1

「中村さん、お疲れ様」

同僚の声に、中村凛は作り慣れた完璧な微笑みを返した。給湯室の壁掛けテレビが、けたたましい音と共に緊急記者会見の映像に切り替わる。彼女の視線が、無意識にそちらへ引き寄せられた。

画面に映し出されたのは、高橋ホールディングスの若きトップ、高橋健。そして、その隣で腕を組むのは、伊藤財閥の令嬢、伊藤絢子。

凛の手の中で、紙コップがぐしゃりと歪んだ。熱いコーヒーが指にこぼれ、焼けるような痛みが走る。だが、それ以上に、心臓を直接掴まれたような衝撃が全身を貫いていた。

「この度の結婚は、政略などではありません。ここにいる絢子さんを、心から愛しています」

健が絢子に向けて微笑む。その言葉が、凛の鼓膜を突き破り、脳を揺さぶった。心臓が激しく波打ち、呼吸が浅くなる。まるで水中にいるかのように、周囲の音が遠のいていく。

「すごい、玉の輿だね!」

「美男美女でお似合いじゃない?」

同僚たちの無邪気な声が、凛を現実へと引き戻す。七年間。彼の秘書として、そして誰にも言えない地下の恋人として捧げてきた七年間が、今、この瞬間、数多のカメラの前で、完全に否定された。

全身から血の気が引いていくのがわかった。指先が氷のように冷たい。

「中村さんはどう思う?社長、素敵だよね」

話を振られ、凛は咄嗟に表情を引き締めた。唇の端に、完璧な角度の笑みを浮かべる。

「ええ、本当におめでたいことですね」

声が震えなかったことに、自分でも驚いた。

凛は給湯室から逃げるように廊下へ出た。一歩踏み出すごとに、膝が笑う。震える足取りを必死に制御しながら、自分のデスクへと向かった。

デスクの引き出しを開ける。中には、健とペアで買った万年筆のケースがあった。付き合い始めた頃、彼が「俺たちの契約の証だ」と笑って渡してくれたものだ。そのケースに触れようとした指が、裏切りの記憶のフラッシュバックに、びくりと跳ねて引っ込んだ。

