1

永野凛歌菜 POV:

夫の浅田慎和は, 私の後輩である増沢梓紗と不倫していた.

その頃, 私は夫の違法取引が原因で反社会的勢力に誘拐されていた.

私が無残に殺害されている間, 夫は私たちのアトリエで, 私のデザイン画の上で梓紗と体を重ねていた.

死後七日間の還魂という奇跡を与えられ, 血と泥にまみれて彼の前に現れた私に, 夫が放った第一声は心配の言葉ではなかった.

「なぜ, そんなに汚い格好をしているんだ? やめてくれよ, 本当にうんざりする」

彼は自分の評判が傷つくことだけを心配していた.

彼は私を愛していたわけではなかった. ただ, あの女と一緒に私の才能を奪おうとしていただけ. 私の命も, 夢も, 魂も, すべてが踏みにじられた.

復讐の七日間は絶望のうちに終わった. しかし, 再び目を開けると, 私は彼と出会う前の高校時代に戻っていた.

チャイムが鳴り響く中, 私の指は迷いなく離婚届の最終行に署名した.

第1章

永野凛歌菜 POV:

車の窓の外は, 雨が激しく打ち付けていた. ワイパーが必死に視界を確保しようと左右に動くが, まるで世界が涙を流しているかのようだった. 私は助手席に座り, ただ前を見つめていた. 隣の男は, 時折私の方をちらりと見ては, すぐに視線を前に戻す. 彼の顔には焦りの色が濃く浮かんでいた.

「心配するな, リカナ. すぐに着くから」

男の声は震えていた. 私は何も答えない. 答える気力もなかった. 数時間前, 彼に連れられて向かった場所は, 人気のない倉庫だった. そこで男は, 私に無理やり違法な取引の書類にサインさせようとした. 私が拒否すると, 男は豹変した.

「お前は俺の妻だ. 俺の言うことを聞けばいい! 」

その言葉が, 私の唯一の支えだった信頼を打ち砕いた.

一方, 都心のアール・ジュエリー社のアトリエでは, 私の夫である浅田慎和が, 私の後輩である増沢梓紗と密会していた. アトリエの大きな窓からは, 東京の夜景が宝石のように輝いていた.

「慎和さん... 」

梓紗の声は甘く, ねっとりとしていた. 彼女は慎和の腕に抱かれ, 彼の胸に顔を埋めている. 慎和は, 梓紗の黒髪をゆっくりと撫でた.

「梓紗. 君のデザインは素晴らしい. リカナにも劣らない才能だ」

慎和の言葉に, 梓紗は歓喜の表情を浮かべた. 彼女の瞳は, 欲望に燃え上がっていた.

私の車は, 薄暗い裏道に入り込んだ. 男は苛立ちを隠せない様子でハンドルを叩いた. 突然, 後方から猛スピードで接近するライトが見えた. 男はぎょっとし, 急ブレーキを踏んだ. 車体が大きく揺れ, 私はシートベルトに体が締め付けられる.

「ちくしょう! 誰だ! 」

男が叫ぶと同時に, 後続車が横付けになった. 窓が下がり, 中から数人の男たちが銃を構えているのが見えた. 彼らの瞳は血走っていた.

「浅田慎和の妻か! 」

声が響き渡り, 私は凍り付いた. 彼らが探しているのは私だ. 慎和の違法な取引が原因で, 私が狙われている.

慎和は梓紗の首筋にキスを落とした. 梓紗は嬌声を漏らす. アトリエの壁には, 私がデザインしたジュエリーのスケッチが飾られ, その輝きが二人の情事を照らしていた. 私が心血を注いだ作品たちが, 今, この裏切りの舞台の背景になっていた.

男たちが車から私を無理やり引きずり出した. 私は抵抗したが, 数人に取り囲まれ, 腕を締め上げられた. 彼らの形相は鬼のようだった.

「慎和はどこだ! 吐け! 」

男の一人が私の髪を掴み, 顔を歪めて叫んだ. 私は痛みと恐怖で声が出なかった.

慎和は梓紗の官能的な吐息に耳を傾け, 恍惚の表情を浮かべていた. 彼らはアトリエのソファに倒れ込み, 互いの服を剥ぎ取っていく. 私のデザインした作品たちは, まるで静かにこの背徳の光景を見下ろしているようだった.

