話 1
太平洋の只中に、ぽつりと浮かぶ私有島。
その地下深くに穿たれたオークション会場は、外界の闇とは裏腹に、眩いほどの光で満たされていた。
ここが他の会場と一線を画すのは、出品されるのがありとあらゆる珍獣、あるいは奇っ怪な生物のみという一点に尽きる。
ここでは金さえ積めば、いかなるものも――たとえそれが命であろうと――手に入ると、まことしやかに囁かれている。
会場の熱気が頂点に達しようとした、その時だった。
「本日最後にご紹介いたしますお品は、今宵の目玉――『血液奴隷』でございます。 最低入札価格は一億ドルからとさせていただきます!」
競売人の言葉に、それまでの熱狂が水を差されたように、会場は戸惑いの声で満ちた。
「『血液奴隷』? ただの人間ではないか。 一体何の価値があるというのだ!」
「とんだ期待外れだ。 大袈裟に煽りおって!」
疑念の声が渦巻く中、黒絹のベールに覆われた巨大な檻が、天井から静かに降下を始める。 やがて展示台に音もなく着地すると、競売人は芝居がかった仕草で、そのベールを一息に引き剥がした。
檻の中、一人の少女が力なく身を横たえていた。
不意に浴びせられた強烈な光に、少女は僅かに瞼を震わせる。 身を包むのは薄い白紗一枚きり。 しなやかな肢体の曲線があらわになり、濡れたような漆黒の長髪が床に広がる様は、雪のように白い肌との対比で、どこか神聖なまでの輝きを放っていた。
美! まさに絶美!
これほどの逸物が、なぜ「血液奴隷」などという名で……。
だが、それはあまりにも無防備に差し出された玩具のようでもあった。
息を呑む者、欲望の火を瞳に宿す者、そしてなおも懐疑の声を潜める者。 会場の空気は、期待と失望、そして新たな好奇心がない交ぜになって揺れていた。 競売人はひとつ咳払いをすると、再びマイクに口を寄せた。 「皆様、ご静粛に。
わたくしがこの天国島の名誉にかけて保証いたします。 彼女は、世界で唯一開発に成功した、いわば“歩く霊薬”。 その血液はあらゆる毒を無効化し、その肉体は瞬時に傷を癒し――そして、持ち主に長寿をもたらすのでございます!」
百毒を解し、長寿をもたらす。にわには信じがたい言葉が、しかし万雷の拍手のように人々の欲望を打ち鳴らした。
それが真実ならば、これ以上の至宝は存在しない。
静まり返っていた会場は、一転して興奮のるつぼと化した。
「それほど奇跡的な効能があると言うなら、口先だけでは信じられん。 我々の目の前で実演してもらおうではないか!」誰かが叫ぶと、それは会場全体の総意となった。
競売人は待ってましたとばかりに優雅に微笑むと、パチン、と指を鳴らした。
その瞬間、東側の貴賓席で鈍い音が響き、どっと悲鳴が上がる。 日本のIT界を牽引する若き寵児、高橋光希が椅子から崩れ落ち、床に蹲っていた。 その顔は見る間に土気色を通り越して黒ずみ、口の端からは血の泡が溢れている。
駆け寄った専属医が必死に救急箱を漁るが、症状はあらゆる知見を超えており、ただ為す術もなく首を振るばかりだった。
競売人の目に射るような光が宿る。 彼の合図で、スタッフが檻に備え付けられた採血装置を起動させた。 無機質なアームが伸び、透明なチューブの先端が、檻の中の少女の白い首筋へと狙いを定める。
冷たい針先が肌を貫く。 その瞬間、少女の長い睫毛が苦痛に微かに震えたが、それきりだった。 抵抗する素振りも見せないその様は、この痛みが彼女にとって、とうに日常の一部であることを物語っていた。
三十ミリリットルの鮮血が抜き取られ、特殊な器具を介して光希の体内に注がれると、会場は息を呑んだ。 奇跡は、衆人環視の中で静かに始まったのだ。 死の硬直に囚われていた身体から強張りが解け、失われたはずの血の気がみるみるうちに顔に戻ってくる。 虚ろだった瞳に光が宿り、やがて焦点が結ばれた。
ごほっ、と激しく咳き込むと、高橋は黒い血痰を吐き出し、まるで溺れていた者が空気を求めるように、深く、大きく息を吸い込んだ。
「皆様、解毒はあくまで余興に過ぎません。 この至宝の真価は――長寿にこそあるのです!」競売人の巧みな話術が、再び会場の支配権を握る。
その言葉と共に、舞台脇の錦の幕が引かれる。 現れたのは、車椅子に乗せられた一人の老婦人だった。 骨と皮ばかりに痩せ衰え、手首の生命維持モニターが示す心拍数は三十八。 いつその灯火が消えてもおかしくない、まさに死の淵にいる病人だ。
