振り払った。
「ママ、構わないでよ!急いでるんだから!」
その声音に含まれた苛立ちはあまりに剥き出しで、細い針のように美咲の胸を刺した。
美咲は無理に笑みを作った。「ママ、悠真くんの好きな料理をたくさん作ったのよ。ブルーベリーのケーキもあるよ……」
「もう、いらないってば!」
言いかけた悠真は、ふと何かを思い出したように立ち止まり、くるりと振り返って目を輝かせた。
「ケーキは取っといて。明日、雲葉おばさんに持ってくから。あの人、ブルーベリーケーキ大好きなんだよ」
雲葉?
渡辺雲葉。健司が長年、心に棲まわせている、あの女の名前だろうか。
美咲は思わずに瞬きをし、事情を確かめようと一歩踏み出した。
だが、悠真は母親の反応など気にも留めず、スキップしながら二階へと消えていった。
「佐藤さん!」
隙を見て立ち去ろうとしていた家政婦を、美咲は呼び止めた。かろうじて絞り出した声は、自分でも気づくほどに震えていた。
「あなた、知ってたの?悠真くんと渡辺雲葉は、いつから……」
もはや隠し通せないと悟ったのか、佐藤春江はため息をつき、事の次第を語り始めた。
「三ヶ月ほど前に渡辺さんがご帰国になり、坊ちゃまと二回ほど顔を合わせたところ、どうやら意気投合されたようで、その後はしばしば一緒に出かけられるようになりました……」
佐藤の言葉は、青天の霹靂となって美咲の全身を貫いた。ぐらつく視界の中で、彼女は必死に呼吸を整えた。
「じゃあ、今日は補習なんかじゃなく、悠真は渡辺雲葉と遊びに行っていたのね?」
佐藤は困惑した表情を浮かべた。「本来なら授業が終わればすぐお帰りになるはずでしたが、渡辺様が直接校門までお迎えに……。奥様にお伝えしようと思ったのですが、あちらが……」
そこまで言って、佐藤は口ごもる。美咲の顔色を窺うその目には、同情の色が浮かんでいた。
ある考えが閃光のように脳裏を駆け巡り、思わず、その名が口をついて出た。
「健司が、口止めを?」
佐藤は一瞬ためらったが、小声で答えた。「奥様、旦那様も、奥様がお心を痛められるのを心配されて……」
美咲は力なく手を振った。
「もういいわ。下がって」
彼女はソファに崩れるように身を沈めた。全身の力が、糸が切れたように抜け落ちていく。
ーーそうだ。悠真はまだ子供だ。どうやって渡辺雲葉に会えるというのか。
誰かが彼女に会いに行くついでに、息子を連れて行ったに決まっている。
なんと滑稽で、惨めなのだろう。自分の子供が夫の初恋の相手と会っていたことを、実の母親である自分だけが、三ヶ月もの間、今日この瞬間まで知らなかったのだ。
いつまであのままソファに座り続けていたのか——。玄関のドアが開く音で、美咲は我に返った。
長旅の疲れが滲む様子で、健司がコートを脱ぎながら靴を履き替えている。
しかし、いつもならすぐに駆け寄ってコートを受け取るはずの妻は、一向に現れなかった。
健司はそこでようやく顔を上げた。ダイニングテーブルにはまだ湯気の立つ料理が並び、リビングのソファには、痩せた妻の寂しげな背中が見えた。
「ってか、今日って何の日?こんなに料理盛りすぎじゃん」
美咲が手伝いに来る気配がないのを見て、健司は自らコートをハンガーに放り掛け、ネクタイを引っ張って緩めた。
「外で食ってきた」
美咲は黙っていた。雲葉と一緒だったのか、と問い詰めたかった。
言葉が喉まで出かかったが、それは詮索に過ぎると思い直した。
彼女は、結局のところ健司の幼馴染だ。過去はともかく、旧友として帰国した彼女をもてなすことに、何の問題もないはずだ。
「今日は……」
彼女がソファに手をつき、立ち上がろうとした、その時だった。一枚の書類が、乾いた音を立ててローテーブルに置かれた。
「サインしてくれ。もう引き延ばしすぎだ」
表紙には、黒々と大きな文字で――離婚協議書。
美咲は目を見開いた。耳鳴りが鼓膜を埋め尽くし、目の前が暗転する。
健司が離婚という言葉を突きつけてくるのは、これが初めてではなかった。
三年の結婚生活。新婚の夜から、二人が衝突するたび、健司は容赦なく離婚を切り出した。そのたびに美咲が頭を下げて許しを乞い、必死に縋ることで、彼はようやく矛を収めてくれた。
そんな一方的なやり取りが、三年間、繰り返されてきた。いつか、自分の献身が彼の心を溶かし、傍にいる自分を振り返ってくれる日が来ると、そう信じていた。
今となっては、それもただの愚かな幻想に過ぎなかった。
美咲は半ば跪くようにして、ペンを握った。