男たちは私の言葉を待たずに, 私を近くの廃工場へと引きずり込んだ. 工場内は薄暗く, 錆びた機械の影が不気味に揺れていた. 私は地面に叩きつけられ, 男たちの罵声が耳元で響く.

「浅田慎和の女だ! こいつを痛めつけろ! 」

彼らの足が, 私の腹部を容赦なく蹴り上げた. 激痛が全身を駆け抜け, 私はうめき声を上げた. 視界が歪み, 呼吸が苦しくなる.

慎和は梓紗の体を貪り, 彼女の甘い声に酔いしれていた. 彼らは私の思い出が詰まったアトリエで, 私の功績を横取りしようとしている. この場所で, 私がどれだけの夢を描き, どれだけの苦悩を乗り越えてきたか, 彼らは知りもしない.

男の一人が, 私の顔に唾を吐きかけた. 私の意識は朦朧とし始めていた. 体中が痛みに悲鳴を上げ, 生暖かい液体が口から溢れる感覚があった.

「まだ抵抗するか! 」

男の声が, 頭の奥で響いたかと思うと, ナイフの冷たい感触が私の腹を襲った. それは一度では終わらなかった. 何度も, 何度も, 鈍い痛みが, やがて何も感じなくなるまで続いた. 私は, 自分の体が冷たくなっていくのを感じた.

「こんな女, 生かしておいても仕方ない」

冷たい声が聞こえ, 私の体は力なく地面に横たわった. 彼らは私をゴミのように扱い, 工場裏の川に投げ捨てた. 冷たい水が私の体を包み込み, ゆっくりと意識が遠のいていく. 私の命は, そこで途絶えた.

「慎和さん, 愛してるわ」

梓紗の声が, 慎和の耳元で囁かれた. 彼らはアトリエの床に広がる私のスケッチの上で, 互いの体を重ねていた. 私の描いた夢も, 私の人生も, 全てが踏みにじられていく.

私は死んだ. しかし, 意識は鮮明に残っていた. 七日間の還魂という奇跡が, 私に与えられたのだ. 冷たい川底で, 私の魂は復讐の炎を燃やし尽くしていた. 全てを失った私に残されたのは, 夫への, そして後輩への, 凍てつくような憎しみだけだった.

「慎和... 」

私の声は, 風に乗って虚しく響くだけだった. 私の意識は, 自宅のアトリエへと向かっていた. そこには, 慎和が一人でいた. 彼は私の死んだ体には目もくれず, リビングでくつろいでいた.

アトリエのドアを開けると, 彼はソファに深く座り, 携帯電話を弄っていた. テレビからは, 私が手塩にかけて育てたブランドの新作発表会のニュースが流れている. 画面には, 梓紗が私のデザインしたジュエリーを身につけ, 慎和の隣で笑顔を振りまいていた.

慎和は, 私の存在に気づくことなく, 画面の中の梓紗に柔らかな笑みを向けていた. 私の体は, まだ冷たい川底に沈んでいるというのに.

「慎和」

私の声は, ひどく掠れていた. 彼が顔を上げた. その瞳が, 私を捉える. しかし, それは驚愕や悲しみではなく, 苛立ちに満ちたものだった.

「リ, リカナ... ? 君, どうしたんだ. そんな格好で... 」

彼の視線は, 私の全身を舐めるように見ていた. 私の服は泥と血にまみれ, 髪は乱れている. 顔は青白く, まるで幽霊のようだっただろう. まさに幽霊だが.

「ねぇ, 君, まさか僕たちの関係を外で言いふらしたのか? そのせいで... ? 」

彼の言葉は, 私の心をさらに深く抉った. 彼は私の安否など気にも留めていない. 彼が心配しているのは, 自分の評判だけだ.

「なぜ, そんなに汚い格好をしているんだ? やめてくれよ, 本当にうんざりする」

慎和の言葉は, 氷のように冷たかった. 私の体は, 既に限界を迎えていた. 血の匂いと泥の感触が, 私を窒息させそうだった. でも, 私はまだ死ねない. 復讐を果たすまでは.

「慎和. 私と離婚してほしい」

私の声は, 驚くほど冷静だった. 彼の顔から, 一瞬にして血の気が引いた.

「は? 何を言っているんだ, リカナ. 君は疲れているんだ」

彼は, 私の言葉を冗談だとでも思っているようだった.

