1

7年間愛した彼, 智史との婚約披露パーティー. 私たちの愛の軌跡をまとめた映像が流れるはずだった.

しかし, スクリーンに映し出されたのは, 彼と彼の秘書, そして見知らぬ子供が寄り添う, まるで本当の家族のような映像だった.

私のお腹には彼の子供が宿っていたのに, 彼は私に隠れて秘書とその息子に全てを与えていた. 私とお揃いのブレスレット, 彼がデザインした産後ケアセンター, そして「奥様」という地位まで.

絶望のあまり子供を諦めた私を, 彼は病院で突き飛ばし, 大出血する私に「芝居をするな」と罵倒した. その瞬間, 私の愛は完全に消え失せた.

「貴方は, 私にとって虚無です」

そう告げて私は全てを捨て, 海外へと旅立った. これは, 裏切りの果てに, 私が本当の自分を取り戻すまでの物語.

第1章

婚約披露パーティーで流れるはずだった二人の愛の映像は, 智史と見知らぬ女が子供を抱く親密な映像に差し替えられていた. 私の心臓は, まるで氷の塊を飲み込んだかのように冷たくなった.

私たちは七年間付き合っていた. 智史, 夏目智史は, 私の人生のすべてだった. 彼の才能, 彼の笑顔, 彼が私に向けてくれた優しい眼差し. それらすべてが, 私をこの七年間支えてきた.

今日は彼の建築事務所の創立十周年と, 私たち二人の婚約発表を兼ねた, 大切なパーティーだった. 会場は最高の場所を選んだ. 智史がデザインを手がけた, 都心でも一際目を引く, あの有名な「クリスタルパレス」だ.

私と智史は, この日のために, 半年も前から準備をしてきた. 智史は忙しい合間を縫って, 私の漆器職人の仕事場にも足を運んでくれた. 彼は私の作品について熱心に語り, 私が作るものに心から敬意を払ってくれた.

私たちが選んだ婚約指輪は, 智史がデザインし, 私が螺鈿細工を施した, 世界に一つだけのものだった. 私たちの愛の証. 私はそれを薬指にはめ, 智史の腕にそっと手を添えていた.

会場には, 建築業界の重鎮たち, 智史のクライアント, そして私の家族や友人たちが集まっていた. 皆が私たちを祝福し, その笑顔は会場のシャンデリアの光に劣らず輝いていた.

司会者がマイクを握り, 智史の功績を称え, そして私たちの愛の物語を語り始めた. 彼は, 智史がいかに私を大切にし, 私たちの未来を真剣に考えているかを熱弁した.

「夏目先生は, 蓮美さんのためならどんな苦労も惜しまない, 真のロマンチストです! 」

その言葉が響いた瞬間, 会場の照明がゆっくりと落ち, 巨大なスクリーンに映像が映し出された. 本来ならば, 私たち二人の思い出のアルバムが流れるはずだった.

しかし, そこに映し出されたのは, 智史と, 見知らぬ女性, そして幼い男の子が, まるで本物の家族のように寄り添い, 楽しそうに笑い合う姿だった.

一瞬, 何が起こっているのか理解できなかった. 会場全体が, ざわめきから一転, 不気味な静寂に包まれた. 私の心臓は, ドクン, と大きく一度脈打った後, まるで止まってしまったかのように感じた.

スクリーンの中の智史は, 私が見たこともないほど優しい顔で, その女性の髪を撫で, 子供の頭を愛おしそうに抱きしめていた. それは, 智史が私に見せた, どの表情よりも, もっと深く, 親密なものだった.

隣に立つ智史の顔が, みるみるうちに青ざめていくのが分かった. しかし, もう遅い. 映像は止まらない.

そして, 私の視線はある一点に釘付けになった. スクリーンの中の女性が, 智史の腕に抱かれた子供のジャケットを直す仕草をした時, 彼女の手首に光るものが見えた.

それは, 智史が私にお揃いで買ってくれた, あのペアブレスレットだった. 私が毎日身につけ, 私たちの愛の象徴だと信じていた, あのブレスレット.

彼女は, 智史の秘書である, 松沢貴江だった.

貴江は, 私が智史に出会った頃から, 彼の秘書を務めていた. いつも完璧な秘書で, 智史のスケジュールを管理し, 私にも常に丁寧で礼儀正しかった. まさか, 彼女が.

会場のざわめきが, 再び大きくなる. 今度は, 祝福の声ではなく, 困惑と好奇心, そして嘲りの声が混じり合っていた.

智史が慌ててスクリーンを止めようと, 壇上から駆け出した. しかし, 映像は止まらない. いや, 止めることができないように, 誰かが意図的に仕組んだかのようだった.

