2

「危ない!」

甲高いブレーキ音と、誰かの叫び声が重なった。西園寺静は、ぼんやりとした頭で、点滅する信号を見ていた。青に変わる。一歩、足を踏み出す。頭の中では、健が結衣にキスをする光景が、何度も何度も再生されていた。足元がおぼつかない。

その時、耳の奥で誰かが囁いた気がした。――『待て。これは罠だ』――しかし、その声は潮騒に溶けて消えた。右側から、猛スピードで黒いセダンが突っ込んでくる。運転手が必死にクラクションを鳴らしているのが、どこか遠くで聞こえた。

そのけたたましい音で、静は我に返った。顔を向けると、目に突き刺さるようなヘッドライトの光。次の瞬間、巨大な力に体を突き飛ばされ、視界が大きく傾いた。アスファルトに叩きつけられた衝撃で、全身の骨が砕けたかのような激痛が走る。視界が急速にぼやけていき、静は意識を失った。

次に静が目を覚ました時、彼女は横浜市立病院の個室のベッドの上にいた。全身が鉛のように重い。少し身じろぎしただけで、骨がきしむような痛みが走った。ベッドサイドのテーブルに置かれていた水の入ったグラスが、彼女の腕に当たって床に落ちた。ガシャン、とガラスの割れる音が、静まり返った病室に響き渡る。しかし、ドアの外からは何の物音もしない。

ナースコールを押そうと手を伸ばした、その時だった。廊下から、抑えた声が聞こえてきた。夫の、佐藤健の声だ。静の手が、ナースコールボタンの上で止まる。彼女は息を殺し、そっと体を布団の中に深く沈めた。

「健、どうしたんだよ、週末は結衣ちゃんと過ごすんじゃなかったのか?」聞こえてきたのは、健の友人、鈴木渉の声だった。「病院から連絡があったんだよ、あの面倒な女が事故に遭ったってな」健が、苛立たしげにネクタイを緩める気配がした。

面倒な女。その言葉が、静の神経に突き刺さる。彼女は、声を出さないように、強く下唇を噛んだ。「まだ西園寺のお嬢様に未練でもあるのか?結婚してもう四年だろ?」鈴木が、からかうように言った。健が、鼻で笑う音が聞こえた。「まさか、あいつの、あの気取った顔を見てるだけで反吐が出る」その言葉には、隠しようのない侮蔑がこもっていた。

静の目の縁が、じわりと熱くなる。シーツを握りしめる手に力が入り、指の関節が白く浮き出た。「俺の心の中には、結衣しかいない。結衣こそが、俺の人生の光なんだ」健の、結衣への甘い告白が、静の胃をかき混ぜた。吐き気が、喉元までこみ上げてくる。

「それにしても、西園寺の親父さんは怖いぞ」と鈴木が忠告する。「あの頑固爺は、もう俺の掌の上さ」健は、得意げに言った。「もう少しの辛抱だ。西園寺製薬の核心技術――『シュレーディンガーの薬』のデータを完全に手に入れたら、あんな女、さっさと捨ててやる。その後で結衣と正式に結婚し、佐藤ビューティーを業界トップに押し上げるんだ」

シュレーディンガーの薬。静の瞳孔が、かすかに収縮した。彼女は知っていた。その研究は確かに実在する。しかし、完全な状態で掌握しているのは、健が思っているよりもずっと早い段階で、自分だった。父である西園寺剛に秘匿するように命じられ、静だけがアクセス権を持つ秘密プロジェクトだ。この男は、自分がまだ操り人形だと信じている。そう知った瞬間、静の胸の奥で、哀しみが冷たい怒りへと変質した。

その言葉を最後に、静はゆっくりと目を閉じた。涙が、音もなくこめかみを伝い、枕に染み込んでいく。この男の冷酷さと、底なしの貪欲さを、今、はっきりと理解した。

廊下の足音が、病室のドアに近づいてくる。静は、咄嗟に涙を拭い、呼吸を整え、眠っているふりをした。ドアが静かに開けられ、健がベッドのそばまで歩いてきた。静は目を固く閉じたまま、健の視線が自分の顔に注がれているのを感じた。その視線には、妻を気遣う温かさなど微塵もなかった。あるのは、ただ、厄介なものを前にした時のような、冷たい苛立ちだけだ。

健は、静の容態を確かめるでもなく、ナースを呼ぶでもなく、ただ無言で数秒間見下ろした後、不機嫌そうに舌打ちをした。そして、さっさとソファに腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。

