話 2
柏崎心歌栄 POV:
私の言葉が電話のスピーカーから漏れた瞬間, 背後から冷たい声が響いた.
「誰と, 婚約を破棄するつもりだ, 心歌栄? 」
その声に, 私の心臓は凍りついた. 藤尾真一だった. 彼はそこに立っていた. 一体いつから? そして, 私の言葉をどこまで聞いていたのだろう? 彼の目はまるで深淵のように暗く, 私を射抜くような視線が向けられていた.
私が言葉を失っている間に, 真一は私の腕を掴もうと一歩踏み出した. 彼の指が私の肌に触れる寸前, キッチンの奥から甲高い悲鳴が響き渡った.
「きゃああああ! 」
その声は, 茅野花子のものだった. 真一は私から一瞬で意識をそらし, 悲鳴のする方へと顔を向けた. 花子が, 片方の手を抑え, 泣きながらキッチンの入り口に立っていた. 彼女の白いブラウスには, 赤いワインの染みが広がっている.
「ごめんなさい, 私, 本当に不器用で... . こんな私, 真一さんの専属秘書にはふさわしくないですよね... 」
花子は震える声でそう言い, 涙をポロポロとこぼした. その姿は, まるで怯えた小動物のようだ. 真一は私を完全に忘れ去り, 迷うことなく花子のもとへ駆け寄った. 彼は花子を優しく抱き上げ, その小さな体を腕の中に閉じ込めた.
「大丈夫だよ, 花子. 君は何も悪くない」真一の声は, 私に向けられることのなかった柔らかな響きを持っていた. 「君は僕の専属秘書だ. これからもずっと, 君しかいない」
その言葉は, 私の心臓を深く抉る刃のように鋭かった. 彼は花子に, 私に与えることのなかった安心と愛情を与えていた. 真一は花子を抱きかかえたまま, 私を一瞥することもなく, その場を立ち去った. 彼の背中は, 私にとって初めて見るほど遠く, そして冷たかった.
花子の傷なんて, かすり傷にもならない程度のものだった. 私も料理中に何度か経験したことがある. 少し火傷したか, 指を切ったか. そんな些細なことで, 真一は私にこんなにも感情を露わにしたことはなかった. 私は彼の背中が完全に視界から消えるまで, ただ立ち尽くしていた. 言葉は喉の奥にへばりつき, 何も言えなかった.
真一がいなくなってから, 私はスマートフォンを取り出した. 友人たちに電話をかけ, 別れを告げた. 彼らは私が真一との婚約生活を始めるために, 実家を飛び出して以来, ずっと私を支え続けてくれた, 私の唯一の支えだった. 真一の会社がまだ小さかった頃, 私が彼らを紹介して以来, 彼らは真一の会社にも貢献してくれた. 私の友人たちは, 私がどれほど真一を愛し, 彼のために全てを捧げてきたかを知っている.
「心歌栄, まさか真一さんとついに結婚するの! ? 」友人の一人が興奮した声で言った. 「私たち, ずっと待ってたのよ! おめでとう! 」
私は苦笑した. この十年, 友人たちはいつも冗談めかして, 私と真一がいつ結婚するのかと尋ねてきた. 十年経っても, 状況は変わっていなかったのだ.
「違うの」私は疲れた声で言った. 「私, 別の男性と結婚するわ」
電話口の向こうで, 友人たちの声が途切れた. 沈黙が流れ, そして困惑した声が聞こえてきた.
「え? どういうこと? 真一さんはどうしたの? 」別の友人が尋ねた. 「彼の会社, 今すごく勢いがあるんでしょ? 心歌栄もずっと彼のそばにいたじゃない」
私は感情の変質と, 私がどれだけ長い間真一に尽くしてきたかを, 言葉を選びながら説明した. 私の声は, まるで使い古されたレコードのように, 擦れて聞こえた. 私は真一の冷たい態度, 花子との出来事を話した. 私が語り終えると, 友人たちは皆, 言葉を失っていた. 彼らは真一を擁護することなく, ただ黙って私の話を聞いていた.