「いや, 疲れてなんかいない. 私は, あなたと離婚したい」

私はさらに強く繰り返した. 彼は顔をしかめ, ソファから立ち上がった.

「リカナ, やめてくれ. そんなことを言わないでくれ. ごめん, 僕が悪かった. 君を心配させすぎた」

彼はそう言って, 私に歩み寄ろうとした. その腕が, 私を抱きしめようと伸びてくる. 私は, その腕に拒絶感を覚えた. 彼の体温が, 私には毒のように感じられた.

「嘘だ. あなたは私を心配なんかしていない. 私の身体が汚れている, ただそれだけを気にしている」

彼の腕は, 空中で固まった. 私の言葉が, 図星だったのだろう.

「そんなことない. リカナ, 君は僕の妻だ. 僕がどれだけ君を愛しているか, 知っているだろう? 」

彼の声は, 必死に懇願するようだった. しかし, その言葉に, 何の感情もこもっていないことを, 私は知っていた.

「愛? あなたの愛なんて, もう信じられない」

私は冷たく言い放った. 彼は茫然とした表情で私を見つめている.

「なぜそんなことを言うんだ? 僕はいつも君を愛しているじゃないか」

彼はそう言いながら, 私の腕を掴んだ. その手のひらが, 私には熱く, 不快だった.

「やめて. 触らないで」

私は彼の腕を振り払った. 彼の顔には, 怒りの色が浮かんでいた.

「リカナ, いい加減にしろ. 一体どうしたんだ? どこで何をされてきたんだ? なぜ, そんなに僕を拒絶するんだ? 」

彼の問いかけは, 私にはただの言い訳にしか聞こえなかった.

「あなたが, 私をこの場所に置き去りにしたからだ」

私の言葉に, 彼の瞳が揺れた. 彼は動揺している.

「置き去り? 何のことだ? 僕は君を愛している. 君が僕にくれたもの, 全てを愛している. 君と僕の結婚は, 神聖なものだ. 忘れたのか? 僕たちが永遠の愛を誓った日を」

彼は, 私たちが初めて会った日のことを持ち出した. あの頃の彼は, 純粋で, 私だけを見ていた.

「僕は, 君と会った時から, 君だけを愛していた. 君の才能に魅了され, 君の全てを必要としていた. 僕たちの未来は, 永遠に続くはずだった」

彼の言葉は, まるでどこかの脚本を読んでいるかのようだった. 私は冷笑を浮かべた.

「永遠? 永遠なんて, 最初からなかった. あなたは, 最初から私を裏切っていたんだ」

私の言葉に, 慎和は顔色を変えた.

「何を根拠にそんなことを言うんだ? 僕は君しか見ていない」

彼の必死な否定に, 私はさらに冷酷な言葉を浴びせた.

「あなたが私の後輩, 増沢梓紗と不倫していたこと, 知っているわ. 私が誘拐された日, あなたは彼女と密会していた. 私の命が危険に晒されている時, あなたは何をしていたの? 」

彼の顔は, 真っ青になった. 私の言葉が, 彼を打ち砕いたのだ.

「そんな, まさか... リカナ, 君は何を言ってるんだ? 梓紗は, ただの後輩だ. 君が可愛がっていた後輩じゃないか」

彼は必死に否定しようとするが, その声は震えている.

「可愛がっていた? ええ, そうね. でも, 彼女は私の才能に嫉妬し, あなたを誘惑した. あなたはそれに乗った. 結局, あなたも彼女も, 私の才能と私の地位を奪おうとしただけだ」

私の言葉に, 慎和は絶句した. 彼は何も言い返せない.

「信じられない. 君は, 僕が君に劣等感を抱いていたから, 梓紗と不倫したとでも言うのか? そんな馬鹿な」

彼は怒りに顔を歪めた. 彼のプライドが傷ついたのだろう.

「いいえ. あなたの違法な取引が原因で, 私は反社会的勢力に誘拐され, 無惨に殺害された. その時, あなたは何をしていたの? 後輩と密会していたんでしょう? 」

私の問いかけに, 彼の顔は真っ白になった. 彼は, 私の死の真相を知らないのだ.

「殺害? リカナ, 何を言っているんだ? 君は生きているじゃないか. ここにいる」

彼は私の存在を信じられないといった様子で, 混乱している.