その時、内線電話がけたたましく鳴り響いた。健の専用回線を示す赤いランプが、心臓の鼓動と同期するように点滅している。受話器を取るべきか、一瞬、体がこわばった。

意を決して受話器を取る。

「社長室へ」

健の冷淡な声。凛は唇を固く噛み締め、「はい」とだけ答えた。

電話を切り、凛はパソコンの画面を開いた。震える指で、辞表のフォーマットを呼び出す。退職理由の欄に、「一身上の都合」と打ち込んだ。

印刷機から吐き出された一枚の紙。そのあまりに軽い重みに、自分の七年間の青春の無力さを感じ、自嘲気味に息を吐いた。

辞表を白い封筒に丁寧に入れる。糊付けする際に手が滑り、端が少しだけ破れてしまった。だが、もうどうでもよかった。凛はそれを乱暴に鞄に押し込んだ。

鞄を手に秘書室を出る。重厚な絨毯が敷かれた廊下を歩き、社長室の重い木製のドアの前で立ち止まった。

ドアノブに手を掛ける直前、中から健と絢子の楽し気な笑い声が漏れ聞こえてきた。胸の奥に、ガラスの破片を押し込まれたような鋭い痛みが走る。

凛は深く息を吸い、感情の波を心の底に押し殺した。完璧な秘書の仮面を被り、静かにドアをノックする。

「入れ」

ドアを開けて入室すると、ソファで絢子が健の肩に寄りかかっている光景が目に飛び込んできた。凛は視線を一瞬、床に落とす。

健が凛の存在に気づき、絢子からすっと体を離した。冷徹な社長の顔に戻る。その切り替えの早さに、凛は胃のあたりが冷たくなるのを感じた。

絢子が立ち上がり、勝ち誇ったような笑みで凛に向かって歩み寄る。

「いつも健がお世話になっております。これからは、私が彼の妻になりますので、よろしくお願いいたしますね」

わざとらしい挨拶。マウンティングの意図が透けて見える。凛は無表情のまま、深く頭を下げた。

「ご婚約、おめでとうございます」

「じゃあ、私はこれで」

絢子は用事があると言って社長室を退出する。その際、すれ違いざまに、わざと凛の肩に強くぶつかってきた。凛の体が僅かに揺れる。

ドアが閉まり、部屋に二人きりになる。健はネクタイを少し緩めながら、一方的に弁明を始めた。

「さっきの会見は、伊藤財閥からの攻撃を回避するための企業防衛だ。お前も分かっているだろう」

凛は彼の言い訳を遮るように、鞄から辞表の入った封筒を取り出した。健のデスクの上に、静かに置く。

健は封筒の「辞表」という文字を見て、眉間に深い皺を刻んだ。

「なんだ、これは。感情的な当てつけか?」

冷笑が、彼の口元に浮かんでいる。

「いいえ。私の意思です。本日付で、退職させていただきます」

凛が静かな声でそう告げると、健の表情から笑みが消えた。苛立ちを隠そうともせず、デスクを拳で強く叩く。ドン、と鈍い音が部屋に響いた。

健は引き出しから分厚いファイルを取り出し、凛の足元に投げ捨てた。紙の束が床に散らばる。

「これが君の新しい任務だ」

冷酷な声だった。凛が床に落ちたファイルを拾い上げ、表紙を見る。そこには、「高橋健・伊藤絢子 結婚式進行プロジェクト」と書かれていた。息が、止まった。

「君の企画力と実行力は、社内でもトップクラスだ。俺の結婚式を、完璧にプロデュースしてくれ。それが、君の最後の仕事だ」

「……お断りします」

凛が絞り出した拒絶の言葉を、健は鼻で笑った。

「断れるとでも? 俺の言うことを聞かなければ、君がこの業界で二度と働けないようにすることだってできるんだぞ」