貴江が私の元に駆け寄ってきた. 彼女の顔には, 困惑と, ほんの少しの恐怖が浮かんでいた.

「蓮美さん, 違います! これは誤解です! 松沢さんの息子さんのためのチャリティーイベントの, 慈善活動の映像です! 」

貴江は必死にそう訴えたが, その声は震え, 説得力に欠けていた. チャリティー? 智史が私に見せたことのない, あの親密な笑顔が?

「智史さん, これは一体どういうことですか? 」

私が尋ねると, 智史は一度も私と目を合わせようとせず, 焦った声で言った.

「蓮美, 今は落ち着いてくれ. このことは後で説明する. とにかく, 今は場を収めなければならない」

彼の声には, 私への配慮も, 私への愛情も感じられなかった. あるのは, ただ, この状況を乗り切ろうとする, 冷たい理性だけだった.

会場の熱気は, 瞬く間に冷え切っていた. まるで, 炎が消え去った後の残り火のように, 冷たく, そして重苦しい空気が漂っている. 出席者たちの視線が, 私と智史の間を行き来する. 彼らの目には, 同情, 好奇心, そして, 中には明らかな軽蔑の色さえ見て取れた.

私の胸には, まるで冷たい石が詰め込まれたかのような重苦しさがあった. 七年間の信頼が, まるで砂の城のように崩れ去っていくのを感じた. しかし, 私はなぜか, 感情を表に出すことができなかった. 涙も怒りも, 私の内側で凍り付いてしまったかのようだった.

智史は, 私の隣で, まるで彫像のように固まっていた. 彼は会場のざわめきや, 人々が彼に向けている嘲りの視線に, 気づいていないようだった. いや, 気づいていても, それを受け入れる準備ができていないかのようだった.

私は, ゆっくりと智史の手を振り払った. 彼の体温が, 私の指先から離れていくのを感じた.

「おめでとうございます, 智史さん」

私の声は, 驚くほど冷静で, そして乾いていた. まるで, 他人の出来事を語るかのように.

「貴方の新しい家族の誕生を, 心からお祝い申し上げます」

私の言葉に, 会場はさらに静まり返った. 司会者も, 貴江も, そして智史も, 目を丸くして私を見つめていた. 誰もが, 私がこんな言葉を口にするとは思っていなかったのだろう.

「蓮美, 何を言っているんだ? 」

智史の声には, 困惑と, かすかな怒りが混じっていた.

私は, 智史の顔をまっすぐに見据えた. 彼の瞳の奥には, 恐怖が揺れていた.

「私には, 貴方のような人を夫にする資格はありません」

私は, 薬指から婚約指輪をそっと外した. 智史がデザインし, 私が螺鈿細工を施した, あの世界に一つだけの指輪. それは, 私の掌の上で冷たく輝いていた.

「この指輪は, 貴方の愛の証. でも, 貴方の愛は, 私だけのものではなかったようですね」

私は指輪を貴江の方へと向けた.

「貴江さん, 貴方なら, この指輪を智史さんから受け取るにふさわしいでしょう. きっと, 貴方の方が, 智史さんの愛を独り占めできるはずです」

貴江は, 顔色を変え, 一歩後ずさった. 彼女の目には, 明らかな動揺が浮かんでいた.

智史が, 私の腕を掴もうと手を伸ばしたが, 私はそれを素早くかわした.

「蓮美! 」

彼の声には, 焦りと, そして, 私を失うことへの微かな恐怖が混じっていた. しかし, もう遅い.

「貴方こそ, 何を言っているんですか! 」

智史が, 私の言葉を遮るように声を荒げた. 彼の顔は怒りで歪んでいた.

「こんな場所で, 私に恥をかかせるつもりか! 私たちは婚約しているんだぞ! 」

私は, 智史の顔をまっすぐに見上げた. 彼の瞳の奥には, 彼自身の名誉と, このパーティーの失敗への怒りだけが渦巻いていた.

「恥をかかせているのは, 智史さん, 貴方自身でしょう」

私は, 智史の手から, 彼がいつも持ち歩いていた手帳を抜き取った. それは, 彼がデザインのアイデアを書き留めるために使っていた, 大切な手帳だった.

「この手帳に, 貴方と貴江さんの, 素敵な思い出がたくさん書き込まれていましたね」

私が手帳を開くと, そこには, 貴江の似顔絵が描かれ, その隣には, 智史の直筆で「世界で一番愛しい人, 貴江へ」と書かれていた.

会場全体が, 再びざわめきに包まれた. 今度は, 同情ではなく, 明らかな非難の目が智史に集まっていた.

智史は, 顔を真っ赤にして, 私から手帳を取り返そうとしたが, 私はそれを避けた.

