話 1
結婚して五年になる夫の彰人から、ロマンチックな崖の上のピクニックに連れて行ってあげると言われた。
彼はシャンパンをグラスに注いでくれた。その笑顔は、太陽のように温かかった。
これまでの私たちの人生を祝うためだ、と彼は言った。
でも、私が景色に見とれている隙に、彼の手が私の背中を強く突き飛ばした。
空と岩肌がぐにゃりと混じり合う。
私は、眼下に広がる奈落の底へと落ちていった。
全身が砕け散るような痛みと、おびただしい流血の中で意識を取り戻したとき、ちょうど頭上から彼の声が聞こえてきた。
一人ではなかった。
愛人の愛奈と一緒だった。
「彼女…死んだ?」と彼女は尋ねた。
「かなり落ちたからな」彰人の声は平坦で、感情が一切なかった。「あれで助かるはずがない。遺体が見つかる頃には、悲劇的な事故にしか見えないだろう。可哀想に。精神的に不安定だった玲奈が、崖っぷちに近づきすぎたんだ」
彼の言葉の何気ない残酷さは、地面に叩きつけられた衝撃よりもひどかった。
彼はすでに私の死亡記事を書き上げ、私が嵐の中で死んでいくのを放置しながら、私の死の物語を作り上げていたのだ。
絶望の波が押し寄せてきた。
でも、そのとき、別の何かが燃え上がった。
白く燃え盛る、猛烈な怒りだった。
視界が消えかける寸前、ヘッドライトの光が雨を切り裂いた。
高級車から一人の男が降りてきた。
彰人じゃない。
一条蓮。
夫が最も憎むライバルであり、私と同じくらい彰人の破滅を望んでいるであろう、唯一の男だった。
第1章
最初に感じたのは痛みだった。
目も眩むような、カミソリで切り裂かれるような激痛が脚を駆け上り、目の奥で爆発した。
次に感じたのは、湿った土と踏み潰された松葉の匂い。
あまりに濃密で、まるで泥を呼吸しているかのようだった。
私の頬は、冷たくて雨に濡れてぬるぬるしたものに押し付けられていた。
霞む視界を晴らそうと、瞬きをした。
雨で髪が顔に張り付き、一滴一滴が氷のように肌を刺す。
見上げると、黒い枝々が絡み合う向こうに、嵐雲が渦巻く青紫色の空が見えた。
世界は不幸の交響曲だった。
容赦なく降り注ぐ雨音、遠くで唸る雷鳴、そして、私自身の途切れ途切れで必死な呼吸音。
そのとき、声が聞こえた。
彼の声が。
「彼女…死んだ?」
もう一つの声は女の声で、聞いているだけで胸が悪くなるような甘ったるさがまとわりついていた。
愛奈だ。
「かなり落ちたからな。あれで助かるはずがない」
彰人の声は平坦で、この五年間、彼が偽ってきた温かみは微塵もなかった。
それは、たった今殺そうとした妻についてではなく、まるでビジネスの取引について話している男の声だった。
私の心は混乱し、点と点を繋ごうともがいた。
崖の上のピクニック。
頭がくらくらした「特別」な紅茶の入った水筒。
背後からの突然の、残忍な一突き。
地面が迫ってくる中、世界がぐるぐると回転する、あの吐き気を催す感覚。
事故なんかじゃなかった。
あの人が、私を突き落としたんだ。
叫ぼうとした。
助けを呼ぼうとした。
でも、喉から漏れたのは、詰まったような喘ぎ声だけだった。
喉はひりひりして、口の中に鉄の味が広がった。
血だ。
「もう行きましょうよ」愛奈が甘ったるい声で言った。「誰かに車を見られるかもしれないわ」
「こんな天気の中、こんな所に来る奴はいない」彰人は、そっけない口調で言った。「彼女はもう死んだも同然だ。遺体が見つかる頃には、悲劇的な事故にしか見えないだろう。可哀想に。精神的に不安定だった玲奈が、崖っぷちに近づきすぎたんだ」
彼の言葉の何気ない残酷さは、地面に叩きつけられた衝撃よりもひどい、物理的な打撃だった。
