話 2
長谷和夫のシャツのボタンは掛け違えられ、手は無意識に秦野聡子の腰に置かれていたが、私を見ると慌ててその手を引っ込めた。
聡子は彼の後ろにいて、私が一番気に入っていたシルクのガウンを着ていた。
オフホワイトの生地が彼女の体を包み、襟元には生々しいキスマークがついていた。濡れた髪を肩に垂らし、玄関と同じ甘ったるい香水の匂いを漂わせている。
その親密な様子は、毒針のように私の心臓に深く突き刺さった。
時間はまるでこの瞬間に凍りついたようで、空気は氷が張ったように冷たい。
私は2人を睨みつけた。
和夫が1歩前に出た。その声に再会の喜びは微塵もなく、隠しきれない打算だけが滲んでいた。「杏奈?どうして……予定より早く出てこられたんだ?」
私は答えず、彼を通り越して聡子の顔に視線を向けた。
聡子は軽く笑い、隠そうともしない嘲笑を浮かべて言った。「刑務所の飯は案外美味しかったみたいね、杏奈。想像してたよりずっと血色がいいじゃない」
私は深呼吸をして、喉の奥の嗚咽を飲み込んだ。1歩ずつ部屋の中へ進む。その1歩1歩が、砕けたガラスの破片を踏みつけるような感覚だった。
私の声はひどく掠れていて、自分でも聞いたことがないほどだった。「莉々はどこ?」
和夫と聡子が視線を交わした。その視線に込められた暗黙の了解は、裏切りそのものよりも私の心を冷え切らせた。
それは言葉に出さない悪意であり、命をゴミのように見なす冷酷さだった。
和夫は目を伏せ、下手くそな演技でため息をつき、悲しそうなふりをした。「莉々は……事故だったんだ。 2ヶ月前、風邪をこじらせて急性肺炎になって、助からなかった。 面会に行った時に伝えようと思ってたんだけど……」
ーー嘘だ。
1つ1つの言葉が、計算し尽くされた嘘だ。
刑務所に入ってから、和夫が1度でも面会に来たことがあったか?
刑務所に入る前、私は莉々に精密な健康診断を受けさせたばかりだった。医者は健康そのもので、ちょっとした風邪すら滅多に引かないと言っていた。
それに、莉々はペニシリンにアレルギーがある。私はわざわざ家に特効薬を準備し、和夫に何度も念を押していた。莉々が病気になっても、絶対に薬を勝手に使ってはいけないと。
何よりも、娘が亡くなったのに、どうして私には何の知らせもなかったのか?
どうして、刑務所にいるからといって、最後の別れすらさせてくれなかったのか?
私は冷たく笑い、しゃがみ込んで、ソファーの下からちょうどパズルボックスを見つけたふりをした。 「そう」
ゆっくりと手を挙げ、パズルボックスの欠けた角を2人に向けた。「莉々のパズルボックスが、どうしてソファーの下にあるの?」
和夫と聡子の顔色が瞬時に変わった。
私は和夫の目をじっと見つめ、1字1句はっきりと言った。「あの子はリビングでパズルボックスで遊んだりしない。 寝室で、私と一緒に遊ぶ時だけ。ねえ、長谷和夫、教えてよ。一体何があったの? あんたたちが寝室からリビングに引きずり出して、この子を殴ったの?」
和夫の喉仏が動き、視線を泳がせ、私と目を合わせようとしなかった。
聡子はそれを見ると、慌てて1歩前に出た。私の手から箱を奪い取ろうと手を伸ばし、わざとらしい気遣いを顔に張り付けた。
「杏奈、出所したばかりで情緒が不安定なのよ。変なこと考えないで。莉々のことは私たちもすごく悲しいわ。まずは落ち着いて、ゆっくり話しましょう」
私は勢いよく後ろに下がり、彼女の手を避けた。
彼女の指先は冷たく、まるで毒蛇の舌のようで、ひどく吐き気がした。
記憶が怒涛のように押し寄せ、3年前のあの雨の夜の光景が鮮明に目の前に浮かび上がった。
酒臭い和夫が家のドアを押し開けて入ってきた。顔面は蒼白で、全身を震わせながら私に言った。「杏奈、飲酒運転で人を轢いちゃった。相手は死んだ。殺人罪で一生刑務所から出られない」
私は彼の無力な姿を見て、罪を犯したのが彼ではなく私だったらよかったのにと本気で思った。
