話 1
婚約者の藤堂蓮と私は、十年も一緒にいた。
高校時代から私の世界のすべてだった彼と、ついに結婚する。
そのために、私自身がデザインしたチャペルの祭壇に、今、立っている。
けれど、私たちのウェディングプランナーであり、司会を務める早坂玲奈が蓮に向かってこう尋ねた時。
「藤堂蓮さん、あなたは私と結婚してくれますか?」
彼は、笑わなかった。
ここ何年も見たことのないような愛に満ちた瞳で彼女を見つめ、そして言ったのだ。
「はい、誓います」
彼は私を祭壇に一人置き去りにした。
彼の言い訳?
玲奈は、脳腫瘍で死にかけている、と。
その後、彼は私に、彼女を救うために希少な血液型である私の血を提供するよう強制した。
彼女の残酷な気まぐれをなだめるために、私が愛した猫を殺処分させた。
さらには、水に溺れる私を通り過ぎ、彼女を先に助け出すために、私を見捨てた。
彼が最後に私を見殺しにしたのは、玲奈がわざと私の食事に入れたピーナッツのせいで、私がアナフィラキシーショックを起こし、キッチンの床で窒息しかけていた時。
彼は私の命を救う代わりに、仮病の発作を起こした彼女を病院に運ぶことを選んだ。
ようやく、理解した。
彼はただ私を裏切っただけじゃない。
彼女のためなら、私を殺すことさえ厭わないのだ。
一人、病院で回復していると、父から常軌を逸した提案の電話があった。
謎に包まれたIT界の大物CEO、有栖川暁との政略結婚。
私の心は、もう死んで、空っぽだった。
愛なんて嘘っぱちだ。
だから、父が「新郎を代えるというのはどうだ?」と尋ねた時、私は自分でも気づかないうちに、こう答えていた。
「はい。彼と結婚します」
第1章
白石詩織と藤堂蓮。
二人の物語は、永遠に語り継がれるはずだった。
高校の卒業パーティーで、緊張しながら手を取り合ったあの日から、この祭壇に立つ瞬間まで。
十年という歳月が、二人の思い出を紡いできた。
才能ある建築デザイナーである詩織は、二人が築くと信じていた未来の証として、この美しいチャペルを自ら設計した。
そして、成功した不動産デベロッパーである蓮は、十代の頃から彼女の支えであり、半身ともいえる存在だった。
二人の絆は、かつて地元の伝説だった。
人気者のサッカー部のエースだった蓮が、ただ一人、物静かで聡明な詩織だけを見つめていた。
彼は彼女を追いかけて同じ大学に進学し、過酷な一級建築士の試験を支え、彼女の成功を一つ残らず自分のことのように喜んだ。
大学三年生の頃、些細なことで喧嘩をした後、彼は吹雪の中を三時間も車で走り、彼女の好きな花である一輪の完璧なクチナシを玄関先に置いた。
添えられたメモにはこう書かれていた。
「詩織がいないと、俺の世界は寒い」
十年間、彼こそが私の世界だった。
その完璧な世界に亀裂が入り始めたのは、半年前のこと。
変化は、些細なものだった。
いつもは隠し事など何もない蓮が、スマートフォンを肌身離さず持つようになった。
新しい開発プロジェクトのプレッシャーを理由に、残業が増えた。
詩織は、彼を信じきっていたし、結婚式の準備で頭がいっぱいだったから、それをストレスのせいだと思い込んだ。
もっと支えてあげられていない自分に、罪悪感すら感じていた。
最初の、本当の揺らぎは、ある火曜日の夜に訪れた。
蓮がシャワーを浴びている間、ナイトスタンドに置かれた彼のスマホが、ひっきりなしに震えた。
疑いからではなく、反射的に画面に目をやった。
知らない番号からの通知が、ずらりと並んでいた。
胃が、きゅっと縮こまる。
仕事のことだ、何でもない。そう自分に言い聞かせた。
けれど、氷のような不安が忍び寄ってきた。
その週の後半、彼のノートパソコンで書類を探していると、デスクトップに鍵のかかっていないフォルダを見つけた。
名前は「プロジェクトH」。
ごくありふれた名前だった。
この十年感じたことのない、醜く、疼くような好奇心に駆られて、クリックしてしまった。
そこにあったのは、設計図でも、財務計画でもなかった。
フォトアルバムだった。
詩織が一度も見たことのない女性の写真が、何百枚も。
快活で輝く瞳を持ち、その場のすべてを照らすような笑顔の女性。
彼女はボートの上で笑い、詩織と蓮がよく行くカフェでコーヒーを飲み、明らかに蓮のオフィスでふざけたポーズをとっていた。
最新の写真は、ほんの数日前の日付だった。
別のテキストファイルには、二人の会話が保存されていた。
詩織の手が、震えた。
