話 1
余命宣告を受けたその足で, 私は恋人の裏切りを知った.
私が人生の全てを捧げてトップスターに押し上げた玉置春斗は, 裏で私を嘲笑っていたのだ.
「杏樹? あいつはただの便利な金づるだよ. 地味でつまんねぇ女」
浮気相手の人気モデル・梅田凛香から送られてきた動画の中で, 彼はそう言い放ち, 仲間たちと下品に笑っていた.
私の愛も, 才能も, 削ってきた命さえも, 彼にとってはただの「道具」でしかなかった.
心臓が張り裂けるような痛みの中で, 私の愛は冷徹な殺意へと変わった.
残されたわずかな時間, 私は治療なんてしない.
春斗, そして凛香.
あなたたちから全てを奪い, 私が死んだ後も一生消えない後悔を植え付けてやる.
私の命を賭けた, 最後の復讐劇が幕を開ける.
第1章
(桜庭杏樹 POV)
私の心臓は, まるで時限爆弾のように, 残り少ない時間を刻んでいた. その爆弾の針が止まろうとしている時, 私は彼が別の女と笑い合う姿を週刊誌で見た. そして, その瞬間, 私の人生のすべてを捧げた「彼」と, 私の余命が, 酷く重なり合って見えた.
手のひらでぐしゃぐしゃになった診断書が, 私の人生の予定をひっくり返した. 冷たい紙の感触が, まるで私の血管を流れる血液が凍りついたかのように感じられた.
「桜庭さん, 残念ですが... 」医師の声は, なぜか遠く聞こえた. 彼の口から発せられる残酷な言葉が, 私の耳朶を叩くたびに, 世界が色を失っていくようだった. 「残された時間は, 長くありません. 」
遺伝性の重い心臓病. 手の施しようがない. 私の祖母も, 母も, 同じ病で若くして命を落とした. 私は, その宿命から逃れられないことを知った. この現実は, あまりにも重すぎた.
待合室の硬い椅子に座り, 私はぼんやりとスマートフォンを操作した. 指先が画面を滑り, 目に入るのは, 無数の芸能ニュース. 画面の明るさが, 私の心の闇をさらに際立たせた.
その中に, 見慣れた顔を見つけた. 人気ロックバンドのボーカル, 玉置春斗. 彼の隣には, 人気モデルの梅田凛香. 二人の親密な写真が, 私の視界を占拠した.
記事の下のコメント欄を開くと, 案の定, 批判的な言葉が並んでいた. 「またか」「この男は本当に懲りない」「相手の女性が可哀想」. でも, 私の胸を締め付けたのは, そんな言葉ではなかった.
「桜庭さん, お迎えが参りました」秘書の声に, 私はハッと顔を上げた. 診断書を慌ただしく折りたたみ, バッグの奥に押し込む. この事実を, 誰にも知られたくなかった. 特に, 彼には.
残された時間. 頭の中には, すぐに終わらせるべき仕事が山積していた. それが終わったら, 海外の病院にでも行ってみようか. わずかな希望に, 私はしがみつこうとした.
車に乗り込みながら, 私は春斗にメッセージを送った. 「今夜, いつ帰るの? 」短い言葉に, 私の不安と期待が込められていた.
メッセージを送信してから, もう一時間以上が経った. 画面は沈黙を守り, 既読マークもつかない. 焦りが, 私の胸の奥でじわりと広がる. 彼は, 今どこで何をしているのだろう.
我慢できずに, 何度も電話をかけた. しかし, コールは虚しく鳴り続け, そして「お話し中」の機械的なアナウンス. 私の心臓が, 診断書の内容とは関係なく, 不規則なリズムを刻み始めた.
スマートフォンを膝の上に投げ出し, 私は両手で頭を抱えた. この絶望的な診断と, 彼の不在. 二重の苦しみが, 私を容赦なく襲う.
「玉置さんも, 最近お忙しいですからね」横から聞こえる秘書の声が, なぜか私を苛立たせた. 「人気が出れば出るほど, プライベートな時間も削られてしまうものです. 」
「忙しい? 」私は鼻で笑った. 彼の忙しさなんて, 私が一番よく知っているはずなのに. 彼のスケジュール管理も, 彼の楽曲制作も, 彼のイメージ戦略も, すべて私が手がけてきたのだから.
「彼が私より忙しいなんて, 初めて聞くわね」私の声には, 隠しきれない皮肉がにじんでいた. 「まるで, 私が彼のマネージャーか何かみたいじゃない? 」
「それから, もう『玉置さん』じゃなくていいわ」私は冷たく言い放った. 「今日から, 彼を呼ぶときは『玉置』で構わない. 」
彼の態度を正す必要がある. 私に対する彼の接し方, そして私たちの関係に対する彼の認識. すべてを, 私がもう一度, 彼に教えてあげなければならない.