自首するように言ったが、彼は泣きながら膝をつき、私の脚にすがりついて言った。「君しか俺を救えない。君は看護師だから、あの時運転していたのは君で、怪我人を助けようとしたけど間に合わなかったと言えばいい。ただの過失になれば、刑期はずっと短くなる。 俺が莉々の面倒をちゃんと見るから、必ず君が出てくるのを待ってるから」
私は信じてしまった。
この男を10年間愛し続けた。彼のために、イギリスにいる両親の反対を押し切り、異国の地へ嫁いだ。
私たちの愛はすべてを乗り越えられると信じていた。彼が約束通り莉々の面倒をしっかり見て、私の帰りを待っていてくれると信じていた。
私は弁護士の助言を無視し、法廷ですべての起訴事実を認めた。
裁判官に「どうして車を止めて通報しなかったのか」と聞かれた時、「パニックになった」と答えた。
判決が下された瞬間、傍聴席にいる和夫を見た。彼は目を赤くして、「待ってる」と口パクで伝えてきた。
和夫の腕の中で莉々が「ママ」と泣き叫んでいた。あの胸をえぐるような泣き声は、刑務所での3年間、夜中に目を覚ますたびに蘇る最も鮮明な記憶だった。
それに、あの保険。
事故が起きる数日前、和夫は保険の契約書を家に持ち帰り、どうしても私にサインさせようとした。
彼は言った。「万が一君に何かあった時のための保障だ」
私は家計に余計な負担をかけたくなくて躊躇した。しかし、彼は私の顔を両手で包み、優しくキスをして言った。「念のためだよ、ハニー。保険料は俺が全額払えるから、サインしてくれ。俺を安心させてほしいんだ」
私はまたしても彼を信じてしまった。
今思えば、あれは保障なんかじゃなく、私のために用意された死の罠だった。
受取人は彼と莉々。今、莉々が死んだことで、受取人は彼1人になった。
あいつが私を急いで殺そうとしたのは、あの巨額の保険金を手に入れるためだったんだ!
話 3
私は鋭い声を上げた。「あんたたちが莉々を殺したのよ!」
秦野聡子の顔に張り付いていた作り笑いが一瞬で凍りつき、その瞳にわずかな焦りが走った。
長谷和夫がすかさず怒鳴りつけた。「長谷杏奈!デタラメを言うな!刑務所暮らしでおかしくなったのか?」
私は彼を睨みつけ、口元に冷たい笑みを浮かべた。「デタラメ?2ヶ月前、莉々が肺炎になった時、どこの病院で治療したの? 担当医は誰?死亡診断書は? 今すぐここに出してよ!」
彼はいきなり核心を突かれて言葉を失い、顔面を青や白へと露骨に変化させた。
「あの子を病院になんて連れて行ってないんでしょ?」
私は2人にじりじりと詰め寄った。ついに怒りを抑えきれなくなり、声が震え出す。「自分たちがいちゃつくことしか頭になくて、莉々を邪魔者扱いしたんだ。 寝室から追い出して、 病気になっても放置して、死ぬまで見殺しにして……全部隠蔽したのよ!」
口から出る言葉1つ1つが、自分の心をナイフでえぐるようだった。
だけど不思議なことに、その痛みで心が壊れることはなく、むしろ頭は異常なほど冴え渡っていた。
2人が目を逸らす様子や、こわばった態度を見れば分かる。私の予想はすべて当たっていたのだ。
和夫の顔がこわばり、偽りの優しさが完全に剥がれ落ちて、その下から獰猛な顔つきが露わになった
彼は声を潜め、じりじりとこちらへ歩み寄ってきた。その目には隠しきれない脅しがこもっている。
「そうだとして、だから何だ?長谷杏奈、今さらお前に何ができるって言うんだ?前科持ちで、出所したばかりで情緒不安定な女の言うことなんて、誰が信じる?」
彼は私の手首を乱暴に掴んだ。骨が砕けそうなほどの強い力だった。
肩にかけていたバッグが床に落ちる。
私は痛みに顔をしかめながら、必死に振りほどこうと暴れた。
彼の声は凍りつくように冷たかった。「賢いなら、今すぐ消えろ。二度と戻ってくるな。どこか遠くへ逃げるための金くらいなら出してやる」
彼は私の耳元に顔を寄せ、ねっとりとした息を吐きかけた。「だが、もしこれ以上騒ぎ立てる気なら……出所したばかりの女が罪悪感に苛まれ、娘の後を追って自殺したとしても、別によくある話だからな」
