話 2
午後5時過ぎ、雲居美月はパソコンからUSBメモリを抜いて部屋を出た。
それを蘭亭倶楽部へ届けるためだ。京帝大学からそう遠くなく、歩いて10分ほどの距離にある。
道を歩いている時、美月はふと背後から尾行されている気配を感じた。さっと振り返ると、視線の先に怪しげな黒ずくめの男が2人見えた。
そのうちの1人が小声で言った。「あいつだ。やれ!」
それを聞き、美月は目を鋭くした。
近くは人や車の往来が多い。こんなところで事を構えて目立ちたくはなかった。美月は足を速めると、するりと路地裏へ身を滑り込ませた。
2人の男も慌てて後を追ったが、細長い路地には誰もおらず、少女の影すら見当たらなかった。
男たちは目を丸くし、まるで幽霊でも見たかのような顔をした。
「分かれ道もないのに、あの女どこへ消えやがった? なんであんなに速いんだ!」
「どうやら只者じゃないな。俺たち2人が送り込まれたわけだ。奥を探すぞ」
ただの小娘だと思っており、2人なら簡単に捕まえられると高をくくっていたが、相手は予想以上に手強く、自分たちの目の前で一瞬にして姿を消してしまった。
小娘1人捕まえられないとは、これでは面目丸つぶれだ。
美月は難なく2人を撒いた後、別の通りへ回り込み、再び蘭亭倶楽部に向かった。
しかし、今日はとことんツイていないらしい。
不審な男たちを撒いたばかりだというのに、今度は倶楽部の前で藤堂家の一家と出くわしてしまった。
藤堂妃奈が真っ先に彼女に気づき、棘のある口調で言った。「なんであなたがここにいるの。誰の許しを得て来たわけ?」
2人は同じ京帝大学の同級生だが学部が違い、妃奈は以前から美月のことが気に入らなかった。
美月が自分の兄の婚約者だと知った時はさらに嫌悪感を抱いた。幸い、祖父も両親もこの縁談を認めていないからよかったものの、そうでなければ気味が悪くて死んでしまいそうだ。
今日は彼女の誕生日で、家族や友人たちがここで誕生パーティーを開いてくれることになっている。
まさか美月が押しかけてくるなんて、この女の厚かましさには呆れた。
その場にいた人々が一斉に視線を向け、美月を見る目はまるで疫病神でも見るかのように嫌悪に満ちている。
美月は冷ややかな視線を妃奈に向けた。「何? この倶楽部って、あなたの家が経営してるとでも?」
その時、藤堂夫人が歩み寄り、頭ごなしに決めつけた。「あなたって本当に身の程知らずね、こんなところまで追いかけてくるなんて!はっきり言わせてもらうわ、美月。あの時、私たちがあなたの家に1000万を渡したことで、義理は果たしたはずよ。 あなたと息子の縁談なんて、藤堂家は絶対に認めないわ。うちの息子があなたのような階級の女と結婚するわけないでしょう。とっとと諦めなさい」
藤堂家に迎え入れるなら、家柄の釣り合うお嬢様であって、こんな身分の低い人間ではないのだ!
美月は冷笑を漏らした。「藤堂夫人、女性スキャンダルに暇がない息子さんには、これっぽっちも興味ありませんわ。取り越し苦労ですよ」
「じゃあ、なんで私の誕生パーティーに来たわけ?」 妃奈は腕を組み、皮肉たっぷりに言った。
蘭亭倶楽部といえば、京帝でも有名な金持ちの遊び場であり、富裕層の楽園だ。美月のような一般階級が足を踏み入れられる場所ではないため、妃奈は美月が藤堂家を頼ってやってきたのだと決めつけている。
「でも、来ても無駄よ。お兄ちゃんは最近海外にいるから、あなたに誘惑するチャンスなんてないわ」
もう1人の華やかな服を着た女が言った。「この子、身の程を知らないっていうより、ただ強欲なだけじゃない?1000万なんてすぐに使い切っちゃうでしょ。藤堂家に嫁げば薄汚い境遇から抜け出せるし、京帝に留まって贅沢な暮らしができるもの。この縁談を手放すはずがないわ」
妃奈は鼻で笑った。「うちの家はこんな女、絶対にお断りよ!」
藤堂家の当主は暗い顔で、不愉快そうに美月を睨みつけた。以前、門前払いしてあんな屈辱を与えたというのに、まだ身の程をわきまえずに付きまとうとは。
藤堂家の当主は父の方に振り返り、「お父様、先に入っていてください。ここは私が片付けます」
(今日は娘の誕生日だ。万が一、美月がここで騒ぎでも起こせば、恥をかくのは藤堂家の方だ)
しかし、藤堂老当主は返事をせず、美月の前に歩み寄った。「美月。君のお父さんには確かに恩がある。あの状況で私がこの縁談を承諾したのは、彼に安心してほしかったからだ。 だが、分かってほしい。 君は我が藤堂家の長孫の嫁にはふさわしくない。もちろん、見捨てるような真似はしないよ。今後何か困ったことがあれば、遠慮なく来なさい。私が解決してあげよう」