「貴方は, 私に, このブレスレットは特別だと言いましたね. 私たち二人の, 唯一無二の愛の象徴だと」

私が貴江の手首を指差すと, 貴江の顔から血の気が引いた.

「しかし, 貴方は, 貴江さんにも同じものを与えていました. それも, 私の知らない間に, 何年も前から」

智史は, 何も言えずに立ち尽くしていた. 彼の目は, 私の言葉一つ一つに怯えているようだった.

「貴方は, 私を愛していると, いつもそう言っていましたね. しかし, 貴方の愛は, 一体何だったのですか? 」

私の声は, 静かだったが, その一言一言には, 深い絶望と, そして, もう二度と戻らない決意が込められていた.

智史は, 震える声で言った.

「蓮美, これは, 誤解なんだ. 貴江は, ただの仕事仲間で, 彼女の息子も, クライアントの息子として, 私が面倒を見ているだけだ」

彼の言葉は, まるで薄っぺらな壁のように, 私の心の中で崩れ落ちた.

「誤解? 貴江さんが, 私と同じブレスレットを身につけて, 貴方と親密に映る映像が, 貴江さんの息子さんのチャリティーの一環だというのですか? 」

私は, 智史の顔を, 冷たい視線で見つめた. 彼の言い訳は, あまりにも陳腐で, 私の心には何の響きも持たなかった.

「貴方の口から出る言葉は, いつもそうでした. 私を欺き, 私を侮辱する言葉ばかり」

私は, 深く息を吐き出した. 私の心は, もう何も感じなくなっていた.

「智史さん, 私たちは終わりです」

私の口から出た言葉は, 鉛のように重く, そして決定的なものだった.

「私も, 貴方の家から出て行きます. すぐに」

私の言葉に, 智史の顔色がさらに悪くなった. 彼は, 怒りに震えながら, 私の隣に置かれていた, 私が螺鈿細工を施した, もう一つのペアアイテムであるあの金杯を床に叩きつけた.

ガシャン, という音と共に, 金杯は無残にも砕け散った.

「蓮美! 貴方は, 一体何を考えているんだ! 私に逆らうつもりか! 」

智史の怒鳴り声が, 会場中に響き渡った. 彼の目が血走っていた.

私は, その場に立ち尽くす智史を, 冷たい目で一瞥した. 私の心は, 彼の怒りにも, 彼の絶叫にも, 何の反応も示さなかった.

貴江が, 智史の腕にそっと手を添え, 私の方へと歩み寄ってきた. 彼女の顔には, 同情と, そして, かすかな勝利の微笑みが浮かんでいた.

「蓮美さん, 夏目先生も, 少し感情的になっていらっしゃいます. どうか, 落ち着いて, もう一度話し合いませんか? 」

貴江の声は, 優しげだったが, その目には, 私への嘲りが宿っていた.

私は, 貴江の顔を, まるでゴミを見るかのような目で見た. 彼女の優しさも, 彼女の言葉も, 私の耳には届かなかった.

「貴江さん, 貴方は, 智史さんが私に与えた, この惨めな舞台を, 楽しんでいるようですね」

私の言葉に, 貴江の顔色がサッと変わった.

「何を仰るんですか, 蓮美さん. 私は, 貴方のために, 心配しているんですよ? 」

貴江は, 被害者のように振る舞い, 周囲の視線を集めようとした.

「貴方は, 夏目先生に, こんな恥をかかせて, 一体どうするおつもりですか? 」

彼女の声は, 私が智史を傷つけた悪女であるかのように, 私を非難していた.

智史が, 貴江をかばうように, 私の前に立ちはだかった.

「蓮美, もうやめろ! 貴江は, 私にとって大切なクライアントだ. 彼女を侮辱するな! 」

彼の言葉は, 私の心を深く抉った. 私の存在は, 彼のクライアントよりも, ずっと価値が低いものだったのだ.

「蓮美, 頼むから, もう少し冷静になってくれ. 私たちが, こんな形で終わるなんて, 私は望んでいない」

智史の声には, 懇願の色が混じっていたが, それは私のためではなく, 彼自身の体裁と, 彼のキャリアを守るためのものだった.

私は, ゆっくりと智史の顔を見上げた. 彼の瞳には, 私の知らない, どこか見慣れない冷たさが宿っていた.

「蓮美, 行こう」

智史は, 私の手を引いて, 会場を後にしようとした. 彼の腕は, 貴江の肩に回されていた.

私は, 智史の手を振り払うこともせず, ただ, 彼のその腕を見つめていた. まるで, 私が, この場に存在しないかのように.

智史は, 貴江を連れて, 会場の出口へと向かっていった. 彼は一度も振り返らず, 私の存在を完全に無視した.