「分かったわ, 心歌栄. あなたが決めたことなら, 私たちも応援する」友人の一人が, 静かにそう言った.
電話を切ると, 私はすぐに荷造りを始めた. 真一から贈られた高価な品々は, 全て売り払うか寄付することにした. 宝石, ブランドバッグ, 高価なアート作品. それら一つ一つに, 真一の影がまとわりついていた. 私はそれらを一つ残らず手放すことで, 過去との決別を図ろうとした.
持ち出せないものは, 写真に撮って友人たちに送った. 「もし気に入ったものがあったら, 持って行って構わないわ」とメッセージを添えて. 彼らはすぐに返事をくれた. 「心歌栄, 気にするな! あなたは私たちの親友だ. 必要なものがあったら, 遠慮なく言うんだ」
荷造りが終わった時, ちょうど真一が花子を抱えて部屋に戻ってきた. 花子は真一の腕の中で, 私を見て得意げに微笑んだ. その視線は, まるで私の敗北を嘲笑うかのようだった. 私は彼ら二人の前を, 顔色一つ変えずに通り過ぎた.
話 3
柏崎心歌栄 POV:
私は親密に寄り添う二人を無視し, 無言で玄関を出た. 私が手配した引っ越し業者が, ちょうどその時, 到着した. 彼らの迅速な作業は, 私の心にわずかな安堵をもたらした. 車に乗り込み, 友人宅へと向かう間, 私はスマートフォンを握りしめていた. 新しい生活への期待と, 長年の献身が裏切られた痛みがないまぜになって, 胸の奥で渦巻いていた.
友人宅に着き, 荷物を片付けた後, 私は恐る恐るスマートフォンをチェックした. 画面には, 何件もの通知が表示されていた. その中に, 真一のSNSの更新通知があった. 私は指が震えるのを感じながら, それを開いた.
そこに表示されていたのは, 真一と花子の親密なツーショットだった. 二人は寄り添い, 花子は真一の肩に頭を乗せて, どこか挑発的な笑顔を浮かべている. 写真の背景には, 旅行から持ち帰ったばかりであろう, 高級ブランドのショッピングバッグが山のように積まれていた.
コメント欄は, 二人の関係を推測し, 祝福するコメントで溢れかえっていた. 「お似合いの二人! 」「ついに公認カップル誕生? 」「幸せになってね! 」真一はそれらのコメントに「いいね」を押し, 花子は「ありがとうございます, 真一さんのおかげです」と, 控えめながらも得意げに返信していた. 花子のフォロワー数は瞬く間に増え, 彼女はまるでシンデレラのように, 一晩で脚光を浴びていた.
私はかつて, 真一の会社の広報担当として, 彼と親しい友人たちを集めたグループチャットを作っていた. 真一のビジネスパートナーや, 彼を応援するインフルエンサーたちだ. 彼らの献身的なサポートのおかげで, 真一の会社は急成長を遂げた. しかし, 花子が彼の秘書になってから, 真一は次第に私との連絡を疎かにし, グループチャットでのやり取りも減っていった. 私はいつしか, そのグループチャットから遠ざかっていた.
画面をスクロールすると, そのグループチャットがまだ生きていることに気づいた. そして, 花子からのメッセージが何件も届いていた. 彼女は, 真一と自分を重ね合わせるかのように, 彼のビジネスの成功を自分の手柄のように語っていた. そして, 私と真一の思い出の場所で, 真一が彼女のためにプレゼントを買ったことを誇らしげに報告していた. 「真一さんが私のために, 特別に選んでくださったんです! 」と.
全てが, 花子によって汚されていくような気がした. 真一が私のためだけに用意してくれたロマンチックなディナー, 彼が私のために書いてくれた温かい手紙, 彼が私を見つめる優しい瞳. その全てが, 花子の登場によって, 偽物のように思えてきた.