彼は一呼吸置くと、声を潜めて続けた。「だが、ここで騒ぎを起こして藤堂家の顔に泥を塗るような真似をすれば、君にとっても不利益しかないはずだ」
美月は胸の奥から込み上げた不快感を覚え、冷ややかな視線で彼らを一瞥した。「あなたたち、言葉が通じないんですか? それとも耳がおかしいの? 前にも言いましたよね。あの時は婚約を白紙に戻しに行っただけ。今日はただの偶然です。私は藤堂家になんて、これっぽっちも興味はありません」
かつて父と藤堂老当主が交わした約束では、美月が20歳になったら藤堂家の長孫と結婚し、嫁ぐことになっている。
それが自分を守り、拠り所になってほしいという父なりの愛情であることは理解していた。だが、彼女自身は結婚などしたくなかったし、藤堂家の庇護も必要としていない。だからこそ、京帝へ来てからの数年間も、彼らとはほとんど関わりを持たずに過ごしてきたのだ。
今年、ちょうど20歳を迎えた彼女は、一週間前に婚約解消の相談をするため藤堂家へ赴いた。ところが、藤堂家の人々は彼女が縁談を迫りに来たのだと勘違いし、顔を見せないばかりか門前払いしたうえ、家政婦に散々侮辱的な言葉を浴びせたのだ。
あの瞬間、彼女は藤堂家の本性をはっきりと悟った。
手切れ金だというその1000万円にしても、彼女は実物を見たことすらないし、そもそも必要などなかった。
その言葉を聞き、その場にいた者たちは一様に顔を黒くした。
彼らが美月の言葉を信じるはずもない。どうせプライドを傷つけられ、強がっているだけだと決めつけた。
藤堂家の当主は鼻で笑った。「そうであることを願うよ!美月、大人しくしていれば、この京帝に置いてやってもいい。だが、もし身の程をわきまえない真似をするなら、情けをかける義理はないからな」
藤堂老当主はすでに苛立ちを隠せなくなっている。「もういい、中に入ろう」
本来の目的の方が重要だ。美月は彼らをそれ以上相手にせず、再び倶楽部の奥へ歩き出した。
「待ちなさい!」美月がまだ倶楽部へ向かおうとするのを見て、妃奈が追いすがった。「まだ入る気なの? 自分の身分もわきまえないで。ポケットにいくら入ってるか知らないけど、ここはあなたが来れるような場所じゃないのよ」
美月は冷ややかな目で彼女を横目で一瞥し、氷のような声で言い放った。「退きなさい」
妃奈がさらに何か言い返そうとしたその時、突然、倶楽部のマネージャーがこちらへ歩いてきた。
「美月様、いらっしゃいましたか」
美月は彼に視線を向けた。「瑞樹さん」
マネージャーはかすかに微笑み、恭しく案内っした。「お待ちしておりました。さあ、こちらへ」
美月:「ええ」
その光景を目の当たりにして、妃奈はその場に釘付けになった。なんと、倶楽部のマネージャーが自ら美月を出迎えたのだ!
一瞬にして、藤堂家の人々の顔色が変わった。
蘭亭倶楽部は背後に強大な権力を持っており、ただのマネージャーであっても侮れない人物だ。
藤堂家でさえ、マネージャーに直接接待されるほどの資格はないというのに、美月ごとき小娘に、そんな価値があるっていうの?
妃奈は怒りで顔を青ざめさせた。「どういうことなの?」
隣にいた友人がすぐさま口を挟んだ。「きっとアルバイトに来たのよ。あの子、もうインターンを始めたらしいし、お金に困ってるんじゃない?」
藤堂夫人が娘のそばに寄り添った。「さあ、今日はあなたの誕生日でしょう。あんな得体の知れない子、放っておきなさい」
権力も後ろ盾もない孤児がこんな場所に来る理由など、せいぜいアルバイトか、金持ちの遊び相手になるくらいだろう。藤堂夫人は気にも留めなかった。
それでも腹の虫が治まらない妃奈は、母の腕にすがりついた。「お母さん、美月を京帝大学から追い出せない?あんな顔、もう二度と見たくない」
話 3
「あの子のお父さんは、少なくともおじい様を助けてくれた恩人よ。私たちもあんまりな真似はできないわ。あんな子、相手にする必要はないわ。あなたの品位を落とすだけよ」 藤堂夫人は言った。
妃奈:「でも、うちの大学のお金持ちの男の子たちが、何人もあの子に気があるみたいなの。もし万が一、名家の御曹司でも籠絡されたらどうするの?」
「それは夢物語ね!あの子の身分じゃ、数日でもお金持ちの遊び相手になれれば御の字よ」 藤堂夫人の口調には軽蔑が満ちている。
妃奈は唇を噛み締め、それ以上は何も言わなかったが、心の中では依然として不満が渦巻いている。(遅かれ早かれ、あの女を京帝から追い出してやる!)