「玲奈、君はまるで野火のようだ。目が離せない」
「また君のことを考えてる。君の笑い声が頭から離れないんだ」
「詩織は…安心できる存在。安定してる。でも、君は…それ以外のすべてだ」
詩織の肺から、空気が抜けていった。
玲奈。
知らない名前だったのに、今では脳に焼き付いたように感じられた。
蓮の最近のメールを遡る。
いた。
早坂玲奈。
私たちの、ウェディングプランナー。
三ヶ月前、詩織自身がその有能さと明るい人柄に惹かれて雇った女性。
私たちの生活の、あらゆる細部を知る立場にある女性。
振り返れば、兆候はすべてそこにあった。
絶叫するように、私に訴えかけていた。
以前は「時間の無駄」と呼んでいた打ち合わせに、蓮が突然興味を示し始めたこと。
コンサルテーション中に玲奈に注がれる、彼の長引く視線。詩織はそれを、彼女の仕事に対する純粋な評価だと勘違いしていた。
彼が、彼らしくない言い回しや冗談を使い始めたこと。今、玲奈へのメッセージの中に、その言葉が打ち込まれているのを見た。
かつて彼が詩織にだけ注いでいた愛は、今や抜き取られ、他の誰かに向けられていた。
その夜、詩織は彼を問い詰めた。
彼が寝室に入ってきた時、ノートパソコンの画面には写真が開かれたままだった。
彼はそれを見て、顔から血の気が引いた。
「彼女は誰、蓮?」
詩織の声は、かろうじて囁きになった。
長く、苦痛に満ちた沈黙が流れた。
その一分間で、十年の信頼が塵と化した。
「俺…調子に乗ってたんだ、詩織」
彼はついに、 strainedな声で言った。
「ほんの一瞬の、気の迷いだったんだ」
「気の迷い?写真は何百枚もあるのよ。あなたは彼女に、私は『安定』で、彼女は『それ以外のすべて』だって言ったじゃない!」
その言葉は、口の中で酸のように感じられた。
「彼女は、すごく…生き生きしてるんだ」
彼はどもりながら、目をそらした。詩織の目を見ることができない。
「違うんだ。間違いだった。馬鹿げた、一瞬の気の迷いだった。何の意味もない」
詩織は吐き気を覚えた。
全身が冷たくなった。
「じゃあ、どっちを選ぶの?」
彼女は尋ねた。最後通牒が、重く、決定的に、空中に漂った。
彼はその時、罪悪感に満ちた顔で彼女を見た。
「詩織だよ。もちろん、君だ。ずっと君だけだった」
彼は終わったと誓った。
手に負えなくなった、ただの馬鹿げた恋心だったと。
肉体関係は一度もなかったと。
目新しさに目がくらんでいただけだと。
それを証明するために、彼はスマホを取り、詩織の目の前で、早坂玲奈の番号とすべての写真を削除した。
彼は詩織を抱きしめ、許しを請い、彼の未来はすべて彼女と共にあり、彼女だけのものであると約束した。
彼女の一部、論理的で自尊心のある部分は、彼のもとを去れと叫んでいた。
しかし、もう一方の部分、人生の三分の一をこの男を愛してきた部分は、彼を信じたくてたまらなかった。
彼女は彼を信じることを選んだ。
痛みと裏切りを心の奥底に埋め、長期的な関係には試練がつきものだと自分に言い聞かせた。
これが、私たちの試練なのだと。
乗り越えられる。
私たちは、結婚するんだ。
一週間後、蓮は奇妙な提案を持ちかけてきた。
「玲奈から電話があったんだ」
彼は、慎重に、何気ない口調で言った。
「すべてを謝っていた。ひどく後悔している。彼女はいい子なんだ、詩織。ただ…間違いを犯しただけなんだ」
詩織は何も言わず、心を固くした。
「俺たちの司会者が、家族の緊急事態でキャンセルになったんだ」
彼は続けた。
「それで思ったんだけど…玲奈にやってもらうのはどうかな?わだかまりがないことを示す方法になる。俺たち全員が、新しい章を始める直前に、その章を正式に終わらせる方法になる」
その提案はあまりに奇妙で、あまりに空気が読めていなくて、詩織は言葉を失った。
冷たい恐怖が彼女を満たした。
狂ってるの?と叫びたかった。
しかし、彼の真剣な顔、「白紙の状態」を求める彼の懇願を見て、彼女は打ちのめされるような疲労を感じた。
戦うことにも、疑うことにも、もう疲れた。
もしかしたら、彼が正しいのかもしれない。
これが、本当に過去を乗り越える唯一の方法なのかもしれない。
私たちを破壊しかけた女に、私たちを正式に結びつけさせる。
最後の、象徴的な勝利。
あらゆる本能に逆らって、彼女は同意した。
「いいわ」
彼女は平坦な声で言った。
「彼女にやらせましょう」
どうしてあんなに馬鹿だったんだろう?