私は, その場に立ち尽くしていた. 私の周りでは, ざわめきが, ざわめきが, ざわめきが, まるで海の波のように押し寄せては引いていく.

私の心は, もはや何も感じなかった. ただ, 冷たい空気が, 私の肺を満たしていくのを感じるだけだった.

私は, ゆっくりと, 私の腹部に手を当てた. そこには, 小さな命が宿っている. 智史と私の, 愛の結晶.

しかし, この愛は, もうすでに, 泥と血にまみれてしまった.

私は, この子を, こんな泥だらけの人生に巻き込むわけにはいかない.

私は, ゆっくりと, 会場の出口へと歩き出した.

この場所から, この人生から, 智史という男から, 私は, 完全に, 消え去るのだ.

私は, 誰もいない出口で, 立ち止まった. 振り返ることは, しない. そして, 私の口から, 乾いた声が漏れた.

「智史, お前は, もう私にとって, 存在しないものだ」

2

「蓮美さん, 貴方, まさか, あの夏目智史と婚約破棄したんですって? 」

翌日, 私の職場に松沢貴江が乗り込んできた. 彼女は, 私の顔を見るなり, 嘲るような笑みを浮かべ, そう言った. 私の心臓は, まるで鉄のハンマーで打ち付けられたかのように痛んだ.

私は, 彼女を冷たい視線で見つめ, 何も答えなかった. 私の手は, いつの間にか, 硬く拳を握りしめていた.

「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか. ねえ, 蓮美さん」

彼女は, わざとらしく私の肩に手を置こうとした. 私は, その手を, 素早く振り払った.

「貴方のような人に, 私の名前を呼ばれる筋合いはありません」

私の声は, 震えていた. 怒りで, 体が熱くなっていた.

「あら, 怖いわ. でも, 貴方が夏目先生に嫉妬して, あんな大騒ぎをしたのは, みんな知ってることですよ? 」

貴江は, わざとらしい悲しみの表情を浮かべた. 彼女の目は, 私を値踏みするかのように, 冷たく光っていた.

「貴方が言った言葉を, もう一度, はっきりと言いなさい」

私は, 貴江の顔を, まっすぐに見据えた. 私の心の中で, 何かが, 音を立てて砕け散るのを感じた.

貴江は, 一瞬, 怯んだような表情を見せたが, すぐにいつもの高慢な顔に戻った.

「何を今更. 貴方は, 夏目先生に捨てられた, ただの負け犬じゃないですか」

その言葉が, 私の耳に届いた瞬間, 私の頭の中で, 何かがプツンと切れる音がした.

私は, 貴江に一歩, また一歩と詰め寄った. 私の顔は, 怒りで歪んでいた.

「智史さんが, 私を捨てた? 貴方のような女に, 寝取られたあげく, 私を捨てた? 冗談はやめてください」

私の声は, もはや冷静さを失っていた. まるで, 壊れた人形のように, ぎこちなく震えていた.

その時, 智史が私の職場に現れた. 彼の顔は, 昨夜の憔悴した様子とは打って変わって, いつもの自信に満ちた表情に戻っていた.

「蓮美, 何をしているんだ! 貴江に, 失礼なことをするな! 」

智史の声には, 私に対する怒りと, 貴江を守ろうとする強い意志が込められていた. 私の心は, まるでナイフで突き刺されたかのように痛んだ.

智史は, 貴江の肩を抱き寄せ, 私を睨みつけた. 彼の視線は, まるで私を, 汚れたものを見るかのように冷たかった.

私の腹部に, 突然, 鋭い痛みが走った. それは, まるで内側から何かを抉り取られるような, 激しい痛みだった. 私は, 思わずその場にうずくまった.

「いたっ... ! 」

私の口から, か細い声が漏れた. 額には, 冷や汗が滲んでいた.

これは, 私の体の中に宿る, 小さな命からの, 警告だろうか. 智史と貴江, この二人を前にして, 私の体は, 拒絶反応を起こしているのだろうか.

私は, 痛みに喘ぎながら, 智史と貴江の顔を見上げた. 彼らの顔は, まるで私を, 邪魔者を見るかのように冷たかった.

私は, 這うようにして, その場から逃げ出した. 私の背中には, 智史と貴江の, 冷たい視線が突き刺さっていた.

オフィスを飛び出し, 私はただ, ひたすら走った. どこへ向かうのかも分からず, ただ, この痛みが, この絶望が, 私をどこか遠くへ連れて行ってくれることを願った.

「蓮美! 」

背後から, 聞き慣れた声が聞こえた. 千夏だった. 彼女は, 息を切らしながら, 私の後を追ってきた.