VIPルーム。
長谷川亮はソファに深く寄りかかり、相変わらずの冷たく整った顔立ちで、切れ長の双眸で虚空の一点を見つめ、思索に耽っている。
向かいのソファで談笑している2人の男の存在など、完全に無視している。
その時、少し顔色を悪くした高木拓海が入ってきた。亮のそばまで歩み寄ると、身を屈めて小声で報告した。「長谷川社長、例の女ですが……。捕まえられませんでした。逃げられました」
それを聞き、亮の顔色が沈んだ。わずかに視線を向けた。「なんだと?」
拓海は緊張した面持ちで答えた。「私の不手際です!」一呼吸置き、彼は続けた。「向かわせた者の報告によりますと、あの女はとてつもなく素早く、一瞬で姿を消したそうです。熟練のボディーガード二人を撒くとは、なかなかの手練れのようです」
「本当にあいつが腕が立つのか、それともお前が送った部下が無能なだけか?」
拓海は言葉に詰まった。あの2人は傭兵出身のボディガードだ。それが小娘1人捕まえられなかったとは、彼自身も正直驚いたのだ。
「近くの監視カメラは調べたのか?」亮は再び尋ねた。
「調べましたが、映っていませんでした。意図的に監視カメラの死角を突いたようです」
ボディガードを振り切り、さらに監視カメラまで避けるとは。
亮の瞳の色がわずかに深まり、その口元にふと微かな笑みが浮かんだ。さすがは京帝大学コンピューターサイエンス学部の秀才だ。なかなかの食わせ物だな。
美月はマネージャーの後について個室の前まで来た。マネージャーがドアを押し開け、「どうぞ」と促した。
「ありがとうございます」 美月は足を踏み入れた。
マネージャーも一緒に中へ入り、告げた。「榊様、美月お嬢様がいらっしゃいました」
ソファに座っている榊悠人はすぐにこちらへ視線を向け、立ち上がった。「美月、来てくれたんだね」
悠人は蘭亭倶楽部の若きオーナーだが、現在はまだ倶楽部の経営を引き継いでおらず、IT企業を経営している。
仕事では敏腕を振るうが、普段は温和で非常に紳士的だ。
2人は坂本教授を通じて知り合った。悠人は美月の能力を高く評価しており、自分の会社へ入るよう誘ったのだ。
技術での出資で、労働時間は自由。ただ、現時点ではまだ正式に入社してはいない。
その時、傍らにいた3人の視線もこちらに向けられた。
クリスタルシャンデリアの下、華奢なシルエットが歩み寄ってくる。絹のような長い髪、雪のような肌。ぱっちりとした瞳に白い歯が、光を浴びてきらきらと輝き、この世のものとは思えないほど美しい。
「榊社長」 美月はかすかに微笑んだ。しかし、ふと亮と視線がぶつかり、その笑顔が一瞬で凍りついた。
(昨夜のあの男!)
(どうして彼がここにいるの?どうして悠人と一緒にいるの?)
拓海も一瞬驚いた表情を見せ、すぐに小声で囁いた。「長谷川社長、あの女です!」
亮はもちろん気づいた。深い瞳で女を見つめるが、その暗い瞳の奥からはどんな感情も読み取れなかった。
美月は平静を装い、悠人の元へ歩み寄ると、手に持っていたUSBメモリを差し出した。「データはすべて復元しました。確認してください」
悠人はUSBメモリを受け取り、感謝の意を露わにした。「ありがとう。お疲れ様」
「榊社長、お気になさらず」
桐山大輝はだらしない姿勢でソファに寄りかかり、遊び人風の態度で美月を見つめながら興味津々に尋ねた。「榊社長、こちらの可愛らしいお嬢さんは?」
「京帝大学コンピューターサイエンス学部の学生で、我が社の未来のエンジニアである雲居美月さんだよ」 悠人が答え、すぐさま紹介を続けた。「美月、こちらは桐山宝飾グループの次男、桐山若様。 そしてこちらは桐山若様のご友人で、GEグループの社長である長谷川社長だ」
亮と大輝といえば、京帝で有名な二大財閥のトップだ。
美月の心に驚愕が走った。
(彼が、亮!)