その問いが今、彼女の心の中で、嘲笑うように、執拗に鳴り響いていた。
ここで、祭壇の上で、彼女が設計したチャペルで、知り合い全員の前で、彼女の愚かさの、恐ろしい真実が、すべて白日の下に晒された。
上品なクリーム色のスーツに身を包んだ早坂玲奈は、参列者に、そして蓮に、にこやかに微笑んだ。
音楽が盛り上がり、そして消えていった。
空気は期待感で満ちていた。
「藤堂蓮さん」
玲奈は、静まり返ったチャペルに響き渡る、澄んだ声で始めた。
「あなたは…私と結婚してくれますか?」
招待客の間で、くすくすという戸惑いの笑いが漏れた。
単なる言い間違い。
司会者の緊張によるミス。
詩織は、引きつった、ぎこちない笑みを浮かべ、蓮がそれを笑い飛ばし、彼女を訂正し、詩織に向き直って誓いの言葉を述べるのを待った。
しかし、蓮は笑わなかった。
彼は詩織を見さえしなかった。
彼の視線は、ただ玲奈だけに注がれていた。
そして彼の瞳の中に、詩織は混乱でも、面白がっているのでもなく、むき出しの、ありのままの感情の海を見た。
あまりに深く、切ない憧れと崇拝の眼差しに、彼女は息を呑んだ。
それは、かつて彼が彼女に向けていた眼差しだったが、千倍も強烈だった。
世界が、ゆっくりと動いているように見えた。
招待客の戸惑うざわめきが、鈍い轟音に変わっていった。
詩織に見えるのは、婚約者が、十年も愛した男が、まるでこの世にたった一人しかいないかのように、別の女を見つめている姿だけだった。
そして、彼は口を開いた。
彼の声は、固く、明瞭で、そして、完全に打ちのめすものだった。
「はい、誓います」
チャペル全体に、息を呑む音が広がった。
玲奈の瞳が涙で溢れ、勝利に輝く、まばゆい笑顔が彼女の顔に広がった。
彼女は手を伸ばし、その手は震えていた。
「蓮さん」
彼女は息を呑んだ。
「ここから連れ出して。お願い、ただ連れ出して」
蓮の視線が、一瞬だけ、詩織に向けられた。
罪悪感か、あるいは憐れみか、何かがちらついたが、それもすぐに消え、厳しい決意の表情に変わった。
彼は玲奈の差し出された手を取り、まるで彼らこそが結ばれるべき二人であるかのように、指を絡ませた。
彼は詩織に背を向けた。
十年の歳月に。
二人の未来に。
「蓮、やめて」
詩織は囁いたが、言葉は喉に詰まった。
彼女は彼に手を伸ばし、指が彼のタキシードの袖に触れた。
「蓮、そんなことしないで。行かないで」
彼女の指先に、彼は一瞬だけ動きを止めた。
しかし、彼はまるで火傷でもしたかのように、腕を振り払った。
もう一度振り返ることもなく、彼は早坂玲奈を連れてバージンロードを歩き、呆然とする友人や家族の前を通り過ぎ、重厚な樫の扉から出て行った。
祭壇に、詩織を一人残して。
その後に続いた沈黙は、絶対的で、押しつぶされそうな重圧だった。
ブーケのクチナシの香りが、急にむかつくものに感じられた。
彼女が設計した美しいアーチ型の天井が、今にも迫ってきて、彼女を窒息させそうだった。
その時、静寂を破る音がした。
笑い声だった。
壊れた、ヒステリックな音。それは、ぼんやりと自分自身のものだと認識できた。
涙が顔を伝い、その醜く、痛々しい笑い声と混じり合った。
すべてが冗談だった。
私の人生、私の愛、私の信頼――すべてが、壮大で、屈辱的な冗談だったのだ。
母が、怒りと恐怖で歪んだ顔で、祭壇に駆け寄ってきた。
「あのクズ!最低のクズ野郎!」
母はそう吐き捨て、震える詩織の体を抱きしめた。
父がすぐ後ろにいた。その表情は険しい。
彼は詩織の向こうに目をやり、招待客を見渡し、やがて後列に静かに座っている一人の男に目を留めた――有栖川暁。
謎に包まれた、絶大な力を持つIT企業のCEOであり、詩織の父の会社と取引のある、一家の知人。
口数は少ないが、絶大な影響力を持つ男。