その瞳に宿るむき出しの殺意を見た瞬間、私は思わず冷笑を漏らした。
声を上げて笑い出した私を見て、彼は呆気にとられ、無意識に手を離した。
私は言い放った。「その通りよ、長谷和夫。 私は出所したばかりで、何も持っていない『犯罪者』ね。全部あんたのおかげだけど!」
私は赤く腫れた右手首をさすり、そのまま勢いよく手のひらを振り上げ、彼の顔面を力いっぱい引っぱたいた。
パァン、と小気味いい音が響き渡る。
いつも大人しかった私が手を出してくるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
彼は思いきり平手打ちを食らってふらつき、片手で顔を押さえながら壁に寄りかかった。
聡子が呆然とした後、慌てて私を押さえつけようと飛びかかってきた。「あんた、頭おかしくなったの!?」
私は左手で彼女をガードし、右手を振り抜いてその顔にビンタを食らわせた。
パァン!パァン!パァン!まだまだ怒りはおさまらず、立て続けに3回も平手打ちを見舞ってやった。
色白の顔に真っ赤な手形がくっきりと浮かび上がる。彼女は足元をふらつかせ、派手に転んで私の目の前に膝をついた。
私は冷たい口調で言い放った。「私は正気よ! 今のは莉々の分。これはただの始まりに過ぎないわ!」
2人は顔を押さえて痛みに顔を歪め、うめき声を上げるだけで何も言い返せなかった。
私はかがんで床のバッグを拾い上げ、パズルボックスをしまった。
バッグの中には数着の着替えと、電話番号が書かれた古びて黄ばんだメモ用紙しか入っていない。
それは8年前、蒼海中央公園で助けた老人が私に握らせてくれたものだ。
彼の名前は有馬康太。表舞台には出ないが、世界的な大富豪だった。
あの日、ジョギング中に心臓発作で倒れた彼を、私が専門的な応急処置で救ったのだ。
彼は深く感謝して言ってくれた。「杏奈、もしこの先何か困ったことがあれば、いつでもここに電話しなさい」
その時はただの社交辞令だと思っていたが、まさか今になって、この言葉が私の唯一の希望になるとは。
今の私じゃ、この最低なクズ2人に手を出せない。
ーーでも、絶対にどうにかしてやる!
大富豪の有馬康太の顔が頭に浮かんだ。
彼なら私を助けてくれるかもしれない。
私は振り返ってドアへと向かった。その足取りに迷いはなかった。「あんたとは離婚よ!すぐに離婚届が届くから!」
ガランとしたリビングに、復讐心に満ちた私の声が響いた。「よく覚えておきなさい。あんたたちは、私が必ず地獄へ送ってやる!」
そう言い残し、私は2度と振り返ることなく、迷わずドアを開けて外へ飛び出した。
外はすっかり日が暮れていた。
冬の風は冷たく、顔に当たるとブルッと身震いしたが、おかげで頭はさらにクリアになった。
私はスマホと例のメモ用紙を取り出し、書かれている番号に発信した。
電話が繋がった瞬間、康太の穏やかで落ち着いた声が聞こえてきた。『有馬康太ですが、どちら様でしょうか?』
私は夜風の中で声を震わせた。でもそれは恐怖からではなく、新しく芽生えた熱い決意によるものだ。『有馬さん』
康太はすぐに私だと気づき、驚きと喜びに満ちた声を上げた。『杏奈さんかい? ついに電話をくれたんだね!このスマホは24時間いつでも出られるようにしていたんだ。君からの連絡を待ってね!』
私は胸の奥が温かくなるのを感じて答えた。『はい、杏奈です。 以前、困ったことがあればって言ってくださって……』
康太の声がすぐに心配そうに変わった。『あぁ、もちろん。いつでも頼りにしていいと言ったよ。 どうしたんだ? 何かあったのかい?』
私は大きく深呼吸をした。胸の中で復讐の炎が激しく燃え上がる。『力を貸してほしいんです。私の娘を殺して、私まで殺そうとした2人に……絶対に後悔させてやりたい!』
電話の向こうからは、一切の迷いがない力強い声が返ってきた。『今どこにいる? すぐに迎えをやろう。 詳しい話は、それからゆっくり聞かせてもらうよ』