健司の目に一瞬、驚きがよぎったが、すぐに淡々とした声色に戻った。「財産分与で不自由はさせない。以前お前の口座に振り込んだ金はすべてやる。それから湾岸ヴィラと、お前が使っている車数台。さらにグループの株式五パーセントも……」
美咲はペンを握りしめたまま、ふと手を止めた。
「悠真くんは?」
彼女が健司を見上げると、その瞳が僅かに揺れた。「この子、私についてきてもいい?」
その言葉が、健司の逆鱗に触れた。それまで淡々としていた彼の表情が、温度を失ったように冷え切る。彼は目を伏せ、冷ややかに美咲を見下ろした。
「高橋美咲、また子供をだしにして俺を脅すつもりか?」
冷水を頭から浴びせられたような衝撃だった。
彼女は瞬きをした。「何を……」
「あの時も子供のカードで無理やり結婚させたじゃん。……その手、まだ飽きないの?」
美咲は愕然として目を見開き、必死に弁解した。「違います!あの時は私も嵌められたんです……」
「いい加減にしろ!」 健司はソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。「三年間、九条の妻の座にいた。それだけじゃ不足か?」
煙がゆっくり立ち上り、健司の顔をぼやかした。
涙がこぼれ落ちる、その寸前、美咲は自分でも知らないほど静かな声を聞いた。
「……分かった。離婚、してあげる。お幸せに、九条さん」
話 2
美咲は、離婚協議書にためらいなくサインした。ソファに座る男の顔を見る勇気もなく、逃げるように立ち上がると、そのまま二階の寝室へと駆け上がる。
健司の視界から完全に消えた瞬間、美咲は糸が切れたようにドアにもたれかかった。心も体も、限界だった。
三年の結婚生活は、まるで彼女が見ていた長い夢だったようだ。ひとたび砕ければ、誰のせいにすればいいのか、もう見当もつかなかった。
たぶん、誰も悪くないのだ。ただ、感情というものは無理強いできない。それだけの話だ。
深く息を吸い込み、美咲は黙々とクローゼットから服を取り出し、スーツケースに詰め込んでいった。
健司とは、いわゆる「できちゃった婚」だった。子どもが生まれてからは家事・育児に追われ、化粧するのも面倒になり、服も「動きやすさ」だけを優先に選ぶようになった。
28インチのスーツケースが一つ。九条家での彼女の持ち物は、たったそれだけで収まってしまった。
美咲はスーツケースを引きずって寝室を出た。三年暮らした部屋をちらりと振り返ったが、未練を断ち切るように、きっぱりと背を向ける。
健司の前に立つと、彼女は結婚指輪を外した。
「これ、返すわ」
健司は指輪をちらりと見たが、視線を彼女の薬指に残る指輪の跡へと移した。わずかに目を細める。
指輪は当時、少しサイズが小さかった。美咲は必死にダイエットをして、ようやく指にはめることができたのだ。それから三年間、一度も外したことはなかった。
それを今、彼女が外した。健司の胸に、言いようのない感情が渦巻く。
彼は何でもないふりをして顔を上げ、彼女の後ろにあるスーツケースに目をやり、無意識に眉を寄せた。
「そんなに急いで出ていく必要はないだろ」
「え?」
美咲は眉をひそめて健司を見つめた。一瞬、引き止めてくれるのかと期待してしまった。
だが、続く言葉にそんな自惚れは粉々に打ち砕かれた。
「離婚の手続きには、まだ一か月かかる。その間に家を探して、準備が整ってから出ていけばいい」
健司の事務的な口調を聞き、美咲の口元に乾いた笑みが浮かんだ。
彼女は静かに、けれど力強く首を横に振った。その瞳は決意に満ちていた。「離婚するなら、早めにきっぱり縁を切ったほうがいい」
これ以上、惨めな幻想を抱かないためにも。
健司は唇を固く引き結び、一瞬沈黙した。「好きにしろ」
「息子に会ってくる」
美咲が踵を返した時、健司の低い声が背中に投げかけられた。
「おばあちゃんは最近、発作を繰り返している。刺激は厳禁だ。俺たちが離婚したことは、しばらく黙っていてくれ」
九条のおばあさま。美咲の脳裏に、慈愛に満ちた優しい笑顔が浮かんだ。
九条家の中で唯一、心から彼女に優しくしてくれた人だ。健司を叱って、彼女をかばってくれたこともあった。
言われなくても、おばあさまを悲しませるような真似はしないつもりだった。
「分かってる」
今日の美咲は、不気味なほど落ち着いていて従順で、健司の読みは外れた。ばあちゃんに甘えて泣きつき、九条家に居座るかと思っていたのに。
健司の瞳は深く暗く、美咲の顔からしばらく目が離せなかった。