競売人はスタッフと目配せすると、先ほど高橋の治療で使った血液の残りを、躊躇なく老婦人の腕に注入した。
突如、けたたましいアラームが鳴り響く。 だがそれは、終焉を告げる音ではなかった。 心拍数は六十八に急上昇し、四十パーセントで低迷していた血中酸素飽和度は、一気に八十パーセントまで跳ね上がったのだ。
やがて、深く閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。 老婦人の掠れた声が、しかし確かに会場に響いた。 「……ここは……どこかね? もしかして、あんたは……わしを迎えに来てくれた天女様かい……?」
一瞬の静寂。 そして、地鳴りのようなどよめきが会場を揺るがした。 その狂騒の頂点で、競売人がマイクを高々と掲げ、叫んだ。 「それでは皆様! 競売を開始いたします!」
開始価格一億ドルは、瞬く間に五十億ドルへと吊り上がっていく。
その狂乱を、二階の特別個室から一人の男が見下ろしていた。
革張りのソファに深く身を沈め、組んだ脚。 長い指先が、テーブルを規則的に、とん、とん、と叩いている。
彫りの深い端正な顔立ちは、まるで精緻な彫刻のようだったが、その双眸に宿るのは氷のような冷ややかさだけだ。
彼の視線は、階下の熱狂には目もくれず、ただ一点――採血された後もぴくりとも動かず、虚ろに横たわる少女に注がれていた。 まるで外界のすべてを拒絶しているかのようなその姿に、男は無意識に眉根を寄せた。
「竜也のアニキ」側近の五条川が歩み寄り、耳元で囁いた。 「例の骨董は、梱包が済みました。 いつでもお発ちになれます」。
だが、男――石神竜也は応えない。
五条川は、主の視線がなおも階下の少女に釘付けになっていることに気づき、探るように口を開いた。 「アニキ、あの娘を……落としますか? もしかすれば、二若の病に……」
その言葉を遮るように、竜也は手を振った。 忌々しげに鼻を鳴らすと、長身をすっと立ち上がらせ、そのまま個室を出て行こうと踵を返す。
「インチキだ、人に弄ばれるだけの、出来損ないめ」
吐き捨てるような言葉に、五条川は慌ててその後を追った。 同時に、とんでもない失言をしたと内心で舌打ちする。
思えば長年、この方の傍に女性の影があったことなど一度もない。 それどころか、雌の動物さえ近づけたことがないのだ。 ましてや、あの娘がどれほど多くの男の手を経てきたかも知れないというのに。 いかに絶世の美貌とて、この御方には塵芥にも等しい。
その短いやり取りの間にも、競りの値は百億ドルに達していた。
カン、カン、カーン! 三度目の槌音が高らかに響き渡り、落札を告げる。
競り落としたのは、太鼓腹の年配の富商だった。 彼は満面に下卑た笑みを浮かべ、己の戦利品をすぐさま誇示せんと、その場で檻を開けるよう要求した。
前例のある要求だ。 上客を前に、競売人は逆らえない。 恭しく頷くと、檻の前に屈み込み、手にした鍵で錠前を回した。
カチリ、と錠の開く乾いた音がした、その刹那。 それまで虚ろに伏せられていた少女の瞳が、カッと見開かれた。
諦観と無気力に満ちていたはずのその双眸に、射るような光が宿る。 それは、すべてを計算し尽くした、狡猾な獣の眼差しだった。 呆気に取られる富商に、少女は悪戯っぽくウインクを一つ送ると――
次の瞬間、彼女は弾かれたように身を起こした。 傍らの黒いベールをひったくって競売人の頭に被せると、電光石火の速さで舞台から駆け下りていた。
警備スタッフが我に返るより早く、少女のしなやかな身体は出口へと舞う。
どこから取り出したのか、その手には数本の銀針が握られている。 追っ手のボディガードたちに向け、それを無造作に振り撒くと、男たちは声もなくその場に崩れ落ちた。 悲鳴。
怒号。 阿鼻叫喚。 栄華を極めたはずのオークション会場は、一人の少女によって、一瞬にして混沌の渦に叩き込まれた。
話 2
「急げ! 捕まえろ! 出口を塞げ!」 競売人の顔から血の気が引いた。 あの娘を逃がせば、オーナーの逆鱗に触れる。 己の身がどうなるか、想像するだに恐ろしい。
十数名のボディガードが一斉にスタンガンを抜き放ち、少女の背を追った。
だが、少女の動きは獣のように俊敏だった。 円形の観客席を瞬く間に駆け上がり、出口を探す。
右から迫る三つの影を捉えるやいなや、少女はなりふり構わず手近な台車に積まれた黒布の箱を掴み、追手に向かって投げつけた!