「有栖川さん」
詩織の父が、混乱を切り裂くように声を張り上げた。
「白石家は、あなたに一つ借りがある。そして、ここには花嫁がいる。新郎を代えるというのは、いかがでしょうかな」
その提案は狂気の沙汰だった。
純粋な衝撃と怒りから生まれた、必死の、面子を保つための手段。
しかし、人生の廃墟に立つ詩織にとって、それは溺れる海の中の唯一の命綱のように聞こえた。
彼女の心は、胸の中で死んだ、空っぽのものだった。
愛は嘘。
誓いは冗談。
もはや、何もかもどうでもよかった。
「はい」
彼女は、すべての感情が抜け落ちた声で、そう答えるのが聞こえた。
「彼と結婚します」
両親は安堵のため息をついた。
父はすぐに手配を始め、有栖川暁の秘書と低く、切迫した声で話していた。
詩織は、母に連れられてブライズルームに戻る間、無感覚だった。
蓮と暮らした家、今や霊廟のように感じる家へと。
彼女は美しいレースのガウン、打ち砕かれた夢の象徴を脱ぎ捨て、白いシルクと屈辱の山となって床に落ちるに任せた。
彼女はロボットのようにバッグに荷物を詰め始めた。服、ノートパソコン、彼女だけのものすべてを投げ込んだ。
ここから出なければ。
この場所から、自分の痕跡をすべて消し去らなければ。
スーツケースのジッパーを閉めた、その時。
玄関のドアが、勢いよく開いた。
蓮だった。
彼は疲れ果て、顔は青白く張り詰めていたが、必死の形相は消え、重く、陰鬱な悲しみに取って代わられていた。
彼は彼女に向かって駆け寄り、腕を広げた。
「詩織、本当に、本当にすまない」
彼は、一瞬、信じそうになるほどの痛みを込めた声で言った。
「説明させてくれ」
彼女は彼の接触を避け、全身で反発した。
「説明?」
彼女は、氷のような声で繰り返した。
「何を説明することがあるの、蓮?あなたはウェディングプランナーのために、私を祭壇に置き去りにした。それだけで十分、説明はついていると思うけど」
「違う、君は分かってないんだ」
彼は涙を浮かべながら懇願した。
「玲奈は…病気なんだ、詩織。彼女は死にかけてるんだ」
詩織は、困惑して彼を見つめた。
「彼女は脳腫瘍なんだ」
彼は言葉を詰まらせながら、吐き出した。
「膠芽腫だ。医者は…三ヶ月、もしかしたらそれ以下だと。今朝、最終診断が出たんだ。彼女はパニックになった。結婚式で、彼女がああ言ったのは…助けを求める叫びだったんだ。一度でいいから、俺が彼女に『はい、誓います』と言うのを聞くのが、死ぬ前の最後の願いだと。たった一度だけ。断れるわけないだろ、詩織?死にゆく女性の最後の願いを、どうして断れる?」
彼は、真剣で、胸を締め付けるような苦悩の表情で彼女を見た。
彼は彼女に理解を求め、彼の残酷な裏切りの中にある高潔さを見るように懇願していた。
彼は結婚式を延期し、玲奈の人生の最後の数ヶ月を彼女のそばで過ごさせ、この「思いやり」の行為を許してくれるように頼んでいた。
詩織は、十年も愛した男の目を見つめ、初めて、彼の弱さの深淵を見た。
彼は玲奈を愛していた。
祭壇で、彼の目にそれを見た。
この、完璧に悲劇的で、映画のような死に際の願いの物語は、都合のいい言い訳に過ぎない。
それは、彼が新しい恋人のために英雄を演じながら、献身的な婚約者を保留にしておくという、二兎を追うための方法だった。
彼は、彼女を罠にかけるためだけでなく、自分自身の正しさを自分に納得させるために、嘘の網を織っていたのだ。
もし彼女がその時、その瞬間に、玲奈の欺瞞と蓮の残酷さの真の範囲を知っていたら、彼女は彼の顔を見て笑い、永遠に立ち去っていただろう。
彼の玲奈への愛が、詩織を何度も何度も投げ込むことを厭わない、底なしの穴であることを見抜いただろう。
しかし、彼女は知らなかった。
彼女が見たのは、愛した男が、過去と、捏造された悲劇的な未来との間で引き裂かれ、泣いている姿だけだった。