千夏は, 私の顔を見るなり, 何も言わずに私を抱きしめた. 彼女の温かい腕が, 私の凍り付いた心を, 少しだけ溶かすかのようだった.

「千夏... 」

私の口から, か細い声が漏れた. 涙が, 止めどなく溢れ出した.

千夏は, 何も言わずに, 私の背中を優しく撫でてくれた. 彼女の目には, 私への深い同情と, そして, 智史に対する怒りが宿っていた.

「あの男, 本当に許せないわ! 蓮美, 貴方は何も悪くない! 」

千夏の激しい言葉が, 私の心に, 少しだけ温かい光を灯した.

「でも, 私, もう, 何もかも嫌になっちゃった」

私の声は, 絶望に満ちていた.

「そんなこと言わないで! 蓮美は, 強い子よ. 必ず立ち直れるわ」

千夏は, 私の顔を両手で挟み込み, 私をまっすぐに見つめた. 彼女の瞳には, 私への揺るぎない信頼が宿っていた.

千夏は, 私を抱きかかえるようにして, タクシーに乗せた. そして, 私の自宅へと向かってくれた.

「しばらくは, 一人になりたい」

私がそう言うと, 千夏は, 私の言葉を理解してくれた.

「分かったわ. でも, 何かあったら, すぐに連絡してね. いつでも駆けつけるから」

千夏は, 私の頬にキスをすると, ゆっくりとタクシーから降りていった. 彼女の背中が, だんだんと小さくなっていく. 私は, 一人, 静かに自宅のドアを開けた.

智史の匂いがした. 彼が使っていた香水, 彼が脱ぎ散らかしたシャツの匂い. 彼の存在が, まだこの部屋に, 色濃く残っている.

私は, その匂いに, 耐えられなかった. 吐き気がした. 私の心は, まるで鋭い刃物で切り裂かれたかのように痛んだ.

私は, ソファに身を投げ出した. 私の脳裏には, 智史との七年間の思い出が, 走馬灯のように駆け巡っていた.

智史は, 私にとって, ただの恋人ではなかった. 彼は, 私の人生のすべてだった. 初めて出会ったあの日から, 彼は私を特別な存在として扱ってくれた.

初めてのデートで, 智史は, 私を泥棒から守るために, 身を挺してくれた. あの時, 私は, 彼の腕の中で, 死んでもいいと思った. 彼のためなら, どんなことでもできると.

彼は, 私の漆器職人としての夢を, 誰よりも理解し, 応援してくれた. 私の作品が完成するたびに, 彼は私の手を握り, 私の努力を称賛してくれた.

「蓮美の作品は, 世界で一番美しい. 蓮美は, 最高の職人だ」

彼の言葉が, 私の耳に, 今でも鮮明に残っている.

あの頃の智史は, 本当に私を愛してくれていたのだろうか. それとも, 私の錯覚だったのだろうか.

「蓮美さん, あの香水, 似合ってますよ. 夏目先生も, きっとお好きでしょう? 」

貴江からのメッセージが届いた. その文面は, 私を嘲るかのように, 冷たく響いた.

「この香水, 蓮美さんも欲しかったんですか? でも, 夏目先生は, 私に買ってくれたんです. フフフ... 」

私の心臓は, まるで氷の塊を飲み込んだかのように冷たくなった. 私は, 怒りに震えながら, スマートフォンを床に叩きつけた.

バラバラになったスマートフォンの画面に, 貴江の嘲るような文字が, まだ残っている. 私の胸は, まるで燃え盛る炎のように熱くなった.

私が, ずっと欲しかった香水. 智史が, 私には似合わないと言って, 買ってくれなかった香水.

私は, あの香水を, 初めて智史と一緒にデパートの香水売り場を訪れた時に見つけた. その香りは, 私を魅了し, 私は智史に言った.

「智史, 私, この香水が欲しいの」

智史は, 私の言葉を聞くと, 苦笑いを浮かべて言った.

「蓮美には, もっと清楚な香りが似合うよ. こんな強い香りは, 蓮美のイメージじゃない」

私は, 智史の言葉に, 少しだけ傷ついた. でも, 私は, 彼が私のことを考えて言ってくれているのだと, 信じていた. だから, 私は, あの香水を諦めた.

しかし, 智史は, 貴江には, その香水を贈ったのだ. しかも, 私には似合わないと言って, 私から遠ざけた香水を.

智史は, 私をだましていたのだ. 私を, 愚弄していたのだ. 私の心は, まるで深く抉られたかのように痛んだ.

その日の夜遅く, 智史が帰宅した. 彼の顔には, 疲労の色が濃く, 私を心配するような表情を浮かべていた.