彼はすでに私の死亡記事を書き上げ、私の死の物語を作り上げていた。
問題を抱えた妻を悼む、愛情深い夫。
吐き気がこみ上げてきた。
頭上で砂利を踏む彼らの足音が聞こえ、やがて遠ざかっていった。
車のエンジンがかかる音、そしてタイヤが走り去る音が嵐に飲み込まれていく。
彼らは行ってしまった。
私を死ぬために置き去りにしたのだ。
冷たく黒い絶望の波が押し寄せ、転落がやり残したことを終わらせてしまいそうだった。
私はそこに横たわり、雨に打たれるままになっていた。
森に捨てられた、壊れた人形のように。
でも、そのとき、私の魂の冷たい闇の中で、別の何かが火花を散らした。
怒りだ。
絶望を焼き尽くす、白く燃え盛る、猛烈な怒り。
彼が勝つなんて許さない。
私を消させたりしない。
肘を使って、崖の下から離れようと体を前に引きずり始めた。
動くたびに新たな激痛が全身を駆け巡ったが、怒りはそれよりも強力な燃料だった。
私は深い下草の中を這い進んだ。
鋭い小枝や石が、すでにぼろぼろになったドレスを引き裂いた。
彼が記念日に買ってくれた、柔らかなシルクの生地は、今や泥まみれのぼろ切れに過ぎなかった。
私の手が、土の中の小さくて硬い何かに触れた。
冷たさで感覚のなくなった指で、それを引き抜いた。
それは精巧に彫られた小さな木製の鳥で、泥にもかかわらず、その表面は奇妙なほど滑らかで傷一つなかった。
この悪夢の真っ只中で、それは私の手のひらに確かな、現実的な存在感を与えてくれた。
私は無意識のうちに、それを薄いコートのポケットに押し込んだ。
嵐が本格的になった。
空が裂け、雨が目もくらむほどのシートとなって降り注いだ。
気温が下がり、激しい震えが体を襲った。
低体温症が始まっていた。
私は戦いに負けかけていた。
視界が狭まり、端が灰色に変わっていく。
迫り来る闇に身を委ねようとしたそのとき、一対のヘッドライトが雨に煙る木々を切り裂いた。
その光は目に痛いほど眩しかった。
滑らかな黒い高級車が、林の向こうの曲がりくねった道でゆっくりと止まった。
心臓が肋骨を激しく叩いた。
戻ってきたの?
彰人が、私の死を確認しに戻ってきたの?
運転席のドアが開き、力強い光を背に、背の高い人影が現れた。
彼は不気味なほどの優雅さで動いた。
まるで、縄張りを荒らされて不機嫌な、頂点捕食者のように。
彰人じゃない。
この男はもっと背が高く、肩幅も広く、その存在は冷たく危険な権威を放っていた。
彼が近づくにつれて、ヘッドライトがその顔を照らし出した。
鋭く、貴族的な顔立ち。
雨に濡れて後ろになでつけられた黒髪。
そして、嵐雲の色をした瞳。
私はその顔を知っていた。
雑誌で、経済ニュースで、彰人がテレビに向ける怒りの視線の先で、何度も見てきた顔だ。
一条蓮。
冷酷な一条グループのCEOであり、私の夫の最大にして最も憎むべきライバル。
彼は私を見下ろし、その表情は冷たい軽蔑の仮面に覆われていた。
彼の瞳には同情の色はなく、ただ苛立ちだけがあった。
彼の唇が、私を認識して嘲るように歪んだ。
「ほう。高遠玲奈か。旦那のくだらないゲームも、ようやくお前を追い詰めたようだな」
彼は私の壊れた体、血、泥、そして私の瞳に浮かぶ恐怖を見て取ったが、その表情は和らがなかった。
まるでその光景を楽しんでいるかのようだった。
彼は背を向け、車のドアに手をかけ、私を運命に委ねて去ろうとした。
生の、原始的なパニックが私を突き動かした。
最後の力を振り絞って、私は飛びかかった。
指が彼の高価な革靴の素晴らしいレザーに食い込み、足首を掴んだ。
私の手は、彼の完璧さに泥だらけの汚点をつけた。