「いいえ, 私は死んだの. これは, 死後の七日間の還魂. あなたへの復讐のために, 私は戻ってきた」

私の言葉に, 彼の顔は恐怖に歪んだ. 彼は, 私の言葉を信じ始めたのだろう.

「そんな, まさか. 幽霊だというのか? 君は, 冗談を言っているんだ」

彼はそう言って, 私から距離を取ろうとした. 彼の瞳には, 明らかに怯えの色が浮かんでいる.

「冗談じゃない. 離婚届にサインして. そして, 私のデザインした作品の全ての権利を私に戻して」

私の要求に, 彼は顔を歪めた.

「作品の権利? なぜそんなことを言うんだ? 君のデザインは, 僕のブランドの成功に不可欠だ. 君が, 僕のブランドを支えてきたじゃないか」

彼の言葉は, 私にはただの言い訳にしか聞こえなかった. 彼は私の才能を利用し, 自分の欲望を満たしてきたのだ.

「私の作品は, 私の魂だ. あなたや, あの女なんかに渡すものか」

私の言葉に, 彼は唇を震わせた. 彼は何も言い返せない.

その時, アトリエのドアがゆっくりと開いた. 中から現れたのは, 増沢梓紗だった. 彼女は慎和のシャツを身につけ, 艶やかな笑顔を浮かべていた.

「慎和さん, 何を騒いでいるの? もう, 夜が明けるわ」

梓紗の声は甘く, ねっとりとしていた. 彼女は私を見て, 一瞬にして笑顔を消した. その瞳には, 隠しきれない優越感が浮かんでいる.

「リカナ先輩? なぜ, こんなところに? しかも, そんな格好で... 」

彼女は私を蔑むような目で見ていた. 私の背筋が凍り付いた.

「梓紗. なぜ, 君がここにいる? 」

慎和は動揺を隠せない様子で, 梓紗に問いかけた.

「あら, 慎和さん. 私たちは一晩中, 一緒にいたじゃない. 忘れたの? 」

梓紗の声は, 挑発的だった. 彼女は私の方をちらりと見て, 悪意のこもった笑みを浮かべた.

「私, 今夜は慎和さんの隣で, 先輩の作品について語り合っていたのよ. 慎和さんも, 私のデザインが先輩にも劣らないって褒めてくださったわ」

梓紗の言葉は, 私の心をさらに深く抉った. 彼女は私の功績を横取りし, 私の場所を奪おうとしている.

「本当に, 情けないわね, 先輩. 私に嫉妬しているんでしょう? でも, 慎和さんはもう, 私のものよ」

梓紗の言葉に, 私は怒りで全身が震えた. 私の命が危険に晒されている時, 彼らはここで, 私の作品を踏み台に, 私の夫を奪い, 私を嘲笑っていたのだ.

「慎和. これが, あなたの答えなのね」

私の言葉に, 慎和は顔を歪めた. 彼は何も言わない. その沈黙が, 私の心をさらに深く傷つけた.

「いいわ. もういい. あなたとは, 終わりにする」

私はそう言って, 彼の目の前に離婚届を突きつけた. 彼の顔は, 絶望に歪んでいる.

「リカナ... ! 」

彼の声が響くが, 私はもう振り返らない. 私の心は, 完全に死んでいた.

2

永野凛歌菜 POV:

慎和は一晩中, 私の元へは戻らなかった. 私はソファに倒れ込んだまま, 冷え切った部屋で夜を明かした. 全身が泥と血にまみれ, その感触が肌にべっとりと張り付いている. この身に宿る穢れを洗い流したい一心で, 私は震える体を引きずり, バスルームへと向かった.

シャワーを浴びながら, 熱いお湯が皮膚を洗い流していく. しかし, 体の汚れは落ちても, 心にこびりついた裏切りの汚泥は, 決して洗い流されることはなかった. 私はシャワーの下で膝を抱え, ただ耐えるしかなかった. 心臓が鉛のように重く, 呼吸が浅くなる. めまいに襲われ, 私は意識を失いかけた.

その時, ぼんやりとした意識の中で, 温かい腕に抱きしめられる感覚があった. 誰かが私の名前を呼んでいる.

「リカナ... リカナ! 」

その声に, 私はゆっくりと目を開けた. そこには, 慎和がいた. 彼は私の異常な状態に気づき, 慌てた様子で私を抱き起こそうとしていた. 彼の顔には, 焦りと動揺が浮かんでいる.