「おばあちゃんの前では、夫婦のふりを続けてもらうぞ」
「ええ」
美咲は素直に頷いた。「悠真くんが寝たかどうか、見てくるわ」
健司が親権を渡すはずがないと分かっていても、彼女はまだ諦めきれずにいた。もし悠真が「ママと暮らしたい」と言ってくれたら、健司は息子の意思を尊重する人だから、手放してくれるかもしれない。
美咲は子供部屋の前まで来ると、そっとノックした。
「悠真くん、もう寝た?ママだけど、入ってもいい?」
返事がない。美咲の表情が曇る。寝てしまったのだろうと思い、その場を離れようとした時、中からあまりにも楽しそうな話し声が漏れてきた。
「雲葉おばさん!明日、早く会いに来てね?おばさんが大好きなブルーベリーのカップケーキ、用意しておくから!」
悠真の甘えるような声がドアの隙間から聞こえ、美咲の胸に突き刺さった。
以前は、息子もあんなふうに甘えてくれたものだ。いつからか、息子は彼女に冷たくなり、会話さえもそっけなくなってしまった。
美咲は黙って拳を握りしめ、ふっと力を抜いた。覚悟を決めて、ドアを開ける。
「悠真くん、ママから話があるんだけど……」
彼女が入ってきた瞬間、悠真は慌てて電話を切った。
ベッドに座り直し、美咲を睨みつける。
「ママ、ノックもしないで失礼だよ!」
その言葉はナイフのように美咲の心を抉った。彼女は一歩踏み出しかけた足を止めて、ぎこちない笑みを作った。
「ごめんね、ちょっと急用で。悠真くん、ママが聞きたいのは、一緒に暮らしたいかどうか……」
「ヤダ!」
彼女が言い終わる前に、悠真は苛立たしげに遮った。「ママはどうして、雲葉おばさんみたいにカッコよくなれないの?」
美咲は呆然とし、一瞬、悠真の言っている意味が分からなかった。
「ママは何もできないくせに、パパのお金ばっかり使って、いつもあれこれ口出ししてくる。学校で友達と話す時、ママが何をしてる人なのか、恥ずかしくて言えないんだ。雲葉おばさんがママだったらよかったのに!」
その口調はあまりにも辛辣で、美咲は自分の耳を疑った。何か言い返そうとしたが、悠真はすでにうつむいて、スマホをいじり始めていた。
まぶしい画面には、彼と渡辺雲葉のチャットが浮かび上がっていた。心臓が、底なし沼に突き落とされたような気分だった。
彼女は息子を一瞥し、何も言わずに部屋を後にした。
荷物をまとめ、タクシーを呼ぶ。一連の動作を機械的にこなし、家を出る時、ソファに座る健司に目もくれなかった。
健司はその背中を目で追っていた。美咲がこれほどあっさりと去っていくのを見て、彼は言いようのない苛立ちを覚えていた。
九条家を離れた美咲は、以前から万が一のために用意していた小さなマンションへと直行した。あの時、保険をかけておいてよかった。健司と喧嘩した時に頭を冷やす場所として確保していたが、まさか今、本当の自分の居場所になるとは思ってもみなかった。
一日中、心身ともにすり減らしていた美咲は、あれこれ考える気力もなく、適当に荷物を片付けると、そのままベッドに倒れ込み、眠りについた。
翌日、彼女は早々にタクシーで九条グループ本社へと向かい、退職届を提出した。
ここに入社したのは、健司のそばにいたいという一心からだった。離婚が決まった今、ここに留まる理由はどこにもない。
「退職手続きは、今日中に終わりますか?」
美咲は健司の秘書である田中成也をじっと見つめた。
成也は額に滲んだ汗を拭い、美咲の質問にまともに答えられずにいた。「少々お待ちください。九条社長にお伺いしてまいります」
成也は、社内で彼女の正体を知る数少ない人間の一人だ。慎重になるのも無理はない。
美咲は一瞬ためらい、思わず尋ねた。「彼に言う必要があるの?」
成也は困ったように美咲を見た。「当時、あなたが入社されたのも、九条社長の承認があってのことですから……」
美咲は頷いた。「お願いします」
自分の席に戻り、コーヒーでも淹れようかと思っていたその時だ。エレベーターから出てきた二人の人物と、ふと目が合った。
男はスーツを隙なく着こなし、いつもは冷徹な表情を浮かべているが、隣の女に向ける眼差しは、氷山が溶けるように一瞬で優しくなる。滅多に見られない光景だった。
美咲は、自分の呼吸が一瞬止まったのを感じた。まさか、こんな場所で『彼女』に会うなんて、夢にも思わなかった。
話 3
渡辺雲葉――。
あの九条健司が長年想い続けている、初恋の人。
ーーその彼女が、なぜ今、健司と共に会社に?