彼は凍りつき、まるで蛇でも見るかのように私の手を見下ろした。
「お願い」私は喘ぎながら言った。その言葉は喉から引き裂かれるように出てきた。恐怖に大きく見開かれた私の目が、彼の目を捉えた。「あの人が…私を殺そうとしたんです」
私の声に含まれた、否定しようのない生の恐怖が、彼の氷のような冷静さを切り裂いたようだった。
彼の車への手は止まった。
彼はそこに立ち尽くしていた。
夫への根深い憎しみと、目の前にある恐ろしく血まみれの犯罪の証拠との間で、彼は捕らえられていた。
嵐が私たちの周りで荒れ狂い、私の命が敵の手に委ねられた瞬間にふさわしい背景となっていた。
話 2
一条蓮は長い間、私を見下ろしていた。
ヘッドライトの点滅する光の中で、彼の表情は読み取れなかった。
雨が彼の鋭い顎のラインから滴り落ちる。
私の必死の握力の下で、彼の足首の緊張、硬直した筋肉を感じることができた。
彼は選択肢を吟味し、リスクとリターンを計算していた。
やがて、彼は悪態をつきながら身をかがめた。
手を差し伸べるのではなく、ただ私の腕の下を掴み、その力強く無機質な手つきで私を立たせた。
折れた脚が悲鳴を上げ、世界が激しく傾いた。
彼は私を半ば引きずるように、半ば抱えるようにして助手席まで運び、その動きは効率的で、優しさのかけらもなかった。
彼はドアを開け、私を豪華なレザーシートにほとんど放り込んだ。
車内は上質な革と、かすかな、清潔感のある高級なコロンの香りがした。
私がついさっきまで死にかけていた泥と雨の世界とは、まるで別世界だった。
車のヒーターの暖かさは、凍えた肌に衝撃的で、痛みを伴う快感だった。
彼はドアを乱暴に閉め、車の周りを歩いて運転席に滑り込んだ。
彼は私を見なかった。
ただ、雨に打たれるフロントガラスの向こうをまっすぐ見つめ、ハンドルを握る手は、指の関節が白くなるほど力が入っていた。
「最寄りの病院に連れて行く」彼の声は低く、硬い響きだった。「救急外来の入り口で降ろして、これで終わりだ。敵の家庭内のいざこざに巻き込まれるつもりはない」
彼の言葉は氷の破片のようだった。
彼は私を救っているのではなく、問題を処理しているだけだった。
私は彼の整然とした、冷酷な世界における厄介者、面倒な複雑事に過ぎなかった。
私はシートにうずくまり、制御不能なほど震えていた。
上質なレザーが、濡れて破れた服に張り付く。
彼の完璧な聖域の中で、私は血と泥の塊だった。
彼が車を滑らかに道路に出すと、その動きでコートのポケットが揺れた。
失くしたか壊れたと思っていた、ひび割れたスマホが光った。
画面はクモの巣状にひび割れていたが、一つのテキストメッセージが見えた。
知らない番号からだった。
指が震えながら、通知をタップした。
メッセージは短く、ぞっとするものだった。
『奴はお前が生きていると知った。追っ手が来る。誰も信じるな』
雨よりも冷たく、鋭い新たな恐怖の波が私を襲った。
これは終わっていない。
彰人は私が生き延びたことを知っている。
彼が私を警察に行かせるはずがない。
彼は私を追ってくるだろう。
仕事を終わらせるために。
メッセージはそれを裏付けていた。
私はただ悪い夫から逃げているだけではない。
私は積極的に追われているのだ。
「誰とメールしてる?」
蓮の声が私のパニックを切り裂いた。
彼の目は道路から私のスマホへと移り、その表情は疑念に満ちていた。
「誰でもないわ」私は囁き、親指で素早くメッセージを削除した。
心臓が肋骨に対して狂ったようなリズムを刻んでいた。
『誰も信じるな』
それは、隣に座っている男も含まれるのだろうか?
夫の最大の敵を?