豪華だが, 私一人には広すぎる自宅に戻った数分後, ようやくスマートフォンが震えた. 春斗からだ.
「あれ, ごめん, 今気づいた」画面の向こうから, 少し興奮したような彼の声が聞こえた. 「今, 打ち上げ中なんだ. すげぇ盛り上がっててさ. 」
ガヤガヤとした喧騒が, 電話の向こうから響いてくる. 私の言葉を遮るように, 「じゃ, また後で! 」と一方的に電話を切られた. まるで, 私の存在が彼にとって, 些細な邪魔でしかないかのように.
私はリビングのソファに深く身を沈めた. 彼が帰ってくるのを, ただひたすら待った. 窓の外は, いつの間にか漆黒の闇に包まれ, やがて夜が明けた.
朝日が窓から差し込み, 部屋を明るくし始めた頃, 玄関のドアが開く音がした. 彼は, ようやく帰ってきた.
「あれ? まだ起きてたのか」彼は私の顔を見ると, いつものように抱きしめようとした. しかし, 私は反射的にその腕を押し退けた.
彼の体からは, タバコの匂いと, 甘ったるい香水の匂いが混じり合って漂ってきた. その匂いが, 私の胃の奥から込み上げる吐き気を誘った.
彼は私の反応に少し驚いたようだったが, すぐに自分の匂いを嗅ぎ, 苦笑した. 「あー, これか. さすがに酷いな, ちょっとシャワー浴びてくるわ. 」
シャワーを浴び終えた彼は, 髪を拭くこともせずに出てきた. 濡れたままで, 私に向かってタオルを投げつけ, いつものように甘えた声を出す. 「ねぇ, 拭いてくれよ, あんじゅ」
これは, 彼のいつもの手だ. 私が彼のために尽くすのを当然のように思っている, 彼の甘え. その無邪気なふりをした傲慢さが, 今となっては見ていられなかった.
以前の私なら, きっと笑ってタオルを受け取り, 彼の髪を優しく拭いてあげただろう. 彼の少しずつ増えていくわがままも, 愛ゆえだと受け止めてきた. 何度も, 何度も.
しかし, 今は違った. 私の手は, 冷たいタオルを受け取ろうとしない. 彼の目を見つめ, 何も言わずにただ首を横に振った.
「どうしたんだよ, 急に」彼は少し不機嫌そうに, 私の隣に座り, 再び抱きしめようとした. 彼の顔には, まだ困惑の色が浮かんでいる.
「最近, 色々な付き合いがあるんだよ」彼は, 私の肩に顔を埋めながら, 耳元で囁いた. 「今が大事な時期なんだ. 俺のキャリアにとって, すごく重要な時なんだよ. 」
私は彼の体を強く押し退けた. 彼の話は, いつも自分本位だ. 私は真剣な目で彼を見つめた. 「春斗, 少し話があるの. 」
彼は大きなあくびを一つした. 「えー, 今からかよ. もう眠いんだってば. 昨日の打ち上げ, 朝までだったんだぞ. 」そう言って, 私の目を避けた.
私の返事を待たずに, 彼はのっそりと立ち上がり, 階段を上がっていった. 「俺, もう寝るから. あんじゅも早く寝ろよ. 」
私はその場に立ち尽くし, 乾いた笑いを漏らした. 恩知らず. まさしく, その言葉が今の彼にはぴったりだった.
テーブルの上に, 彼のスマートフォンが置きっぱなしになっているのを見つけた. 液晶画面が, 薄暗いリビングで微かに光っていた.
手に取った私は, 咄嗟にロックを解除しようとした. しかし, 見慣れないパスワードが要求される. 彼は, いつの間にかパスワードを変えていた.
スマートフォンをそっとテーブルに戻し, 私は部屋着に着替えるために自室へ向かった. 疲労感が体全体を蝕む.
洗濯物をまとめようと, 彼のジャケットを手に取った時だった. ポケットの中から, 一枚のカードが滑り落ちた. ホテルのルームキー.
それは, 明らかに女性用の, 真っ赤な口紅の跡がべったりと付いていた. 私の心臓が, ドクンと嫌な音を立てた.
手のひらに握りしめたルームキーが, 私の怒りをさらに燃え上がらせた. 私は階段を駆け上がり, 寝室のドアを乱暴に開けた.