絶対的な権力差。逃げ道のない脅迫。

凛は握り締めた拳の爪が、手のひらに食い込む痛みを感じていた。その痛みだけが、屈辱に震える心を繋ぎとめている。

「……かしこまりました」

感情を完全に消し去った声で、凛は答えた。健は満足げに頷き、顎で退出を促す。

凛はファイルを抱えたまま、彼に背を向けた。ドアノブを握る手が、小刻みに震えている。

この男から、完全に自立する。

その決意だけが、今の凛を支える唯一の柱だった。

2

社長室の重い扉を閉めた瞬間、凛は壁に背中を預け、かろうじて堪えていた息を深く吐き出した。震える足で自分のデスクに戻り、椅子に崩れるように座る。

目の前には、分厚い「結婚式進行プロジェクト」のファイル。その白い表紙が、彼女の未来を嘲笑っているように見えた。冷たい怒りが、胃の底からせり上がってくる。

その時、パソコンの画面に社内チャットのポップアップが表示された。高橋健からだ。

『給与を30%引き上げる。プロジェクトが終われば、役員秘書への昇進も約束しよう』

続けてメッセージが届く。

『辞表は単なる当てつけだろう。仕事が終われば、また元の関係に戻れる。俺を信じろ』

身勝手な言葉の羅列。凛は返信を打とうとした指を止め、無言でチャットウィンドウを閉じた。彼との対話を、完全に放棄する。

午後になり、健が秘書室に現れた。

「中村。伊藤家へ挨拶に行く。同行しろ」

冷徹な声だった。凛は無表情で立ち上がり、手帳とタブレットを手に取る。健の後を追い、エレベーターで地下駐車場へと降りた。

運転手の井上誠が待機する、黒のマイバッハ。凛は健から最も遠い窓際の席に、深く体を沈めた。

車内の重苦しい沈黙の中、健が凛の手に触れようと、そっと手を伸ばしてきた。凛は、まるで汚れたものに触れられたかのように、露骨に体を避けて拒絶する。

健は不機嫌そうに舌打ちをし、窓の外へ視線を逸らした。二人の間の物理的な距離が、修復不可能な心理的な断絶を物語っていた。

車が伊藤家の豪邸に到着する。凛は先に降りて健のためにドアを開け、完璧な秘書の動作をこなした。

玄関が開くと、伊藤絢子が愛犬のポメラニアン「キューちゃん」を抱き、満面の笑みで出迎えた。

「健さん、お待ちしてましたわ!」

絢子は健の腕に抱きつき、わざと凛に見せつけるように甘えた声を出す。凛は視線を伏せた。

絢子が抱いている犬が、健の顔にぐいと近づく。その瞬間、健の表情が一瞬、強張ったのを凛は見逃さなかった。

彼は、重度の犬アレルギーだ。毛一本でも触れれば、呼吸困難に陥るほどの。

しかし健は、伊藤家の機嫌を取るため、無理に笑顔を作り、犬の頭を優しく撫でた。

「可愛い犬だね」

その直後、健の喉の奥から、ヒュー、と微かな音が鳴り始めた。アレルギー反応が出始めている。それでも彼は、必死に咳を我慢していた。

応接室に通されると、絢子が凛に向かって言った。

「あなた、台所へ行って、キューちゃんのお水を汲んできてくださる?」

まるで下働きに命じるような、高圧的な口調だった。

凛が反論しようとした瞬間、健が鋭い視線で凛を制した。絢子の指示に従え、という無言の圧力。

凛は唇を噛み締め、一礼して応接室を出た。台所へ向かう廊下を歩きながら、込み上げてくる屈辱感に耐える。

台所で犬の水入れを洗いながら、凛は健の姿を思い出していた。利益のためなら、自らの健康すら犠牲にする男。その姿に、かつて抱いていた尊敬の念は、今は軽蔑へと変わっていた。