彼はそれ以上追及しなかったが、狭い空間に彼の不信感が漂っているのを感じた。
私たちは永遠に感じられるほどの時間、沈黙の中で車を走らせた。
聞こえるのは、フロントガラスのワイパーがリズミカルに動く音と、力強いエンジンの唸りだけだった。
神戸の街の灯りが近づいてくるのを見ていた。
嵐の闇の中で、きらびやかで無関心な広がりを見せていた。
しかし、私たちは主要な病院がある市の中心部には向かわなかった。
蓮は鋭く何度か曲がり、湾を見下ろす高級で厳重な警備地区へと向かった。
彼は雲を突き刺すような、滑らかで近代的な超高層ビルの専用地下駐車場に車を入れた。
「ここは病院じゃないわ」私はかろうじて囁くような声で言った。
「観察力が鋭いな」彼は乾いた声で答え、エンジンを切った。
突然の静寂が耳をつんざくようだった。
「お前の夫は非常に強力で、非常にコネのある男だ、高遠夫人。俺がお前を神戸中央総合病院に置き去りにした瞬間、彼に通知が届いただろう。彼はすでにお前を失踪者として届け出ている。警察には、お前が取り乱し、精神的に不安定で、自殺願望があったと伝えている」
その言葉は平手打ちのように私を打った。
彼は私を狂人として描き、私の信用を失墜させるか、もっと悪いことに、精神病院送りにするための下準備をしていたのだ。
「公立病院に行けば」蓮は続け、初めて私の方を向いた。彼の灰色の目が私の目を射抜いた。「お前は鎮静剤を打たれ、施設に入れられ、銀の皿に乗せられて彼の元へ返されるだろう。おめでとう。お前は今、俺の家の囚人になった。金色の鳥籠だが、それでも鳥籠だ」
彼は私を専用エレベーターに導いた。
エレベーターは広大なペントハウスのアパートに直接通じていた。
その空間は壮大で無機質で、すべてがガラスとクロム、そして灰色の濃淡で構成されていた。
床から天井までの窓からは、雨に煙る神戸の息をのむような景色が見えた。
それは家というより、企業の本社のようだった。
冷たく、美しく、そして完全に非人間的だった。
スーツをきっちりと着こなした男、エバンス医師が私たちを待っていた。
彼は優しい顔立ちをしていたが、その目はプロフェッショナルで、どこかよそよそしかった。
彼は最新鋭の医療設備が整った部屋で私の怪我を治療した。
その設備はほとんどのクリニックよりも優れていた。
彼は私の脚を固定し、額の切り傷を縫合し、無数の切り傷や打撲を効率的で無感動な手つきで洗浄した。
蓮はその間ずっと戸口に立ち、腕を組んで、静かで威圧的な番人のように見ていた。
医者が去った後、蓮は私に清潔な服一式を手渡した。
それはシンプルな灰色のスウェットスーツで、傷ついた肌に罪深いほど柔らかく感じられた。
そして、小さくて特徴のない使い捨ての携帯電話も。
「24時間やる」彼の声は、反論の余地を残さなかった。「その時間を使って休め。次の手を考え、姿を消せ。その後は、お前一人でやれ。俺の役目は果たした」
彼は私を泊めるゲストスイートを去ろうとした。
その部屋は豪華で、雲のようなベッドと、私の最初のアパートよりも広いバスルームがあった。
金色の鳥籠の、また別の一部。
「どうして?」
その言葉は、我慢できずに口から漏れた。
「どうして、助けてくれたの?あなたは私の夫を憎んでいる。私を死なせておけば、喜んだはずでしょう」
蓮はドアの前で立ち止まり、背中を向けたままだった。
彼の広い肩は硬直していた。
一瞬、彼は答えないのではないかと思った。
「なぜなら、五年前、高遠彰人は俺が大切にしていたものを破壊したからだ」彼の声は低く、骨の髄まで凍るような毒が込められていた。「彼は俺から金以上のものを奪った。そして、敵の敵は…今のところ、利用価値のある道具だ」
彼は静かで決定的なクリック音と共にドアを閉め、私を静かで豪華な部屋に一人残した。
私は彼にとって人間ではなかった。
彰人に向けられるべき武器だった。