春斗は, ベッドの上でぐっすり眠っていた. 私が部屋に入ってきたことにも気づかず, 寝返りを打って, 空いている私の隣のスペースに, 私を引き寄せようと腕を伸ばした. 彼の無邪気な寝顔が, 私の視界に入った.
話 2
(桜庭杏樹 POV)
私は春斗の肩を掴み, 力任せに揺さぶった. 「春斗! 起きなさい! 」彼の寝ぼけた目がやっと開くと, 私はルームキーを目の前に突きつけた. 「これは何? 」
彼は目を細め, 私の手のひらのルームキーをぼんやりと見た. それから, 迷惑そうな顔で私を睨んだ. 「何だよ, 朝っぱらから. 知らないって. 」
「知らない? 」私は冷笑した. 彼の態度が, 私の怒りに油を注ぐ. 私は彼にもう一度, ルームキーを突きつけた. 口紅の跡が, 薄暗い部屋の中でもはっきりと見て取れた.
彼は一瞬, 顔色を変えたが, すぐに舌打ちをして, 私の手からルームキーをひったくった. そして, ベッドサイドのゴミ箱に投げ捨てた. 「こんなもの, どうでもいいだろ. 」
「ああ, これか. 昨日, 打ち上げで泊まったホテルのだよ」彼はまるで, それが何でもないかのように言った. 「誰かの忘れ物だったんだろ. 俺が持ってただけじゃん. 」
彼は再び, 私を抱きしめようと腕を伸ばしてきた. 「もう, いいだろ. こんなことで怒るなよ, あんじゅ. 俺が一番好きなのは, お前なんだから. 」
私は彼の腕を振り払い, 何も言わずに自分の毛布と枕を抱え, 寝室を出た. もう, この部屋で彼と一緒に眠ることはできない.
次に彼が目を覚ましたのは, 夜になってからだった. 私が会社から帰宅すると, リビングで彼はぼんやりと座っていた. 彼の顔には, まだ寝跡が残っていた.
「話せる? 」私は感情を押し殺した声で尋ねた. もうこれ以上, 曖昧な関係を続けるつもりはなかった.
彼は重い溜息をつき, ソファに深く座り直した. そして, 渋々といった様子で頷いた. 「... ああ, いいよ. 」
「私たちの関係を, 公表してほしい」私は切り出した. 長年, 影で彼を支え, 隠れて付き合ってきた. もう, そのことにうんざりしていた. 「もう限界なの. 」
私の言葉を聞くと, 彼は突然, 猛り狂ったように立ち上がった. まるで, 尻尾を踏まれた猫のように, 彼は激昂した. 「はぁ! ? 何を言ってるんだ! ? 」
「今, 俺はまさにブレイク寸前なんだぞ! 」彼の声は, 怒りで震えていた. 「こんな時期に, お前との関係なんか公表できるわけないだろ! 俺のキャリアがどうなるか, わかってるのか! ? 」
「これまで, 俺がどれだけ苦労して, 必死に頑張ってきたと思ってるんだ! 」彼は感情的に叫んだ. 「全部が台無しになる! もう二度と, そんなこと言うな! 」
私は理解できなかった. どうして, 彼は他の女性とのスキャンダルは許容できるのに, 私との関係だけは公表できないのか.
「あれは仕事だ! 」彼は苛立ったように言った. 「ドラマのプロモーションとか, そういうの! お前とは違うんだ! 」
「わかった, わかったから」彼は, 急にトーンを落とし, 私をなだめるように言った. 「あと二年だけ待ってくれ. 二年後には, 必ず公表する. だから, それまでもう少しだけ我慢してくれ. 」
「二年... 」私は呟いた. 私の口から出かかった言葉, 「私には, もう二年もないかもしれない」という真実を, しかし私は飲み込んだ.
「なんだよ, たかが二年だろ? 」彼は軽く笑った. 「一年延びたって, どうってことないだろ. あんじゅだって, 俺の成功を望んでるんだろ? 」
彼は私の手を取り, 自分の胸に当てた. 「信じてくれ, あんじゅ. 俺は誓う. 必ず, お前を幸せにする. だから, 待っててくれ. 」
言いたいことは山ほどあった. しかし, 彼の言葉を聞いて, 私は何も言えなくなった. ただ彼の背中を見送るしかできなかった. 彼は, 私を振り向くこともなく, 再び仕事へと向かっていった.
彼はその家で, 二, 三日を過ごした. 私の顔色を伺いながらも, どこか落ち着かない様子だった. そして, すぐにまた, 多忙な仕事へと戻っていった.