「蓮美, 大丈夫か? 貴江が, 心配していたぞ」

彼の言葉に, 私の心は, さらに冷え込んだ. 彼は, 私を心配しているのではなく, 貴江を心配しているのだ.

「大丈夫じゃないわ」

私の声は, 冷たく, そして乾いていた.

智史は, 私が冷たい態度を取ることに, 困惑したような顔をした. 彼は, 私の隣に座ろうと, ソファに近づいてきた.

しかし, 私は, 彼の接近を拒むように, ソファの端へと身を寄せた. 私の心は, もはや彼を受け入れることができなかった.

「蓮美, 一体どうしたんだ? 貴方は, いつもなら, もっと優しくしてくれるのに」

智史の声には, 不満の色が混じっていた. 彼は, 私がなぜ怒っているのか, 本当に理解していないようだった.

「私は, 貴方にとって, 一体何だったの? 」

私の声は, 震えていた.

「何を言っているんだ? 貴方は, 私にとって, 大切な婚約者じゃないか」

智史は, 私の言葉に, 少しだけ苛立ったような顔をした.

「貴方は, 私を愛していると, いつもそう言っていたわね. でも, 貴方の愛は, 私だけのものではなかった」

私の言葉に, 智史は, 一瞬, 言葉を失った.

「蓮美, 誤解だ. 貴江のことは, ただの仕事上の付き合いで, 彼女の息子も, クライアントの息子として, 私が面倒を見ているだけだ」

智史は, 再び, 同じ言い訳を繰り返した. 彼の言葉は, 私の心には, 何の響きも持たなかった.

智史は, 私の前に, 小さな箱を差し出した. それは, 私がずっと欲しがっていた, あの香水だった.

「蓮美, これだ. 貴方が欲しがっていた香水. これを貴方に贈る. 世界で一番, 貴方に似合う香りだ」

智史の声は, 優しげだったが, その言葉は, 私の心には届かなかった.

「世界で一番, 私に似合う香り, ですか」

私は, 小さく呟いた. 智史は, 私の言葉に, 少しだけ困惑したような顔をした.

「ああ, そうだ. 蓮美のためだけに, 私が選んだ, 世界で一つだけの香りだ」

智史は, 私の手を取り, 香水を私に渡そうとした.

しかし, 私は, 彼の言葉に, 何の感動も覚えることはなかった. 私の心は, もうすでに, 彼の嘘に慣れきっていた.

私は, スマートフォンの画面を開いた. そこには, 貴江が, 智史から贈られた香水を自慢げに投稿している写真が映っていた. そして, その写真には, 智史自身が「いいね」を押していた.

私の心は, まるで鉛のように重く, そして冷たくなった.

「智史さん, 貴方は, 本当に, 私を愛していたの? 」

私の声は, 震えていた. 私の心の中は, もう, 彼の言葉を信じることはできなかった.

智史は, 私の言葉に, 目を丸くした. 彼は, 私がなぜそんなことを言うのか, 理解できないようだった.

「蓮美, 何を言っているんだ? 私は, 貴方を愛している. 心から愛しているんだ」

彼の言葉は, 嘘だ.

私は, 智史の顔を, 冷たい視線で見つめた. 彼の瞳の奥には, 私への愛情ではなく, 私を失うことへの恐怖が揺れていた.

「私は, 貴方とは, もう一緒にいられない」

私の口から, 乾いた声が漏れた.

「私は, この家から出て行きます」

私の言葉に, 智史は, まるで雷に打たれたかのように, その場に固まった. 彼の顔は, みるみるうちに青ざめていった.

「蓮美! 何を言っているんだ! 貴方は, 私の婚約者だろう! 私を捨てるつもりか! 」

智史は, 怒りに震えながら, 香水を床に叩きつけた. ガシャン, という音と共に, 香水の瓶は無残にも砕け散った.

「貴方が私を捨てたのよ. 私じゃない」

私の声は, 冷たく, そして乾いていた.

私は, ゆっくりとソファから立ち上がった. 私の体は, まだ少し痛んだが, 私の心は, もう何も感じなかった.

智史は, 私が冷静なことに, さらに苛立ったようだった. 彼の目は, 血走っていた.

「蓮美! 貴方は, この期に及んで, 私に反抗するつもりか! 」

智史は, 私の腕を掴もうと, 手を伸ばした. しかし, 私は, その手を避け, ゆっくりと彼の前から離れていった.

智史は, 怒りに震えながら, 私の隣に置かれていた, 私の漆器職人としての作品を床に叩きつけた. 美しい漆器は, 無残にも砕け散った.

その時, 智史のスマートフォンが鳴った. 画面には, 貴江の名前が表示されていた.

智史は, 一瞬, 躊躇したが, すぐに電話に出た.