咄嗟に背を向け、二人の脇をすり抜けようとした美咲だったが、健司に先に見つけられてしまった。
そのあからさまに避けようとする態度に、健司は無性に苛立ち、刺のある言葉を投げつけた。
「お前、会社に何しに来た?」
不意を突かれた美咲は、探るような視線を向ける健司のしかめっ面を見ているうちに、 ふと、言い様のない可笑しさが込み上げてきた。
(まさか、私が会社に来たのは健司に付きまとうためだとでも思っているの?) (彼の目に、私は一体どんな女に映っているのだろう?)
美咲は唇を吊り上げて、短く嗤う。「まだ、この会社の社員ですので」
美咲に気づいた雲葉の表情が、わずかに強張る。だがそれも一瞬だった。すぐにいつもの人当たりの良い笑みに戻り、気を利かせたように言った。
「健司、用があるなら先に行って?オフィスには一人で行けるから」
だが、健司は雲葉の手首を掴んだ。
「君は俺の特別顧問だ。遠慮する必要はない」
特別顧問?
その四文字を耳にした途端、背中が凍りついた。
――なるほど、それで。健司が突然、約束を反故にしたわけだ。
かつて彼は、西郊のプロジェクトを成功させれば、自分を顧問にすると約束してくれた。
そのために徹夜で資料を作り、会食では無理をして酒を煽り、倒れる寸前まで働いて、ようやく掴んだ契約だった。それなのに、意気揚々と会社に戻った彼女に、健司は「顧問の席は他のやつに決まった」と、あっさり告げたのだ。
あの時の美咲は、ショックを受けながらも、すべては会社のためだと自分に言い聞かせた。
今となっては、すべて自分の思い上がりだったと思い知らされる。
それだけで、雲葉のことがどれほど健司にとって大事な存在か、がにじみ出た。ルールをを重んじるはずの彼を、いとも簡単に変えてしまうほどに。
寄り添う二人の、あまりにも完璧な姿を前に、美咲は悟った。長年、自分だけが滑稽な道化を演じていただけなのだと。
唇を噛みしめ、辞職の意を伝えようとした。だが、健司は苛立ちを隠そうともせず、言葉を遮った。
「離婚にはお前も同意してサインしたはずだ。今さら覆す余地はない」
健司は眉をひそめ、冷たい目で美咲を睨む。諦めきれずに会社まで押しかけ、騒ぎを起こしに来たのだと決めつけていた。
(改心したかと思えば、昨日の態度は揺さぶりか。だとしたら、随分と安っぽい手を使ったものだ。)
健司の中で、美咲への嫌悪がさらに増した。
その冷たい表情を受け止め、美咲は拳を静かに握りしめた。二人の顔を往復してから、肩で笑う。「九条社長、ご心配なく。自分の立場はわきまえてますので。社長と渡辺さんの邪魔をするつもりなんてありません」
「ふざけた口を利くな」
雲葉まで巻き込む物言いに、健司の瞳に怒りの色が宿り、声の温度がさらに下がった。
「高橋さん、私と健司はそんな関係じゃ……本当に誤解です」
雲葉が、あくまで柔らかな声で弁明する。
この状況の当事者でなければ、その曇りのない表情に、美咲も騙されていたかもしれない。
「雲葉、お前が説明する必要はない。心が歪んだ女には、見るものすべてが歪んで見えるんだ」
雲葉を庇い、まるで親の仇のように睨みつけてくる健司を、美咲は冷めた目で見ていた。
彼への失望はとうに底をついたはずだった。それなのに、この光景はまだ鋭く胸を抉る。
(彼の目には、私は説明を聞く価値すらないということか。)
(なんという皮肉。)
「そこをどけ。俺と雲葉は仕事で忙しい。嫉妬に狂って時間を無駄にするお前とは違う」
結局、健司は美咲にまともな用事があるなど、微塵も考えていないのだ。
その見下した態度に、美咲は深く息を吸い込む。平静を装っていた顔が、わずかに強張った。