そして、その弱さの瞬間に、彼女はためらった。
そのためらいが、彼女の地獄への転落の始まりだった。
その時、彼の電話が、甲高く、けたたましく鳴った。
蓮ははっと顔を上げ、その表情は一瞬にして純粋なパニックに変わった。
「はい?どうしたんですか?」
彼は電話に向かって怒鳴った。
「出血が止まらないって、どういうことですか?すぐ行きます!」
話 2
蓮の顔は恐怖に歪んでいた。
「玲奈が病院に。出血が始まった。血が必要なんだ。大量に」
彼は電話を切ると、万力のような力で詩織の腕を掴んだ。
「行かなきゃ。今すぐ」
「何?どうして私が?」
詩織は腕を振りほどこうとした。彼の突然の暴力的な握力にショックを受けた。
これはさっきまでの、悲しみに暮れ、謝罪していた男ではない。
絶望的で、冷酷な誰かだ。
「彼女の血液型だ」
彼は詩織をドアの方へ引きずりながら言った。
「珍しいんだ。AB型Rhマイナス。君と同じだ。病院の血液バンクの在庫が少ない。時間内に提供できるのは君だけだ。彼女を助けてくれ、詩織」
彼の要求の、そのあまりの厚かましさに、言葉を失った。
彼は、自分の人生を破壊したばかりの女を救えと言うのだ。
彼は頼んでいるのではない。命令していた。
「嫌よ」
詩織は、かかとを食い込ませて抵抗した。
「離して、蓮。どこにも行かない」
「わがまま言うな!」
彼は、顔を怒りで歪ませて怒鳴った。
「人の命がかかってるんだぞ!俺たちの間に何があったにせよ、彼女を死なせるわけにはいかない!」
彼は今や彼女を家から引きずり出していた。彼の指が痛々しく彼女の肌に食い込む。
彼の指にはめられた重厚な結婚指輪、彼女への永遠の愛を象徴するはずだったものが、彼女の肉に食い込んだ。
「彼女は死にかけてるんだぞ、詩織!お前はそんなに冷酷なのか、意地で人が死ぬのを見殺しにするのか!」
彼は、半ば突き飛ばし、半ば引きずるようにして彼女を車に乗せながら叫んだ。
その言葉は、残酷な道徳的脅迫だった。
彼は彼女自身の思いやりを、彼女に対する武器に変えていた。
痛みと混乱の混沌とした渦の中で、彼女の心の片隅で、疲れ果てた小さな部分が譲歩した。
命は命だ。
たとえ玲奈のものであっても。
病院は、蛍光灯の光と、消毒液の恐怖の匂いでぼんやりとしていた。
蓮は一瞬たりとも彼女の腕を離さず、輸血センターに着くまで廊下を引きずり回した。
「今すぐ血が必要なんだ!」
彼は驚いた看護師に叫んだ。
「名前は早坂玲奈。これがドナーだ」
看護師が手早く詩織の腕を準備した。
冷たい椅子に座っていると、詩織の心は混乱していた。
彼女は、自分の婚約者を奪い、知り合い全員の前で自分を辱めた女に、自分の血、自分の生命力を与えようとしていた。
その不条理さは、狂気に近いほど深かった。
彼女は最後にもう一度、腕を引こうとした。
「蓮、私にはできない」
「やるんだ」
彼は、低く、威嚇するような声で言った。
彼は彼女の椅子の後ろに回り、彼女の肩にしっかりと手を置き、彼女をその場に釘付けにした。
「やれ」
彼は看護師に命じた。
針は冷たく、鋭い痛みだった。
詩織は身をすくめ、純粋で、希釈されていない屈辱の涙が頬を伝った。
彼女は、自分の真っ赤な血が透明なチューブを通って流れ、ライバルを救うために自分の体から出ていくのを、無感覚に見つめていた。
蓮の手は彼女の肩から離れず、それは慰めというよりは檻のような、重く、所有欲に満ちた重圧だった。
血液バッグが満たされるにつれて、世界が揺らぎ始めた。
450ミリリットル。
標準的な献血量だが、その日の精神的な打撃の後、彼女の体は消耗し、空っぽに感じられた。
目の前に黒い点がちらついた。
「終わりました」
看護師が、腕に脱脂綿をテープで貼りながら言った。