水を持って応接室に戻ると、健の顔には赤い発疹が出始めており、呼吸がさらに苦しそうになっている。

それでも彼は、絢子の両親の前で完璧な婿を演じ続けていた。絢子の肩を抱き、仲睦まじさをアピールする。

凛は静かに犬の水を置き、壁際に控えた。目の前で繰り広げられる滑稽な茶番劇を、冷ややかな目で見つめる。

「高橋さんの秘書の方は、少し地味な格好ですのね」

絢子の母親が、値踏みするような視線で凛を嘲笑した。

「はは、彼女にはファッションのセンスがなくて。申し訳ありません」

健が、それに同調する。凛の七年間の献身を、一言で貶めた。

凛は一切の感情を顔に出さず、「申し訳ございません」と機械的に頭を下げた。自己防衛の壁が、また一枚、厚くなる。

その時、健の発疹が首元まで広がっているのが見えた。限界に達したのか、彼の手が震え、手元のグラスを倒してしまう。水がテーブルの上に広がった。

「失礼します」

凛は即座にハンカチを取り出し、健の服が汚れないように素早くテーブルを拭き取った。有能な秘書として、身体が勝手に動いてしまう。

その凛の素早い対応を見た絢子が、嫉妬に顔を歪ませた。

「余計なことしないで!」

絢子は、凛の手をわざと強く払い除ける。凛の手の甲が、テーブルの硬い角にゴツンとぶつかった。鋭い痛みが走る。

凛が痛みに顔をしかめる。しかし、健は絢子を宥めるだけで、凛の怪我には一切の関心を示さなかった。

「大丈夫かい、絢子。驚かせてすまない」

その瞬間、凛の中で、何かがぷつりと切れた。

健に対する最後の未練が、完全に消え去った。彼はもう、自分が愛した男ではない。ただの冷酷な、利益至上主義者だ。

その事実を、凛は骨の髄まで理解した。

3

健の呼吸音が、次第に荒くなっていく。顔面の紅潮は、もはや隠しきれていなかった。その様子を楽しげに眺めながら、絢子が突然、悪意に満ちた笑顔で口を開いた。

「そうだわ、凛さん。私の結婚式で、ブライズメイドをお願いできないかしら?」

ブライズメイド。花嫁の付添人。それは友情の証であると同時に、時に残酷な見せしめの道具にもなる。

凛は内心の嫌悪感を押し殺し、丁重に辞退の意を述べた。

「大変光栄ですが、当日はプロジェクトの総責任者として業務が立て込んでおりますので」

「あら、嫌なの?」

絢子は不満げに唇を尖らせ、健の腕を揺さぶる。被害者を演じるのは、彼女の得意技だった。

「健さん、凛さん、私のこと嫌いなのかしら……」

健は乱れる呼吸の中、凛に対して冷酷な視線を向けた。絢子の要求を飲め、という無言の圧力。凛が沈黙していると、健は低い声で囁いた。

「失態を演じるな」

それは、命令だった。凛は屈辱を噛み締めながら、小さく頷く。

「……お受けいたします」

承諾を得て満足した絢子が、さらに犬を健に近づけた。その瞬間、健が激しい咳を連発し、ついに限界を迎える。

「す、すみません……会社で緊急のトラブルが……!」

健は咄嗟に口元をハンカチで覆い、嘘をついて強引に席を立った。

健は絢子の両親に足早に頭を下げると、凛の腕を強く掴み、伊藤家から逃げるように外へ出る。

マイバッハに転がり込むように乗車した健は、ネクタイを引きちぎるように外し、獣のように荒い息を吐いた。

凛は冷静に鞄から常備している抗アレルギー薬とミネラルウォーターを取り出し、健に差し出す。

健は震える手で薬を受け取り一気に飲み込むと、運転手に怒鳴った。

「別荘へ!急げ!」

車が猛スピードで走り出す。凛は窓の外を見つめていた。隣で苦しむ男への同情心は、一滴も湧いてこなかった。

郊外のプライベート別荘に到着すると、健はふらつく足取りでリビングのソファに倒れ込んだ。

「氷水を持ってこい」

凛がキッチンで氷水を用意しリビングに戻ると、薬が効いて呼吸が落ち着いた健が、彼女をじっと見つめていた。

凛がグラスをテーブルに置こうとした瞬間、健が突然彼女の手首を掴み、強引に自分の胸元へ引き寄せた。

「……本当に愛しているのは、お前だけだ」

健は凛の耳元で囁く。身体的接触で、彼女を懐柔しようとしている。

凛は全身に鳥肌が立つほどの嫌悪感を感じ、力一杯健の胸を押し返した。

「離してください」

冷ややかな声だった。

「あなたのその薄情さ、そして先ほどの伊藤家での滑稽な媚びへつらい。反吐が出ます」

図星を突かれた健は激昂した。

「うるさい!」

彼はテーブルの上のグラスを床に叩きつける。ガラスの破片が、凛の足元に派手に散らばった。

「俺がお前を見捨てるはずがないだろう! すべては高橋家を守るための犠牲なんだ!」

自己正当化の叫び。凛が一歩後ずさりすると、健は距離を詰めてくる。

「俺たちは、永遠の愛を誓ったはずだ」

過去の言葉で、彼女を精神的に縛り付けようとする。健は凛の顎を乱暴に掴んだ。

「お前は一生、俺から逃げられない」

呪いのような言葉。凛は恐怖よりも深い絶望を感じ、彼の手を冷たく振り払った。

その時、静寂を破って凛の携帯電話が鳴り響いた。画面には、祖母が入所している療養施設からの緊急着信が表示されている。

凛が電話に出ると、看護師の切羽詰まった声が聞こえた。

「凛さん! おばあ様の容態が急変して……!」

凛の顔から、血の気が引いた。

「行かなきゃ……」

凛は健を完全に無視して鞄を掴み、玄関へ向かって走り出す。

「何があった?!」健は突然の事態に眉をひそめ、反射的に凛の細い腕を掴んだ。「祖母が……!容態が急変したんです、離して!」凛は血の気を失った顔で叫び、必死にその手を振り解こうとする。健の目に一瞬の躊躇が走り、その僅かな隙を突いて凛は振り返らずにドアを開けた。

別荘の外は、激しい雨が降り始めていた。凛は雨に打たれながら、タクシーを呼ぶためにスマートフォンを操作する。

背後から、健が傘も差さずに追いかけてきた。

「俺の車で行け!」

健は強引に彼女を自分の車に押し込もうとし、二人の揉み合いが始まった。雨音が、二人の未来をかき消していくようだった。

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七年間尽くした秘書ですが、最強の御曹司と契約結婚します

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