美咲が動かないのを見て、健司の我慢は限界に達しようとしていた。彼が怒鳴ろうとしたその瞬間、秘書の田中成也が駆け寄ってきた。
三人の間に漂う空気を察したのか、田中は一瞬驚いたものの、すぐにプロの顔に戻った。
「奥様、退職の件はもう社長にお話しされたのですね?」
彼は印刷したばかりの辞職届を、恭しく健司に差し出した。
「辞職?」
健司の瞳に戸惑いの色が浮かんだ。彼は美咲の静かな表情を見る。離婚を撤回させる駆け引きとして、まさか退職まで持ち出してくるとは。
「今度はどんな手?辞めてからばあちゃんに甘えて泣きつくつもり?」
健司は疑いの目で美咲を見る。
九条夫人の肩書きを失い、仕事まで手放せば、この女は生きていけないはずだ。
「九条社長が想像するような、卑劣な真似はいたしません」
強い眼差しで、美咲は健司を見据える。その声には、かつての従順さの欠片もなかった。
その気迫に一瞬言葉を失い、健司は理由の分からない苛立ちを覚えた。
「口先だけでなければいいがな」
彼は田中からペンを受け取ると、迷うことなく辞職届にサインした。
「後悔するなよ」
「ええ、もちろん」
美咲は書類を受け取ると、きっぱりと背を向けた。足取りは驚くほど軽く、長年尽くした場所への未練など微塵も感じさせなかった。
健司は目を細め、遠ざかる背中を黙って見送った。
昨夜から、美咲はまるで別人だ。以前なら、離婚を切り出せば泣きわめき、あらゆる手段で縋りついてきたはずなのに。
「健司、大丈夫……?」
健司の険しい表情を、雲葉が気遣わしげに見つめる。
その声に我に返り、健司は頭を振って雑念を払った。
(もう離婚したんだ。高橋美咲がどうなろうと、俺には関係ない!)
九条グループの門を抜けた瞬間、美咲は全身を縛るものが消え去ったような解放感を覚えた。降り注ぐ陽光が、まとわりついていた陰鬱なものをすべて焼き尽くし、浄化してくれるかのようだ。
彼女は深く息を吸い込み、固く誓った。もう二度と、自分を殺してまで誰かに合わせる生き方はしない、と。
かつての自分は、愛のために自分を見失うほど卑屈だった。
突然、スマホの着信音が思考を遮った。
画面に表示された名前に、美咲の心臓が小さく跳ねる。
白石結衣――学生時代のルームメイトであり、親友だ。だが、結婚して家庭に入ってからは疎遠になり、年に数回挨拶を交わすだけの関係になっていた。
美咲は唾を飲み込み、緊張しながら通話ボタンを押した。
電話の向こうから、懐かしい声が飛び込んでくる。
『美咲ちゃん!緊急事態!マジで助けて、死ぬ!』
結衣の切羽詰まった声に、美咲はわずかに眉をひそめ、心配そうに声をかけた。 『どうしたの?』
『巨匠・佐々木慎司の書画修復を引き受けたんだけど、最初は楽勝だと思ってたの。でも現物を見たら損傷が酷すぎて、うちの工房じゃ誰も手に負えないし、ツテを当たっても全滅でさ』
『普通のお客さんならまだしも、相手がうちの超お得意様で……。うちの親父の性格、知ってるでしょ?殺されはしないけど、カード止められるのは確実!そしたらアトリエもおしまいだよ……今回だけ、お願い!助けて!』
結衣は焦りのあまり、今にも泣き出しそうな声を上げた。『結婚して引退したことも、もう依頼は受けないってことも分かってる。でも、今回ばかりはどうにもならないの……お願い、一回だけでいいから助けて!』
電話の向こうは、しばらく沈黙したままだ。美咲が健司のために、絶頂期だった仕事をきっぱりと捨てたことを思い出し、結衣はますます不安になっていく。
『……はぁ、やっぱりいい。美咲を困らせたいわけじゃないし、他の手を考えてみる……』
『いいよ。私が直す』