「貴江? どうしたんだ? 」

智史の声は, 私に話す時とは打って変わって, 優しげだった.

電話の向こうから, 貴江のすすり泣く声が聞こえてきた.

「夏目先生... あの, 蓮美さんが... 私に, ひどいことを... 」

貴江の声は, まるで被害者のように, か細く, そして悲しげだった.

智史は, 貴江の言葉を聞くと, 私の顔を, 怒りに満ちた目で睨みつけた.

「貴江, 大丈夫だ. すぐに駆けつけるから. 蓮美のことは, 私が何とかする」

彼の言葉は, 私の心を深く抉った. 私の心は, もうすでに, 泥と血にまみれてしまった.

3

「蓮美, 貴方は少し冷静になるべきだ. 貴江は, ただのクライアントだ. 彼女の息子は, 私の責任だ. 貴方は, 少し嫉妬しすぎている」

智史は, 私にそう言い残し, 貴江の元へと駆けつけていった. 彼の声には, 私への配慮も, 私への愛情も感じられない.

私は, 智史の背中を見つめていた. 彼の言葉は, 私の心を深く抉った. 彼は, 私を愛していると, そう言っていたはずなのに.

私の心は, 痛みと絶望で, まるで凍り付いてしまったかのようだった.

窓の外は, 激しい雨が降っていた. 雷鳴が轟き, 稲妻が空を切り裂く. 私の心の中も, まるで嵐が吹き荒れているようだった.

スマートフォンの画面に, 貴江からのメッセージが表示された. 私は, それが私をさらに傷つける言葉だと分かっていた. しかし, 私の指は, 無意識のうちに, メッセージを開いていた.

「蓮美さん, 夏目先生は, 貴方なんかよりも, 私の方が大切なんです. 彼は, 私と息子のために, 家を設計してくれたんですよ? 貴方には, そんなことしてくれました? 」

貴江の言葉は, 私を嘲るかのように, 冷たく響いた. 私の胸は, まるで燃え盛る炎のように熱くなった.

「貴方は, 夏目先生に, 愛されていると, そう思っていたのでしょう? 馬鹿ね. 彼は, 私のためなら, どんなことでもしてくれるのよ」

そして, 貴江から, もう一つのメッセージが届いた. それは, 音声メッセージだった. 私は, 震える指で, 再生ボタンを押した.

音声メッセージから聞こえてきたのは, 智史の声だった. 彼は, あの優しい声で, 子守唄を歌っていた. その子守唄は, 私がかつて, 彼に歌ってほしいと願った, あの歌だった.

私の心は, まるでナイフで突き刺されたかのように痛んだ. 智史は, あの歌を, 私ではなく, 貴江の息子に歌って聞かせていたのだ.

その瞬間, 私の心の中で, 何かが, 音を立てて砕け散る感覚がした. 私の目から, 涙が溢れ出した.

私は, その場で, 崩れ落ちた. 私の全身から, 力が抜けていく. 私の心は, もうすでに, 泥と血にまみれてしまった.

私は, その日, 産婦人科を予約した.

この子を, こんな泥だらけの人生に巻き込むわけにはいかない. 智史と貴江, この二人の裏切りによって, 私の心は, もうすでに, 死んでしまった.

私は, 荷物をまとめた. 智史との思い出の品は, すべて捨てた. もう, 彼の存在を, 私の人生から, 完全に消し去るのだ.

智史から, 電話がかかってきた. 彼の声は, 少しだけ焦っていた.

「蓮美, どこにいるんだ? 貴江が, 貴方が行方不明だと, 心配しているぞ」

貴江? 彼は, 私を心配しているのではなく, 貴江を心配しているのだ. 私の心は, さらに冷え込んだ.

「私は, 今, 実家にいます. しばらく, 一人になりたいので, 連絡はしないでください」

私の声は, 冷たく, そして乾いていた.

「なに? 実家? すまない, 貴江のことがあって, 少し君に構ってやれなかった. すぐに迎えに行くから, そこで待っていてくれ」

智史の声には, 私に対する愛情ではなく, 私をコントロールしようとする, 冷たい理性が込められていた.

私は, 鼻で笑って, 電話を切った. もう, 彼の言葉を信じることはできなかった.

「蓮美, 子供のための教育機関を, いくつか見ておかない? 」

千夏から, メッセージが届いた. 私は, 自分の腹部に手を当てた. そこには, 小さな命が宿っている.

私は, 千夏に返信した.

「うん, 分かった. 気分転換に, 行ってみようかな」

私は, 子供のための教育機関へと向かった. 私の心は, 虚ろだった. この子が, 生まれてくることはないのだ.