静は、布団の中でそっと自分のスマートフォンを探り当てた。体の向きを変えるふりをしながら、巧みに健から隠し、画面を見ずにメッセージを打ち込む。宛先は、加藤弁護士。「離婚協議の準備を。条件は――佐藤ビューティー・テクノロジーの全株式と、結衣名義で保有する横浜のマンションの即時明け渡し。彼を、無一文で追い出します」加えて、もう一通。宛先は西園寺本家の財務顧問・川崎。「私名義の全ファンドを凍結。同時に、佐藤が会社資金を不正流出していないか、裏帳簿の抽出を開始してください」

送信ボタンを押すと、張り詰めていた神経が、不思議とすっと軽くなった。やがて、ソファの方から、健の寝息が聞こえ始めた。重傷を負った妻の病室で、彼は眠ってしまったのだ。

静は、ゆっくりと目を開けた。白い天井を見つめる彼女の瞳から、最後の感傷が消え去っていた。代わりに、静かな、しかし決して消えることのない復讐の炎が、その奥で燃え始めていた。

廊下を、二人の看護師が通り過ぎる。「四〇二号室の患者さん、今日も手袋を手放せなくて。若い男性なのに、手の火傷がよほど辛いんだろうな」「ああ、定期的に通院されてるあの方ね。いつも物静かだけど、目だけは異様に鋭くて、少し怖いわ」その声は、閉まりかけのドアの隙間から、かすかに病室に流れ込んだ。

静は、その言葉に一瞬だけ眉を動かした。四〇二号室。あの男は、西園寺家から“監視役”として送り込まれた人間かもしれない。母の入院する療養施設の情報を、誰かが外部に漏らした――その疑いが、静の脳裏をよぎる。しかし、彼女は深く追求しなかった。今は、自分の足元を固める時だ。

彼女の意識は、すでに、次の一手に向けられていた。――シュレーディンガーの薬の封印を解く時が来た。その研究が、佐藤健を完膚なきまでに叩き潰す武器になる。窓の外では、横浜の港が夕日に染まり始めていた。

3

翌朝、カーテンの隙間から差し込む光で、佐藤健はソファの上で目を覚ました。彼は大きく伸びをすると、気だるげにベッドへと歩み寄った。

静が、すでに目を開けていることに気づくと、健は瞬時に、心配そうな夫の仮面を被った。

「静、気分はどうだ? 昨日は心配で、一睡もできなかったよ」

そう言いながら、健は静の手を握ろうとする。

そのわざとらしい口調に、静は吐き気を覚えた。点滴の麻酔で痛みは鈍くなっているが、頭の中は氷のように冷えていた。昨晩、布団の中で固めた決意――シュレーディンガーの薬の封印を解く――が、彼女の瞳の奥で静かに燃えている。彼女は、健の手を振り払いたい衝動をぐっとこらえ、無言で自分の手を引き抜いた。

「少し、疲れているだけ」

その声は、自分でも驚くほど平坦だった。

その時、病室のドアが、ノックもなしに勢いよく開かれた。佐藤結衣が、娘の愛の手を引いて、ためらいもなく入ってきたのだ。結衣の手には、高級そうなフルーツバスケットが提げられている。その顔には、天使のような無垢な笑みが浮かんでいた。

「静お姉様、お加減はいかがですか?」

その甘ったるい声が、静の神経を逆撫でする。静の視線が、一瞬、結衣の手首に巻かれた、あの忌まわしいダイヤモンドのブレスレットに注がれた。あれは、西園寺家の配当金から流出した私の個人資産だ。すぐに返してもらう。心の中で呟き、目が氷のように冷たくなる。

健は、結衣の突然の登場に、一瞬だけ狼狽の色を見せた。まだ静から技術を奪い取っていない段階での接触は、彼にとっても誤算だったのだ。しかし、結衣の強引な振る舞いを見て、彼は瞬時に計算を切り替えた。重傷を負った静は、もう自分に逆らう力などないはずだ、と。