狙いは驚くほど正確で、数名が直撃を受けて床に崩れ落ちる。 箱もまた大理石に叩きつけられて歪み、中から「ガシャン」と何かが砕け散る音が響いた。 歪んだ隙間から無数の陶器の欠片が零れ落ち、「カラン、カラン」と澄んだ音を立てる。 その音は、場違いなほど美しく、どこか絶望の色を帯びていた。
傍らで台車を押していた青年は、顔面蒼白となってその場にへたり込んだ。 まるで死刑宣告を受けたかのように唇を震わせ、か細い声で呟く。 「まずい……あれは、石神様の……終わった、何もかも……」
少女は眉根を寄せた。
イシガミ……? だが、今は思考を巡らせる暇はない。 ぴくりと耳が動く。 常人離れした聴覚が、左手から迫る新たな追手のざわめきを捉えていた。
人々の逃げる方向から、出口が上階にあると直感する。
少女はしなやかに手を伸ばして上方の手摺りを掴むと、その反動を利用して宙に舞い、中央の円柱を猿のように駆け上がっていく。
ついで、とばかりに手摺りに掛かった看板を蹴り落とせば、真下から迫っていた追手が一団となってなぎ倒された。
最後尾から追っていた競売人は、 その光景に言葉を失った。 あれほどの手練れが、 たった一人の小娘に……! この 「血の奴隷」 の身のこなしは、 常軌を逸している。
己の末路を悟り、 競売人の目に凶暴な光が宿る。
たとえ傷物にしようとも、必ず捕らえる。 奥歯を噛み締め、懐から銃を抜き放った。 円柱を登る少女の、か細い右脚に照準を合わせる――。
「パン!」
「パン!」
乾いた銃声が、二つ、同時にホールに響き渡った。
一発は、競売人の手から銃を弾き飛ばした。 目の前にいつの間にか佇んでいた長身の影に、彼は恐怖に目を見開く。 「い、石神様……」
もう一発は、競売人の撃った弾だ。 狙いの逸れたそれが、少女が登る円柱の上方に着弾した。
衝撃に身を震わせ、少女は円柱から真っ逆さまに落ちていく。
咄嗟に宙で身を翻し、 体勢を立て直そうとするが――それより早く、
すらりとした大きな手が伸び、 彼女の華奢な足首を鷲掴みにした。
少女は抗う術もなく引き寄せられ、冷たく硬い胸板に叩きつけられた。
込み上げる苛立ちのままに目の前の男を睨みつけたが、その顔をはっきりと認めた瞬間、呼吸が、一瞬止まった。
石神竜也。 その顔は、クリスタルのシャンデリアの光を浴びて、妖しいまでに美しかった。 貴族を思わせる病的なまでに白い肌。 わずかに吊り上がった切れ長の目には、温かみなど微塵もなく、氷で磨かれた刃のような冷光が宿っている。
「ガタン――」
誰かが倒したのか、陶器の欠片が箱の中で転がる鈍い音が、張り詰めた静寂を破る。 だが、竜也は眉一つ動かさなかった。
彼の視線は、まるで値踏みでもするかのように、少女の固く結ばれた眉から、もがいて赤くなった手首までをゆっくりとなぞる。 その目は、いかなる抵抗も無意味だと告げていた。
先ほどの騒乱の只中で、彼は見ていた。 円柱を駆け上がる少女の姿を。 その瞳に宿る、燃え盛る炎のような生存への渇望を。 それはあまりに鮮烈で、彼の凍てついた好奇心を妙に刺激したのだ。
――運命に甘んじるだけの玩具ではない。 絶望の淵で必死にもがく、面白い小動物だ。
竜也の長い指が、嗜虐的な色を帯びて少女の唇をなぞる。 指の腹が下唇をぐっと押し潰した、その時。 彼の薄い唇が開き、氷のように冷たい声が響いた。 「小娘。 自分が何をしでかしたか、分かっているのか?」