彼がまた家を空けて数日後, スマートフォンにメッセージが届いた. 「今度, 現場に来ないか? 差し入れでも持ってさ. 」
彼のメッセージを読み終え, 私は唇を噛み締めた. そして, すぐさま秘書に指示を出した. 「梅田凛香の身辺を調べてくれる? できるだけ詳しく. 」
秘書が調査を始める前に, 意外なことが起こった. 私のSNSに, 梅田凛香から直接, 友達申請が送られてきたのだ.
申請と一緒に送られてきたメッセージには, 「春斗の彼女の凛香です. よろしくね」と書かれていた. 彼女の堂々とした態度に, 私の心臓が冷たくなった.
私は迷わず, その友達申請を承認した. 正面から彼女と向き合う時が来た. 彼女が何を知っていて, 何を企んでいるのか, 直接知る必要があった.
承認した途端, 彼女から大量の写真が送られてきた. どれもこれも, 春斗とのツーショット. 抱き合っているもの, キスしているもの, そして--.
その中に, 彼が眠っている写真があった. 無防備な寝顔. まるで, 彼が私の隣で眠っているかのような, 親密な一枚. 私の視界が歪んだ.
「彼はね, 本当に愛してるのは私だけなの」彼女からのメッセージが, 私の目の前で光る. 「あなたなんか, もうとっくに飽きてるわ. 」
「あなたなんて, ただの便利な金づるでしょ? 」彼女はさらに続けた. 「もう用済みよ. 邪魔しないでくれる? 」
私の手は, 小刻みに震えていた. スマートフォンの冷たい感触が, 手のひらから滑り落ちそうになるのを必死で耐えた.
私が彼に捧げてきたもの. 時間, 才能, そして愛. これらはすべて, ただの「金」でしかなく, 私はただの「道具」だったというのか.
怒りよりも先に, 深い悲しみが私の胸を襲った. 喉の奥が締め付けられ, 息が苦しい.
目から溢れ落ちる涙を, 私は乱暴に拭った. もう, 泣かない. この涙は, 彼のために流すにはあまりにももったいない.
私の心の中で, 何かが音を立てて砕け散った. そして, その破片の代わりに, 冷たい, 確固たる決意が生まれた. 春斗. 私は, あなたにこの裏切りの代償を払わせる. 必ず.
話 3
(桜庭杏樹 POV)
私は春斗のためにここに来たわけではなかった. 簡単な打ち合わせを終え, 彼に一瞥もくれず, 私はその場を立ち去ろうとした.
エレベーターホールに向かおうとしたその時, 私の目の前に一人の女性が立ちはだかった. 梅田凛香だった.
「何よ, この泥棒猫! 」凛香は, 興奮した様子で私を指さした. 「私の役を奪うなんて! どういうつもりなの! ? 」
私は驚きよりも, むしろ感心した. 指示を出してから, まさかここまで早く動いてくれるとは. 監督の仕事の速さに, 私は少し口角を上げた.
凛香の叫び声は, フロア中に響き渡った. 周りのスタッフや他の俳優たちが, 何事かとこちらを振り返る. 好奇の目が, 私と凛香に集中した.
その視線の中に, 春斗の姿もあった. 彼は信じられないといった表情で, 私を見つめていた. 彼の目には, 「一体, 何をしたんだ? 」という疑問がはっきりと浮かんでいた.
面倒だった. いちいち説明するのも, 言い訳するのも. 私はまっすぐに凛香の目を見て, 淡々と言い放った. 「私がやったことよ. 何か? 」
「なぜよ! ? 」凛香はヒステリックに叫んだ. 「どうしてそんなことができるのよ! あんたなんかに, 何の恨みがあるって言うの! ? 」
「この役は, 私がどれだけ努力して, どれだけ必死になって手に入れたか, あんたにわかるわけないでしょ! 」彼女の声には, 絶望が滲んでいた.
私はちらりと秘書に目をやった. 秘書はすぐに意図を察し, 周囲のスタッフに目配せをした. あっという間に, 周りから人影が消えていく.
私たちは, 近くの空いている休憩室に移動した. 重い沈黙が, 三人を取り囲む. これから起こるであろう衝突を予感させる, 張り詰めた空気だった.
私はソファに座った凛香を見下ろした. 彼女の顔は, まだ怒りで紅潮していた. 「私を挑発した結果よ. 自業自得だと思わない? 」
春斗は, 呆然とした表情で私たちを見ていた. まるで, 何もかもが彼の知らないところで起こっているかのように. 彼は唇を震わせ, 何かを言いたそうにしていた.