針が抜かれた瞬間、蓮は彼女を解放した。
「よかった」
彼は、安堵の息を漏らした。
その時、近くの手術室から医師が飛び出してきた。
「藤堂さん!彼女は安定しましたが、あなたを呼んでいます」
蓮はためらわなかった。
彼は詩織を振り返りさえしなかった。
彼は手術室に向かって走り、その意識は完全に玲奈に向けられていた。
彼が走っていく中、詩織は立ち上がろうとした。
足ががくっと崩れた。
世界が横に傾き、彼女は倒れ、頭を金属製の医療用具カートの角に強く打ち付けた。
カートが揺れ、ステンレス製の器具が乗った重いトレイが滝のように落ちてきて、彼女の頭と肩を直撃した。
目の奥で鋭く、目がくらむような痛みが爆発し、そして、すべてが真っ暗になった。
彼女が最後に見たのは、手術室のドアを通って消えていく蓮の後ろ姿だった。
最後の、決定的な、見捨てられた行為。
…
詩織が目を覚ました時、最初に感じたのは、頭の鈍く、ずきずきする痛みだった。
彼女は個室の病室にいた。
蓮がベッドのそばの椅子に座り、頭を抱えていた。
彼女が身じろぎすると、彼は顔を上げた。その目は赤く縁取られ、疲れたような罪悪感に満ちていた。
「詩織、目が覚めたのか」
彼は、かすれた声で言った。
「本当にすまない。君が倒れたのに気づかなかった。玲奈のことが心配で…」
彼女はただ、空虚な目で彼を見つめた。
謝罪の言葉は、無菌室の中で空虚な響きに感じられた。
彼女が傷ついたのを見なかったことを謝っているのであって、その原因であったことを謝っているのではない。
「話さないで」
彼女は、乾いたかすれた声で言った。喉が痛かった。
「君に乱暴で、馬鹿なことをした」
彼は彼女を無視して続けた。
彼は手を伸ばして彼女の手を取ろうとしたが、彼女はそれを振り払った。
「約束する、詩織。二度と、二度とあんな風には扱わない。玲奈が…いなくなったら…すべてが元通りになる。君と俺。約束する」
冷たく、苦い笑いが胸からこみ上げてきそうだった。
元通りに?
彼は二人の世界を粉々に打ち砕き、今、空虚な言葉でその破片を接着しようと約束している。
彼は玲奈の高潔な救世主という役割に夢中で、自分の後に残した残骸が見えていない。
彼は彼女の世話をしようとした。
食事を運び、枕を整え、なだめるような優しい口調で話しかけた。
しかし、彼の注意は散漫だった。
彼のスマホは、玲奈の病室からの最新情報で絶えず鳴っていた。
彼は詩織にスープを一口食べさせている最中に、画面に目をやり、その表情はもはや彼女のためではない優しさで和らいだ。
ある午後、彼女が起き上がるのを手伝っている最中に、彼の電話が鳴った。
彼はそれに出て、すぐに意識を切り替えた。
「彼女は起きてる?何か欲しがってる?」
注意が散漫になり、彼は詩織の腕を早く離しすぎた。
彼女はずるりと滑り、負傷した肩がベッドの柵にぶつかって捻れた。
鋭い痛みの叫びが彼女の唇から漏れた。
蓮は突然電話を切り、その顔は罪悪感と苛立ちでぐちゃぐちゃだった。
「ごめん、本当にごめん、詩織」
「出て行って」
彼女は、危険なほど静かな声で言った。
「出て行って、蓮。彼女のところに行って。あなたはここにいても何の役にも立たない」
「詩織、埋め合わせはできる」
彼は、声が割れるほど懇願した。
「残りの人生をかけて、君に償う」
しかし、彼の約束は口の中の灰のようだった。
彼女は目を閉じ、彼を締め出した。
もう言うことは何もなかった。
彼は今や見知らぬ人、他の誰かのために心臓が鼓動する男だった。
彼女が丹念に設計した二人の未来は破壊され、彼は瓦礫の中に立ち、彼女にその景色を賞賛するように求めていた。
話 3