蹂躙された唇が熱を持つ。 少女は、目の前の男の瞳の奥に渦巻く昏い光を見た。 周囲の人間たちの、あの怯えきった態度。 脳裏に警鐘が鳴り響く。
――この男は、危険だ。
「お前は俺の蒐集品(コレクション)を壊した。 世界にただ一つの、な。
どうすべきか、分かるだろう?」 竜也は、まるで能面のように感情の読めない顔で言った。
金を要求する気か? 所詮、 この手の人間は富や身分を笠に着るばかり。
金持ちほど強欲なものだ。
少女は侮蔑を込めて彼を睨み返す。 その瞳には、諦観にも似た冷ややかな光が宿っていた。 富裕層の傲慢さや、値踏みするような視線には、もううんざりするほど慣れている。
少女が黙りこくっているのを見て、竜也は片眉をくいと上げた。 長い指が伸び、彼女の小さな耳たぶを摘む。 まるで玩具を弄ぶかのように。 「……人の言葉が解せないのか?」
「……」
おや? (なるほど)
少女の瞳の奥に、怜悧な光が宿った。 これだけの人間を従える男だ。 力で抗うのは愚策。 今は無知な獣を装い、隙を窺うべきだ。
この地獄のような場所で生き延びるため、彼女は幾度となく心を殺してきた。 自分が何者で、なぜこの島にいるのか、その記憶さえもとうに摩耗している。
言葉を発さず、無垢を装うことだけが、彼女の処世術だった。
だから彼女は、いつものように口を閉ざし、怯え怒る小動物のようにただ男を睨みつけた。
だが、その碧い瞳の奥底には、まるで磨かれた宝石のような、一点の曇りもない光が揺らめいている。
(――実に、美しい)
美しいものに対して、彼は常に暴力的な破壊衝動を覚えてきた。 だが、この娘は――どこか違った。
「なるほど。 ただ逃げ回ることしか能のない、愚かな獣か」
竜也は小さく舌打ちをすると、不意に少女を拘束していた手を離した。
見逃す、ということか?
腕の中から解放され、少女の足がようやく地面に触れる。
最も近い出口までの経路を瞬時に計算し、爪先が僅かにそちらを向いた、その時――。
だが、竜也が再び口を開いた。 「構わん。 お前が愚かでも、俺は気にしない」
その言葉に、 周囲の野次馬たちは困惑の表情を浮かべる。 競売人もまた、
主の意図を測りかね、 ただ息を殺して成り行きを見守るしかなかった。
次の瞬間、少女の視界がぐらりと揺れ、身体が意思に反して男の方へ傾いだ。
体勢を立て直す間もなく、竜也の腕が鉄の箍(たが)のように彼女の腰を抱きすくめる。 薄い衣服越しに触れる掌は、肌を灼くほどの熱を帯びていた。
そして、耳元で傲岸な声が囁くのを、少女は聞いた。
「――お前は俺の蒐集品を壊した。 ならば代償に、今この瞬間からお前が……俺のものになれ」
話 3
(この男、一体どういう思考回路をしているの!?)
少女は呆れを通り越し、もはや怒りすら湧いてこない。 ただ目の前の男の理不尽さに、渾身の力でその胸板を突き放そうと試みた。 だが、手のひらに触れた筋肉は冷たい鋼鉄の壁のように硬質で、どれだけ力を込めても、その体は微動だにしない。
怒りが沸点に達し、少女は手を振り上げ、男の頬を張ろうとした。
後ろに控えていた五条 川が悲鳴に近い声を上げる。 「竜也様……!」 (この女、死ぬ気か!?)
だが、石神 竜也は怒る気配すら見せず、振り下ろされるそのか細い腕を、いとも容易く空中で掴み取った。
嘲るような、それでいてどこか気怠げな声が降ってくる。 「真っ昼間からお盛んなことだ。 ガキのくせに、人の話も聞かずに男を誘う術だけは心得ているらしいな」
「……っ」
(ふざけないで。 誘惑なら、あなたのお爺様にでもすればいいわ!)