(昨夜、あろうことか自分が手を出した挙句、小切手を叩きつけた相手が長谷川亮だったなんて!)
(ということは、先ほど自分を捕まえようとしていた2人は、彼の手の者だということになる)
(なんという皮肉な偶然だろう。これではまるで、自ら飛んで火に入る夏の虫ではないか)
再び亮の視線と絡み合い、美月はさすがに少し後ろめたさを覚えた。だが、表面上はあくまで平静を装い、淡々とした声で挨拶した。「桐山若様、長谷川社長」
大輝は面白そうに笑って頷いた。
短い沈黙の後、亮が不意に口を開いた。「雲居さん、またお会いしましたね」
この『また』という言葉の響きには、深い意味が込められている。
その言葉に、悠人は少し驚いたように眉を上げた。「美月、長谷川社長とお知り合いだったのかい?」
亮が何か言おうとする前に、美月はすかさず口を挟んだ。「いえ、知り合いというわけでは。以前、一度だけお見かけしたことがある程度です。その時はどなたか存じ上げなかったのですが、まさか長谷川社長だったとは」
悠人は納得したように頷いた。「なるほど、そういうことか」
亮がそれ以上追及してくることはなく、美月は密かに安堵の息を吐いた。
大輝は胡散臭げな視線を2人の顔へ走らせた。ただの一度会っただけ、という単純な関係ではないと薄々感じ取っている。そもそも、亮が見知らぬ女に自ら話しかけるなど、彼にとっても初めて見る光景だ。
驚きを禁じ得ない。
彼は面白がるように笑みを深め、尋ねた。「美月さん、一杯どう?」
美月は愛想笑いを作って断った。「申し訳ありませんが、お酒は飲めないんです」
(もう二度とお酒なんて飲むものか!)
「飲めないだと?」亮が冷淡に言い放った。
昨夜は明らかに酒の匂いをぷんぷんさせて彼の部屋に転がり込んできたというのに! 今になって、随分と猫を被るものだ。
美月は顔色1つ変えずにしれっと言い放った。「アルコールアレルギーなものですから」
「美月、なんだか顔色が良くないね?どこか具合でも悪いのかい?」 悠人が不意に尋ねた。その温和な声には気遣いが滲んでいる。
美月は誤魔化すように小さく咳払いをした。「いいえ、少し急いで歩いてきたせいかもしれません」
亮は冷ややかな眼差しで女を睨みつけた。訓練された2人のボディガードを瞬時に振り切ったのだから、そりゃあ急ぎもしただろう。だが、結局は巡り巡って自分の手の中へ飛び込んできたのだ。今度こそ逃がしはしない。
「それなら、立ったままではなく座るといい」 悠人が言った。
美月はこれ以上、この場に留まりたくはなかった。「お気遣いなく。USBメモリはお渡ししましたし、そろそろ大学に戻ります」
悠人は頷いた。「そうか。それなら、大学に戻ったら無事だとメッセージを入れてくれ」
「はい」
美月は再び亮と大輝に視線を向け、軽く会釈をして別れの挨拶に代えると、きびすを返して部屋を出た。
大輝が口角を吊り上げ、からかうように口を開いた。「榊社長は、部下全員にそれほどお優しいのか? それとも、あの美人エンジニアにだけ特別ってわけかな?」
悠人は柔らかく微笑んだ。「桐山若様、ご冗談を。私は常に分け隔てなく、すべての仲間を気にかけているつもりですよ」
その言葉の端々からは、彼が美月を単なる部下とは見なしていないことが窺えた。
亮がふいに立ち上がった。「ゆっくり歓談してくれ。俺は用があるからこれで失礼する」
2人の返事も待たず、彼は大股で部屋を出ていった。
拓海も足早にその後を追った。
大輝は彼のそんな態度に慣れっこだったが、亮と親交の浅い悠人は、自分の気配りが足りず気を悪くさせたのではないかと案じていた……。
彼の瞳に浮かんだ懸念を見て取り、大輝が声をかけた。「彼はいつもああなんですよ。榊社長、お気になさらず。さあ、我々は続けましょう。一杯どうぞ」
そう言って、彼はグラスを持ち上げた。
悠人も視線を戻し、自身のグラスを手にして応じた。「これはご丁寧に、桐山若様」
美月が個室を出て数メートル歩いたところで、背後から近づく足音に気がついた。
「美月様、少々お待ちを」 拓海が彼女を呼び止めた。
(やはり……)
美月は足を止めて振り返った。長身で均整のとれた二つの人影が、彼女に向かって歩いてきた。
亮の正体を知ったその瞬間から、昨夜の出来事はまだ終わりを迎えていないのだと、彼女ははっきりと悟っている。