「リカナ, しっかりしろ! 君の顔色がおかしい. 今すぐ病院へ行くぞ! 」

彼の声は必死だった. しかし, 私の脳裏には, 過去の記憶がフラッシュバックしていた.

それは, 私たちがまだ若かった頃の記憶だ. 登山中に突然の土砂崩れに巻き込まれた時, 慎和は迷わず私を庇い, その身を挺して私を守ってくれた. 彼の背中には, 大きな岩がぶつかり, 深い傷跡が残った.

「リカナ, 大丈夫か? 怪我はないか? 」

彼は血まみれの体で, 私を心配してくれた. 私は震える手で, 彼の顔に触れた.

「慎和... 」

私たちは, 土砂崩れで孤立した山中で, 何日も助けを待った. 食料もなく, 水も尽きていく中で, 慎和は常に私を励まし続けてくれた.

「大丈夫だ, リカナ. 僕が必ず君を守る. 諦めるな」

彼の言葉が, 私の唯一の希望だった. あの時, 私たちは生死の境を共に彷徨い, 互いの存在がどれほど大切かを痛感したのだ. 生きて山を下りた時, 私たちは誓い合った. どんな困難があっても, 永遠に寄り添い, 互いを守り合うと. その誓いは, 私にとって何よりも神聖なものだった. あの時の私は, 私たちの関係がどんな嵐にも耐えうると, 心から信じていた. 彼の愛は, 私の全てだった.

しかし, 今の目の前の慎和は, あの時の彼とは全く違う.

気がつくと, 私は病院のベッドの上にいた. 体は重く, 頭はガンガンと鳴っていた. ゆっくりと目を開けると, ベッドの横に慎和が座っているのが見えた. 彼は疲労困憊といった様子で, 顔色は悪く, 目の下には濃いクマができていた.

私はゆっくりと手を伸ばし, 彼の頬に触れた. 彼の肌は冷たかった. 彼は私の手に気づき, はっと顔を上げた. その瞳には, まだ動揺の色が残っている.

「リカナ! ? 目が覚めたか! ? 」

彼はそう言って, 私を強く抱きしめた. その腕は震えていた.

「ごめん, リカナ. 本当にごめん. 僕が, 君を一人にしたから... 」

彼の声は涙で掠れていた. 彼は私が意識を失っていた間, ずっとここにいたのだろうか.

「君が突然倒れたから, 本当に心臓が止まるかと思った. もう, 二度と君を離さない」

彼の声は, あの時の山中で私を励ましてくれた声と重なる. しかし, その言葉は, 私にはもう響かなかった.

私はそっと彼を押し戻した.

「話があるの」

私の声は, ひどく冷静だった. 慎和は私の言葉に, 一瞬怯んだように見えた.

「話? ああ, そうだな. 君が落ち着いたら, ゆっくり話そう. でも, 今は体調が一番だ. 自暴自棄になるようなことは, 二度としないでくれ」

彼はそう言って, 私の手を握りしめた. その手のひらは, あの時のように私を安心させるものではなかった.

その時, 彼の携帯電話が鳴り響いた. 画面を見ると, 「梓紗」の文字が光っている. 彼の顔が, 一瞬にして凍り付いた. 彼は慌てて電話を切ったが, もう遅い. 私の心は, 完全に冷え切っていた.

「もう, いいわ. 話すことは何もない」

私はそう言って, 彼から視線を逸らした. 彼は何も言えず, ゆっくりと病室を後にした.

慎和が病室を出て行った後, 私の携帯電話が震えた. 見慣れない番号からのメッセージだ. 開くと, そこには短い文と, 添付された写真があった.

「慎和さんと梓紗さんの秘密を知りたいなら, この場所へ来て」

メッセージの内容は, 私を誘うものだった. 添付された写真には, 慎和と梓紗が写っていた. 彼らは, 私の知らない場所で, 親密そうに寄り添っている. 私の心臓が, 再び鉛のように重くなった. 私は, このメッセージが何かの罠かもしれないと直感した. しかし, 同時に, これ以上ないほど強烈な好奇心と, 真実を知りたいという渇望に駆られた.