「結衣が、君が事故に遭ったと聞いて、わざわざ横浜から見舞いに来てくれたんだ」

愛が、結衣の手を振りほどき、ベッドのそばに駆け寄ってきた。そして、静の足に巻かれたギプスを、不思議そうに見つめている。

「愛ちゃん、だめでしょ」

結衣は、口先だけで娘を叱ると、ごく自然に健の隣に腰を下ろした。二人の肩が、ぴったりと触れ合っている。

静は、目の前で繰り広げられる茶番劇を、冷めた目で見つめていた。唇の端に、嘲りの笑みが浮かぶ。結衣が、バッグから一枚の書類を取り出した。

「見てください、お兄様。住民票の移動届、もう準備できたんです。来月と言わず、すぐにでも出せますね」

そう言って、無邪気な子供のように笑う。

静の瞳孔が、鋭く収縮した。彼女は、ナイフのような視線で健を射抜き、低く尋ねた。

「どういうこと?」

健は、静の厳しい視線から逃れるように、目をそらした。だが、すぐに開き直ったような冷笑を浮かべた。

「いや、その……君もこんな体だ。退院しても家事は無理だろう? 結衣たちに西園寺の家に入ってもらって、身の回りの世話をさせるのが一番合理的だと思ってね……」

それは、介護を口実にした家乗っ取りの宣言だった。

「ふざけないで、絶対に許さない」

静が、はっきりと拒絶の言葉を口にすると、結衣の目が、みるみるうちに潤んでいった。彼女は、今にも泣き出しそうな顔で、健の服の裾を弱々しく掴んだ。その姿を見た途端、健の態度は一変した。

「静!なんて言い草だ! 今の君に何ができる? 結衣の厚意を無下にするな!」

健は、まるで静が悪者であるかのように、大声で怒鳴りつけた。彼は、静が心身ともに衰弱していると思い込み、一気に主導権を握ろうと賭けに出たのだ。

静は、怒りを通り越して、笑いさえこみ上げてきた。彼女は、病室のドアを指差し、冷たく、はっきりとした声で言った。

「出て行って」

健は、面子を潰されたと感じたのだろう。顔を真っ赤にして、静を指差した。

「そんな頑固だから、義父さんにも見放されるんだ! 住民票は予定通り移させてもらう。君に拒否権はない!」

その剣幕に、愛が驚いて泣き出した。

結衣は、待ってましたとばかりに愛を抱きしめ、涙を流しながら静に頭を下げた。

「ごめんなさい、お姉様、私たちが、お姉様を怒らせてしまったんですね……」

その言葉は、一見謝罪しているようで、その実、静が理不尽に弱い者いじめをしているのだと、暗に非難していた。

健は、そんな結衣を庇うように抱き寄せ、静に吐き捨てるように言った。

「住民票はもう移したんだ、お前に、拒否権はない!」

そして、結衣と愛を連れて、病室から出て行った。バタン、とドアが乱暴に閉められる音が、部屋に響き渡った。

病室に、再び静寂が戻る。静は、目を閉じ、激しく波立つ胸を鎮めるように、深く息を吸った。全身の節々が悲鳴を上げているが、指先は動く。

彼女は、スマートフォンを手に取り、まず加藤弁護士に電話をかけた。

「資産の洗い出し、急いでください。特に、結衣名義で保有する横浜のマンションと、彼女の手首にあるダイヤモンドブレスレットの購入記録。すべて西園寺家の資金から流出している。回収の法的準備を整えて。」

次に、家政婦の山田に電話をかける。

「屋敷の客室の鍵を、全て交換してください。それから、警備会社に連絡し、西園寺家の正門の防犯カメラの録画を24時間体制で開始するよう手配して。」

電話を終え、ちょうど薬を交換しに来た看護師に、ノートパソコンを一台貸してほしいと頼んだ。

「仕事の緊急連絡が必要なんです」

と、青白い顔で微笑む静に、看護師は同情して私物の端末を貸してくれた。

静は、病室の窓に目をやった。中庭のベンチに、手に包帯を巻いた男の影が座っている。四〇二号室の患者……西園寺家の監視役なら、まだ動くな。今は私が先に動く。

彼女は、佐藤が経営する「佐藤ビューティー・テクノロジー」の最近の財務諸表を開いた。その瞳には、獲物を見つけた狩人のような、鋭い光が宿っていた。画面の数字を追いながら、同時に脳裏で『シュレーディンガーの薬』の全データを呼び起こす。あの研究結果があれば、西園寺製薬の取締役会で健の追放を提案できる。彼の裏帳簿と合わせて、完璧な包囲網だ。

静の指が、マウスの上で滑らかに動く。既に、証拠のスクリーンショットは端末に保存済みだった。彼女は、最後に一通の暗号めいたメールを送信した。宛先は、西園寺本家の財務顧問・川崎。

「シュレーディンガーの箱を開ける準備完了。鍵は私が持っている。」

送信後、静はゆっくりとパソコンを閉じた。窓の外では、横浜の港が朝日に輝き始めていた。

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裏切られた令嬢の華麗なる復讐:元夫よ、もう遅い

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