私は一つの牢獄から別の牢獄へ、一人の怪物から別の種類の怪物へと移っただけだった。
そして、時計の針は刻々と進んでいた。
話 3
怒りに満ちた声で目が覚めた。
朝だったが、嵐はまだ外で荒れ狂い、ペントハウスを永遠の黄昏に包んでいた。
灰色の光が巨大な窓から差し込み、ミニマリストな家具に縞模様を描いていた。
体は深く、脈打つような痛みで軋み、私の新しい現実を絶えず思い出させた。
声は蓮のものだった。
メインのリビングエリアから聞こえてくる。
鋭く、途切れ途がちで、激しい怒りに満ちていた。
好奇心と、私を捕らえているこの男を理解したいという必死の思いが、私をベッドから引きずり出した。
軽量のギプスで固定された脚が抗議したが、私は歯を食いしばり、音を立てずに声のする方へと足を引きずった。
廊下の角からそっと覗き込んだ。
蓮は巨大な壁掛けスクリーンの前を行ったり来たりしていた。
ビデオ通話中だった。
彼は完璧に仕立てられたダークスーツを着ていたが、ネクタイは緩められ、髪は少し乱れていた。
まるで、何度も手でかきむしったかのようだった。
「許容できない!」彼は画面の向こうの顔に向かって唸った。「奴らはどこからともなく現れ、我々の動きをすべて予測した対抗策を提示してきた。どうしてこんなことが可能なんだ?まるで我々の戦略書を読んでいるかのようだ」
画面の向こうの男が、青ざめた顔でどもりながら言った。
「一条様、彼らの戦略は…型破りです。攻撃的で、ほとんど無謀とも言えますが、我々を追い詰めています。スターリング海運の買収を失いそうです」
私の血の気が引いた。
これ以上聞く必要はなかった。
私はその戦略を即座に理解した。
ハイリスクな賭け、金融に見せかけた心理戦、相手のエゴを食い物にし、窮地に追い込むやり方。
それは彰人の十八番だった。
彼は何年もの間、それを自分の「芸術」だと自慢していた。
彼は一条蓮を出し抜き、勝利を収めようとしていた。
冷たく硬い決意の塊が、私の胃の中に形成された。
蓮は私に24時間を与えた。
彼は私を「道具」と見なしていた。
しかし、道具は使えなければ意味がない。
私はそれ以上の存在であることを証明しなければならなかった。
私が不可欠であることを証明しなければならなかった。
蓮が失敗に終わった買収に気を取られている間に、私は足を引きずってゲストルームに戻った。
破れたコートのポケットから、小さな彫刻が施された木製の鳥を取り出した。
朝の澄んだ光の中で、それをより詳しく調べた。
それはナイチンゲールで、まるで歌っている最中のように首を傾げていた。
それを手の中で何度も転がしていると、親指がその底にある、ほとんど目に見えない小さな継ぎ目に触れた。
爪で少し力を加えると、底がぽんと開いた。
それは秘密の隠し場所というわけではなかった。
その代わり、木には極小の文字で数字とアルファベットの羅列が刻まれていた。
パスワードか、あるいは座標のように見えた。
暗号だ。
彰人が落とした秘密、今や私だけが知る秘密。
私はそれをパチンと閉じた。
心臓が激しく鼓動していた。
これは切り札だ。
私自身のものだ。
深呼吸をして、私は部屋を出て、蓮のオフィスへとまっすぐ向かった。
そこはガラス張りの部屋で、嵐の湾を見下ろしていた。
彼はちょうど通話を終え、ドアに背を向けて、荒れ狂う海を見つめていた。
その背中は敗北と怒りを放っていた。
「あなたの敵は、あなたを誘い込んでいるわ」私は言った。
彼はくるりと振り返り、その目は驚き、そして苛立ちに変わった。
「遊んでいる時間はない、高遠夫人。あなたの24時間は刻一刻と過ぎている」
「彼はあなたに、スターリング社の技術特許が目当てだと思わせている」私は彼を無視し、部屋にさらに足を踏み入れた。コーヒーと、嵐のオゾンのような清潔な香りが空気に満ちていた。「でも違う。彼の狙いは、彼らの海運ネットワークよ」