私は震える手で, ベッドから降りた. フラフラする体を叱咤し, メッセージに記された場所へと向かった. そこは, 都心から少し離れた, 静かな高級マンションの一室だった.

私がマンションのエントランスにたどり着くと, 再び携帯電話が震えた. 別のメッセージだ.

「エレベーターで最上階へ」

私は言われるがまま, エレベーターに乗り込んだ. 最上階のボタンを押すと, エレベーターはゆっくりと上昇していく. 私の心臓は, 激しく鼓動していた. 一体, 何が待ち受けているのだろうか.

エレベーターのドアが開くと, 目の前には豪華な内装が広がる廊下があった. 私は, 廊下を進み, 一番奥のドアの前で立ち止まった. ドアの隙間から, 話し声が聞こえてくる.

「慎和さん, 本当にこの子, どうするの? 」

それは, 梓紗の声だった. 私の背筋が凍り付いた.

「どうするって, 君がそうしろって言ったんだろう」

慎和の声が聞こえる. 彼らは, ここで何を話しているのだろうか.

私は, ドアの隙間から中を覗き込んだ. そこには, 慎和と梓紗がいた. 梓紗は慎和の腕に抱かれ, 涙目で彼を見上げている.

「だって, 私, 慎和さんの子供ができたのよ? どうしてくれるの? 」

梓紗の言葉に, 私の全身が凍り付いた. 子供. 梓紗が, 慎和の子供を妊娠している? 私の頭の中が真っ白になった.

「梓紗, 落ち着け. 子供は... 堕ろせばいい. 君には, 僕がいる. 僕が君の全てになる. 君を, 一生大切にする」

慎和の言葉が, 私の耳に響く. 私の心臓が, まるでガラスのように砕け散る音がした. 彼は, 梓紗に子供を堕ろさせようとしている.

「嫌よ! 私, 慎和さんの子供を産みたい! 私たちは, ずっと一緒にいようって誓ったじゃない」

梓紗はそう言って, 慎和の胸に顔を埋めた. 慎和は, 困惑した表情を浮かべながらも, 彼女の頭を優しく撫でている.

「梓紗, 君には不自由させない. 君が望むものは何でも手に入れさせてやる. リカナと同じように, 僕が君の夢を叶えてやる」

慎和の言葉は, 私への裏切りだった. 彼は, 私に与えてきたものと同じものを, 梓紗にも与えようとしている.

「本当に? 私が欲しいもの, 何でもくれるの? じゃあ, 私, リカナ先輩の作品の権利が欲しいな. そして, 慎和さんの妻の座も」

梓紗の声は, 甘く, しかし貪欲だった. 慎和は, わずかに眉をひそめたが, すぐに口元に笑みを浮かべた.

「ああ, いいだろう. 君が望むなら, 全てを君に与えよう. 君は, 僕の新しいミューズだ」

彼の言葉が, 私の心を完全に打ち砕いた. 私は, もうこの場所にいる意味はないと悟った. 私の心は, 完全に死んだのだ.

3

永野凛歌菜 POV:

慎和の言葉に, 私の全身からは血の気が引いた. 彼は梓紗を抱き寄せ, 私の思い出が詰まったアトリエで, 私の作品を背景に, 私の座を奪おうとしている. 彼らの親密なやり取りは, 私の心を深く抉った.

私はドアの隙間から, 彼らがソファに倒れ込むのを目撃した. 彼らは互いの服を剥ぎ取り, 甘い言葉を囁き合っている. 私の心臓は, 鉛のように重く, 呼吸が苦しくなった.

その時, 梓紗の横顔が見えた. 彼女の首筋に, はっきりとキスマークが残っている. それを見た瞬間, 私は全てを悟った. 彼女は妊娠している. 慎和の子供を.

私の脳裏には, 慎和が私にプロポーズした時の光景が蘇った. あの時, 彼は私に「永遠の愛」を誓った. しかし, その誓いは, 今, このアトリエで, 梓紗によって踏みにじられている. 彼は, 私との思い出を, 梓紗との新しい思い出で上書きしようとしているのだ.

私は, その場に立ち尽くすことができなかった. これ以上, この背徳の光景を見続けることはできない. 私はゆっくりとドアから離れ, マンションを後にした. 私の目は, もう涙を流すこともできなかった.

私は, 行き場のないまま, 夜の街をさまよった. 雨が降り始め, 私の体を冷たく濡らしていく. 傘も差さずに歩き続ける私を, 誰も気にかける者はいなかった.