私が教育機関のロビーに足を踏み入れた瞬間, 私の目に飛び込んできたのは, 信じられない光景だった.

智史と貴江が, まるで本物の夫婦のように, 幼い男の子の手を引いて, 楽しそうに笑い合っている.

智史は, 貴江の肩を抱き, 貴江は智史の腕にそっと手を添えていた. 彼らの笑顔は, 私が見たこともないほど, 親密で, そして幸せそうだった.

私の心臓は, まるで氷の塊を飲み込んだかのように冷たくなった. 私の体は, その場に固まってしまった.

その瞬間, 私は, 智史の奇妙な習慣を思い出した. 彼は, いつも, 左手の薬指に指輪をはめていた. それは, 私の婚約指輪とは別の, シンプルなシルバーリングだった. 私がその指輪について尋ねると, 彼はいつも「仕事用だ」と答えていた.

しかし, 今, 貴江の左手の薬指には, 智史と同じデザインのシルバーリングが輝いていた.

私は, 智史が, この指輪を, 貴江とのペアリングとして身につけていたのだと, 悟った.

私の心臓は, まるで, 誰かに強く握りつぶされたかのように痛んだ. 私は, その場で, 膝から崩れ落ちそうになった.

私は, ゆっくりと, 貴江のそばへと近づいた. 彼女のバッグが, 無造作に置かれていた. 私は, その中から, 貴江の手帳をそっと抜き取った.

手帳には, 智史の名前が, 何度も何度も書き込まれていた. そして, 智史が, 貴江の息子に高額な教育費を支払い, 毎週, 教育機関に付き添っていることが, 詳細に記されていた.

私の全身から, 力が抜けていくのを感じた. 私は, もう何も感じなかった.

「お客様, 何かお探しですか? 」

教育機関の受付の女性が, 私に優しく声をかけてきた. 彼女の顔には, 私を心配するような表情が浮かんでいた.

私は, ゆっくりと首を横に振った. 私の口から, か細い声が漏れた.

「私, 妊娠しているんです. この子のために, 良い教育機関を探しているんですが... 」

私の言葉に, 受付の女性は, にこやかに微笑んだ.

「まあ, おめでとうございます! それでしたら, この産後ケアセンターがお勧めですよ. 当教育機関と提携しているんです. 特に, VIPのお客様には, 特別なプランもご用意しております」

受付の女性は, そう言って, 智史と貴江の方を指差した.

「あちらの夏目様ご夫婦は, 当教育機関のVIPのお客様でいらっしゃいます. 奥様も, あちらの産後ケアセンターをご利用になる予定なんですよ」

夏目様ご夫婦? 奥様?

私の心臓は, まるで, 誰かに強く握りつぶされたかのように痛んだ. 私は, 受付の女性の言葉に, 何も反応することができなかった.

「奥様は, 夏目先生の奥様でいらっしゃいますから, もちろんVIP扱いですよ. 特別なマッサージや, 栄養満点の食事も, すべて無料で提供されるんです」

受付の女性は, 智史と貴江の顔を見つめ, にこやかに微笑んだ.

私の心は, まるで, 深い闇の中に突き落とされたかのように, 真っ暗になった. 智史は, 私に「金杯は, 私たち二人の愛の証だ」と, そう言っていたはずなのに.

あの時, 智史が, 私の漆器職人としての作品を床に叩きつけた理由が, 今, ようやく理解できた. 彼は, 私との愛の証など, 最初から存在しないと, そう思っていたのだ.

私は, その場で, 膝から崩れ落ちそうになった. 私の脳裏には, 智史と貴江の, 親密な笑顔が, 鮮明に焼き付いていた.

私は, ゆっくりと, その場を後にした. 私の全身から, 力が抜けていく. 私の心は, もう何も感じなかった.

私は, そのまま, 産後ケアセンターへと向かった. 私の心は, 虚ろだった.

智史から, 電話がかかってきた. 彼の声は, 弾んでいた.

「蓮美! どこにいるんだ? 貴江の体調が, 少し良くなった. 今から, 貴女を迎えに行くから, そこで待っていてくれ」

彼の声は, 私に対する配慮も, 私への愛情も感じられなかった. あるのは, ただ, 彼自身の都合だけだった.

私は, 何も答えることができなかった. 私の口は, まるで凍り付いてしまったかのように, 開かなかった.

私の視線は, 産後ケアセンターのロビーに設置された, 大型テレビに吸い寄せられた. そこには, 智史と貴江が, 楽しそうに笑い合っている映像が流れていた.

今すぐ全編を読む
作者の『Moboreader』を応援して、素晴らしい物語の続きを楽しみましょう!
全話ロック解除

七年愛した彼の裏切り

第1話
エピソード
カスタマイズ
次の章