「彼はあなたのプライドに賭けているの」私は彼の巨大なデスクの端に寄りかかり、手が震えているにもかかわらず、安定した声で続けた。「彼はあなたに、あなたの会社の技術こそが唯一手に入れる価値のある賞品だと信じ込ませたいのよ。彼はあなたに特許の入札合戦に勝たせ、その過程であなたの流動資産を枯渇させるつもり。そして、最後の瞬間に、彼が支配するペーパーカンパニーが急襲し、海運網の支配権を含むスターリング社の負債を買い占める。彼はただ買収に勝つだけじゃない。一条グループを再起不能にするつもりよ」
沈黙。
蓮は石の仮面のような顔で私を見つめていた。
唯一の音は、ガラスに打ち付ける雨の音だけだった。
私は彼の目に何かの揺らぎを見た。
まだ信じてはいない。
でも、彼の確信にひびが入った。
彼は優れた男だったが、彰人の専門は優れた男たちの盲点を突くことだった。
そして私は、彰人の汚い手口を一つ残らず知っていた。
私は何年もの間、彼の腹心であり、相談相手であり、沈黙のパートナーだったのだ。
「どうしてお前がそんなことを知っている?」彼は低く、危険な唸り声で尋ねた。
「なぜなら、その戦略を設計した男を知っているからよ」私は簡潔に言った。「私は彼の考え方を知っている。彼は誰もが弱点を持っていると信じていて、あなたの弱点はプライドだと知っている」
彼は呆然としていた。
わずかに見開かれた目、食いしばられた顎がそれを物語っていた。
彼は感心すると同時に、深く、深く疑っていた。
私はたった今、彼の最大の敵の心の内を暴き、私が単なる被害者以上のものであることを証明したのだ。
私は戦略家だった。
彼の目の中で戦争が繰り広げられていた。
彼の絶望が、彼の不信と戦っていた。
ついに、絶望が勝った。
「分かった」彼は吐き出すように言い、コンピューターに向かった。「お前を信じるとしよう。これに対抗するには、特許の入札を取り下げ、すべてを負債の買収に振り向ける必要がある。だが、役員会は前例がなければ決して承認しないだろう。俺が狂ったと思うはずだ」
彼は猛烈な勢いでタイピングを始めた。
「唯一の方法は、緊急条項を発動することだ。それには過去に同様の存亡の危機があったという証拠が必要になる。あったんだ…何年も前に。父の会社を破産寸前に追い込んだ企業スパイ事件が。誰が背後にいたのか、ついに分からなかったが」
彼は画面を睨みつけ、指がキーボードの上を飛んだ。
「俺を出し抜いた唯一の人物だ」彼の声は、苦く古い怒りで厚みを増していた。「父が『ナイチンゲール』とコードネームをつけた、匿名のライバルだ」
その名前は、私に物理的な打撃のように襲いかかった。
肺から空気が抜け、血が血管の中で氷水に変わった。
ナイチンゲール。
鋭く、歓迎されざる記憶が心に蘇った。
何年も前、彰人と私が結婚したばかりの頃。
彼はそれを「無害な企業ゲーム」、「思考実験」と呼んだ。
彼は私にデータ、戦略、裏口を教えた。
彼は私をおだて、私の知性を褒め、彼の上昇志向の素晴らしいパートナーであるかのように感じさせた。
彼は私を巧みに操り、それがすべてシミュレーションだと信じ込ませた。
一条グループの古いシステムの弱点を分析したのは私だった。
コードを書いたのは私だった。
計画を実行したのは、私だったのだ。
蓮は画面から顔を上げ、私の青ざめた顔を見て目を細めた。
私の頬から血の気が引き、手で口を押さえ、震えていた。
「どうした?」彼は要求するように言った。彼の疑念が再び全力で戻ってきた。「幽霊でも見たような顔だぞ」
息ができなかった。
考えることもできなかった。
真実が喉に詰まった石のようだった。
私の過去と現在が、この無機質なガラス張りのオフィスで衝突し、私はその間で押しつぶされようとしていた。
私は手を下ろし、彼の目を見つめた。
私の唇から漏れた囁きは、私の世界が粉々に砕ける音だった。
「そのハッカー…ナイチンゲールと呼ばれた人物は…私です」