ふと顔を上げると, 目の前に見慣れたビルがそびえ立っていた. 慎和が経営するアパレルブランドの本社ビルだ. ビルの壁面には, 巨大なスクリーンが設置されており, そこには私たちの結婚式の映像が流れていた. 私は, その映像を目にして, 思わず立ち止まった.

スクリーンの中の私たちは, 幸せそうに微笑んでいた. 慎和は私を抱きしめ, 永遠の愛を誓っている. あの時の私たちの表情は, 偽りのないものだっただろう. しかし, その映像が, 今となっては私を嘲笑っているかのようだった.

その時, 私の携帯電話が震えた. 慎和からのメッセージだ.

「リカナ, どこにいるんだ? 心配しているんだ. 早く帰ってきてくれ」

彼のメッセージは, 私にはただの言い訳にしか聞こえなかった. 彼が心配しているのは, 私の安否ではなく, 自分の評判だけだ.

「もう, 遅いわ」

私はそう呟き, 慎和に返信した.

「心配? 今更, 何を言っているの? 私がアトリエで何をしていたか, 知っているでしょう? 」

私のメッセージは, 彼の心を抉るだろう. 数分後, 彼から返信があった.

「リカナ, 誤解だ. 梓紗とは, ただの仕事上の関係だ. 君が想像しているような関係じゃない」

彼の言葉は, 私にはただの嘘にしか聞こえなかった. 彼は, いつもそうやって私を欺いてきたのだ.

「嘘よ. あなたの嘘なんて, もう信じられない」

私はそう返信した. その時, 再び携帯電話が震えた. 今度は, 梓紗からのメッセージだ. そこには, 慎和と梓紗が親密そうに寄り添う写真が添付されていた. 梓紗は, 私を挑発するように, 満面の笑みを浮かべている.

「先輩, 慎和さんとラブラブよ. あなたなんか, もう邪魔なだけ」

梓紗のメッセージは, 私の心を深く抉った. 私は, 怒りで全身が震えた. 携帯電話を握りしめる手が, ガタガタと震えている.

「ふざけるな... ! 」

私はそう呟き, 雨の中で震え続けた. 私の心は, 完全に打ち砕かれていた.

「もう, 終わりだ... 」

私はそう呟き, 携帯電話を握りしめたまま, 雨の中で立ち尽くした.

深夜, 私は自宅へと戻った. 体は雨でずぶ濡れになり, 冷え切っていた. 頭がガンガンと痛み, 視界がぼやけている. 熱が出ているのだろう. 私は, もう何も考えられなかった.

部屋の中は, シンと静まり返っていた. 慎和はまだ帰ってきていない. 私は, ゆっくりとリビングへと足を踏み入れた. そこには, 私たち二人の思い出が, まるでゴミのように散乱していた.

私は, 震える手で, 私たちの結婚式の写真を手に取った. 画面の中の私たちは, 幸せそうに微笑んでいる. しかし, その笑顔は, 今となっては私を嘲笑っているかのようだった. 私は, その写真をゆっくりと破り捨てた.

次に手に取ったのは, 慎和が私に贈ってくれた婚約指輪だった. それは, 私たちの永遠の愛を誓う証だったはずだ. しかし, その指輪は, 今となっては私を縛り付ける鎖にしか見えなかった. 私は, その指輪を力強く握りしめ, 床に叩きつけた. ダイヤモンドが, 音を立てて砕け散る.

「全部, 嘘だったんだ... 」

私はそう呟き, 私たちの思い出の品々を, 次々と破壊していった. 結婚式のアルバム, 慎和からの手紙, 彼が私に贈ってくれたプレゼント... . 全ての思い出が, 私の手によって粉々に砕け散っていく.

私の心は, 完全に麻痺していた. 痛みも, 悲しみも, 何も感じない. ただ, 目の前のものを破壊していく. そうすることでしか, 私はこの苦しみから逃れることができなかったのだ.

婚紗を燃やし尽くし, 指輪を破壊し尽くした時, 私は力尽きてその場に倒れ込んだ. 体は限界を迎えていた. 私の心は, 完全に死んだのだ.

その時, リビングのドアが乱暴に開かれた.

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裏切り夫へ、血染めの離婚届

第1話
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