蓮はついに去っていった。その足音は彼の未練を響かせていたが、玲奈のベッドサイドへの引力は、彼が詩織に対して感じていたどんな罪悪感よりも強かった。彼は私設の看護師を雇い、詩織の物質的なニーズがすべて満たされるように手配した。それは彼の存在の貧弱な代用品であり、彼の優先順位を明確に示すものだった。
詩織が退院した日、彼女は二人が一緒に建てた家に戻った。そこは異質で、冷たく感じられた。空気は、死んだ関係の亡霊で満ちていた。スタッフに一言も告げず、彼女は自分の人生から彼を排除し始めた。二人の写真を下ろし、「過ち」とラベルを貼った箱に詰めた。彼がいつも買ってくれたクチナシの香りのキャンドルを捨てた。彼の電話番号をスマホから削除したが、暗記していた。捨てられた品物一つ一つが、小さく、満足のいく断絶だった。
初めてのデートから保存していた映画の半券のコレクションを袋に詰めている最中に、玄関のドアが開いた。蓮が戻ってきた。そして、彼は一人ではなかった。
早坂玲奈が彼にもたれかかり、青白く、か弱い様子だった。彼女は繊細なシルクのローブを身につけ、髪は巧みに乱れていた。詩織が箱とゴミ袋に囲まれているのを見ると、彼女の目には、弱々しさや病的な様子はなく、隠しようのない勝利の輝きがあった。
「何してるんだ?」
蓮は、二人の人生の解体された残骸を見て、眉をひそめて尋ねた。
「掃除よ」
詩織は平坦な声で答えた。
「もういらないものを捨ててるの」
蓮はその問題を追及せず、彼の注意はすでに腕にしがみつく女に戻っていた。
「玲奈は静かな場所で回復する必要があるんだ」
彼は尋ねるのではなく、宣言した。
「医者はストレスが彼女の状態に最悪だと言っている。彼女にはここにいてもらう」
彼は玲奈をソファに導き、まるで彼女がガラス細工でできているかのようにクッションにもたれさせた。玲奈は詩織を見上げ、その表情は謝罪と無力感の完璧なブレンドだったが、その目は鋭く、挑戦的だった。それは所有権の宣言だった。ここは今や彼女の家。彼女の男。
詩織は何も感じなかった。怒りと痛みは燃え尽き、凍てついた静けさが残った。
「いいわ」
彼女は箱に向き直りながら言った。
「あなたの家だもの」
蓮は彼女の無抵抗に安堵したようだった。
「ありがとう、詩織。君なら分かってくれると思ってた」
彼はそれから家政婦に向かって言った。
「マリアさん、下の階の客室を玲奈さんのために準備してください。快適にしてあげて」
詩織は彼らを見なかった。彼女は冷静に自分の仕事を続け、まるで幽霊のように家の中を動き回り、壁から自分の存在を体系的に消し去っていった。その後の数日間は、特別な種類の拷問だった。彼女は自分の家で目に見えない傍観者となり、結婚するはずだった男が別の女に尽くすのを見ていた。
彼は玲奈のために果物の皮をむき、小さく、食べやすい大きさに切ることを確認した。彼は何時間も彼女に本を読み聞かせ、その声はかつて詩織の眠れない夜のために取っておかれた、低く、心地よいささやきだった。彼は彼女の薬を管理し、食事に気を配り、彼女が弱さを見せかけたときには抱きしめた。かつては彼女だけのものだった優しさが、今や公然と展示され、彼女の代わりの者に惜しみなく注がれていた。それは、二人が共有したすべての良い思い出を、ゆっくりと、意図的に毒殺する行為だった。
荷造りをしていると、小さな刺繍の入った枕を見つけた。「R + S Forever」。祖母からの贈り物だった。彼女はそれを一瞬持ち、そして二度と考えずにゴミ袋に投げ込んだ。永遠は十年続いた。
彼女の唯一の慰めは、マーマレードだった。蓮が五年前の彼女の誕生日にくれた、ふわふわのオレンジ色の猫。彼は彼女の影であり、冷たく、空っぽの家の中の、暖かく、喉を鳴らす存在だった。彼女が泣くと、彼は彼女の手に頭をこすりつけた。彼女が眠れない夜には、彼は彼女の胸の上で丸くなり、嵐の中の毛皮の錨となった。