「一体, 何なんだよ, あんじゅ... 」春斗は, ようやく絞り出した声で私に尋ねた. 「どういうことなんだ? 」
私は無言でスマートフォンを取り出し, 春斗に差し出した. 画面には, 凛香が送ってきた, 彼との親密な写真の数々が表示されていた.
写真を見た春斗の顔は, みるみるうちに青ざめていった. 彼は凛香を睨みつけ, 怒りに満ちた声で叫んだ. 「お前, 俺の彼女だって言ったのか! ? 」
彼の言葉が終わるや否や, 春斗の手が凛香の頬を強く叩いた. 乾いた音が, 静まり返った部屋に響き渡る. 凛香は, その場に倒れ込んだ.
春斗は凛香を一瞥もせず, 私に駆け寄ってきた. 彼は私の手を握り, 甘えるような声で囁いた. 「あんじゅ, ごめん. 俺, 何も知らなかったんだ. 」
「なあ, 頼むよ. このドラマ, 凛香が主演じゃないと困るんだ」彼は私を必死に説得しようとした. 「撮影スケジュールに影響が出る. 俺の仕事にも. 」
私は何も答えず, 彼の腕を振り払って部屋を出た. 彼の言葉は, もはや私の心には響かなかった.
自宅に戻ると, 秘書から報告が入った. 新しい主演女優は無事に見つかったらしい. しかし, 凛香はまだ現場を離れようとしないとのことだった.
撮影は続くが, 春斗と新しい主演女優の間には, どうにもぎくしゃくした空気が漂っていると聞いた. 彼はしきりに, 凛香を戻せないかと制作陣に交渉しているらしい.
その日の夜遅く, 春斗は憔悴しきった顔で帰宅した. 彼の顔には, 疲労と困惑の色が深く刻まれている.
彼は私の前にひざまずいた. 「あんじゅ, 頼むよ. 凛香を戻してくれ. この作品を成功させるためには, どうしても彼女が必要なんだ. 」
私は彼の目を見つめた. 「彼女のことが好きなの? 梅田凛香が. 」
彼は慌てて首を横に振った. 「違う! そんなわけないだろ! 俺が好きなのは, あんじゅだけだよ. 信じてくれ. 」
私は彼に二つの選択肢を提示した. 「一つ. 梅田凛香を現場から完全に追い出し, 私たちの関係を公表する. 二つ目. 今の新しい女優と最後までやり遂げる. どっちを選ぶ? 」
彼は再び, 目を逸らした. 「だから, 公表はできないって言ってるだろ! 今が一番大事な時期なんだ! どうして, あんじゅは俺の気持ちをわかってくれないんだ! ? 」
「俺は浮気なんかしてない! 信じてくれ! 」彼は感情的に叫んだ. 「なんで, あんじゅだけそんなに俺を疑うんだ! 」
「わかったよ! 凛香のことは, 俺がちゃんと処理する! 」彼は頭をかきむしるように言った. 「だから, あんじゅはもう, これ以上何もするな! 」
私は彼の腕を掴み, その体をソファに押し倒した. そして, 彼の顔を無理やり私の方に向けさせた. 彼の目には, 驚きと恐怖の色が浮かんでいた.
彼は屈辱に顔を赤くし, 怒りに満ちた目で私を睨みつけた. 彼の喉からは, うめき声のようなものが漏れていた.
「何するんだよ, あんじゅ! 」彼は, ようやく絞り出した声で怒鳴った. 「何なんだ, 一体! 」
私は彼の唇に, 自分の唇を押し付けた. それは愛のキスではなかった. 別れの, そして, 決別のキスだった.
唇を離すと, 私は冷たく言い放った. 「わかったわ. あなたの選択を受け入れる. 」
私は彼から体を離し, ソファに倒れ込んだ彼を見下ろした. 彼の目は, まだ混乱と怒りに満ちていた.
「私のたった一つの願いすら叶えられないなら, もう何もかも, どうでもいいわ. 」私の声は, ひどく冷たかった.
「あんじゅ... 何を言ってるんだ? 」彼は, まだ状況を理解できない顔で, 私に問いかけた.
私は何も答えなかった. ただ, 一歩ずつ, 重い足取りで階段を上がっていった. 彼の声が, 背後から聞こえるが, もう私には届かなかった.
私の心の中で燃え盛っていた, 彼への情熱の炎は, 完全に消え去っていた. 冷たい灰だけが, そこに残されていた.
私に残された時間は, もうわずかだ. そんな貴重な時間を, 彼のような男に費やしている場合ではない.
私は決意した. もう二度と, 彼のために私の命を無駄にすることはない. 私の音楽は, 私の才能は, もっとふさわしい誰かのために使う.