花子は, 真一の会社に勤める他の秘書たちを巻き込み, 些細なミスを連発していた. プレゼンテーションの資料を紛失したり, 重要な電話を繋ぎ忘れたり. しかし, 彼女はいつも泣きながら謝罪し, 真一は彼女を庇った. 「花子はまだ若いから」と彼は言った. 彼女のミスを指摘した従業員は, 真一によって次々と解雇された. 私は彼らを助け, 新しい仕事を見つけてあげた.
私は無意識のうちに, 左手の中指に触れた. そこには, 真一が私に贈ってくれた婚約指輪が光っていた. かつて, 彼はこの指輪を自らデザインし, 私の指に合わせて作ってくれたのだ. 「この指輪は, 永遠に君と僕を結びつける証だ」そう言って, 彼は私の指に指輪をはめてくれた.
だが, 今, その誓いはまるで錆びついた金属のように, もはや輝きを失っていた. 愛は, 形あるものと同じように, 時と共に摩耗し, やがて朽ち果てるのだ. 私は指輪をそっと外し, その表面を指でなぞった. 彼の温もりは, もうそこにはなかった.
私はすぐに宅配業者を呼び, 指輪を真一の元へ送り返す手配をした. 同時に, 父から送られてきた新しい縁談相手のリストを改めて開いた. 私の心は, かつてのようには揺れ動かなかった. ただ, 早くこの状況から抜け出したいという一心だった.
二週間後, 私は結婚する. 早すぎる, と思う人もいるかもしれない. しかし, 私にはもう, 待っている時間などなかった.
翌朝, 夜が明けきらないうちに, 真一が私の部屋のドアの前に立っていた. 彼の顔は憔悴し, 目には焦りと混乱が入り混じっていた.
「心歌栄, どうして指輪を送り返したんだ? 」彼の声は, まるで喉を絞り出すような苦しげなものだった.
私は冷たい視線で彼を見上げた.
「サイズが合わなかったからよ」私は感情を一切込めずに答えた.
真一はハッと息を呑んだ.
「すまない, 僕が悪かった. 君に何も言わずに送り返した僕が失礼だった」彼は頭を下げた.
「サイズが合わないなら, どうして早く言ってくれなかったんだ? 」
私は何も言わなかった. 真一が私に冷たくなったのは, いつからだろう? 彼の返信が遅れるようになり, 私の話を聞かなくなったのはいつからだろう? 私は彼の冷たい態度に慣れきってしまい, それが当たり前になっていた.
私は彼の目を見据えた. 彼はもう, 私だけを愛する男ではなかった.
「出て行ってちょうだい」私は静かに言った.
真一は私の言葉を聞いて, 唐突に私を抱きしめた. 彼の腕は私を捕らえるように強く, 私は身動きが取れなかった.
「結婚指輪は僕がデザインする. 君に一番似合うものを作るよ. ドレスも, 新しいものを見に行こう. 君の好きなブランドの新作が発表されたばかりだ」彼の声は, まるで壊れたレコードのように, 同じ言葉を繰り返していた.
彼の首筋に, 見慣れない赤い痕が見えた. そして, 甘い香水の匂い. それは花子の香水の匂いだった. 私は吐き気がした. 彼は私を抱きしめながら, 他の女の痕跡を身につけているのだ.
彼は本当に私を愛しているのだろうか? それとも, ただ私を失うのが惜しいだけなのだろうか?
私は真一を突き飛ばし, 嘲るように笑った.
「そうね. きっと素晴らしい結婚指輪とドレスになるでしょうね」私は冷たく言った.
真一は, 私の言葉の裏に隠された意味を理解しているのだろうか. 彼の顔は, 混乱と戸惑いを露わにしていた. 彼は私を, まだ自分の手の内にあるとでも思っているのだろうか?