ある午後、荷物が届いた。定期的な歯のクリーニングの後、獣医からようやく戻ってきたマーマレードだった。彼の見慣れた顔を見て、彼の幸せそうな鳴き声を聞いて、詩織がここ数週間で感じた最初の本物の暖かさだった。彼女は彼を腕に抱き、彼の柔らかい毛皮に顔を埋めた。一瞬、彼女はかつての自分のかけらを感じた。
マーマレードを腕に抱いて廊下を歩いていると、キッチンに向かう途中の玲奈と出くわした。玲奈の目はすぐに猫に釘付けになった。
「あら、なんて可愛い子なの」
玲奈は、病的なほど甘い声でさえずった。
「抱っこしてもいい?」
「だめ」
詩織は、マーマレードをきつく抱きしめながら、そっけなく言った。
「人見知りなの」
玲奈の顔に苛立ちがちらついたが、すぐに不満げな表情に変わった。
「お願い?私、すごく寂しくて悲しいの。小さな毛玉がいたら、元気が出るのに」
彼女は手を伸ばした。
詩織は一歩下がった。
「だめだって言ったでしょ」
玲奈の不満げな表情は、嘲笑に変わった。彼女は前に飛びかかり、詩織の腕から猫を奪おうとした。マーマレードは驚きと恐怖で、シューッと威嚇し、前足で玲奈の手を引っ掻いた。それは表面的な傷で、ほとんど皮膚を破るほどではなかった。
「痛い!」
玲奈は、まるで撃たれたかのように後ろによろめきながら叫んだ。彼女は手を握りしめ、その顔は痛みと恐怖の仮面に歪んだ。
蓮は彼女の叫び声を聞いて駆けつけた。
「どうした?玲奈、大丈夫か?」
「猫が!」
玲奈は、小さな血の点が盛り上がっている手を掲げながら、すすり泣いた。
「私を襲ったの!理由もなく、いきなり飛びかかってきたのよ!」
「嘘よ!」
詩織は叫んだ。
「あなたが彼を掴もうとしたんでしょ!」
蓮の視線は、玲奈の涙に濡れた顔から詩織の反抗的な顔へと移り、硬くなった。彼の目は玲奈の手の小さな傷に落ち着いた。
「彼女は病気なんだ、詩織」
彼は、危険なほど低い声で言った。
「彼女の免疫系は弱っている。どんな感染症も致命的になりうる」
彼は優しく玲奈の手を取り、まるで致命傷であるかのように、その微小な傷を調べた。
「この家に凶暴な動物を置いておくわけにはいかない」
「彼は凶暴じゃないわ!彼女が挑発したのよ!」
詩織は、心が沈むのを感じながら懇願した。
玲奈は再びすすり泣いた。
「ただ撫でたかっただけなの、蓮。私にはもうあまり時間がないから、彼が友達になってくれるかもしれないって思ったの」
彼女は偽りの恐怖で猫を見た。
「今は彼が怖い」
それだけで十分だった。
「ただの猫だろ、詩織」
蓮は、冷たく、見下したような口調で言った。
「玲奈の健康の方が重要だ。彼女が猫を欲しがっている。残された時間、彼女の伴侶になるだろう」
彼は手を伸ばし、詩織が反応する前に、彼女の腕からマーマレードをひったくった。
「やめて!」
詩織は、彼に向かって飛びかかりながら叫んだ。
彼は怯えて身をよじる猫を、勝ち誇った玲奈に手渡した。
「よしよし、坊や」
玲奈は、偽りの甘さに満ちた声でさえずりながら、その毛皮を撫でた。
「返して、蓮!彼は私の猫よ!」
詩織は、声が震えながら叫んだ。
「子供みたいなこと言うな」
蓮は、彼女と玲奈の間に立ちながら、ぴしゃりと言った。
「これが最善なんだ。彼女の最後の願いの一つを叶えるのは、俺たちができる最低限のことだ」
彼は背を向け、今やマーマレードをきつく抱きしめ、詩織にしか見えない残酷で勝利に満ちた笑みを浮かべている玲奈を連れて行こうとした。猫は彼女の腕の中でもがき、苦しそうな鳴き声を上げた。
詩織は冷たい恐怖に襲われた。こんなことは許せない。彼女はその夜、蓮がシャワーを浴びるのを待った。家は静かだった。彼女は心臓をドキドキさせながら、玲奈の部屋に忍び寄った。猫を取り返さなければ。
ドアは少し開いていた。彼女は中を覗き込み、そして見たものに血の気が引いた。