心の中で毒づく間にも、竜也は少女を強引に抱き寄せる。 破れたガーゼの隙間から覗く柔らかな素肌が、男の腕にぴたりと押し付けられた。
常人より幾分か低い男の体温がじかに伝わり、少女の胸に得体の知れないさざ波を立てる。 その不快感から逃れるように、必死に身を捩った。
だが、竜也は腕を緩めるどころか、むしろその体に回した腕にさらに力を込めていく。 悔しげに歯を食いしばる彼女の様を、心底面白そうに眺めていた。
その時、競りに成功した富豪が、でっぷりとした体を揺らして駆け寄ってきた。 少女を見るや、その目にいやらしい光を宿す。 「そいつは俺が競り落とした極上の品だ……俺の女だぞ!」
男が竜也に詰め寄るより早く、川が一瞬で銃を抜き、その額に寸分の狂いもなく突きつけていた。
富豪は動きを止め、 顔を豚のレバーのように赤黒くさせる。 「き、 貴様ら、 俺が誰だか分かっているのか!? 俺は……」
「陸社長、死にたいのですか!」 競売人が慌てて駆け寄り、男を引き止めると鋭く睨みつけた。
竜也に向き直った途端、その態度は一瞬にして卑屈なほど恭しいものへと変わる。 「石神様、私どもの女奴隷が不行き届きで、逃走の際に石神様の落札品を傷つけてしまいましたこと、誠に申し訳ございません。 倍額にて弁償させていただきます……」
それまで無関心を装っていた竜也の表情が、「女奴隷」という言葉を耳にした瞬間、わずかに変わった。 その妖艶で深淵な漆黒の瞳の奥に、不快な光が鋭くよぎる。
競売人は、理由のわからぬまま肌を刺すような殺気を感じ取ったが、何が竜也の機嫌を損ねたのか見当もつかず、強張った表情で言葉を続けた。 「石神様、いかがいたしましょうか……」
「この女は俺が連れて行く」
竜也は、薄い唇から冷ややかに言葉を吐き出した。
簡潔にして、有無を言わせぬ響きがあった。
競売人は愕然とする。 「そ、 それは……! いけません、 石神様! 断じてなりませぬ! その女奴隷は我々天国島の競売品であり、 既に落札されております……! それに、 彼女は…… 彼女は……」
彼は口ごもり、それ以上言葉を続けることができなかった。
竜也の長い指が、少女の細い腰をゆっくりと、所有物であることを示すかのように叩いている。 その仕草は、交渉の余地などない、絶対的な支配欲の表れだった。
彼が口にしたのは、交渉ではなく命令だった。 「そいつの落札価格は百億だそうだな。 ……俺が倍の二百億を出す」
それは、天国島オークションハウスが開設されて以来、前代未聞の天文学的な金額だった。
竜也の言葉が終わるや否や、川は間髪入れず小切手帳を取り出すと、淀みない動きで金額を記し、主に手渡した。
竜也の冷たく白い指から離れた小切手は、一枚の枯れ葉のように、ひらり、と静かに床へ舞い落ちた。
競売人は震えながら懇願する。 「い、石神様、そのような大金をいただくわけにはまいりません……!こ、これは我々天国島の規則に反しますので……」
竜也の血を思わせる唇が、 酷薄な笑みの形に歪む。 「――もし俺がここを更地にすれば、 その 『規則』 とやらも消え失せるのではないか?」
それは紛れもない脅迫でありながら、今日の天気を語るかのように平然とした口調だった。
競売人は恐怖に凍りつき、もはや一言も発することができない。
竜也はそれ以上何も言わず、半裸同然の少女の体に、自分の上着を無造作に掛けてその肌を隠すと、軽々とその体を抱え上げ、悠然と歩き出した。
川と黒服の男たちが、粛々とその後に続く。
「石神様……」
競売人は何かを言いかけたが、気高く、そしてどこか孤独なその背中を見つめるだけで、追いかける勇気は湧いてこなかった。
石神竜也とは、一体何者なのか。 背後には日本の経済を掌握するほどの財閥が控え、その影響力は表社会にも裏社会にも及んでいる。
その竜也の腕に抱かれた少女は、あれほど激しく抵抗していたのが嘘のように、今は彼の肩にぐったりと身を預けているではないか。
ふと顔を上げた競売人は、こちらを見つめる少女の碧い瞳と視線がかち合った。
そこには、この地獄から逃れられるという歓喜と、燃えるような復讐の色を宿した、氷のような光があった。
彼女が騒ぎも暴れもしないのは、この男を利用して、ここから完全に抜け出せると確信したからだ。
傍らで陸社長がまだ何事か喚いているのを尻目に、競売人はその場にへたり込んだ。 「もうおやめなさい!……実は、たとえあなたが彼女を落札できたとしても、連れて帰ることは不可能だったのです。 ボスが、あれほど慈しんでこられた『完成品』を、手放すはずがございませんでしょう……?」
長年の研究の末に生まれた、唯一無二の「血液奴隷」という完成品。 それが天国島から持ち出されたとなれば……その結末は、想像するだに恐ろしい。